◇70ページ◇カクテル言葉よ、届け
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「うわぁあああ~んっ。」
ショートカットの若い女、優紀がテーブルに突っ伏して泣き出した。
良く喋る桜子とは違って、遠慮がちに頷くだけだった優紀は、誰も気づかないうちに酒を相当飲んでいたらしい。
しかも泣き上戸らしく、煩いくらいに泣き喚いている。
「優紀ちゃん、大丈夫?」
ファーランが心配そうに訊ねたが、優紀はワンワンと泣くばかりだ。
優紀の代わりに、桜子が首をすくめて答えた。
「ずっと片想いしてた人が、他の女ともうすぐ結婚するんです。」
結婚というワードに、グラスを口に運ぼうとしていた手が止まりかけたが、気にしないフリをして、酒を喉の奥に多めに流し込んだ。
「あぁ…。」
チラリと俺を気にしたファーランが、小さく声を漏らすように返事をした。
「他の女のものになった男をいつまでも想ってても無駄じゃないですか?
だから、男漁りに行こうって引っ張ってきたんだけど、全然ダメだったみたい。」
桜子はため息交じりに言って、テーブルに突っ伏してワンワンと泣き喚く優紀の頭を優しく撫でた。
友人を前に向かせるために言った桜子のセリフは、俺の胸にも刺さった。
「分かってる…っ。忘れなきゃって…っ、私だってっ、分かってるの…っ。」
テーブルに突っ伏したまま、優紀が泣きながら声を上げた。
そう、分かってるのだ。
忘れないといけないことくらい、誰よりも自分が分かってる。
いつまでも引きずっていたって、いいことなんか何もないのだから。
でも、忘れた途端に、繋がりが消えてしまうじゃないか。
想っている間はまだ、俺と名前の恋は終わっていないのだと思えるのだ。
笑えるくらいに優紀の気持ちが分かって、虚しくなった。
「実は今日、その彼の婚約披露パーティーなんです。」
桜子がグラスを手に取って、目を伏せがちに言った。
「え、婚約披露パーティー?」
「そう。私達も友人として誘われてたんですけど、
好きな人が他の女とイチャイチャしてるのなんて見たくなくって。」
「婚約披露パーティーなんて、普通はあんまりしねぇと思ってたんだけど、
そういうのってよくあるんだな。」
ファーランが感心したように言った。
すると、桜子は何かに気づいたような顔をした後に、口を開いた。
「言ってなかったけど、私、すごくお金持ちなんです。超高嶺の花なんです。」
「へ?」
「それで、その彼と婚約者は、この私も負けちゃうくらいのすごいお金持ちで、
それはそれは豪華な婚約披露パーティーを、近くの高級ホテルでしてるんですよ。
あ、さっき、友達がわざわざ動画なんて送ってきたんで、見ます?」
「…いや、いいや。それは見ない方がいい気がする。」
バッグの中からスマホを取り出した桜子に、ファーランがまた、俺の方をチラリと見てから答えた。
今度はもう、気にしないフリなんて出来ずに、グラスに伸びた手は止まったままで動かなかった。
世界は狭いなんてよく言うけれど、その動画を見てしまったら、それは本当だったと知ることになってしまうかもしれない。
「優紀も怖いから見たくないって言うんですよ。
私は、あの超絶遊び人を一途にしちゃった女がどんなものか興味あるんだけどな~。」
桜子はつまらなそうに言って、バッグの中に入れようとした。
そのときいきなり、優紀が勢いよく顔を上げた。
「貸して!!見る!見て、諦める!!」
桜子からスマホをひったくった優紀は、呆気にとられている間に動画の再生ボタンをタップした。
その途端、騒がしいビアガーデンのバルコニーで、俺達のテーブルの上でだけ、婚約披露パーティーの賑やかさが広がった。
ドアップで現れた派手に着飾った若い女達の後ろには、鮮やかな色とりどりの花で飾った広いホールが映っていた。
≪桜子~!なんで来ないの~!?茶道界のプリンスとプリンセスなんてなかなか近くで見れないよ!!≫
≪ショックなのはわかるけどね~。あの西門さんが結婚しちゃうなんて。≫
