◇47ページ◇愛してはいけない人
Name change
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電話が切れた後、気づいたら、俺は見たくもない写真を持って、名前の部屋に来ていた。
指の隙間から信頼が零れ落ちていくように、写真が滑ってドレッサーの上に散らばった。
相変わらず連絡の届かないスマホと俺に何も話してくれない名前。
知りたいと思う欲求は、当然だったと思う。
ドレッサーの上には、日記帳が置かれたままになっていた。
少なくとも、帰ってくるという言葉には嘘はないのだろう。
俺は日記帳を手に取った。
この中にはきっと、俺が知りたい名前の心の内が隠されているのだと思う。
でも、誰かに覗かれるのを拒む鍵が、俺の欲求を阻んだ。
開く鍵はきっと名前が持っている。
錠前に触れてみた。
冷たい感触が、そのまま名前が俺に吐き続けた嘘のような気がした。
だから、なのかは分からない。
気付けば俺は、握った拳を振り上げていた。
このまま勢いよく振り落とせば、錠前くらい割って壊してしまえる自信があった。
そうすれば、日記が読める。名前の心が知れる。
でも、錠前が壊れたとき、俺は他に幾つものものを壊してしまうのだろうということも分かっていた。
俺の名前への信頼も、俺を信じると言ってくれた名前からもらった信頼も、それから、俺と名前の関係も。
唇を噛んだ俺は、全てを壊す覚悟もないままで、勢いよく拳を振り落とした。
錠前に拳が落ちる直前、ドレッサーの鏡に映るベッドの上に、ガラスの靴が置かれているのが目に入ってしまった。
ベッドの上が一番柔らかいから安全だと言って、名前が大切そうに置いたのだ。
不意に蘇る甘い記憶が、すべてを壊そうとしている俺を引き留めた。
『ガラスの靴、片方だけ置いて行きますね。
私達が離れ離れになっていても、このガラスの靴が繋いでくれるようにおまじないです。』
『なんだそれ。』
『あ、笑わないでくださいよ。私は本気なんですからっ。』
『わかった、わかった。なら、俺は、名前がなかなか帰らなかったら
このガラスの靴持って、足のサイズが合う女を探せばいいんだな?』
『ふふ、そうですね。探しに来てください。
あ、でも、他のヒトがピッタリ合っても、私を探してくれなきゃダメですよ?』
『他の女に履かせねぇよ。』
『ならいいです。約束ですからね。』
『あぁ、約束だ。』
大切そうにガラスの靴を抱きしめて、頬を染めた名前の嬉しそうな笑顔が、最後の最後に全てを壊してしまいそうだった俺を止めた。
ドレッサーに叩きつけられた拳に鈍い痛みが伝わった。
振り落とそうとしていた拳を反対の手で包むように握りしめた俺は、膝からズルリと崩れ落ちた。
「名前…っ、連絡くらい、よこしやがれ…っ。」
床に膝をつき、ドレッサーに額を打ち付けるように当てて、俺は悔し気に声を漏らした。
恋をするというのは、こんなにも痛いものだったか。苦しいものだったか。
名前に出逢って、愛して、幸せなこともたくさんあった。満たされた毎日は充実していた。
でも、愛せば愛すほどに、名前が分からなくなって苦しくなったのだ。
これが恋だと、愛だというのなら、俺は要らない。
アンと恋人だった頃の方がよかった。
俺は俺じゃなくなって、壊れてしまったけれど、少なくとも、こんなに弱くなかった。
会いたいとか、寂しいとか、不安だとか、そんな情けない気持ちに胸を引き裂かれそうになることだってなかった。
自分はこんなに弱いのだと、思い知らされることだって、なかったのにー。
≪もう名前との全てを壊してしまえよ。お前にはアンがいるじゃないか。
寂しいのも、不安になるのも、もう嫌なんだ。愛するより、愛される方がいい。≫
心の奥で、ヘタれな俺の声がかすかに聞こえた気がした。
でも、俺は名前を愛していた。もう止められないほどに、愛していたのだ。
リビングから、スマホのバイブが聞こえてきた。
どうせまたアンだろう。
そうではなくても、俺が聞きたい声じゃない。
俺はドレッサーの縁に額を押しつけたまま、必死に堪えていた。
震える拳をもう片方の手で握りしめて、全てを壊そうとしている弱い自分を、必死に抑えていたのだ。
俺達は結ばれるべきじゃないなんて、誰にも言わせないよ
