「愛してる」~それは、私の大嫌いな〝真実〟だった~
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「どうして・・・。」
言葉が、続かなかった。
あの日から3年が経って、大人びたジャンがそこにいる。
私の中にあるのは、それだけだった。
敵じゃない。騙し続けた相手でもない。共に長い時間を過ごして、共に大人への階段を上っていた人だ。
パラディ島にいるはずの彼がここにいる理由も、いや、それ以前に、マーレにやってくることが出来た理由も、脳裏にかすりもしなかったのだ。
ただ、もう終わったことだと理解しているのに、胸が詰まって、声にならない。
「それは、俺がマーレにいる理由?
それとも〝ここ〟にいる、理由?」
見た目は大人びても、ズルい訊ね方は、あの頃とちっとも変わらない。
ここは敵の本拠地だというのに、切れ長の目に怯えはなく、余裕ぶった態度と口ぶりだ。
「どっちなら、答えてくれるの?」
「俺を殺さない方かな。」
「じゃあ・・・・、聞かない。」
私はスッと目を逸らし、また、黒い海を眺める。
背後に立つジャンが動くような気配はない。彼の周りに、他におかしな気配も感じていなかった。
単身でマーレに乗り込んだとは考えにくい。
この辺りは、白い砂浜がいつからか砂漠に変わっているような何もない場所で、エルディア人の少数民族が暮らす部落が幾つかある。にも関わらず、細い通りを一本入れば、そのまままっすぐにマーレの都市街に出られる。
もしも、パラディ島から視察に誰かが来ることがあったら、ここは身を隠すのにちょうどいいと、前からずっと思っていた。
別に、だからって、この海を散歩していたわけじゃない。
ただ、わざわざ報告をしなかったのは、警備だなんだと、また難しいことを考えさせられることになることが分かっていたから、面倒だったからなだけだ———。
「そんなに俺を殺したくない?」
後ろから、ジャンに訊ねられる。
早く、消えてくれたいいのに———。
全神経を集中させても、彼が動くような気配を感じることが出来ない。
「どうしてそうなるの?」
振り返りもせず言って、馬鹿にするような渇いた笑いを返す。
そして、誰にも気づかれないように、公どころか、誰にも捧げたことなんか一度もない心臓を、胸元に這う薄いレースの上から握りしめる。
「可愛いな、その服。すげぇ似合ってる。」
ジャンが言う。
その途端に、心臓が悲鳴を上げた。
「ありがと。」
「何て言うんだっけ…、その白いの。」
「ウェディングドレス。」
「あ~、そう。結婚するときに着るんだよな。」
「パラディ島でもそうだったでしょ。
どうして、忘れたフリなんかするの。」
「お前を真似して、嘘ついてみた。」
「バカじゃないの。」
「バカなフリするお前よりは、バカじゃねぇ。」
「・・・。」
返事なんて、出来るわけがなかった。
口を噤んで、海の向こうを睨みつける。
子供の頃から、この海の向こうには、悪魔が住むと教えられてきた。
恐ろしい悪魔が、私達をこんなに苦しませ、虐げられる生活を強要させているのだと、そう信じ込んでいた。
それはそれは、とてつもなく恐ろしい生き物が、この海の向こうにいるはずだったのだ。
でも、そこにいたのは、私達と同じように、悩みを抱えながらも生きる普通の人間だった。
(あぁ、本当に恐ろしい…。)
だから、英雄になるはずだった私達は、悪魔にならなければならなかった。
こんなにも、苦しむ羽目になった。
大嫌いだ。自分達だけは幸せだと高らかに笑うマーレ人も、何も知らないエルディア人も、何も知ろうとしないエルディア人も、みんな嫌い。
「なぁ。」
夜風が吹いて、ウェディングドレスの薄いシルク生地が舞い上がる。
透けるレース生地から、冷たい風が吹き抜けていくから、身体が震えた。
「なに?」
「さっき、誰に手を伸ばしてたんだ?」
「何のこと?」
「その海の向こうにいるのは、お前の憎い敵だろ。
悪魔の末裔、だっけ?」
見られていたのだろうとは思っていたけれど、それを訊ねられることは想定外だった。
そこは、見なかったことにするのが、大人になった私達のルールなはずだ。
空気の読めないエレンのようなことをして、さらには、とぼけることすら許してくれないなんて、ジャンは意地悪だ。
無視をしていれば、ジャンが逃げ道を奪うみたいに続ける。
「あの海の向こうに、お前の旦那になる男はいねぇよ。」
「知ってるよ!!そんなことくらい!!」
とうとう我慢できずに振り返った私は、声を荒げて怒鳴っていた。
肩で息をして、ジャンを睨みつける。
悔しいのは、なぜか滲んで、ジャンの姿が良く見えないことだ。
鼻の奥と、喉が、ツンとして、痛くて息苦しい。
目頭が熱くて、目尻から頬にかけて、生温かい。
要するに、私は、絶対に涙を見せたくない男の前で、泣いている。
「じゃあ、聞くよ!どうして、ジャンがマーレにいるの!?