≪あ、来た!!来たよ!!≫
若い女達がキャーキャーと喚きだしたと思ったら、見覚えのある綺麗な顔をした黒髪の男が画面を覗き込むようにして映った。
(やっぱり、な。)
見なければよかったと思ったはずだったのに、俺はその映像からもう目を反らせなかった。
だって、本当はずっとずっと、会いたいと思っていた人が映ったから―。
≪動画撮ってんの?≫
≪あ、ごめんなさいっ。友達に見せてあげようと思って。ダメでした…っ?≫
≪うーん、まぁいいか。さっき、司達にも散々撮られたし。
でも、YouTubeとかにはアップしないって約束な。
俺の可愛い婚約者が世界中に晒されたら嫌だからね。≫
西門とかいう名前の黒髪の男は、腹が立つくらいに目尻を下げて、名前の頬を撫でた。
頬を染めた名前が「恥ずかしいからやめてよ。」と眉尻を下げる。
懐かしいとすら思えない、愛おしい声に胸が締め付けられた。
「あ~ぁ、頬なんか染めちゃってさ、絶対に計算に決まってるよ。
確かに綺麗かもしれないけど、性格だって絶対悪いよ。
パッと見たら分かるもん。」
桜子は頬を膨らませて、名前に対しての文句を言いだした。
それはもしかしたら、友人の優紀のためのものだったのかもしれないけれど、俺は腹が立った。
だって、名前は世界で一番いい女で、俺の理想以上の女なのだ。
思わず言い返そうとしたとき、優紀がスマホの画面を食い入るように見ながら、ポツリと零した。
「西門さん、すごく幸せそう…。」
優紀が見つめるスマホの向こうでは、まだ動画は続いていた。
桜子の友人の女達の祝福の声に、西門と名前が幸せそうに礼を言っている。
「好きな人の前だとこんな風に笑うんだ…。知らなかった。
知らなかったよ…。」
「うん。」
桜子が、優紀の肩をそっと抱き寄せた。
そのまま寄り掛かった優紀は、スマホを眺めながらボーッとした顔で続ける。
「デレデレしちゃってさぁ~。
西門さんは、いつも余裕の顔が素敵なのに。本当、残念。」
優紀は責めるように言った後、桜子の細い肩に顔を埋めた。
「ほんと…、残念…。こんなに、幸せそうな顔見ちゃったらさ…。
諦めるしか、なくなるじゃん…。私なんか、入る隙、ないんだもん…。」
顔を埋めたままだったけれど、消え入りそうな涙声は、彼女が泣いてることを俺達に教えた。
桜子のヒラヒラのシャツにしがみつく優紀の手は震えていて、必死に失恋と戦っていた。
「誰も入れないよ。優紀がダメなんじゃないよ。
西門さんの初恋の人だって、つくしが言ってたじゃん。」
桜子はそう言いながら、優紀の髪を撫で続けた。
すごく好きだったのだと繰り返して、優紀が泣きじゃくる。
今夜が婚約披露パーティーだとナイルから聞いて、気晴らしにと俺を誘ったファーランは、申し訳なさそうに俺を見ていた。
でも、再生が終わったスマホから視線を反らせない俺は、ただひたすら黙っていた。
声を出したら、俺はたぶん、名前の名前を呼んでいたと思う。
だって、再生が終わった動画は、こっちを向いて手を振る名前の笑顔で止まっていたから。
しばらく泣いた後、優紀は覚悟を決めた顔で立ち上がった。
「やっぱり私、婚約披露パーティーに行ってくる。」
「え!?」
「西門さんに会って、ちゃんとおめでとうって言いたい。
じゃなきゃ、ダメな気がする。終われない気がする!」
優紀の強い覚悟に、呆気にとられていた桜子は、すぐに嬉しそうに目尻を下げた。
「そうだね!行こう!!それで、婚約者が本当に良い子かを私達で見定めちゃおう!!」
嬉しそうに立ちあがった桜子は、バッグを手に取ると優紀と手を繋いだ。
そして、よっしゃー!とかなんとか騒がしい奇声を上げながら立ち去って行った。
まるで嵐のような女達だった。
遠ざかっていく強い背中を眺めていると、ミケがスペシャルカクテルというのを持ってやって来た。
「ブラック・ベルベットだ。」
俺の前にそっと置かれたカクテルは、ビールがベースのカクテルだった。
そのとき、大きな音を立てて、いつの間にか暗くなっていた夜空に鮮やかな花火が上がった。