魔法の世界で、誰よりも幸せになろう
毎年、年始に行う贔屓筋への挨拶回りを早めにすることになったのは、年末年始はリヴァイさんと一緒にいたいという私の我儘を父と母が聞き入れてくれたからだ。
今日は遠方にまで足を運んだから、実家に帰り着いた頃にはもう夜になっていた。
疲れた足を引きずって自分の部屋に向かった。
幼い頃から夢ばかりを追いかけて、家業のことを何もしてこなかった私は、着物が苦手だ。
普段着慣れている服と違って、重たいし、胸は苦しい。
これを平気で着こなす母と妹のことは心から尊敬する。
廊下を歩きながら、帯を適当に解いた。
キクに見つかったら「はしたない!」と叱られそうだけれど、生憎、誰よりも早くに寝床につく彼女に見られることはない。
部屋に着くころにはだいぶ緩くなった帯にホッと息を吐き、羽織るだけになった着物を引きずって、襖を開いた。
帰りを待たずに明かりがついていた私の部屋には、先客がいた。
私が将来結ばれなきゃいけない王子様だ。
机の椅子に腰をおろし、長い脚を組んだ彼は、私が子供の頃に書いていた日記を読んでいたらしかった。
そして、帰って来た私の方へ視線を向けると、少しだけ驚いた顔をした後、楽しそうに口の端を上げた。
「久しぶりに会った途端に誘ってもらえるなんて、最高だな。」
彼の言葉で、自分が今、どんな格好をしているのかに気が付いた私は、慌ててはだけた着物を前で重ね合わせた。
そんなに必死にならなくてもいいのに、と可笑しそうに喉を鳴らしながら、彼は机の上に日記帳を戻した。
そういえば、思春期を迎える頃にはもう女性を知り尽くしていた彼は、女性の裸なんて見慣れているのだった。
今さら、幼い頃からの知り合いの私のはしたない姿を見たって、なんとも思わないに決まっている。
「キクに、私が逃げちゃわないように
今夜のうちにものにしてしまえとか言われた?」
着物を脱ぎ捨てて、箪笥を開きながら言った。
さすがに、恋人でもない男の前で肌を晒すことは出来ないから、肌襦袢までは脱げない。
仕方なく、軽く羽織れる上着を取ろうとして伸ばした私の手首を彼が掴まえた。
あ、と思ったときには後ろに引かれた身体は、彼に背中から抱きしめられていた。
「他の男のとこに帰っちまう前に
俺の可愛い婚約者の顔が見たかっただけなんだけど
誘ってくれるなら、ものにしちまおうかな。」
背の高い彼は、身体を屈めるようにして私の頬に唇が触れそうな距離で低い声を響かせた。
「まだ婚約者じゃないでしょ。ふざけるのはやめて。」
ため息交じりに言って、肌襦袢の胸元から滑り込もうとしていた手を払った。
呆気なく肌から離れた手は、今度はガッシリと私の腰を抱きしめた。
痛いくらいの腕の力に、私は眉を顰める。
「婚約者じゃなくても、誰よりも名前に相応しいのは俺だ、くらいには思ってる。」
「私はー。」
「じゃあ、俺、帰るわ。」
痛いくらいに締め付けられていた圧迫感がパッと消えていて、背中にあたっていたリヴァイさんのものではない男の人の香りが離れた。
襖を開けて出て行くとき、彼は普段通りの、目の奥までは笑っていないような笑みを私に向けた。
「あと俺、別に今すぐものにしようとか思ってねぇから心配しなくていいよ。
どうせ、待ってれば、名前は必ず俺のものになるから。」
口の端を上げた、彼の瞳がギラリと光った気がした。
きっと、気のせいじゃない。
私の牽制だったに違いない。
おやすみ、と彼が襖を閉めた後、私は自分の机に置いていたバッグを広げた。
寝る前には必ず、リヴァイさんからもらったガラスの靴を見て、愛してもいいのだと自分に言い聞かせていた。
今こそ、ガラスの靴を履いて、サイズがピッタリ合うのを確かめたかった。
「え…、ない…。ない…っ、ない…!」
箱に入れて持ってきたはずなのに、その箱ごとガラスの靴がなくなっていた。
どこかに落としたかと考えてすぐ、私が帰ってくるまでこの机の椅子に座っていた彼のことを思い出した。
ハッとして、私は部屋を飛び出した。
肌襦袢の姿で廊下を疾走する私に、すれ違った数人の使用人が訝し気な視線を向けていた。
そして、最悪なことに、今夜はまだ起きていたらしいキクに見つかってしまった。
廊下の向こうにいたキクが、私を見つけて眉を顰めた。
「名前様!廊下を走るなと幼い頃から何度も何度も…、…!?
