◇60話◇彼女を心から追い出せたなら
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固く閉ざされた扉の向こうで、消え入りそうなか細い声が、愛の言葉を紡いだ。
苦しそうに振り絞るようなそれに胸を掻きむしられるような痛みに襲われる。
リヴァイは扉に背中を押しあてて、痛いくらいに目を瞑った。
扉の向こうでは、ハンジが彼女に一緒に部屋を出るように言っている声がする。
それに対する反論の声は聞こえない。
それからすぐに、一枚の扉を挟んで感じていた気配は消えて、遠ざかっていく足音がした。
きっと、今夜はもう彼女は戻って来ないだろう。
いや、今夜だけではない。
彼女はもう二度と、戻って来てはくれないのだろうー。
引き留めたくて扉を開けようとする右腕を、左手で必死に抑え込んだ。
遠くから、扉の閉まる音が聞こえた。
執務室の扉が閉まったのだろう。
出て行けー。
自分が彼女に投げつけた台詞だ。
お望み通り、彼女は出て行った。
『彼女はパラレルワールドからやってきた、なまえとは全く別の人間なんだよ。』
大切な話があると言い出したハンジは、唐突にわけのわからないことを口にした。
本当に意味の分からないことだ。
あり得ない話だ。
それなのに、何かがストンと胸の奥に落ちたのだ。
だって、本当は、なまえと彼女が違う人間だということを、いつからか心と身体が感じ取っていたからー。
そうでなければ、唐突に始まったパラレルワールドなんて話を信じないでいられたはずだ。
彼女は、生き返ったなまえだという信じられない話の方を妄信出来たはずだった。
そう出来たら、どんなによかっただろう。
何も知らず、騙されていられたら、どんなにー。
ハンジから、彼女がこの世界にやって来た本当の理由も聞いて、なまえらしいと思った。
それと同時に、なまえを心配させてしまったこと、そして、心から愛されていたのだということを改めて思い知った。
だからー。
「チッ。」
舌打ちをして、リヴァイは鏡の元へ向かう。
彼女がこの世界に来るきっかけになったと思われるなまえの部屋の鏡は割れてしまった。
割れた鏡の破片をハンジとモブリットで繋ぎ合わせてみたが、もう二度とパラレルワールドとは繋がらなかったらしい。
その後、リコの部屋の鏡がパラレルワールドのリコの部屋の鏡と繋がったが、その鏡もピクシスが割ってしまった。
今、彼女は、もう二度と元の世界には戻れないと思っているのだそうだ。
あぁ、だからー。
だから、彼女は、本当は会ったこともない男の恋人のフリをしていたのだろう。
空から降りてきた夜、いきなり自分は恋人だと言い出した男に恐怖と怒りをぶつけた彼女が、本当の姿なのだ。
それなのに、彼女は、可哀想な男を愛しているフリをし続けた。
そうしないと、頼る人間の誰もいない彼女は、こんな危険な世界で1人で生きていけない。
きっと彼女は、ハンジやモブリットから聞いて、必死になまえの記憶を覚えたのだと思う。
それなら、思い出したというわりには、2人きりの想い出は何も話さない彼女の違和感はそこから来ていたのだと頷ける。
『でも、私はまだ帰れる道は残ってると思ってるんだ。』
『…鏡が割れたのにか。』
『まだ1つ、割れてない鏡が残ってるじゃないか。』
『割れてねぇ鏡?』
『そう。リヴァイ、君の寝室にある鏡だよ。』
必ず繋がるー。
鏡の前に立ったリヴァイの頭に、そう確信しているようなハンジの声が響く。
手のひらを鏡にそっと乗せるように置けば、ひんやりと冷たく体温を奪っていく。
『俺の寝室の鏡は関係ねぇだろ。』
『それがあるんだよ、リヴァイ。私も今日、リコから聞いて知ったんだけど。
パラレルワールドにいるリヴァイも、リコと一緒に彼女を探してるらしいんだ。』
『…は?』
『たぶんだけど、鏡は、所謂扉みたいな役割だと思うんだ。
その扉を開く鍵は2つ。ひとつはなまえが呼んだ彼女。
そして、もうひとつは、元の世界にいるリヴァイだ。』
最初になまえの部屋の鏡から元の世界と鏡が繋がったとき、そして2度目にリコの部屋の鏡から元の世界に繋がったときの話をハンジが教えてくれた。