忘れないで―。
最後の力を振り絞って、鮮やかに咲こうとする花火は、本当はもうすでに終わってしまっている恋を、それでも終わらせたくないと必死に叫んでいる諦めの悪い俺の気持ちを、代わりに叫んでくれているようだった。
飲み慣れない酒の入ったグラスを持って、俺は花火が幾つも上がる夜空を見上げた。
あの花火の音に乗せて、遠い世界にいる名前に俺の声が届けばいいのに―。
そんなことを思いながら飲んだカクテルは辛口で、喉と胸に沁みた。
あぁ、そうか。これが失恋ってやつか。
なんだこんなもんか。何も感じないから、涙も出やしない。
それとも、俺の心は壊れちまったのかな
飲みかけのカクテルを持って、私は視線を忙しなく左右に動かしながら広いホールをひとりで歩き回っていた。
一番騒がしいところに総ちゃんがいて、お酒がまわって楽しくなっている司君達に絡まれていた。
私と目が合うと、来ない方がいいと目だけで訴えて来た。
それが可笑しくて、少しだけ笑って頷いた。
そして、私はまた視線だけを忙しなく左右に動かしながら、広いホールを彷徨い続ける。
婚約披露パーティーに来て欲しいと誘ったあの人に、まだ会っていない。
たくさんの人にご挨拶をしたけれど、その中にあの人はいなかった。
(どこにいるんだろう。)
キョロキョロとしながら、私はあの日、会ったばかりのあの人を探していた。
会場にはいないのかもしれないと思って、ホールを出た。
ホールの外にも綺麗な花が幾つも飾ってあった。
少し歩いて、長い廊下の奥に、いつもと同じ山藍摺色の着物姿のキクを見つけた。
『…俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。』
不意に、あの人の言っていた言葉を思い出した。
まさかー。
ハッとして、私はキクの元へ走った。
「名前様!廊下を走るなんてはしたない!
そもそも名前様は今夜のパーティーの主役ですよ、なぜこんなところに―。」
「キクがあの人を追い出したのね!!」
いつもの小言を始めていたキクの声に被せて、私は一方的に責めた。
キクは訝し気に眉を顰めた。
「一体何の話ですか。そんな大きな声を出して、はしたない。」
「お母様の大切なお客様のあの人をキクが追い出したんでしょう?!
キクに摘まみだされちゃうって、あの人も言ってたもの!」
機嫌悪く頬を膨らませた私を見て、キクは眉間の皴を濃くさせた。
「こら、名前。大きな声が控室にまで聞こえていましたよ。
一体、何を騒いでいるのですか。」
私がキクを責めていると、母がやって来た。
今日も背筋をしゃんと伸ばして堂々としている母は、いつもよりも豪華な着物を身に纏っていて、目を見張るほどに美しかった。
「キクがお母様の大切なお客様をパーティーから追い出しちゃったの。
今日こそはちゃんとご挨拶をして、お名前も伺おうと思っていたのに。」
「私の大切なお客様?誰のことです、キク?」
「…あの方です。黒髪の、目つきの悪い殿方のことを仰っているのだと思います。」
キクは、私のことをチラリと見ると、言いづらそうにして答えた。
「違うわ。優しそうな目をした黒髪の男の人よ。」
私は頬を膨らませて、正確にあの人の印象を伝えた。
僅かに目を見開いた母だったけれど、ゆっくりと息を吐くと、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「あなた達が、私の想像している殿方のことを仰っているのなら、
あの方が名前の婚約披露パーティーに来ることは絶対にありえません。」
「なんで…!?どうしてよ、ママの大切なお客様なんでしょう!?」
来ていないなんて信じられなくて、私はショックを受けた。
でも、母はそんな私を真っすぐに見据えてハッキリと答えた。
「あの方と白鹿家はもう縁を切りました。」
「縁を…切った…?」
「えぇ、そうよ。私達とあの方はもう二度と交わることはないんです。」
「どうしてそんな勝手なことをするの!?