そんなはしたない恰好で何をなさっているんですか!?」
「お説教は後で聞くから、今凄く急いでるの!」
「お待ちなさい!!」
キクは、無視して走り抜けようとした私の手首を、年齢を感じさせない素早い動きで掴んだ。
「急いでいるから説教も聞けないとは何ですか。
一体、どんな理由があってこんな遅い時間にそんな恰好で廊下を走ることになるんですか。」
「ガラスの靴がないの…っ。」
「ガラスの靴?」
「リヴァイさんからもらったガラスの靴よ…っ。
きっと、彼が持って行ったんだわ!宝物なの!返してもらわなー。」
「今度は、あちらのお坊ちゃまを泥棒扱いですか。」
キクはひどく軽蔑した目を私に向けた。
泥棒扱いという言葉が胸に引っかかった。
そんなつもりはなかった。
ただ、返してもらいたかっただけだ。
でも、証拠も何もないのに彼が持って行ったのだと決めつけたということは、そういうことに違いなかった。
「ごめんなさい…。ただ、彼が持って行っていないかを確かめなくちゃ…!」
「そんなはしたない恰好でですか。」
「別にいいでしょ。彼とは子供の頃からの付き合いだし、
彼だってこんな姿見てもなんとも思わないわよ。」
「そういう問題ではありません。女性としてー。」
「わかった、わかったから!今度からはちゃんと着物着て会うから!!」
説教を聞く時間がないのも確かで、私は慌ただしく言って、また走り出した。
「ガラスの靴なら、キクが捨てました。」
後ろから聞こえてきた、キクの声に廊下を数メートル進んでいた私の足がピタリ、と止まった。
「え?今、なんて…?」
まるで機械のようにぎこちなく後ろを振り返り、私は訊ねた。
「ですから、ガラスの靴ならキクが捨てたと申し上げたのです。」
「なんで!?どうして!?どうして、そんな勝手なことをー。」
「勝手なことをなさっているのは名前様の方でございます。
あなたはこの家の跡取りなのですよ。ご主人様と奥様が何と仰ろうとも
外の世界の男に現を抜かしていてはいけない立場にあるのです。」
「でも…っ、だからって…!私の宝物を捨ててもいいことにはならないわ!!」
こぶしを握って、叫んだ。私はもう、半泣きだった。
キクの言っていることを理解していないわけじゃない。
むしろ、嫌というほどに分かっているからこそ、私は強引な条件を父と母に出して、リヴァイさんの元へ行かせてもらったのだ。
「名前様、目を覚ますのです。
どんなに抗おうとも、名前様はあの方とは結ばれません。
魔法は、続かないのです。そして、それが、名前様にとって、一番良いのです。」
「…っ。」
何も言い返せずに、唇を噛んで踵を返した私は、涙を必死に堪えて走った。
辿り着いた自分の部屋の扉の襖を勢い良く開けて、急かされるように、バッグの中からスマホを取り出した。
リヴァイさんの名前をすぐに見つけて、発信ボタンを押した。
『どんなに抗おうとも、名前様はあの方とは結ばれません。
魔法は、続かないのです。』
キクの声が頭から離れず、私に現実を突きつけ続けていた。
でも、リヴァイさんの声を聞いたら、私はきっと安心できる。
魔法は続くよというリヴァイさんの声さえあれば、私は魔法の世界で生き続けられる。
きっと、ずっとー。
でも、私の耳に届くのは、呼び出し音ばかりで、いつまで経ってもリヴァイさんに繋がらない。
「リヴァイさん…っ、出て…っ。
魔法は続くって、ずっと、愛してるって…、言って欲しいの…っ。」
懇願するような私の声は、リヴァイさんには届かない。
諦めきれない私の代わりに、スマホはリヴァイさんを呼び出すことをやめてしまった。
応答がありませんというメッセージを表示させたスマホを握りしめて、私は泣いた。
泣きじゃくった。
ガラスの靴をなくしたシンデレラを、誰が探しに来てくれるのだろう。
誰が、見つけてくれるのだろう。
誰が、愛してくれるというのー。
指の隙間から信頼が零れ落ちていくように、写真が滑ってドレッサーの上に散らばった。
相変わらず連絡の届かないスマホと俺に何も話してくれない名前。