そのことから、ハンジとリコは、鏡という扉を開く鍵は、この世界にいる人間と向こうの世界にいる人間の気持ちが重なることだと考えた。
でも、何度、リコ同士が鏡を繋げようとしてもうまくいかず、ついには二度と扉は開かないまま鏡が割れて壊れてしまったー。
その矛盾にずっと頭を悩ませていたハンジだったが、今日、鏡を割ってしまったことについての謝罪にやってきたリコから、元の世界にいるリヴァイの話を聞いて、漸く謎が解けたのだそうだ。
鏡の扉が開いた1度目と2度目、共通することは、彼女の『会いたい。』という気持ち。そして、扉となる鏡のそばに元の世界のリヴァイがいたこと。
パラレルワールドに同時に存在しているもう1人の自分ー。
元の世界のリヴァイは、彼女とは知り合いではないらしい。
でも、リコから頼まれて行方不明となった彼女を探す手伝いをしているらしいリヴァイは、恐らく彼女に『会いたい。』と思っている。
『なまえがリヴァイの為に彼女を呼んだこの世界から帰るためには、
パラレルワールドの住人である彼女とリヴァイが呼び合うことが必要なんだと思う。』
無機質な冷たい鏡の上で拳を握ろうとすると、爪が引っかかり耳に痛い嫌な音が身体にも伝わって来る。
この音は嫌いだ。この感触も、好きじゃない。
触れたいのは、こんなに冷たい鏡じゃないー。
でも、一番嫌いな音は、今、頭の中で響いているハンジの声だ。
『きっと、君達が惹かれ合ったみたいに、彼らも惹かれ合う運命にあるんだ。
その運命からは、時空を越えた世界ですらも抗えないんだよ。』
恋愛小説が好きだったなまえが好きそうなセリフだ。
パラレルワールドと繋がる扉を開くカラクリを作ったのが、彼女をこの世界に呼んだなまえなのだとしたら、その鍵は正しい気がする。
それに、ハンジは、確信がないと話さないところがあるから、よっぽどの自信があるのだろう。
だからー。
リヴァイは、拳を振り上げた。
向こうの世界と繋がりそうな鏡はもうこれしかないのだそうだ。
それなら、割ってしまえばいい。
こんな鏡は、粉々に割れてしまえばいいのだ。
『リヴァイが彼女をなまえじゃないと気づいてたならよかったよ。
それならさ、彼女を元の世界に帰してあげよう。向こうの世界は平和で安全なんだ。
か弱い彼女は、巨人の蔓延るこの世界にいたらすぐに死んでしまうよ。』
あぁ、分かっているー。
彼女は、なまえのように強く凛々しくは戦えない。
儚くて、か弱くて、誰かが守ってやらないといけない。
巨人を見て恐怖に震えていた彼女ー。
不安で怖くて、泣きたい夜を幾つも越えたのだろう。
それでも、自分だけではなくて、調査兵達にも笑顔を振りまき続けた。
壁外調査から瀕死で帰ってきてからは、本当に心配そうにしてずっとそばにいてくれた。
この世界にやって来た彼女は、彼女の出来る精一杯の優しさをくれた。
その優しさに、返してやるべきなのだろう。
帰る道が残っているのなら、チャンスがまだあるのなら、試してやるべきなのだろう。
でもー。
「どうして…っ。」
持ち上げた拳を振り下ろせないまま、リヴァイは頭を抱えるようにして、痛いくらいに自分の髪を引っ張る。
膝が床に落ちて、跪く格好で顔を上げた。
そこには、鏡の中で、情けない姿をした自分が悲愴に暮れているのが映っている。
どうして、彼女はなまえではないのだろう。
永遠に愛し続け、共に生きていくのだと信じていた。
欺瞞だらけで、確かなものなど何もないこの世界で、なまえを想う気持ちだけは唯一、絶対だと信じられるものだったのだ。
それなのにー。
彼女がなまえだったらよかった。どうして、彼女はなまえじゃないのだ。
それなら、自分が感じてしまっている抗えないこの気持ちに、心を握り潰されそうになることだってなかった。
呼吸が出来ないくらいに、苦しむこともなかった。
罪悪感だって、なかったはずだー。
どうして、彼女は、彼女なのだろう。
必死になまえのフリをしていたいじらしいその姿は、いつだって彼女だった。
そんな彼女を自分はー。
(すまない…っ。帰したくねぇんだ…っ。)
嫌われてもいい。
恨まれてもいい。
他の男と隠れて会っていたって、彼女の心が自分にはなくたって、いい。
