◇69ぺージ◇背中
Name change
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最初に会ったハナという名の使用人に案内されて広い玄関から出た俺は、一度立ち止まり振り返ると、純和風の古いが趣のある大きな邸宅を見上げた。
ここが、名前が生まれ育った場所。
魔法の世界と現実の世界くらいに、名前と俺は別の世界で生きていたのだと改めて思い知らされたようだった。
それでも、俺と名前は出会って、再会も果たした。
そして、奇跡のように同じ気持ちになれたのだ。
それなのに、どうして、この気持ちを忘れなければならないのか。
名前の母親の気持ちや事情は理解しても、心が納得出来ていなかった。
『お願いします…っ。』
土下座したまま、涙声で懇願する名前の母親に、肯定も否定も、俺はもう言えなかった。
だって、このまま俺が身を引けば、名前は俺を思い出すこともなく、他の男と結婚するのだ。
人生のすべてをソイツだけに恋をしていたのだと信じて、愛していくなんて、そんなの―。
どんな風に心に折り合いをつけたって、納得なんて出来るわけない。
「アッカーマン様?お忘れ物ですか?」
「…いや、なんでもねぇ。」
歩き出さずに邸宅を見上げる俺の背中に、ハナが不思議そうに声をかけた。
忘れ物ならそれは、連れて帰るはずだった名前の笑顔だ。
小さく息を吐いた俺の適当な誤魔化しで納得したハナは、こちらです、と来たときとは別の道を案内し始めた。
不思議に思って訊ねると、これから茶道の客人が大勢来ることになっているから、表門ではなく裏門の方が静かで良いと思ったのだとハナは少し自慢気に答えた。
状況を読んでうまく対応できている自分が、とても誇らしいようだった。
少し歩いていると、離れの建物が見えて来た。
小屋のようなものなのだろうが、それでも一般家庭の一軒家くらいはありそうな大きさで、古木で出来たコテージのようだった。
そのそばにあるベンチには、さっきの若い男女のグループがいた。
楽しそうにお喋りをしているその中には名前もいて、その隣には当然のように婚約者の男がいた。
「あ。」
マズいという顔をしたハナは、チラリと俺を見た。
でも、俺の視線はただじっと名前だけに向かっていた。
こっちを向いてくれ―。
懇願するような願いは、すぐに届いた。
一緒にいる友人達よりも先に、名前が一番最初に俺に気が付いた。
目が合った。
数か月前まで、俺を見つめてくれていた愛おしい瞳と全く同じに見えて、息が、止まりそうだった。
思わず立ち止まりそうになった足をなんとか動かして、俺は重なった視線を反らした。
このまま名前と視線を重ねていたら、攫ってしまいそうだった。
本当は、全てを打ち明けて、奪ってしまいたかった。
でも、名前の母親の言っていた通り、それは得策ではないのだろう。
きっと、名前を傷つけることになってしまう。
俺は、名前と共に未来を生きたいだけで、泣かせたいわけじゃない。
ハナは、わざと少し遠回りをしてコテージのような小屋から離れて歩いた。
その後ろを歩いていれば、すぐに門が見えてきた。
正面の門よりは小さいかもしれないが、それでも立派な門だった。
「待ってください…っ!」
後ろから、焦ったような声が俺を呼び止めた。
それは、愛おしくて愛おしくて仕方のない名前のものだった。
その声に、俺はあの頃の名前を見つけた気がしたのだ。
だから、俺は、勢いよく振り返った。
走って追いかけて来たらしい名前は、俺の前で立ち止まると、両膝に手をついて、少し苦しそうに浅い息を吐きだした。
「大丈夫か?」
頬に手を添えて、苦しそうな顔を覗き込んだ。
つい、癖だった。
それから、記憶が戻ったのだと信じたかったのかもしれない。
至近距離で目が合った名前は、顔を真っ赤にした。
そして、怯えるように勢いよく離れた。
今まで普通にしていたことが、今の名前にとっては違うのだと思い知らされた。
「ごめんなさい…。」
失礼なことをしてしまったとでも思ったのか、名前は申し訳なさそうに眉尻を下げて謝った。
名前にとって、今の俺は、会ったばかりの男で、母親の知り合いに過ぎない。
そんな男が、まるで恋人のように触れれば怯えてしまうのは当然だ。
名前は悪くない。
そう、悪くない―。
視線の端に、ハナの困った顔は見えていた。
距離の近い態度をとった俺に驚いた名前は、戸惑って喋らなくなったし、このまま立ち去るのが正しいに違いなかった。
「俺を追いかけてきたがんだろ。どうかしたのか。」
何も言いださない名前の代わりに、俺が訊ねた。
名前の斜め後ろ、少し離れた場所には、名前を追いかけて来た婚約者の姿が見えていた。
彼は、俺と名前に近づくことはしないで、少し離れたところで立ち止まっていた。
それが、名前のことを大切にしてくれているという母親の声と重なった。
「それは…、あの…。」
すぐに答えようとした名前だったが、結局、追いかけた理由は説明できないまま口ごもった。
それでも、何と言えばよいか分からないような様子に見えたから、少し待ってみれば、躊躇いがちに名前は口を開いた。
「先ほどは、お母様のお客様に、きちんとご挨拶も出来ず申し訳ございませんでした…!