あの人は私の…っ!!」
そこまで言って、私の声は途切れた。
私の、何だろう。
母の大切なお客様で、私は一度会ったことがあるだけだ。
「私の、…何ですか?」
「…いえ、何でもありません。」
あの人がパーティーから追い出されたと思ってカッとなった怒りが、急激に萎んでいった。
私はどうして、あんなに必死にあの人を探していたのだろう。
婚約披露パーティーに誘ったのだって、あの人が断らなかったのだって、お互いに社交辞令だったのだ。
それ以外に、ないのにー。
「ねぇ、ママ…。」
「何ですか?」
「もう…、あの人には…、会えないの…?」
「えぇ、そうです。もう会うことはありません。」
「そう…。」
掠れるような声で、私は納得したように頷いた。
その拍子に、手に持っていたカクテルに、小さな雫が落ちたような音がした。
「名前…、あなた…、泣いてるの…?」
僅かに目を見開いた母は、信じられないという顔をしていた。
その隣でキクも言葉を失っていた。
涙を流している自覚はあった。
だって、頬を伝っていく涙は普通の量ではなかったし、私の心は悲しみに暮れていたから。
でも、どうして涙が流れるのかなんて分からない。
廊下の窓の向こうで、花火が上がる音がしてすぐに、色鮮やかな綺麗な花火が夜空に咲いた。
でも、涙で視界が歪んだ私には、儚く散っていく美しい花火はよく見えなかった。
何度も何度も打ち上がる花火の明かりが窓から漏れて、白い廊下にいくつもの色をつけては消えていく。
震える指からグラスが滑って、床に落ちて割れた。
ケーブル・グラム・ハイボールのお酒の香りがぶわっと広がって、私は膝から崩れ落ちた。
何かを一生懸命に叫ぶような花火の音に包まれて、私は声を上げて泣きじゃくった。
何が悲しいのかは分からない。何も分からない。それが悲しい。
あぁ、今、どうしようもなく、あの人に会いたい―。
ショートカットの若い女、優紀がテーブルに突っ伏して泣き出した。
良く喋る桜子とは違って、遠慮がちに頷くだけだった優紀は、誰も気づかないうちに酒を相当飲んでいたらしい。
しかも泣き上戸らしく、煩いくらいに泣き喚いている。
「優紀ちゃん、大丈夫?」
ファーランが心配そうに訊ねたが、優紀はワンワンと泣くばかりだ。
優紀の代わりに、桜子が首をすくめて答えた。
「ずっと片想いしてた人が、他の女ともうすぐ結婚するんです。」
結婚というワードに、グラスを口に運ぼうとしていた手が止まりかけたが、気にしないフリをして、酒を喉の奥に多めに流し込んだ。
「あぁ…。」
チラリと俺を気にしたファーランが、小さく声を漏らすように返事をした。
「他の女のものになった男をいつまでも想ってても無駄じゃないですか?