結局は、自分の元に帰ってくるのならそれでいいと思っていた。
でも、もう帰る場所でなくなってもいい。
触れられなくてもいい。
あぁ、この世で最も彼女に恨まれているのが自分になっても構わないのだ。
だからどうかー。
ただ、途方に暮れるほどに遠い世界にだけは行かないでー。
もう二度と、大切な人と会えない距離に引き裂かれるのは嫌なのだ。
たとえ、彼女が苦しんでいても、望まなくても、この世界に縛りつけたい。
それくらい彼女のことをー。
扉を閉じた部屋はシンと静まり返っていて、息がつまりそうなくらいに寒い。
いつもなら我儘に彼女を抱きしめて、温まることが出来た。
出て行けー。
鏡の向こうにいる男が、彼女を奪う前に早くー。
お望み通り、彼女はこの部屋から出て行った。
でも、心からはいなくならないー。
なまえを忘れたわけでも、想いが消えたわけでもない。
それなのに、彼女への気持ちが溢れて苦しいー。
どうして、彼女はなまえじゃないのだろう。
どうして、彼女はー。
どうしてー。
どうして、彼女を愛してしまったのだろうー。
せめて、この気持ちさえなければ、手放してやることが出来たのにー。
唯一、この世界の自分が彼女の為にしてやれることすら、拒んでしまう。
そうやって、一生、彼女に優しさをかけてやることが出来ないまま、この世界に閉じ込めたいと願っている。
なまえを守りたいと、傷ひとつつけないと誓って愛したように、彼女を愛してやれない自分が、苦しいー。
ベッドのシーツを手繰り寄せて、鏡を隠すように乱暴に放り投げる。
惹かれ合う2人は時空を越えた世界にいても結ばれるなんて、上等じゃないか。
邪魔をしてやる。
絶対に、渡さないー。
だって、もう掴んでしまったから。彼女の温もりを知ってしまったからー。
先に掴んだのは自分だ。向こうの世界にいるもう1人の自分ではないー。
聞き分けのない子供みたいな勝手な言い訳が次から次へと頭の中に垂れ流される。
リヴァイは、鏡に背中を向けると、もたれ掛かりながら床に座り込んだ。
天井を仰ぐように見上げる。
このままいっそ、なまえの元へ行けたらー。
そう願うことすら、出来なくなっていた。
生きたいー。彼女を縛りつけたこの世界で、生きていたいー。
苦しそうに振り絞るようなそれに胸を掻きむしられるような痛みに襲われる。
リヴァイは扉に背中を押しあてて、痛いくらいに目を瞑った。
扉の向こうでは、ハンジが彼女に一緒に部屋を出るように言っている声がする。
それに対する反論の声は聞こえない。
それからすぐに、一枚の扉を挟んで感じていた気配は消えて、遠ざかっていく足音がした。
きっと、今夜はもう彼女は戻って来ないだろう。
いや、今夜だけではない。
彼女はもう二度と、戻って来てはくれないのだろうー。
引き留めたくて扉を開けようとする右腕を、左手で必死に抑え込んだ。
遠くから、扉の閉まる音が聞こえた。
執務室の扉が閉まったのだろう。
出て行けー。
自分が彼女に投げつけた台詞だ。
お望み通り、彼女は出て行った。
『彼女はパラレルワールドからやってきた、なまえとは全く別の人間なんだよ。』
大切な話があると言い出したハンジは、唐突にわけのわからないことを口にした。
本当に意味の分からないことだ。
あり得ない話だ。
それなのに、何かがストンと胸の奥に落ちたのだ。
だって、本当は、なまえと彼女が違う人間だということを、いつからか心と身体が感じ取っていたからー。
そうでなければ、唐突に始まったパラレルワールドなんて話を信じないでいられたはずだ。
彼女は、生き返ったなまえだという信じられない話の方を妄信出来たはずだった。
そう出来たら、どんなによかっただろう。
何も知らず、騙されていられたら、どんなにー。
ハンジから、彼女がこの世界にやって来た本当の理由も聞いて、なまえらしいと思った。
それと同時に、なまえを心配させてしまったこと、そして、心から愛されていたのだということを改めて思い知った。
だからー。
「チッ。」
舌打ちをして、リヴァイは鏡の元へ向かう。
彼女がこの世界に来るきっかけになったと思われるなまえの部屋の鏡は割れてしまった。