またいらしたときは、きちんとおもてなしさせてくださいっ。」
名前は一気にそういうと、頭を下げた。
あぁ、そういうことか―。
他人行儀な綺麗なお辞儀が、余計にツラかった。
分かっていたはずなのに、期待してしまった分、一気に落胆した。
「母親から聞いた。結婚するんだってな。」
チラリ、と名前の背中の向こうにいる男を見てから言った。
頭を下げていた名前がゆっくりと顔を上げた。
「はい。婚約したばかりで、結納もまだなんですけど、
こんな私をお嫁さんにしてくれると仰ってくださって。」
「その男のことを、愛してるのか?」
訊ねてしまってから、どうしてそんなことを訊いてしまったのだろと後悔した。
案の定、気味の悪い質問に、名前は少し驚いたようだった。
「いや、いい。答えなくていい。」
俺は、顔の前に右手を出して、制止した。
それは、変なことを訊いてしまったことを誤魔化したかったのと、ただ単純に、知りたくなかったのだ。
俺を愛していない名前の気持ちなんて、知りたくもなかった。
でも、名前は、一度訊かれたことは、きちんと答えなければならないと思ったようで、言わなくてもいいのに口を開いた。
「私にはもったいないくらいに、とても素敵な方です。」
名前は照れ臭そうに頬を染めた。
俺にはそれは、恋する女の顔に見えた。
違う、と誰かに言ってほしいくらいに、そう見えてしまった。
「そうか。なら、幸せだな。」
「はいっ。とても、幸せです。」
名前は頬を染めたまま、柔らかく微笑んだ。
俺が愛した、愛おしい笑顔だ。
抱きしめたい、と心が叫ぶから、俺は右手で自分の腕を押さえつけた。
だって、すぐ目の前にある微笑みはもう、俺のものじゃない。
俺に向けられたものでは、ないのだ。
「私と彼の婚約は、近々、皆様にもご報告させて頂く予定なんです。
婚約披露パーティーもあると思うので、是非いらしてくださいね。」
「…俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。」
「まさか!お母様の大切なお客様にそんな失礼なことはしませんよ!
招待状を出しますから、またお会いできるのを楽しみに待っています。」
愛した微笑みのままで、名前に笑いかけられて、俺はもう断ることは出来なかった。
でも、誘いを受けることも出来ずにいると、そこへちょうどタイミングを見計らったように、迎えの車がやってきたとハナが声をかけて来てくれて、ホッとした。
「悪い、もう行かねぇと。」
「あ、呼び止めてしまって申し訳ございませんでした。」
「いや、最後に話せてよかった。幸せそうで、安心した。
結婚、おめでとう。必ず、幸せになってくれ。」
名前からの返事は聞きたくなくて、顔を見ることもしないまま背を向けた。
もう、背を向けた俺を名前が追いかけてくることはなかった。
手入れの行き届いた庭は、鹿おどしなどもあり、とても風流だ。
欺瞞だらけの汚い世を知らずに、綺麗なものばかりに囲まれた魔法のような世界で、名前は王子と幸せになるのか―。
外の世界に出て来た俺は、迎えの車を断ってから、振り返った。
立派な裏門が、使用人達の手によってゆっくりと閉じていく。
その向こうに、婚約者の男に腰を抱かれて立ち去っていく名前の後ろ姿が見えた。
【リヴァイ先生のことを絶対に忘れない。】
古い日記帳の最終ページ。理想の女の条件の最後に、ピンクのペンで波線を引かれた拙い素朴な文字。
『これが一番大事だ。』と俺が言ったら、『大好きなリヴァイ先生のことは、絶対に忘れないよ。』と少女は自信満々に笑った。
名前は、自信満々に笑ったのに―。
現実の世界と魔法の世界の境界線上にある厳かな裏門が閉じて、ずっと見つめていた名前の姿が、視界から消えた。
俺のそばを黒塗りの高級車が走り去っていくと、排気ガスに吹かれて、地面に散っていたたくさんの桜の花びらが空に舞った。
一度散って地面に落ちた後に、もう一度、ただ散るためだけに降りしきる桜の花びらを浴びながら、俺は目を閉じた。
深呼吸をしている間に、たくさんの想い出が、宙を舞った桜の花びらのようにぶわっと広がった。
あぁ、俺は、愛されていた。
心から、愛されていた。
そして、俺も愛していた。
心から、愛していた。
目を開けた俺に見えたのは、高い壁のような塀。
初めから、結ばれるには、俺と名前には難しい問題がたくさんあったのだ。
これが、現実だ。
魔法のような世界から背を向けた。
俺達はお互いに、約束を守れなかった。
だから、こうして、背中を向けて歩くしかないのだ。
もう二度と、出逢わないことを祈って。
もう二度と、出逢うことのない別々の世界で、生きていく。
さよなら、だ。
隣にいるのは俺じゃないけど
君の笑顔を守ってるのは俺だって、それくらいは思っていいよね
そうやって、気持ちに折り合いをつけるしかなかったんだ
海へ行こうと家を出てすぐに、お腹が痛いと騒ぎ出した司君が離れのトイレに籠ってからそこそこ時間が経った。
トイレで死んでるんじゃないかと呆れと心配を混ぜて様子を見に行ったつくしちゃんも戻って来ない。
ベンチに座った私は、空を見上げてボーッとしていた。
青く澄んだ空はとても綺麗で、吸い込まれそうになる。
なんとなく、魔法に色があるのなら、こんな色をしてる気がした。
「まだ腰痛い?」
私の隣に座って暇そうにスマホを触っていた総ちゃんが、羽織っていた上着のポケットにスマホを入れた。
そして、まだ痛いと眉尻を下げる私を、ベンチの肘置きに腰かけたあきら君と一緒にからかう。
そうしていると、つくしちゃんがとてもご立腹な様子で戻ってきた。
「もうなんなわけ、アイツ!
