◇60ページ◇気づいて
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
記録的豪雨は過ぎ去ったものの、窓の外は相変わらずの大雨だった。
何もする気が起きなかったけれど、この一週間をぼんやりと過ごしたせいで掃除を全くしていない自宅の埃も気になった。
だから、この家にある掃除道具の精鋭達をかき集めて、大掃除を始めた。
それに、何かに夢中になっていないと、名前のことばかり思って苦しかったのだ。
それでも、廊下を雑巾がけしながら、リビングに掃除機をかけながら、キッチンのフィルターを磨きながら、俺は呆れるくらいに名前のことを考えていた。
だって、先週の俺も、自宅の掃除をしていた。
こうして、リビングの大窓を拭いて窓の外の雨を眺めながら、背中に感じる温もりに、こっそりと頬を緩めていたのだ。
でも今、俺は1人で、背中には冷たい風が流れるだけだった。
きっと、最初から名前という女は存在しなかったのだ。俺の妄想だ。俺の頭がおかしくなっていただけだ。
掃除をしながら、俺は頭の中でそればかりを繰り返していた。
ひと通り、リビングの大掃除を終えた俺は、精鋭達を抱えて寝室に向かった。
シンと静まり返った寝室に、ひとつ、ため息を落とした。
やる気は出ないけれど、掃除をしたい気持ちはある。
塵ひとつ残らないくらいに綺麗にしてしまいたかった。
床に棚の上、綺麗に拭きとって、ベッドのシーツも取り換えた。
(あとは窓だけか。)
ベッド沿いの窓は、ベッドに座って拭き上げた。
窓を拭くときにいつもしてしまう癖がある。
そのときも、窓に息を吹きかけて、白くなったそこを拭いていた。
上から順に拭いて右下の窓に息を吹きかけると、小さなハートが浮かび上がった。
流れ作業になって窓を拭こうとした手もピタリと動きを止めた。
目を見開いて、驚いた。
『教えたら消されちゃうから、秘密です~。』
先週の土曜日、裸のままで窓辺に座っていた名前に何をしていたのか聞いたときのことを思い出した。
あのときの悪戯っ子のような笑顔と声が、鮮やかに蘇る。
あれが、名前と過ごしたすべてが、嘘だったはずがない。
俺はこんなにもハッキリと覚えているし、息が苦しいくらいに愛しているのだからー。
気づいたら、俺は掃除道具を放り投げてマンションを飛び出していた。
大粒の雨が俺の身体に叩きつけた。
それでも俺は、行く宛てもないまま走った。
どこかにいるはずの名前を探して必死に、必死に走った。
マンションの前の通りは、大雨のせいなのか、名前どころか誰の姿もなかった。
まるで、この世界にひとりきりで取り残されたような気がした。
でも、人通りの多い大通りに出て、大雨の中で傘をさして楽しそうに行き交う人達を見たとき、俺は本当に独りきりになったのだと思い知ったのだ。
膝から崩れ落ちた俺は、雨に濡れたコンクリートに膝を打ち付けた。
雷鳴が薄暗い街を光らせるから、俺は恨めし気に汚い空を見上げた。
誰かの涙のような大粒の雨が俺の顔に降って、頬を流れて落ちていく。
通り過ぎていく知らない誰かが、訝しげな顔をして俺へ視線を向けて見えなくなっていった。
「名前…!!!」
俺は、大声で叫んだ。
何度も何度も、名前の名前を呼んだ。叫んだ。
ひとりにしないでー。
そんな悲痛な思いが滲んだ俺の声は、土砂降りの雨にかき消された。
それでも、名前にだけは届くと、信じていた。
名前を呼ぶから、聞こえたら振り返って
いつもみたいに振り返って、そして嬉しそうに俺に駆け寄って
ダックスフンドの身体みたいに長いリムジンの後部座席に座って、なんとなく車窓を眺めていた。
窓を叩く雨のせいで、視界は白く濁っていてよく見えないけれど、傘を差し合って歩く人達のシルエットが通り過ぎていくだけでも、暇つぶし程度にはなった。
「名前…!!!」
白く濁る車窓の向こうから名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
窓を開けると、横殴りの雨が車の中に降り込んで、私の顔も着物もびしょ濡れにした。
思わず驚いて、身を引いてしまったけれど、窓を閉めようとは思わなかった。
窓を開けたことで、くぐもってなんとなくでしか聞こえなかった誰かの声は、少しだけハッキリ聞こえるようになった気がした。
やっぱり、誰かが私の名前を呼んでいる。
