美しい月よ、臆病な心を守って
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夜空に向かって花のように咲く噴水の水を、私は地面に仰向けに横たわって見上げていた。
水飛沫が水面に落ちる音がするけれど、私に落ちてくるのは、気持ちの悪い男の荒い鼻息だけだった。
私を見下ろす男の頭が、夜空に浮かぶ月を隠していた。
地面に縫い付けるように押しつけられた手首は、どんなに抵抗してもピクリとも動かない。
声をかけて来たと思ったら、いきなり私の腕を掴んで押し倒したのは、知らない男ではなかった。
1年前に、本命の彼女がいながら私を騙して弄んだ後に、呆気なく捨てた元恋人だった。
あの後、浮気がどうしても許せなかった彼女から別れを切り出されて、婚約を破棄されたという噂を聞いていた。
馬乗りになってブツブツと文句を繰り返す彼の言葉から察するに、今夜のパーティーで容易く私とよりを戻せると思っていたのに、私が婚約者を連れていたことが許せなかったらしい。
そして、ここで無理やり既成事実を作って、婚約者から奪い返そうという考えのようだった。
余りにも身勝手で、私を人間だとも思っていないような言動に、恐怖と共に寒気もした。
この裏庭が、パーティー会場から離れているとは言っても、全く別の場所なわけではない。貴族達の華やかな笑い声や優雅なBGMは遠くから聞こえてきている。
私が今するべきことは、大きな声で叫んで、助けを呼ぶことだ。
そうすれば、少なくとも、バルコニーに出ている人達には、私の声は届くだろう。
そうだと、頭では理解していても、恐怖に震えた身体はまるで自分のものではなくなったように小刻みに震えるばかりで動かすことも出来ず、声すらも出ない。
それをいいことに、元恋人は、ドレスの胸元にあるコサージュを掴むと、そのまま乱暴に小さな宝石が散りばめられた布ごと引き裂いた。
途端に露になる胸を守る下着に、元恋人の鼻息はさらに荒くなったようだった。
元恋人はさらに、パーティードレスの裾から手を滑り込ませる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い———。
「やだ…っ、ナナバさん…っ、たすけて…っ。」
気づけば、私は、泣きながら助けを求めていた。
本当に微かな小さな声は、捨てられた子猫が、古い木箱の中で鳴いているのかと思ってしまうほどに弱々しかった。
こんな声が、私をボロボロに傷つけようとしている男に聞こえるはずがない。
それに、何よりも悲しかったのは、私が助けを求めてしまった相手が、あの人だったことだ。
来てくれるわけがない。
あんなひどいお別れをしておいて、助けになんて来てくれるわけがない。
それにそもそも、今夜のパーティーには、王族関係者や貴族しか参加していないのだ。
調査兵団の兵士であるあの人が、いるはずがないのに———。
首筋を這う男のザラザラとした舌の感触に、私は溢れる涙を止められなかった。
「いやぁ…っ、ナナバさん…っ。」
泣き喚くように、私はあの人の名前を呼んだ。
そのときだった。
耳元で、土を蹴ったようなザッという音がした時には、私の胸元に埋めて隠れていた男の顔が、目の前にあった。
さっきまで、鼻息を荒くして獣のような目をしていた元恋人が、今は、苦悶の表情を浮かべて、苦し気な息を吐いている。
男が離れてくれたことに対する安堵よりも、何が起こっているのか分からないという混乱の方が大きかった。
目を見開き固まる私をよそに、男は苦し気な息を漏らしながら、一瞬で離れて行く。
いや、離れて行ったのではない。
誰かに頭を掴まれて、そのまま、私から引き剥がされたのだ。
少しずつ事態を理解していった私は、倒されていた身体を恐る恐る持ち上げる。
そして、地面に座り込んだままで、露になった胸元を破れたドレスの布で隠し呆然とする私が見たのは、柔らかい月明かりに照らされるあの人の横顔だった。