私が作った朝ご飯が腐ってたに違いないとか言い出したんだけど!」
本気で怒っているつくしちゃんを、いつものことだから、とあきらくんがなだめている。
総ちゃんは学生時代からの恋人で、少し前にとてもロマンチックなプロポーズをしてくれて、私達は婚約者になった。
司君とあきら君は、総ちゃんの幼馴染で、つくしちゃんは司君の恋人だ。だから、私も学生時代から彼らとは友達。
でも、私にはその記憶はない。
彼らとの関係は、総ちゃんから聞いて知っているけれど、どんな風に遊んでいたのかは私は覚えていない。
総ちゃんと過ごした想い出だって、私はひとつも共有できない。
彼らの知っている『いつものこと』を、私だけが分からない。
つくしちゃんとあきら君のやりとりをベンチから眺めていると、隣に座っていた総ちゃんが顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「ううん、何でもないよ。」
少しだけ誤魔化して、私は笑顔を返した。
そっか、とそれだけ小さく言った総ちゃんは、それ以上は聞こうとはしないで、まるで守るように私の腰を抱き寄せた。
あきら君になだめられて落ち着いたつくしちゃん達と、このままでは海に着くのが遅くなりそうだから、今夜は海で花火をしてから帰ろうと話していると、視界の端で、誰かがこちらに向かっているのが見えた。
なんとなく視線を向けると、最近入って来たばかりだという新人の使用人のハナが、客人を連れて歩いていた。
母が大切なお客様だと言っていた男性だ。
総ちゃんに似ているサラサラの黒髪が太陽の光に照らされて、キラキラ輝いていた。
視線を向けてすぐに、切れ長の三白眼と視線が重なった。
ドキリ―。
心臓が音を立てた。その途端、だった。
つくしちゃん達の話し声、草木を揺らす風の音、私の心臓の音さえも、消えてなくなった。
その瞬間、シンという音すらない静かな世界で、まるで、私とその人だけが存在しているような不思議な感覚に襲われた。
でも、それは長くは続かなかった。
母の友人にしては若いその人は、偶々重なっただけの視線をスッと離した。
チクリ―。
心臓から聞こえた、さっきとは違う音がスイッチになったみたいに、また世界は日常を取り戻して、私の聞き慣れた音が戻った。
でも、それがなぜか雑音みたいに聞こえて、私の耳には煩わしかった。
その人は、離れに近づくことはしないで、裏門の方へと向かっていた。
私達のいる離れを避けるように遠回りをして通り過ぎたその人が、背中を向けたのと同時に、気づいたらベンチから立ち上がっていた。
「…って。」
気づくと、声にならない掠れた音が、私の口から漏れていた。
それがどんな音を作ろうとしていたのか、私にも分からなかった。
ただ、背を向けて歩き去っていくその背中が、どんどん小さくなっていくのが、とても怖かった。
「…って。待って…っ。」
無意識に漏れた信じられないくらいに小さな声は、自分でもなぜか分からない言葉を紡いでいた。
焦りや不安、恐怖が私の心を支配していた。
身に覚えのない感情がなぜ溢れてくるのか分からなくて、怖かった。
でも、このままあの人を行かせてしまってはいけない気がした。
あの門を出てしまったら、あの人にはきっともう二度と、会えない。
それだけは絶対にダメだと思った。
追いかけなければ―。
気づいたときにはもう、私は駆け出していた。
後ろから、総ちゃんが私を呼んだかもしれない。
でも、日常の音が戻ったはずの私の世界には、あの人を追いかける私の荒い息遣いと、あの人が遠ざかっていく足音だけしか聞こえなかった。
「待ってください…っ!」
どんなに必死に追いかけたってその人には追いつけない。
そんなことを前にも思ったことがあるような気がして、恐怖と不安に急かされるまま、私は声の限りに叫んだ。
その途端に、その人は勢いよく振り返った。
黒髪がサラッと揺れて、見開かれた三白眼が、私を映した。
立ち止まって待ってくれたその人の元へ漸くたどり着いた頃には、私は息を切らしていて、久しぶりに走った身体は悲鳴を上げていた。
まずは息を整えないと話しも出来ない状態で、私は両膝に手をついて浅い息を吐きだした。
「大丈夫か?」
温かい手が私の頬に触れた。
私の顔を覗き込んで、その人は心配そうに私を見つめる。
切れ長の三白眼がすぐそこにあって、私は身体中の熱が一気に顔に集まっていくのを感じた。
恥ずかしくて、ドキドキした。
煩いくらいの心臓の音がその人にも聞こえてしまう気がして、私は慌てて身体を離した。
突然の私の動きに、その人はとても驚いたようだった。
そして、拒絶するような失礼な態度に、その人はすごく悲しそうな顔をした。
その顔を見ると、胸が引き裂かれそうなくらいに申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい…。」
悲しそうな顔を見ていられなくて、私は目を伏せて謝った。
その人は、何も言わなかった。
どうしよう―。
気まずい沈黙が流れて、私は必死に言葉を探した。
そうしていると、その人が訊ねた。
「俺を追いかけてきたがんだろ。どうかしたのか。」
「それは…、あの…。」
これ以上は失礼なことは出来なくて、すぐに答えようとした。
でも、私はその答えを用意できていなかった。
(あれ…?どうして追いかけたんだっけ…?)