だから、男漁りに行こうって引っ張ってきたんだけど、全然ダメだったみたい。」
桜子はため息交じりに言って、テーブルに突っ伏してワンワンと泣き喚く優紀の頭を優しく撫でた。
友人を前に向かせるために言った桜子のセリフは、俺の胸にも刺さった。
「分かってる…っ。忘れなきゃって…っ、私だってっ、分かってるの…っ。」
テーブルに突っ伏したまま、優紀が泣きながら声を上げた。
そう、分かってるのだ。
忘れないといけないことくらい、誰よりも自分が分かってる。
いつまでも引きずっていたって、いいことなんか何もないのだから。
でも、忘れた途端に、繋がりが消えてしまうじゃないか。
想っている間はまだ、俺と名前の恋は終わっていないのだと思えるのだ。
笑えるくらいに優紀の気持ちが分かって、虚しくなった。
「実は今日、その彼の婚約披露パーティーなんです。」
桜子がグラスを手に取って、目を伏せがちに言った。
「え、婚約披露パーティー?」
「そう。私達も友人として誘われてたんですけど、
好きな人が他の女とイチャイチャしてるのなんて見たくなくって。」
「婚約披露パーティーなんて、普通はあんまりしねぇと思ってたんだけど、
そういうのってよくあるんだな。」
ファーランが感心したように言った。
すると、桜子は何かに気づいたような顔をした後に、口を開いた。
「言ってなかったけど、私、すごくお金持ちなんです。超高嶺の花なんです。」
「へ?」
「それで、その彼と婚約者は、この私も負けちゃうくらいのすごいお金持ちで、
それはそれは豪華な婚約披露パーティーを、近くの高級ホテルでしてるんですよ。
あ、さっき、友達がわざわざ動画なんて送ってきたんで、見ます?」
「…いや、いいや。それは見ない方がいい気がする。」
バッグの中からスマホを取り出した桜子に、ファーランがまた、俺の方をチラリと見てから答えた。
今度はもう、気にしないフリなんて出来ずに、グラスに伸びた手は止まったままで動かなかった。
世界は狭いなんてよく言うけれど、その動画を見てしまったら、それは本当だったと知ることになってしまうかもしれない。
「優紀も怖いから見たくないって言うんですよ。
私は、あの超絶遊び人を一途にしちゃった女がどんなものか興味あるんだけどな~。」
桜子はつまらなそうに言って、バッグの中に入れようとした。
そのときいきなり、優紀が勢いよく顔を上げた。
「貸して!!見る!見て、諦める!!」
桜子からスマホをひったくった優紀は、呆気にとられている間に動画の再生ボタンをタップした。
その途端、騒がしいビアガーデンのバルコニーで、俺達のテーブルの上でだけ、婚約披露パーティーの賑やかさが広がった。
ドアップで現れた派手に着飾った若い女達の後ろには、鮮やかな色とりどりの花で飾った広いホールが映っていた。
≪桜子~!なんで来ないの~!?茶道界のプリンスとプリンセスなんてなかなか近くで見れないよ!!≫
≪ショックなのはわかるけどね~。あの西門さんが結婚しちゃうなんて。≫
≪あ、来た!!来たよ!!≫
若い女達がキャーキャーと喚きだしたと思ったら、見覚えのある綺麗な顔をした黒髪の男が画面を覗き込むようにして映った。
(やっぱり、な。)
見なければよかったと思ったはずだったのに、俺はその映像からもう目を反らせなかった。
だって、本当はずっとずっと、会いたいと思っていた人が映ったから―。
≪動画撮ってんの?≫
≪あ、ごめんなさいっ。友達に見せてあげようと思って。ダメでした…っ?≫
≪うーん、まぁいいか。さっき、司達にも散々撮られたし。
でも、YouTubeとかにはアップしないって約束な。
俺の可愛い婚約者が世界中に晒されたら嫌だからね。≫
西門とかいう名前の黒髪の男は、腹が立つくらいに目尻を下げて、名前の頬を撫でた。
頬を染めた名前が「恥ずかしいからやめてよ。」と眉尻を下げる。
懐かしいとすら思えない、愛おしい声に胸が締め付けられた。
「あ~ぁ、頬なんか染めちゃってさ、絶対に計算に決まってるよ。
確かに綺麗かもしれないけど、性格だって絶対悪いよ。
パッと見たら分かるもん。」
桜子は頬を膨らませて、名前に対しての文句を言いだした。
それはもしかしたら、友人の優紀のためのものだったのかもしれないけれど、俺は腹が立った。
だって、名前は世界で一番いい女で、俺の理想以上の女なのだ。
思わず言い返そうとしたとき、優紀がスマホの画面を食い入るように見ながら、ポツリと零した。