私達を殺しに来た!?それとも、殺す準備でも始めるつもりなのよね!?
そんなの望むところよ!!こっちだって、アンタ達を皆殺しにする算段はついてる!!
どうせ、無鉄砲につっこむことしか能のないアンタ達が、マーレに乗り込むことなんて想定済みなんだから!!
それなのに、どうして来ちゃうの!?本当に殺されちゃっていいの!?
どうして…っ、どうして、今日なの…!?どうして…っ、今日…っ、〝ここ〟に、ジャンがいるの…っ。」
今日は、私とベルトルトの結婚式だった。
まだ早いと言いながら、いつまで続くか分からない命と私達の関係に不安を募らせたベルトルトが、精一杯にロマンチックなプロポーズをしてくれて、今日に至った。
アットホームな結婚式は、朝から夜の今まで続いていて、気心知れた仲間と、ウザいけど頼もしいジーク戦士長と、大好きな家族に囲まれて、とても幸せだった。
幸せ、だったのだ。
今ここで、ジャンに再会するまで、私は自分のことを世界で一番幸せだと思い込むことが出来ていたはずだったのに———。
「ここに来たのは、お前の言う通りの理由で、マーレを視察するためだ。
今日だったのは、偶々。それは、俺も驚いてる。」
ジャンの声には、一切の動揺がなかった。
「嘘吐き。」
「マジだって。外の空気でも吸おうと思って歩いてたら
ウェディングドレスの花嫁が1人で海を見ててさ。何やってんだと思ったら、なまえでビビった。」
「見なかったことにして通り過ぎるか、私にバレないうちに隠れ家に戻ってエルヴィン団長達に
報告した方が良かったんじゃないの。」
「それと、俺が〝ここ〟にいる理由だけど、
なまえの嘘が聞きたくて、声をかけた。」
ドキン、と心臓が鳴ったことに気づかなかったフリをして、意地悪く笑って見せる。
「ハハ、バカじゃないの。
マーレにまで来て、私に、愛してるって言ってもらいに来たの?」
「それが、嘘なら。聞かせてよ。」
ジャンは、私をまっすぐに見て、目を逸らそうとしない。
どうして、彼は、こんなに強いんだろう。
逃げたいときなんて、数えきれないくらいにあったはずなのに、ジャンはいつも、残酷な現実から目を逸らさない。
震えた脚で、震えた手で、それでも、自分を弱くしようとしてくる恐怖と必死に戦って、正しいけど辛い道を選ぶのだ。
「お前の、今の、渾身の嘘を聞かせてみろよ。
何でも、聞いてやるから。」
ジャンが言う。
マーレに帰ってきてから、誰も、私の声なんて、聞いてくれなかった。
英雄ともて囃し、エルディア人の誇りだと持ち上げるばかりで、誰も、私を地面には降ろしてくれない。
上司も、仲間も、友人も、恋人も、家族でさえも、私は、壁の向こうにいる憎むべき敵を殺すために存在していると思ってる。
弱くて、馬鹿で、間抜けで、我儘な私は、必要ないのだ。
知ってる。
生まれたときから、私は、そうなるように決まっていた。
そのため、幼少期から英才教育を受けた結果、マガト指揮官が、次期戦士長は私に任せたいと言い出すくらいに、誰よりも優秀な〝戦士〟になった。
「私は、ベルトルトを愛してるの。」
「うん。」