口ごもりながら、私はその人を追いかけた理由を考えた。
でも、答えは見つからない。
分かるのは、どうしても追いかけなくてはいけないような使命感にかられたことだけだった。
そもそも、母親の大切なお客様で、初めて会ったその人を追いかけてまで引き留める理由を、私が持っているはずはないのだ。
「先ほどは、お母様のお客様に、きちんとご挨拶も出来ず申し訳ございませんでした…!
またいらしたときは、きちんとおもてなしさせてくださいっ。」
それはただの言い訳だったから、一気にまくしたてるように口から出て来た。
でも、嘘でもなかった。
今度はきちんとご挨拶をしたいと思ったから、心を込めて頭を下げた。
「母親から聞いた。結婚するんだってな。」
その人から『結婚』という言葉が出て来たとき、心臓が握りしめられたように苦しくなった。
息苦しい痛みが治まるのを待って、私はゆっくりを顔を上げた。
「はい。婚約したばかりで、結納もまだなんですけど、
こんな私をお嫁さんにしてくれると仰ってくださって。」
「その男のことを、愛してるのか?」
婚約のことは、御贔屓の方や数名には報告済だった。
でも、そんなことを訊かれたのは初めてで驚いてしまった。
それが顔に出てしまったのか、その人はあからさまにマズいという顔をした。
「いや、いい。答えなくていい。」
その人は、右の手のひらを見せて、拒絶した。
でも、訊ねられたのならきちんと答えたかった。
なぜかわからないけれど、その人には、失礼なことをして嫌われるのは絶対に嫌だと思った。
「私にはもったいないくらいに、とても素敵な方です。」
「そうか。なら、幸せだな。」
「はいっ。とても、幸せです。」
その人の声がとても優しく聞こえて、私はとても嬉しかった。
「私と彼の婚約は、近々、皆様にもご報告させて頂く予定なんです。
婚約披露パーティーもあると思うので、是非いらしてくださいね。」
「……俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。」
その人は、困ったように眉尻を下げて答えた。
なぜそんなことを言うのか分からなかったけれど、母の大切な客人を迷惑だと思う人間がいるわけなくて、私は驚いた。
「まさか!お母様の大切なお客様でしたら、きっと招待状を出しますよ。
またお会いできるのを楽しみに待っています。」
是非また会いたくて、私は微笑みかけた。
そこへ、迎えの車がやってきたとハナが声をかけて来た。
その人はチラリと裏門の方を振り返ってから、口を開いた。
「悪い、もう行かねぇと。」
「あ、呼び止めてしまって申し訳ございませんでした。」
「いや、最後に話せてよかった。幸せそうで、安心した。
結婚、おめでとう。必ず、幸せになってくれ。」
その人は、初めて会ったばかりの私に、とても優しい笑みをくれた。
とても慈愛に満ちていて、その微笑みは私の胸をギュッと握りしめた。
貴方と私は本当に初めて会ったばかりですか―。
ずっとずっと遠い昔から、私はその人のことを知っている気がした。
でも、思わず訊ねようとした私を見ることもしないで、その人は背を向けてしまった。
ハナに連れられて、その人がまた私に背を向けて立ち去っていく。
行かないで―。
訊きたいことがたくさんある気がした。
違う、何も訊かなくてもいい。知らなくてもいい。
ただ、行かせてはいけないと思った。
まだそばにいて、行かないでー。
置いて、行かないでー。
「待っ―。」
「名前、司がやっと出て来たってよ。行こう。」
追いかけようとした私だったけれど、腕を掴まれて引き留められた。
振り返って、総ちゃんと目が合うと、追いかけなくちゃという使命感が途端に消えた。
「どうする?あの人、追いかけたかった?」
「ううん、大丈夫だよ。」
首を振って、ニコリと微笑んだ。
婚約者の前で他の男の人を追いかけるなんて、それこそ失礼だし、私は総ちゃんを愛してる。
あの人の背中を追いかけた道を戻るために、踵を返す。
総ちゃんが自然な仕草で私の腰に手をまわした。
「司君、お腹大丈夫なの?」
「大丈夫なんじゃねぇの?アイツ、身体頑丈だし。」
適当に答える総ちゃんが可笑しくて、私はクスリと笑った。
あのとき、どうして私は、咄嗟に総ちゃんのことを『素敵な人』だと言ってしまったんだろう。
あの人は私に、総ちゃんのことを『愛してるのか』と訊いてきたのに―。
(あ…。)
ふ、とあの人の名前を訊いていないことを思い出した。
いつもいつも客人の名前を最初に覚えなさいと言っているキクを思い出して、また怒られてしまうと憂鬱な気分になった。
それに、私自身もあの人の名前を知りたかった。
あの人は母の客人で、総ちゃんとも知り合いみたいだった。
名前を訊けば教えてくれるのだろうけれど、私は自分で名前を訊ねたかった。
婚約披露パーティーのとき、名前を訊いて、ちゃんと自己紹介をしよう。