「西門さん、すごく幸せそう…。」
優紀が見つめるスマホの向こうでは、まだ動画は続いていた。
桜子の友人の女達の祝福の声に、西門と名前が幸せそうに礼を言っている。
「好きな人の前だとこんな風に笑うんだ…。知らなかった。
知らなかったよ…。」
「うん。」
桜子が、優紀の肩をそっと抱き寄せた。
そのまま寄り掛かった優紀は、スマホを眺めながらボーッとした顔で続ける。
「デレデレしちゃってさぁ~。
西門さんは、いつも余裕の顔が素敵なのに。本当、残念。」
優紀は責めるように言った後、桜子の細い肩に顔を埋めた。
「ほんと…、残念…。こんなに、幸せそうな顔見ちゃったらさ…。
諦めるしか、なくなるじゃん…。私なんか、入る隙、ないんだもん…。」
顔を埋めたままだったけれど、消え入りそうな涙声は、彼女が泣いてることを俺達に教えた。
桜子のヒラヒラのシャツにしがみつく優紀の手は震えていて、必死に失恋と戦っていた。
「誰も入れないよ。優紀がダメなんじゃないよ。
西門さんの初恋の人だって、つくしが言ってたじゃん。」
桜子はそう言いながら、優紀の髪を撫で続けた。
すごく好きだったのだと繰り返して、優紀が泣きじゃくる。
今夜が婚約披露パーティーだとナイルから聞いて、気晴らしにと俺を誘ったファーランは、申し訳なさそうに俺を見ていた。
でも、再生が終わったスマホから視線を反らせない俺は、ただひたすら黙っていた。
声を出したら、俺はたぶん、名前の名前を呼んでいたと思う。
だって、再生が終わった動画は、こっちを向いて手を振る名前の笑顔で止まっていたから。
しばらく泣いた後、優紀は覚悟を決めた顔で立ち上がった。
「やっぱり私、婚約披露パーティーに行ってくる。」
「え!?」
「西門さんに会って、ちゃんとおめでとうって言いたい。
じゃなきゃ、ダメな気がする。終われない気がする!」
優紀の強い覚悟に、呆気にとられていた桜子は、すぐに嬉しそうに目尻を下げた。
「そうだね!行こう!!それで、婚約者が本当に良い子かを私達で見定めちゃおう!!」
嬉しそうに立ちあがった桜子は、バッグを手に取ると優紀と手を繋いだ。
そして、よっしゃー!とかなんとか騒がしい奇声を上げながら立ち去って行った。
まるで嵐のような女達だった。
遠ざかっていく強い背中を眺めていると、ミケがスペシャルカクテルというのを持ってやって来た。
「ブラック・ベルベットだ。」
俺の前にそっと置かれたカクテルは、ビールがベースのカクテルだった。
そのとき、大きな音を立てて、いつの間にか暗くなっていた夜空に鮮やかな花火が上がった。
忘れないで―。
最後の力を振り絞って、鮮やかに咲こうとする花火は、本当はもうすでに終わってしまっている恋を、それでも終わらせたくないと必死に叫んでいる諦めの悪い俺の気持ちを、代わりに叫んでくれているようだった。
飲み慣れない酒の入ったグラスを持って、俺は花火が幾つも上がる夜空を見上げた。
あの花火の音に乗せて、遠い世界にいる名前に俺の声が届けばいいのに―。
そんなことを思いながら飲んだカクテルは辛口で、喉と胸に沁みた。
あぁ、そうか。これが失恋ってやつか。
なんだこんなもんか。何も感じないから、涙も出やしない。
それとも、俺の心は壊れちまったのかな
飲みかけのカクテルを持って、私は視線を忙しなく左右に動かしながら広いホールをひとりで歩き回っていた。
一番騒がしいところに総ちゃんがいて、お酒がまわって楽しくなっている司君達に絡まれていた。
私と目が合うと、来ない方がいいと目だけで訴えて来た。
それが可笑しくて、少しだけ笑って頷いた。
そして、私はまた視線だけを忙しなく左右に動かしながら、広いホールを彷徨い続ける。
婚約披露パーティーに来て欲しいと誘ったあの人に、まだ会っていない。
たくさんの人にご挨拶をしたけれど、その中にあの人はいなかった。
(どこにいるんだろう。)
キョロキョロとしながら、私はあの日、会ったばかりのあの人を探していた。
会場にはいないのかもしれないと思って、ホールを出た。
ホールの外にも綺麗な花が幾つも飾ってあった。
少し歩いて、長い廊下の奥に、いつもと同じ山藍摺色の着物姿のキクを見つけた。
『…俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。』
不意に、あの人の言っていた言葉を思い出した。
まさかー。
ハッとして、私はキクの元へ走った。
「名前様!廊下を走るなんてはしたない!