しかも、切羽詰まったようなその声は、まるで泣いているみたいだった。
その声の主を探しなさいと、命令する声が頭の中に響いた。
「お姉様!?何をしてるんですの!?」
窓から顔を出そうとした私の肩を、妹の野梨子が掴んで引き留めた。
「誰かが私の名前を呼んだの!会いに行かなきゃっ!」
「待ってください!気のせいですわ!そんな声聞こえませんもの!」
「聞こえるでしょう?!ほら、誰かが私を…!」
強引に窓から顔を出そうとする私の肩を引き留める野梨子の手を振りほどきながら振り返ると、驚いた顔をした野梨子の向こうに、悲しそうな目で私を見ている母がいた。
その姿を見た途端に、とてもヒドいことをしてしまったような気がして、よく分からない使命感に駆られていた心が急激にしぼんでいった。
「そうね…、きっと気のせいだわ。ごめんなさい。」
弱々しく謝って、私は窓を閉めた。
母はすぐに、使用人頭のキクに電話をして、新しい着物を用意するように指示を出し始めていた。
窓を閉めたことで、私の名前を呼ぶ声は、消えてしまっていた。
それとも、野梨子が言うように、最初からそんな声はしていなかったのかもしれない。
私はまた車窓を眺めた。
白く濁る向こうは、通り過ぎていく街並みがなんとなく分かる程度で、やっぱりよく見えない。
車窓にそっと手を振れると、ひんやりと冷たかった。
「お姉様、今度は何をしてるんですの?」
野梨子が訝し気に覗き込んだ。
白く曇った車窓に、私は指でハートを描いていた。
それは無意識だったのだけれど、なぜこんなことをしたのかは、不思議とハッキリと分かっていた。
気づいたとき、どんな顔をするかな。驚くかな、怒るかな。それとも笑うのかな。
ワクワクとした気持ちが心を過った後、凄く胸が苦しくなった。
この胸の痛みを、私は前にも味わったことがある気がする。
「気づいて欲しくて。」
「気づく?誰にですの?」
「分かんない。」
「分からない?」
「でも、気づいて欲しかったの…。」
誰にだろうー。
窓拭き用のタオルを片手に窓辺に立って、窓に息を吹きかける誰かの映像が、不意に頭の中で流れた。
でもそれはほんの一瞬で、私の意識には定着せずに、それは誰だろうと考える暇もなく消えていった。
白く濁る車窓の上で水滴を垂らすハートは、まるで泣いているみたいだった。
何もする気が起きなかったけれど、この一週間をぼんやりと過ごしたせいで掃除を全くしていない自宅の埃も気になった。
だから、この家にある掃除道具の精鋭達をかき集めて、大掃除を始めた。
それに、何かに夢中になっていないと、名前のことばかり思って苦しかったのだ。
それでも、廊下を雑巾がけしながら、リビングに掃除機をかけながら、キッチンのフィルターを磨きながら、俺は呆れるくらいに名前のことを考えていた。
だって、先週の俺も、自宅の掃除をしていた。
こうして、リビングの大窓を拭いて窓の外の雨を眺めながら、背中に感じる温もりに、こっそりと頬を緩めていたのだ。
でも今、俺は1人で、背中には冷たい風が流れるだけだった。
きっと、最初から名前という女は存在しなかったのだ。俺の妄想だ。俺の頭がおかしくなっていただけだ。
掃除をしながら、俺は頭の中でそればかりを繰り返していた。
ひと通り、リビングの大掃除を終えた俺は、精鋭達を抱えて寝室に向かった。
シンと静まり返った寝室に、ひとつ、ため息を落とした。
やる気は出ないけれど、掃除をしたい気持ちはある。
塵ひとつ残らないくらいに綺麗にしてしまいたかった。
床に棚の上、綺麗に拭きとって、ベッドのシーツも取り換えた。
(あとは窓だけか。)
ベッド沿いの窓は、ベッドに座って拭き上げた。
窓を拭くときにいつもしてしまう癖がある。
そのときも、窓に息を吹きかけて、白くなったそこを拭いていた。
上から順に拭いて右下の窓に息を吹きかけると、小さなハートが浮かび上がった。
流れ作業になって窓を拭こうとした手もピタリと動きを止めた。
目を見開いて、驚いた。
『教えたら消されちゃうから、秘密です~。』
先週の土曜日、裸のままで窓辺に座っていた名前に何をしていたのか聞いたときのことを思い出した。
あのときの悪戯っ子のような笑顔と声が、鮮やかに蘇る。
あれが、名前と過ごしたすべてが、嘘だったはずがない。
俺はこんなにもハッキリと覚えているし、息が苦しいくらいに愛しているのだからー。