婚約者に腰を抱かれて、友人達の元へ向かいながら、私はそんなことを考えていた。
ここが、名前が生まれ育った場所。
魔法の世界と現実の世界くらいに、名前と俺は別の世界で生きていたのだと改めて思い知らされたようだった。
それでも、俺と名前は出会って、再会も果たした。
そして、奇跡のように同じ気持ちになれたのだ。
それなのに、どうして、この気持ちを忘れなければならないのか。
名前の母親の気持ちや事情は理解しても、心が納得出来ていなかった。
『お願いします…っ。』
土下座したまま、涙声で懇願する名前の母親に、肯定も否定も、俺はもう言えなかった。
だって、このまま俺が身を引けば、名前は俺を思い出すこともなく、他の男と結婚するのだ。
人生のすべてをソイツだけに恋をしていたのだと信じて、愛していくなんて、そんなの―。
どんな風に心に折り合いをつけたって、納得なんて出来るわけない。
「アッカーマン様?お忘れ物ですか?」
「…いや、なんでもねぇ。」
歩き出さずに邸宅を見上げる俺の背中に、ハナが不思議そうに声をかけた。
忘れ物ならそれは、連れて帰るはずだった名前の笑顔だ。
小さく息を吐いた俺の適当な誤魔化しで納得したハナは、こちらです、と来たときとは別の道を案内し始めた。
不思議に思って訊ねると、これから茶道の客人が大勢来ることになっているから、表門ではなく裏門の方が静かで良いと思ったのだとハナは少し自慢気に答えた。
状況を読んでうまく対応できている自分が、とても誇らしいようだった。
少し歩いていると、離れの建物が見えて来た。
小屋のようなものなのだろうが、それでも一般家庭の一軒家くらいはありそうな大きさで、古木で出来たコテージのようだった。
そのそばにあるベンチには、さっきの若い男女のグループがいた。
楽しそうにお喋りをしているその中には名前もいて、その隣には当然のように婚約者の男がいた。
「あ。」
マズいという顔をしたハナは、チラリと俺を見た。
でも、俺の視線はただじっと名前だけに向かっていた。
こっちを向いてくれ―。
懇願するような願いは、すぐに届いた。
一緒にいる友人達よりも先に、名前が一番最初に俺に気が付いた。
目が合った。
数か月前まで、俺を見つめてくれていた愛おしい瞳と全く同じに見えて、息が、止まりそうだった。
思わず立ち止まりそうになった足をなんとか動かして、俺は重なった視線を反らした。
このまま名前と視線を重ねていたら、攫ってしまいそうだった。
本当は、全てを打ち明けて、奪ってしまいたかった。
でも、名前の母親の言っていた通り、それは得策ではないのだろう。
きっと、名前を傷つけることになってしまう。
俺は、名前と共に未来を生きたいだけで、泣かせたいわけじゃない。
ハナは、わざと少し遠回りをしてコテージのような小屋から離れて歩いた。
その後ろを歩いていれば、すぐに門が見えてきた。
正面の門よりは小さいかもしれないが、それでも立派な門だった。
「待ってください…っ!」
後ろから、焦ったような声が俺を呼び止めた。
それは、愛おしくて愛おしくて仕方のない名前のものだった。
その声に、俺はあの頃の名前を見つけた気がしたのだ。
だから、俺は、勢いよく振り返った。
走って追いかけて来たらしい名前は、俺の前で立ち止まると、両膝に手をついて、少し苦しそうに浅い息を吐きだした。
「大丈夫か?」
頬に手を添えて、苦しそうな顔を覗き込んだ。
つい、癖だった。
それから、記憶が戻ったのだと信じたかったのかもしれない。
至近距離で目が合った名前は、顔を真っ赤にした。
そして、怯えるように勢いよく離れた。
今まで普通にしていたことが、今の名前にとっては違うのだと思い知らされた。
「ごめんなさい…。」
失礼なことをしてしまったとでも思ったのか、名前は申し訳なさそうに眉尻を下げて謝った。
名前にとって、今の俺は、会ったばかりの男で、母親の知り合いに過ぎない。
そんな男が、まるで恋人のように触れれば怯えてしまうのは当然だ。
名前は悪くない。
そう、悪くない―。
視線の端に、ハナの困った顔は見えていた。
距離の近い態度をとった俺に驚いた名前は、戸惑って喋らなくなったし、このまま立ち去るのが正しいに違いなかった。
「俺を追いかけてきたがんだろ。どうかしたのか。」
何も言いださない名前の代わりに、俺が訊ねた。
名前の斜め後ろ、少し離れた場所には、名前を追いかけて来た婚約者の姿が見えていた。
彼は、俺と名前に近づくことはしないで、少し離れたところで立ち止まっていた。
それが、名前のことを大切にしてくれているという母親の声と重なった。
「それは…、あの…。」
すぐに答えようとした名前だったが、結局、追いかけた理由は説明できないまま口ごもった。
それでも、何と言えばよいか分からないような様子に見えたから、少し待ってみれば、躊躇いがちに名前は口を開いた。
「先ほどは、お母様のお客様に、きちんとご挨拶も出来ず申し訳ございませんでした…!