割れた鏡の破片をハンジとモブリットで繋ぎ合わせてみたが、もう二度とパラレルワールドとは繋がらなかったらしい。
その後、リコの部屋の鏡がパラレルワールドのリコの部屋の鏡と繋がったが、その鏡もピクシスが割ってしまった。
今、彼女は、もう二度と元の世界には戻れないと思っているのだそうだ。
あぁ、だからー。
だから、彼女は、本当は会ったこともない男の恋人のフリをしていたのだろう。
空から降りてきた夜、いきなり自分は恋人だと言い出した男に恐怖と怒りをぶつけた彼女が、本当の姿なのだ。
それなのに、彼女は、可哀想な男を愛しているフリをし続けた。
そうしないと、頼る人間の誰もいない彼女は、こんな危険な世界で1人で生きていけない。
きっと彼女は、ハンジやモブリットから聞いて、必死になまえの記憶を覚えたのだと思う。
それなら、思い出したというわりには、2人きりの想い出は何も話さない彼女の違和感はそこから来ていたのだと頷ける。
『でも、私はまだ帰れる道は残ってると思ってるんだ。』
『…鏡が割れたのにか。』
『まだ1つ、割れてない鏡が残ってるじゃないか。』
『割れてねぇ鏡?』
『そう。リヴァイ、君の寝室にある鏡だよ。』
必ず繋がるー。
鏡の前に立ったリヴァイの頭に、そう確信しているようなハンジの声が響く。
手のひらを鏡にそっと乗せるように置けば、ひんやりと冷たく体温を奪っていく。
『俺の寝室の鏡は関係ねぇだろ。』
『それがあるんだよ、リヴァイ。私も今日、リコから聞いて知ったんだけど。
パラレルワールドにいるリヴァイも、リコと一緒に彼女を探してるらしいんだ。』
『…は?』
『たぶんだけど、鏡は、所謂扉みたいな役割だと思うんだ。
その扉を開く鍵は2つ。ひとつはなまえが呼んだ彼女。
そして、もうひとつは、元の世界にいるリヴァイだ。』
最初になまえの部屋の鏡から元の世界と鏡が繋がったとき、そして2度目にリコの部屋の鏡から元の世界に繋がったときの話をハンジが教えてくれた。
そのことから、ハンジとリコは、鏡という扉を開く鍵は、この世界にいる人間と向こうの世界にいる人間の気持ちが重なることだと考えた。
でも、何度、リコ同士が鏡を繋げようとしてもうまくいかず、ついには二度と扉は開かないまま鏡が割れて壊れてしまったー。
その矛盾にずっと頭を悩ませていたハンジだったが、今日、鏡を割ってしまったことについての謝罪にやってきたリコから、元の世界にいるリヴァイの話を聞いて、漸く謎が解けたのだそうだ。
鏡の扉が開いた1度目と2度目、共通することは、彼女の『会いたい。』という気持ち。そして、扉となる鏡のそばに元の世界のリヴァイがいたこと。
パラレルワールドに同時に存在しているもう1人の自分ー。
元の世界のリヴァイは、彼女とは知り合いではないらしい。
でも、リコから頼まれて行方不明となった彼女を探す手伝いをしているらしいリヴァイは、恐らく彼女に『会いたい。』と思っている。
『なまえがリヴァイの為に彼女を呼んだこの世界から帰るためには、
パラレルワールドの住人である彼女とリヴァイが呼び合うことが必要なんだと思う。』
無機質な冷たい鏡の上で拳を握ろうとすると、爪が引っかかり耳に痛い嫌な音が身体にも伝わって来る。
この音は嫌いだ。この感触も、好きじゃない。
触れたいのは、こんなに冷たい鏡じゃないー。
でも、一番嫌いな音は、今、頭の中で響いているハンジの声だ。
『きっと、君達が惹かれ合ったみたいに、彼らも惹かれ合う運命にあるんだ。
その運命からは、時空を越えた世界ですらも抗えないんだよ。』
恋愛小説が好きだったなまえが好きそうなセリフだ。
パラレルワールドと繋がる扉を開くカラクリを作ったのが、彼女をこの世界に呼んだなまえなのだとしたら、その鍵は正しい気がする。
それに、ハンジは、確信がないと話さないところがあるから、よっぽどの自信があるのだろう。
だからー。
リヴァイは、拳を振り上げた。
向こうの世界と繋がりそうな鏡はもうこれしかないのだそうだ。
それなら、割ってしまえばいい。
こんな鏡は、粉々に割れてしまえばいいのだ。
『リヴァイが彼女をなまえじゃないと気づいてたならよかったよ。
それならさ、彼女を元の世界に帰してあげよう。向こうの世界は平和で安全なんだ。