気づいたら、俺は掃除道具を放り投げてマンションを飛び出していた。
大粒の雨が俺の身体に叩きつけた。
それでも俺は、行く宛てもないまま走った。
どこかにいるはずの名前を探して必死に、必死に走った。
マンションの前の通りは、大雨のせいなのか、名前どころか誰の姿もなかった。
まるで、この世界にひとりきりで取り残されたような気がした。
でも、人通りの多い大通りに出て、大雨の中で傘をさして楽しそうに行き交う人達を見たとき、俺は本当に独りきりになったのだと思い知ったのだ。
膝から崩れ落ちた俺は、雨に濡れたコンクリートに膝を打ち付けた。
雷鳴が薄暗い街を光らせるから、俺は恨めし気に汚い空を見上げた。
誰かの涙のような大粒の雨が俺の顔に降って、頬を流れて落ちていく。
通り過ぎていく知らない誰かが、訝しげな顔をして俺へ視線を向けて見えなくなっていった。
「名前…!!!」
俺は、大声で叫んだ。
何度も何度も、名前の名前を呼んだ。叫んだ。
ひとりにしないでー。
そんな悲痛な思いが滲んだ俺の声は、土砂降りの雨にかき消された。
それでも、名前にだけは届くと、信じていた。
名前を呼ぶから、聞こえたら振り返って
いつもみたいに振り返って、そして嬉しそうに俺に駆け寄って
ダックスフンドの身体みたいに長いリムジンの後部座席に座って、なんとなく車窓を眺めていた。
窓を叩く雨のせいで、視界は白く濁っていてよく見えないけれど、傘を差し合って歩く人達のシルエットが通り過ぎていくだけでも、暇つぶし程度にはなった。
「名前…!!!」
白く濁る車窓の向こうから名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
窓を開けると、横殴りの雨が車の中に降り込んで、私の顔も着物もびしょ濡れにした。
思わず驚いて、身を引いてしまったけれど、窓を閉めようとは思わなかった。
窓を開けたことで、くぐもってなんとなくでしか聞こえなかった誰かの声は、少しだけハッキリ聞こえるようになった気がした。
やっぱり、誰かが私の名前を呼んでいる。
しかも、切羽詰まったようなその声は、まるで泣いているみたいだった。
その声の主を探しなさいと、命令する声が頭の中に響いた。
「お姉様!?何をしてるんですの!?」
窓から顔を出そうとした私の肩を、妹の野梨子が掴んで引き留めた。
「誰かが私の名前を呼んだの!会いに行かなきゃっ!」
「待ってください!気のせいですわ!そんな声聞こえませんもの!」
「聞こえるでしょう?!ほら、誰かが私を…!」
強引に窓から顔を出そうとする私の肩を引き留める野梨子の手を振りほどきながら振り返ると、驚いた顔をした野梨子の向こうに、悲しそうな目で私を見ている母がいた。
その姿を見た途端に、とてもヒドいことをしてしまったような気がして、よく分からない使命感に駆られていた心が急激にしぼんでいった。
「そうね…、きっと気のせいだわ。ごめんなさい。」
弱々しく謝って、私は窓を閉めた。
母はすぐに、使用人頭のキクに電話をして、新しい着物を用意するように指示を出し始めていた。
窓を閉めたことで、私の名前を呼ぶ声は、消えてしまっていた。
それとも、野梨子が言うように、最初からそんな声はしていなかったのかもしれない。
私はまた車窓を眺めた。
白く濁る向こうは、通り過ぎていく街並みがなんとなく分かる程度で、やっぱりよく見えない。
車窓にそっと手を振れると、ひんやりと冷たかった。
「お姉様、今度は何をしてるんですの?」
野梨子が訝し気に覗き込んだ。
白く曇った車窓に、私は指でハートを描いていた。
それは無意識だったのだけれど、なぜこんなことをしたのかは、不思議とハッキリと分かっていた。
気づいたとき、どんな顔をするかな。驚くかな、怒るかな。それとも笑うのかな。
ワクワクとした気持ちが心を過った後、凄く胸が苦しくなった。
この胸の痛みを、私は前にも味わったことがある気がする。
「気づいて欲しくて。」
「気づく?誰にですの?」
「分かんない。」
「分からない?」
「でも、気づいて欲しかったの…。」
誰にだろうー。
窓拭き用のタオルを片手に窓辺に立って、窓に息を吹きかける誰かの映像が、不意に頭の中で流れた。
でもそれはほんの一瞬で、私の意識には定着せずに、それは誰だろうと考える暇もなく消えていった。
白く濁る車窓の上で水滴を垂らすハートは、まるで泣いているみたいだった。