知りたいと思う欲求は、当然だったと思う。
ドレッサーの上には、日記帳が置かれたままになっていた。
少なくとも、帰ってくるという言葉には嘘はないのだろう。
俺は日記帳を手に取った。
この中にはきっと、俺が知りたい名前の心の内が隠されているのだと思う。
でも、誰かに覗かれるのを拒む鍵が、俺の欲求を阻んだ。
開く鍵はきっと名前が持っている。
錠前に触れてみた。
冷たい感触が、そのまま名前が俺に吐き続けた嘘のような気がした。
だから、なのかは分からない。
気付けば俺は、握った拳を振り上げていた。
このまま勢いよく振り落とせば、錠前くらい割って壊してしまえる自信があった。
そうすれば、日記が読める。名前の心が知れる。
でも、錠前が壊れたとき、俺は他に幾つものものを壊してしまうのだろうということも分かっていた。
俺の名前への信頼も、俺を信じると言ってくれた名前からもらった信頼も、それから、俺と名前の関係も。
唇を噛んだ俺は、全てを壊す覚悟もないままで、勢いよく拳を振り落とした。
錠前に拳が落ちる直前、ドレッサーの鏡に映るベッドの上に、ガラスの靴が置かれているのが目に入ってしまった。
ベッドの上が一番柔らかいから安全だと言って、名前が大切そうに置いたのだ。
不意に蘇る甘い記憶が、すべてを壊そうとしている俺を引き留めた。
『ガラスの靴、片方だけ置いて行きますね。
私達が離れ離れになっていても、このガラスの靴が繋いでくれるようにおまじないです。』
『なんだそれ。』
『あ、笑わないでくださいよ。私は本気なんですからっ。』
『わかった、わかった。なら、俺は、名前がなかなか帰らなかったら
このガラスの靴持って、足のサイズが合う女を探せばいいんだな?』
『ふふ、そうですね。探しに来てください。
あ、でも、他のヒトがピッタリ合っても、私を探してくれなきゃダメですよ?』
『他の女に履かせねぇよ。』
『ならいいです。約束ですからね。』
『あぁ、約束だ。』
大切そうにガラスの靴を抱きしめて、頬を染めた名前の嬉しそうな笑顔が、最後の最後に全てを壊してしまいそうだった俺を止めた。
ドレッサーに叩きつけられた拳に鈍い痛みが伝わった。
振り落とそうとしていた拳を反対の手で包むように握りしめた俺は、膝からズルリと崩れ落ちた。
「名前…っ、連絡くらい、よこしやがれ…っ。」
床に膝をつき、ドレッサーに額を打ち付けるように当てて、俺は悔し気に声を漏らした。
恋をするというのは、こんなにも痛いものだったか。苦しいものだったか。
名前に出逢って、愛して、幸せなこともたくさんあった。満たされた毎日は充実していた。
でも、愛せば愛すほどに、名前が分からなくなって苦しくなったのだ。
これが恋だと、愛だというのなら、俺は要らない。
アンと恋人だった頃の方がよかった。
俺は俺じゃなくなって、壊れてしまったけれど、少なくとも、こんなに弱くなかった。
会いたいとか、寂しいとか、不安だとか、そんな情けない気持ちに胸を引き裂かれそうになることだってなかった。
自分はこんなに弱いのだと、思い知らされることだって、なかったのにー。
≪もう名前との全てを壊してしまえよ。お前にはアンがいるじゃないか。
寂しいのも、不安になるのも、もう嫌なんだ。愛するより、愛される方がいい。≫
心の奥で、ヘタれな俺の声がかすかに聞こえた気がした。
でも、俺は名前を愛していた。もう止められないほどに、愛していたのだ。
リビングから、スマホのバイブが聞こえてきた。
どうせまたアンだろう。
そうではなくても、俺が聞きたい声じゃない。
俺はドレッサーの縁に額を押しつけたまま、必死に堪えていた。
震える拳をもう片方の手で握りしめて、全てを壊そうとしている弱い自分を、必死に抑えていたのだ。
俺達は結ばれるべきじゃないなんて、誰にも言わせないよ
魔法の世界で、誰よりも幸せになろう
毎年、年始に行う贔屓筋への挨拶回りを早めにすることになったのは、年末年始はリヴァイさんと一緒にいたいという私の我儘を父と母が聞き入れてくれたからだ。