またいらしたときは、きちんとおもてなしさせてくださいっ。」
名前は一気にそういうと、頭を下げた。
あぁ、そういうことか―。
他人行儀な綺麗なお辞儀が、余計にツラかった。
分かっていたはずなのに、期待してしまった分、一気に落胆した。
「母親から聞いた。結婚するんだってな。」
チラリ、と名前の背中の向こうにいる男を見てから言った。
頭を下げていた名前がゆっくりと顔を上げた。
「はい。婚約したばかりで、結納もまだなんですけど、
こんな私をお嫁さんにしてくれると仰ってくださって。」
「その男のことを、愛してるのか?」
訊ねてしまってから、どうしてそんなことを訊いてしまったのだろと後悔した。
案の定、気味の悪い質問に、名前は少し驚いたようだった。
「いや、いい。答えなくていい。」
俺は、顔の前に右手を出して、制止した。
それは、変なことを訊いてしまったことを誤魔化したかったのと、ただ単純に、知りたくなかったのだ。
俺を愛していない名前の気持ちなんて、知りたくもなかった。
でも、名前は、一度訊かれたことは、きちんと答えなければならないと思ったようで、言わなくてもいいのに口を開いた。
「私にはもったいないくらいに、とても素敵な方です。」
名前は照れ臭そうに頬を染めた。
俺にはそれは、恋する女の顔に見えた。
違う、と誰かに言ってほしいくらいに、そう見えてしまった。
「そうか。なら、幸せだな。」
「はいっ。とても、幸せです。」
名前は頬を染めたまま、柔らかく微笑んだ。
俺が愛した、愛おしい笑顔だ。
抱きしめたい、と心が叫ぶから、俺は右手で自分の腕を押さえつけた。
だって、すぐ目の前にある微笑みはもう、俺のものじゃない。
俺に向けられたものでは、ないのだ。
「私と彼の婚約は、近々、皆様にもご報告させて頂く予定なんです。
婚約披露パーティーもあると思うので、是非いらしてくださいね。」
「…俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。」
「まさか!お母様の大切なお客様にそんな失礼なことはしませんよ!
招待状を出しますから、またお会いできるのを楽しみに待っています。」
愛した微笑みのままで、名前に笑いかけられて、俺はもう断ることは出来なかった。
でも、誘いを受けることも出来ずにいると、そこへちょうどタイミングを見計らったように、迎えの車がやってきたとハナが声をかけて来てくれて、ホッとした。
「悪い、もう行かねぇと。」
「あ、呼び止めてしまって申し訳ございませんでした。」
「いや、最後に話せてよかった。幸せそうで、安心した。
結婚、おめでとう。必ず、幸せになってくれ。」
名前からの返事は聞きたくなくて、顔を見ることもしないまま背を向けた。
もう、背を向けた俺を名前が追いかけてくることはなかった。
手入れの行き届いた庭は、鹿おどしなどもあり、とても風流だ。
欺瞞だらけの汚い世を知らずに、綺麗なものばかりに囲まれた魔法のような世界で、名前は王子と幸せになるのか―。
外の世界に出て来た俺は、迎えの車を断ってから、振り返った。
立派な裏門が、使用人達の手によってゆっくりと閉じていく。
その向こうに、婚約者の男に腰を抱かれて立ち去っていく名前の後ろ姿が見えた。
【リヴァイ先生のことを絶対に忘れない。】
古い日記帳の最終ページ。理想の女の条件の最後に、ピンクのペンで波線を引かれた拙い素朴な文字。
『これが一番大事だ。』と俺が言ったら、『大好きなリヴァイ先生のことは、絶対に忘れないよ。』と少女は自信満々に笑った。
名前は、自信満々に笑ったのに―。
現実の世界と魔法の世界の境界線上にある厳かな裏門が閉じて、ずっと見つめていた名前の姿が、視界から消えた。
俺のそばを黒塗りの高級車が走り去っていくと、排気ガスに吹かれて、地面に散っていたたくさんの桜の花びらが空に舞った。
一度散って地面に落ちた後に、もう一度、ただ散るためだけに降りしきる桜の花びらを浴びながら、俺は目を閉じた。
深呼吸をしている間に、たくさんの想い出が、宙を舞った桜の花びらのようにぶわっと広がった。
あぁ、俺は、愛されていた。
心から、愛されていた。
そして、俺も愛していた。
心から、愛していた。
目を開けた俺に見えたのは、高い壁のような塀。
初めから、結ばれるには、俺と名前には難しい問題がたくさんあったのだ。
これが、現実だ。
魔法のような世界から背を向けた。
俺達はお互いに、約束を守れなかった。
だから、こうして、背中を向けて歩くしかないのだ。
もう二度と、出逢わないことを祈って。
もう二度と、出逢うことのない別々の世界で、生きていく。
さよなら、だ。
隣にいるのは俺じゃないけど
君の笑顔を守ってるのは俺だって、それくらいは思っていいよね
そうやって、気持ちに折り合いをつけるしかなかったんだ
海へ行こうと家を出てすぐに、お腹が痛いと騒ぎ出した司君が離れのトイレに籠ってからそこそこ時間が経った。
トイレで死んでるんじゃないかと呆れと心配を混ぜて様子を見に行ったつくしちゃんも戻って来ない。
ベンチに座った私は、空を見上げてボーッとしていた。
青く澄んだ空はとても綺麗で、吸い込まれそうになる。
なんとなく、魔法に色があるのなら、こんな色をしてる気がした。
「まだ腰痛い?」
私の隣に座って暇そうにスマホを触っていた総ちゃんが、羽織っていた上着のポケットにスマホを入れた。
そして、まだ痛いと眉尻を下げる私を、ベンチの肘置きに腰かけたあきら君と一緒にからかう。
そうしていると、つくしちゃんがとてもご立腹な様子で戻ってきた。
「もうなんなわけ、アイツ!