去年、この場所で出逢ったときとは違って、スーツではなく、調査兵団の兵団服を着ているから、パーティーに参加していたというわけではないようだった。
でも、私の知っているあの人とはまるで別人に見えたのは、兵団服のせいだけではなかったはずだ。
だって、あの人は、調査兵にすら、見えなかったのだ。
いつもは星を映して宝石のように輝く瞳に光はなく、憎悪だけが闇のように渦巻いていたせいだ。
いつも柔らかく微笑んでくれていた目元は吊り上がり、恐ろしい形相で、前に突き出すように伸ばした腕の先に、男の頭を上から持ち上げるように握りしめている。
その姿は、兵士ではなくて、物語の中に描かれている悪魔そのものだった。
だからなのか、実際にそうなのか、声も出せない程に苦しみ悶えている男の様子から、頭を握りしめている、というよりは、握り潰そうとしている、ように見えた。
あの人が———、ナナバさんが、恐ろしい顔で男を睨みつけているからだ。
「生まれてきて今まで、身体が震えるほどの怒りを覚えたのは、
仲間の家族が巨人にされたときと王政が偽物だったと知った時以来だよ。」
ナナバさんがそう言った直後、男は「ぐあッ!」と苦しげな悲鳴を上げた。
頭を掴む手に力を込めたらしかった。
「今ここで、二度と彼女に近づかないと誓うか
私に頭の骨を粉々になるまで握り潰されるのか
好きに選んでくれ。」
ナナバさんの柔らかく優しかったはずの声は、低く短調な闇から響く地響きのようになっていた。
男が苦しそうな息と悲鳴を上げ続けるから、聞こえないはずの骨が砕ける音が聞こえてきているような錯覚に襲われる。
それくらい本気で、ナナバさんは、目の前の男を殺そうとしていたのだ。
「ち、ちか…っ、近づきません…っ。」
男が泣きながら選択したのは、生きる為に残された唯一の道だった。
「もしもまた、彼女を泣かせるようなことがあれば
今度は頭を握りつぶすだけじゃ済まさない。忘れるなよ…!」
最後に語気を強めたナナバさんは、そのままの勢いで、男を地面に投げ捨てた。
ドンッという音と共に、男は地面に落ちて尻もちをつくやいなや、慌てた様に起き上がり、足を縺れさせながら逃げて行った。
水飛沫が水面に落ちる音がするけれど、私に落ちてくるのは、気持ちの悪い男の荒い鼻息だけだった。
私を見下ろす男の頭が、夜空に浮かぶ月を隠していた。
地面に縫い付けるように押しつけられた手首は、どんなに抵抗してもピクリとも動かない。
声をかけて来たと思ったら、いきなり私の腕を掴んで押し倒したのは、知らない男ではなかった。
1年前に、本命の彼女がいながら私を騙して弄んだ後に、呆気なく捨てた元恋人だった。
あの後、浮気がどうしても許せなかった彼女から別れを切り出されて、婚約を破棄されたという噂を聞いていた。
馬乗りになってブツブツと文句を繰り返す彼の言葉から察するに、今夜のパーティーで容易く私とよりを戻せると思っていたのに、私が婚約者を連れていたことが許せなかったらしい。
そして、ここで無理やり既成事実を作って、婚約者から奪い返そうという考えのようだった。
余りにも身勝手で、私を人間だとも思っていないような言動に、恐怖と共に寒気もした。
この裏庭が、パーティー会場から離れているとは言っても、全く別の場所なわけではない。貴族達の華やかな笑い声や優雅なBGMは遠くから聞こえてきている。
私が今するべきことは、大きな声で叫んで、助けを呼ぶことだ。
そうすれば、少なくとも、バルコニーに出ている人達には、私の声は届くだろう。
そうだと、頭では理解していても、恐怖に震えた身体はまるで自分のものではなくなったように小刻みに震えるばかりで動かすことも出来ず、声すらも出ない。
それをいいことに、元恋人は、ドレスの胸元にあるコサージュを掴むと、そのまま乱暴に小さな宝石が散りばめられた布ごと引き裂いた。
途端に露になる胸を守る下着に、元恋人の鼻息はさらに荒くなったようだった。
元恋人はさらに、パーティードレスの裾から手を滑り込ませる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い———。