今日は遠方にまで足を運んだから、実家に帰り着いた頃にはもう夜になっていた。
疲れた足を引きずって自分の部屋に向かった。
幼い頃から夢ばかりを追いかけて、家業のことを何もしてこなかった私は、着物が苦手だ。
普段着慣れている服と違って、重たいし、胸は苦しい。
これを平気で着こなす母と妹のことは心から尊敬する。
廊下を歩きながら、帯を適当に解いた。
キクに見つかったら「はしたない!」と叱られそうだけれど、生憎、誰よりも早くに寝床につく彼女に見られることはない。
部屋に着くころにはだいぶ緩くなった帯にホッと息を吐き、羽織るだけになった着物を引きずって、襖を開いた。
帰りを待たずに明かりがついていた私の部屋には、先客がいた。
私が将来結ばれなきゃいけない王子様だ。
机の椅子に腰をおろし、長い脚を組んだ彼は、私が子供の頃に書いていた日記を読んでいたらしかった。
そして、帰って来た私の方へ視線を向けると、少しだけ驚いた顔をした後、楽しそうに口の端を上げた。
「久しぶりに会った途端に誘ってもらえるなんて、最高だな。」
彼の言葉で、自分が今、どんな格好をしているのかに気が付いた私は、慌ててはだけた着物を前で重ね合わせた。
そんなに必死にならなくてもいいのに、と可笑しそうに喉を鳴らしながら、彼は机の上に日記帳を戻した。
そういえば、思春期を迎える頃にはもう女性を知り尽くしていた彼は、女性の裸なんて見慣れているのだった。
今さら、幼い頃からの知り合いの私のはしたない姿を見たって、なんとも思わないに決まっている。
「キクに、私が逃げちゃわないように
今夜のうちにものにしてしまえとか言われた?」
着物を脱ぎ捨てて、箪笥を開きながら言った。
さすがに、恋人でもない男の前で肌を晒すことは出来ないから、肌襦袢までは脱げない。
仕方なく、軽く羽織れる上着を取ろうとして伸ばした私の手首を彼が掴まえた。
あ、と思ったときには後ろに引かれた身体は、彼に背中から抱きしめられていた。
「他の男のとこに帰っちまう前に
俺の可愛い婚約者の顔が見たかっただけなんだけど
誘ってくれるなら、ものにしちまおうかな。」
背の高い彼は、身体を屈めるようにして私の頬に唇が触れそうな距離で低い声を響かせた。
「まだ婚約者じゃないでしょ。ふざけるのはやめて。」
ため息交じりに言って、肌襦袢の胸元から滑り込もうとしていた手を払った。
呆気なく肌から離れた手は、今度はガッシリと私の腰を抱きしめた。
痛いくらいの腕の力に、私は眉を顰める。
「婚約者じゃなくても、誰よりも名前に相応しいのは俺だ、くらいには思ってる。」
「私はー。」
「じゃあ、俺、帰るわ。」
痛いくらいに締め付けられていた圧迫感がパッと消えていて、背中にあたっていたリヴァイさんのものではない男の人の香りが離れた。
襖を開けて出て行くとき、彼は普段通りの、目の奥までは笑っていないような笑みを私に向けた。
「あと俺、別に今すぐものにしようとか思ってねぇから心配しなくていいよ。
どうせ、待ってれば、名前は必ず俺のものになるから。」
口の端を上げた、彼の瞳がギラリと光った気がした。
きっと、気のせいじゃない。
私の牽制だったに違いない。
おやすみ、と彼が襖を閉めた後、私は自分の机に置いていたバッグを広げた。
寝る前には必ず、リヴァイさんからもらったガラスの靴を見て、愛してもいいのだと自分に言い聞かせていた。
今こそ、ガラスの靴を履いて、サイズがピッタリ合うのを確かめたかった。
「え…、ない…。ない…っ、ない…!」
箱に入れて持ってきたはずなのに、その箱ごとガラスの靴がなくなっていた。
どこかに落としたかと考えてすぐ、私が帰ってくるまでこの机の椅子に座っていた彼のことを思い出した。
ハッとして、私は部屋を飛び出した。
肌襦袢の姿で廊下を疾走する私に、すれ違った数人の使用人が訝し気な視線を向けていた。
そして、最悪なことに、今夜はまだ起きていたらしいキクに見つかってしまった。
廊下の向こうにいたキクが、私を見つけて眉を顰めた。
「名前様!廊下を走るなと幼い頃から何度も何度も…、…!?