私が作った朝ご飯が腐ってたに違いないとか言い出したんだけど!」
本気で怒っているつくしちゃんを、いつものことだから、とあきらくんがなだめている。
総ちゃんは学生時代からの恋人で、少し前にとてもロマンチックなプロポーズをしてくれて、私達は婚約者になった。
司君とあきら君は、総ちゃんの幼馴染で、つくしちゃんは司君の恋人だ。だから、私も学生時代から彼らとは友達。
でも、私にはその記憶はない。
彼らとの関係は、総ちゃんから聞いて知っているけれど、どんな風に遊んでいたのかは私は覚えていない。
総ちゃんと過ごした想い出だって、私はひとつも共有できない。
彼らの知っている『いつものこと』を、私だけが分からない。
つくしちゃんとあきら君のやりとりをベンチから眺めていると、隣に座っていた総ちゃんが顔を覗き込んできた。
「どうかした?」
「ううん、何でもないよ。」
少しだけ誤魔化して、私は笑顔を返した。
そっか、とそれだけ小さく言った総ちゃんは、それ以上は聞こうとはしないで、まるで守るように私の腰を抱き寄せた。
あきら君になだめられて落ち着いたつくしちゃん達と、このままでは海に着くのが遅くなりそうだから、今夜は海で花火をしてから帰ろうと話していると、視界の端で、誰かがこちらに向かっているのが見えた。
なんとなく視線を向けると、最近入って来たばかりだという新人の使用人のハナが、客人を連れて歩いていた。
母が大切なお客様だと言っていた男性だ。
総ちゃんに似ているサラサラの黒髪が太陽の光に照らされて、キラキラ輝いていた。
視線を向けてすぐに、切れ長の三白眼と視線が重なった。
ドキリ―。
心臓が音を立てた。その途端、だった。
つくしちゃん達の話し声、草木を揺らす風の音、私の心臓の音さえも、消えてなくなった。
その瞬間、シンという音すらない静かな世界で、まるで、私とその人だけが存在しているような不思議な感覚に襲われた。
でも、それは長くは続かなかった。
母の友人にしては若いその人は、偶々重なっただけの視線をスッと離した。
チクリ―。
心臓から聞こえた、さっきとは違う音がスイッチになったみたいに、また世界は日常を取り戻して、私の聞き慣れた音が戻った。
でも、それがなぜか雑音みたいに聞こえて、私の耳には煩わしかった。
その人は、離れに近づくことはしないで、裏門の方へと向かっていた。
私達のいる離れを避けるように遠回りをして通り過ぎたその人が、背中を向けたのと同時に、気づいたらベンチから立ち上がっていた。
「…って。」
気づくと、声にならない掠れた音が、私の口から漏れていた。
それがどんな音を作ろうとしていたのか、私にも分からなかった。
ただ、背を向けて歩き去っていくその背中が、どんどん小さくなっていくのが、とても怖かった。
「…って。待って…っ。」
無意識に漏れた信じられないくらいに小さな声は、自分でもなぜか分からない言葉を紡いでいた。
焦りや不安、恐怖が私の心を支配していた。
身に覚えのない感情がなぜ溢れてくるのか分からなくて、怖かった。
でも、このままあの人を行かせてしまってはいけない気がした。
あの門を出てしまったら、あの人にはきっともう二度と、会えない。
それだけは絶対にダメだと思った。
追いかけなければ―。
気づいたときにはもう、私は駆け出していた。
後ろから、総ちゃんが私を呼んだかもしれない。
でも、日常の音が戻ったはずの私の世界には、あの人を追いかける私の荒い息遣いと、あの人が遠ざかっていく足音だけしか聞こえなかった。
「待ってください…っ!」
どんなに必死に追いかけたってその人には追いつけない。
そんなことを前にも思ったことがあるような気がして、恐怖と不安に急かされるまま、私は声の限りに叫んだ。
その途端に、その人は勢いよく振り返った。
黒髪がサラッと揺れて、見開かれた三白眼が、私を映した。
立ち止まって待ってくれたその人の元へ漸くたどり着いた頃には、私は息を切らしていて、久しぶりに走った身体は悲鳴を上げていた。
まずは息を整えないと話しも出来ない状態で、私は両膝に手をついて浅い息を吐きだした。
「大丈夫か?」
温かい手が私の頬に触れた。
私の顔を覗き込んで、その人は心配そうに私を見つめる。
切れ長の三白眼がすぐそこにあって、私は身体中の熱が一気に顔に集まっていくのを感じた。
恥ずかしくて、ドキドキした。
煩いくらいの心臓の音がその人にも聞こえてしまう気がして、私は慌てて身体を離した。
突然の私の動きに、その人はとても驚いたようだった。
そして、拒絶するような失礼な態度に、その人はすごく悲しそうな顔をした。
その顔を見ると、胸が引き裂かれそうなくらいに申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい…。」
悲しそうな顔を見ていられなくて、私は目を伏せて謝った。
その人は、何も言わなかった。
どうしよう―。
気まずい沈黙が流れて、私は必死に言葉を探した。
そうしていると、その人が訊ねた。
「俺を追いかけてきたがんだろ。どうかしたのか。」
「それは…、あの…。」
これ以上は失礼なことは出来なくて、すぐに答えようとした。
でも、私はその答えを用意できていなかった。
(あれ…?どうして追いかけたんだっけ…?)