「やだ…っ、ナナバさん…っ、たすけて…っ。」
気づけば、私は、泣きながら助けを求めていた。
本当に微かな小さな声は、捨てられた子猫が、古い木箱の中で鳴いているのかと思ってしまうほどに弱々しかった。
こんな声が、私をボロボロに傷つけようとしている男に聞こえるはずがない。
それに、何よりも悲しかったのは、私が助けを求めてしまった相手が、あの人だったことだ。
来てくれるわけがない。
あんなひどいお別れをしておいて、助けになんて来てくれるわけがない。
それにそもそも、今夜のパーティーには、王族関係者や貴族しか参加していないのだ。
調査兵団の兵士であるあの人が、いるはずがないのに———。
首筋を這う男のザラザラとした舌の感触に、私は溢れる涙を止められなかった。
「いやぁ…っ、ナナバさん…っ。」
泣き喚くように、私はあの人の名前を呼んだ。
そのときだった。
耳元で、土を蹴ったようなザッという音がした時には、私の胸元に埋めて隠れていた男の顔が、目の前にあった。
さっきまで、鼻息を荒くして獣のような目をしていた元恋人が、今は、苦悶の表情を浮かべて、苦し気な息を吐いている。
男が離れてくれたことに対する安堵よりも、何が起こっているのか分からないという混乱の方が大きかった。
目を見開き固まる私をよそに、男は苦し気な息を漏らしながら、一瞬で離れて行く。
いや、離れて行ったのではない。
誰かに頭を掴まれて、そのまま、私から引き剥がされたのだ。
少しずつ事態を理解していった私は、倒されていた身体を恐る恐る持ち上げる。
そして、地面に座り込んだままで、露になった胸元を破れたドレスの布で隠し呆然とする私が見たのは、柔らかい月明かりに照らされるあの人の横顔だった。
去年、この場所で出逢ったときとは違って、スーツではなく、調査兵団の兵団服を着ているから、パーティーに参加していたというわけではないようだった。
でも、私の知っているあの人とはまるで別人に見えたのは、兵団服のせいだけではなかったはずだ。
だって、あの人は、調査兵にすら、見えなかったのだ。
いつもは星を映して宝石のように輝く瞳に光はなく、憎悪だけが闇のように渦巻いていたせいだ。
いつも柔らかく微笑んでくれていた目元は吊り上がり、恐ろしい形相で、前に突き出すように伸ばした腕の先に、男の頭を上から持ち上げるように握りしめている。
その姿は、兵士ではなくて、物語の中に描かれている悪魔そのものだった。
だからなのか、実際にそうなのか、声も出せない程に苦しみ悶えている男の様子から、頭を握りしめている、というよりは、握り潰そうとしている、ように見えた。
あの人が———、ナナバさんが、恐ろしい顔で男を睨みつけているからだ。
「生まれてきて今まで、身体が震えるほどの怒りを覚えたのは、
仲間の家族が巨人にされたときと王政が偽物だったと知った時以来だよ。」
ナナバさんがそう言った直後、男は「ぐあッ!」と苦しげな悲鳴を上げた。
頭を掴む手に力を込めたらしかった。
「今ここで、二度と彼女に近づかないと誓うか
私に頭の骨を粉々になるまで握り潰されるのか
好きに選んでくれ。」
ナナバさんの柔らかく優しかったはずの声は、低く短調な闇から響く地響きのようになっていた。
男が苦しそうな息と悲鳴を上げ続けるから、聞こえないはずの骨が砕ける音が聞こえてきているような錯覚に襲われる。
それくらい本気で、ナナバさんは、目の前の男を殺そうとしていたのだ。
「ち、ちか…っ、近づきません…っ。」
男が泣きながら選択したのは、生きる為に残された唯一の道だった。
「もしもまた、彼女を泣かせるようなことがあれば
今度は頭を握りつぶすだけじゃ済まさない。忘れるなよ…!」
最後に語気を強めたナナバさんは、そのままの勢いで、男を地面に投げ捨てた。
ドンッという音と共に、男は地面に落ちて尻もちをつくやいなや、慌てた様に起き上がり、足を縺れさせながら逃げて行った。