そんなはしたない恰好で何をなさっているんですか!?」
「お説教は後で聞くから、今凄く急いでるの!」
「お待ちなさい!!」
キクは、無視して走り抜けようとした私の手首を、年齢を感じさせない素早い動きで掴んだ。
「急いでいるから説教も聞けないとは何ですか。
一体、どんな理由があってこんな遅い時間にそんな恰好で廊下を走ることになるんですか。」
「ガラスの靴がないの…っ。」
「ガラスの靴?」
「リヴァイさんからもらったガラスの靴よ…っ。
きっと、彼が持って行ったんだわ!宝物なの!返してもらわなー。」
「今度は、あちらのお坊ちゃまを泥棒扱いですか。」
キクはひどく軽蔑した目を私に向けた。
泥棒扱いという言葉が胸に引っかかった。
そんなつもりはなかった。
ただ、返してもらいたかっただけだ。
でも、証拠も何もないのに彼が持って行ったのだと決めつけたということは、そういうことに違いなかった。
「ごめんなさい…。ただ、彼が持って行っていないかを確かめなくちゃ…!」
「そんなはしたない恰好でですか。」
「別にいいでしょ。彼とは子供の頃からの付き合いだし、
彼だってこんな姿見てもなんとも思わないわよ。」
「そういう問題ではありません。女性としてー。」
「わかった、わかったから!今度からはちゃんと着物着て会うから!!」
説教を聞く時間がないのも確かで、私は慌ただしく言って、また走り出した。
「ガラスの靴なら、キクが捨てました。」
後ろから聞こえてきた、キクの声に廊下を数メートル進んでいた私の足がピタリ、と止まった。
「え?今、なんて…?」
まるで機械のようにぎこちなく後ろを振り返り、私は訊ねた。
「ですから、ガラスの靴ならキクが捨てたと申し上げたのです。」
「なんで!?どうして!?どうして、そんな勝手なことをー。」
「勝手なことをなさっているのは名前様の方でございます。
あなたはこの家の跡取りなのですよ。ご主人様と奥様が何と仰ろうとも
外の世界の男に現を抜かしていてはいけない立場にあるのです。」
「でも…っ、だからって…!私の宝物を捨ててもいいことにはならないわ!!」
こぶしを握って、叫んだ。私はもう、半泣きだった。
キクの言っていることを理解していないわけじゃない。
むしろ、嫌というほどに分かっているからこそ、私は強引な条件を父と母に出して、リヴァイさんの元へ行かせてもらったのだ。
「名前様、目を覚ますのです。
どんなに抗おうとも、名前様はあの方とは結ばれません。
魔法は、続かないのです。そして、それが、名前様にとって、一番良いのです。」
「…っ。」
何も言い返せずに、唇を噛んで踵を返した私は、涙を必死に堪えて走った。
辿り着いた自分の部屋の扉の襖を勢い良く開けて、急かされるように、バッグの中からスマホを取り出した。
リヴァイさんの名前をすぐに見つけて、発信ボタンを押した。
『どんなに抗おうとも、名前様はあの方とは結ばれません。
魔法は、続かないのです。』
キクの声が頭から離れず、私に現実を突きつけ続けていた。
でも、リヴァイさんの声を聞いたら、私はきっと安心できる。
魔法は続くよというリヴァイさんの声さえあれば、私は魔法の世界で生き続けられる。
きっと、ずっとー。
でも、私の耳に届くのは、呼び出し音ばかりで、いつまで経ってもリヴァイさんに繋がらない。
「リヴァイさん…っ、出て…っ。
魔法は続くって、ずっと、愛してるって…、言って欲しいの…っ。」
懇願するような私の声は、リヴァイさんには届かない。
諦めきれない私の代わりに、スマホはリヴァイさんを呼び出すことをやめてしまった。
応答がありませんというメッセージを表示させたスマホを握りしめて、私は泣いた。
泣きじゃくった。
ガラスの靴をなくしたシンデレラを、誰が探しに来てくれるのだろう。
誰が、見つけてくれるのだろう。
誰が、愛してくれるというのー。