口ごもりながら、私はその人を追いかけた理由を考えた。
でも、答えは見つからない。
分かるのは、どうしても追いかけなくてはいけないような使命感にかられたことだけだった。
そもそも、母親の大切なお客様で、初めて会ったその人を追いかけてまで引き留める理由を、私が持っているはずはないのだ。
「先ほどは、お母様のお客様に、きちんとご挨拶も出来ず申し訳ございませんでした…!
またいらしたときは、きちんとおもてなしさせてくださいっ。」
それはただの言い訳だったから、一気にまくしたてるように口から出て来た。
でも、嘘でもなかった。
今度はきちんとご挨拶をしたいと思ったから、心を込めて頭を下げた。
「母親から聞いた。結婚するんだってな。」
その人から『結婚』という言葉が出て来たとき、心臓が握りしめられたように苦しくなった。
息苦しい痛みが治まるのを待って、私はゆっくりを顔を上げた。
「はい。婚約したばかりで、結納もまだなんですけど、
こんな私をお嫁さんにしてくれると仰ってくださって。」
「その男のことを、愛してるのか?」
婚約のことは、御贔屓の方や数名には報告済だった。
でも、そんなことを訊かれたのは初めてで驚いてしまった。
それが顔に出てしまったのか、その人はあからさまにマズいという顔をした。
「いや、いい。答えなくていい。」
その人は、右の手のひらを見せて、拒絶した。
でも、訊ねられたのならきちんと答えたかった。
なぜかわからないけれど、その人には、失礼なことをして嫌われるのは絶対に嫌だと思った。
「私にはもったいないくらいに、とても素敵な方です。」
「そうか。なら、幸せだな。」
「はいっ。とても、幸せです。」
その人の声がとても優しく聞こえて、私はとても嬉しかった。
「私と彼の婚約は、近々、皆様にもご報告させて頂く予定なんです。
婚約披露パーティーもあると思うので、是非いらしてくださいね。」
「……俺が行ったらキクって使用人につまみだされちまうから、
遠くで祝っておく。」
その人は、困ったように眉尻を下げて答えた。
なぜそんなことを言うのか分からなかったけれど、母の大切な客人を迷惑だと思う人間がいるわけなくて、私は驚いた。
「まさか!お母様の大切なお客様でしたら、きっと招待状を出しますよ。
またお会いできるのを楽しみに待っています。」
是非また会いたくて、私は微笑みかけた。
そこへ、迎えの車がやってきたとハナが声をかけて来た。
その人はチラリと裏門の方を振り返ってから、口を開いた。
「悪い、もう行かねぇと。」
「あ、呼び止めてしまって申し訳ございませんでした。」
「いや、最後に話せてよかった。幸せそうで、安心した。
結婚、おめでとう。必ず、幸せになってくれ。」
その人は、初めて会ったばかりの私に、とても優しい笑みをくれた。
とても慈愛に満ちていて、その微笑みは私の胸をギュッと握りしめた。
貴方と私は本当に初めて会ったばかりですか―。
ずっとずっと遠い昔から、私はその人のことを知っている気がした。
でも、思わず訊ねようとした私を見ることもしないで、その人は背を向けてしまった。
ハナに連れられて、その人がまた私に背を向けて立ち去っていく。
行かないで―。
訊きたいことがたくさんある気がした。
違う、何も訊かなくてもいい。知らなくてもいい。
ただ、行かせてはいけないと思った。
まだそばにいて、行かないでー。
置いて、行かないでー。
「待っ―。」
「名前、司がやっと出て来たってよ。行こう。」
追いかけようとした私だったけれど、腕を掴まれて引き留められた。
振り返って、総ちゃんと目が合うと、追いかけなくちゃという使命感が途端に消えた。
「どうする?あの人、追いかけたかった?」
「ううん、大丈夫だよ。」
首を振って、ニコリと微笑んだ。
婚約者の前で他の男の人を追いかけるなんて、それこそ失礼だし、私は総ちゃんを愛してる。
あの人の背中を追いかけた道を戻るために、踵を返す。
総ちゃんが自然な仕草で私の腰に手をまわした。
「司君、お腹大丈夫なの?」
「大丈夫なんじゃねぇの?アイツ、身体頑丈だし。」
適当に答える総ちゃんが可笑しくて、私はクスリと笑った。
あのとき、どうして私は、咄嗟に総ちゃんのことを『素敵な人』だと言ってしまったんだろう。
あの人は私に、総ちゃんのことを『愛してるのか』と訊いてきたのに―。
(あ…。)
ふ、とあの人の名前を訊いていないことを思い出した。
いつもいつも客人の名前を最初に覚えなさいと言っているキクを思い出して、また怒られてしまうと憂鬱な気分になった。
それに、私自身もあの人の名前を知りたかった。
あの人は母の客人で、総ちゃんとも知り合いみたいだった。
名前を訊けば教えてくれるのだろうけれど、私は自分で名前を訊ねたかった。
婚約披露パーティーのとき、名前を訊いて、ちゃんと自己紹介をしよう。
婚約者に腰を抱かれて、友人達の元へ向かいながら、私はそんなことを考えていた。