そもそも名前様は今夜のパーティーの主役ですよ、なぜこんなところに―。」
「キクがあの人を追い出したのね!!」
いつもの小言を始めていたキクの声に被せて、私は一方的に責めた。
キクは訝し気に眉を顰めた。
「一体何の話ですか。そんな大きな声を出して、はしたない。」
「お母様の大切なお客様のあの人をキクが追い出したんでしょう?!
キクに摘まみだされちゃうって、あの人も言ってたもの!」
機嫌悪く頬を膨らませた私を見て、キクは眉間の皴を濃くさせた。
「こら、名前。大きな声が控室にまで聞こえていましたよ。
一体、何を騒いでいるのですか。」
私がキクを責めていると、母がやって来た。
今日も背筋をしゃんと伸ばして堂々としている母は、いつもよりも豪華な着物を身に纏っていて、目を見張るほどに美しかった。
「キクがお母様の大切なお客様をパーティーから追い出しちゃったの。
今日こそはちゃんとご挨拶をして、お名前も伺おうと思っていたのに。」
「私の大切なお客様?誰のことです、キク?」
「…あの方です。黒髪の、目つきの悪い殿方のことを仰っているのだと思います。」
キクは、私のことをチラリと見ると、言いづらそうにして答えた。
「違うわ。優しそうな目をした黒髪の男の人よ。」
私は頬を膨らませて、正確にあの人の印象を伝えた。
僅かに目を見開いた母だったけれど、ゆっくりと息を吐くと、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「あなた達が、私の想像している殿方のことを仰っているのなら、
あの方が名前の婚約披露パーティーに来ることは絶対にありえません。」
「なんで…!?どうしてよ、ママの大切なお客様なんでしょう!?」
来ていないなんて信じられなくて、私はショックを受けた。
でも、母はそんな私を真っすぐに見据えてハッキリと答えた。
「あの方と白鹿家はもう縁を切りました。」
「縁を…切った…?」
「えぇ、そうよ。私達とあの方はもう二度と交わることはないんです。」
「どうしてそんな勝手なことをするの!?
あの人は私の…っ!!」
そこまで言って、私の声は途切れた。
私の、何だろう。
母の大切なお客様で、私は一度会ったことがあるだけだ。
「私の、…何ですか?」
「…いえ、何でもありません。」
あの人がパーティーから追い出されたと思ってカッとなった怒りが、急激に萎んでいった。
私はどうして、あんなに必死にあの人を探していたのだろう。
婚約披露パーティーに誘ったのだって、あの人が断らなかったのだって、お互いに社交辞令だったのだ。
それ以外に、ないのにー。
「ねぇ、ママ…。」
「何ですか?」
「もう…、あの人には…、会えないの…?」
「えぇ、そうです。もう会うことはありません。」
「そう…。」
掠れるような声で、私は納得したように頷いた。
その拍子に、手に持っていたカクテルに、小さな雫が落ちたような音がした。
「名前…、あなた…、泣いてるの…?」
僅かに目を見開いた母は、信じられないという顔をしていた。
その隣でキクも言葉を失っていた。
涙を流している自覚はあった。
だって、頬を伝っていく涙は普通の量ではなかったし、私の心は悲しみに暮れていたから。
でも、どうして涙が流れるのかなんて分からない。
廊下の窓の向こうで、花火が上がる音がしてすぐに、色鮮やかな綺麗な花火が夜空に咲いた。
でも、涙で視界が歪んだ私には、儚く散っていく美しい花火はよく見えなかった。
何度も何度も打ち上がる花火の明かりが窓から漏れて、白い廊下にいくつもの色をつけては消えていく。
震える指からグラスが滑って、床に落ちて割れた。
ケーブル・グラム・ハイボールのお酒の香りがぶわっと広がって、私は膝から崩れ落ちた。
何かを一生懸命に叫ぶような花火の音に包まれて、私は声を上げて泣きじゃくった。
何が悲しいのかは分からない。何も分からない。それが悲しい。
あぁ、今、どうしようもなく、あの人に会いたい―。