か弱い彼女は、巨人の蔓延るこの世界にいたらすぐに死んでしまうよ。』
あぁ、分かっているー。
彼女は、なまえのように強く凛々しくは戦えない。
儚くて、か弱くて、誰かが守ってやらないといけない。
巨人を見て恐怖に震えていた彼女ー。
不安で怖くて、泣きたい夜を幾つも越えたのだろう。
それでも、自分だけではなくて、調査兵達にも笑顔を振りまき続けた。
壁外調査から瀕死で帰ってきてからは、本当に心配そうにしてずっとそばにいてくれた。
この世界にやって来た彼女は、彼女の出来る精一杯の優しさをくれた。
その優しさに、返してやるべきなのだろう。
帰る道が残っているのなら、チャンスがまだあるのなら、試してやるべきなのだろう。
でもー。
「どうして…っ。」
持ち上げた拳を振り下ろせないまま、リヴァイは頭を抱えるようにして、痛いくらいに自分の髪を引っ張る。
膝が床に落ちて、跪く格好で顔を上げた。
そこには、鏡の中で、情けない姿をした自分が悲愴に暮れているのが映っている。
どうして、彼女はなまえではないのだろう。
永遠に愛し続け、共に生きていくのだと信じていた。
欺瞞だらけで、確かなものなど何もないこの世界で、なまえを想う気持ちだけは唯一、絶対だと信じられるものだったのだ。
それなのにー。
彼女がなまえだったらよかった。どうして、彼女はなまえじゃないのだ。
それなら、自分が感じてしまっている抗えないこの気持ちに、心を握り潰されそうになることだってなかった。
呼吸が出来ないくらいに、苦しむこともなかった。
罪悪感だって、なかったはずだー。
どうして、彼女は、彼女なのだろう。
必死になまえのフリをしていたいじらしいその姿は、いつだって彼女だった。
そんな彼女を自分はー。
(すまない…っ。帰したくねぇんだ…っ。)
嫌われてもいい。
恨まれてもいい。
他の男と隠れて会っていたって、彼女の心が自分にはなくたって、いい。
結局は、自分の元に帰ってくるのならそれでいいと思っていた。
でも、もう帰る場所でなくなってもいい。
触れられなくてもいい。
あぁ、この世で最も彼女に恨まれているのが自分になっても構わないのだ。
だからどうかー。
ただ、途方に暮れるほどに遠い世界にだけは行かないでー。
もう二度と、大切な人と会えない距離に引き裂かれるのは嫌なのだ。
たとえ、彼女が苦しんでいても、望まなくても、この世界に縛りつけたい。
それくらい彼女のことをー。
扉を閉じた部屋はシンと静まり返っていて、息がつまりそうなくらいに寒い。
いつもなら我儘に彼女を抱きしめて、温まることが出来た。
出て行けー。
鏡の向こうにいる男が、彼女を奪う前に早くー。
お望み通り、彼女はこの部屋から出て行った。
でも、心からはいなくならないー。
なまえを忘れたわけでも、想いが消えたわけでもない。
それなのに、彼女への気持ちが溢れて苦しいー。
どうして、彼女はなまえじゃないのだろう。
どうして、彼女はー。
どうしてー。
どうして、彼女を愛してしまったのだろうー。
せめて、この気持ちさえなければ、手放してやることが出来たのにー。
唯一、この世界の自分が彼女の為にしてやれることすら、拒んでしまう。
そうやって、一生、彼女に優しさをかけてやることが出来ないまま、この世界に閉じ込めたいと願っている。
なまえを守りたいと、傷ひとつつけないと誓って愛したように、彼女を愛してやれない自分が、苦しいー。
ベッドのシーツを手繰り寄せて、鏡を隠すように乱暴に放り投げる。
惹かれ合う2人は時空を越えた世界にいても結ばれるなんて、上等じゃないか。
邪魔をしてやる。
絶対に、渡さないー。
だって、もう掴んでしまったから。彼女の温もりを知ってしまったからー。
先に掴んだのは自分だ。向こうの世界にいるもう1人の自分ではないー。
聞き分けのない子供みたいな勝手な言い訳が次から次へと頭の中に垂れ流される。
リヴァイは、鏡に背中を向けると、もたれ掛かりながら床に座り込んだ。
天井を仰ぐように見上げる。
このままいっそ、なまえの元へ行けたらー。
そう願うことすら、出来なくなっていた。
生きたいー。彼女を縛りつけたこの世界で、生きていたいー。