「今日も、ベルトルトとの結婚を皆に祝福してもらって、すごく幸せだった。
無条件にありのままの私を愛してくれる家族と、優しい旦那様がいて、
心から信頼できる仲間もいる、理解のある上司がいる。私は、世界で一番の幸せ者よ。」
「それで?」
「私は…っ、ジャンなんて…っ、愛してない…っ。」
少しだけ屈むように背中を丸めて、絞り出した声を張り上げた。
風邪でも引いたかのように、カラカラと渇いた喉が痛む。
「お前、嘘が下手になったな。」
ジャンが、苦笑する。
でも、そんなはずはない。
私はあれからもずっと、嘘を吐いて生きてきた。
家族に、仲間に、上司に、好きだと頬を染めて告白をしてくれた恋人に、自分自身にも、嘘を吐いて生きてきたのだ。
誰よりも、嘘が得意なはずだ。
心から、心から愛する人にだって、初めて愛した人にだって、『世界を救うため』だとあまりにも壮大な大義名分を利用して、最低な嘘が吐ける女なのだから——。
「まぁ、いいか。聞きたかった嘘は聞けたし。」
ジャンが小さく笑った。
どこか清々し気なその顔に、光が射す。
口元からチラリと覗いた白い歯が光って、私は、その眩しさに思わず目を細めた。
いつの間にか、夜が明けていたらしい。
朝焼けが、私達の周りを明るく照らし、グレーだった砂浜は無垢な白に、黒かった海は澄んだ青色に———紺色に染まっていた世界が色づき始め出している。
「お前は、俺よりも先に、海の向こうを見たんだよな。
そこには、悪魔はいたか?」
一瞬の躊躇いの後に、私は正直に首を横に振った。
聞いていた悪魔なんて、どこにも存在しなかった。
強いて言うのなら、悪魔というのは、誰かの痛みに対して〝無知〟になれてしまう悲しい人間の都合の良い性質の中にいる。
「あぁ、俺も。海の向こうに、悪魔なんか見つけられなかった。
そんなのがいたら、もっと楽だったのにな。」
声が、ここにきて、初めて沈んだ。
ジャンが、小さく目を伏せる。
マーレへ視察にやってきて、ジャンは何を見て、何を感じたのだろう。
それが、私が、パラディ島を初めて見たときと同じだったとしたら、彼の心の痛みに、胸を掻きむしりたくなる。
彼が、本当の意味で〝悪魔〟なら、どんなによかったのに———。
「なぁ、なまえ。
海の向こうに、惚れてる男はいねぇと思うなら、俺の手をとって。」
ジャンが差し出したのは、あの日、掴めなかった大きな手だった。
真っ直ぐな切れ長の瞳が、戸惑う私を映し出すけれど、心の奥にずっと隠していた本音にはもう、とっくの昔に、迷いなんてなくなっていることは知っているのだろうか。
知らないから、ジャンの手は、不安を必死に振り払うように、力強く開かれている。
「遠くねぇよ。お前が、本当に欲しかったものも、俺が、掴みたかったものも、遠くなんかねぇ。
俺達は、深く考えすぎただけだ。
だって、手を伸ばせば、ほら、そこにある。」
真っ直ぐ伸ばされたジャンの指の先に、太陽の光が射してキラキラ輝いて見えた。
明るくて、ジャンに似て素直になるのがあまり得意ではないお母さんと、優しくて真面目なお父さんをまた傷つけるかもしれないことも、友人にはきっと祝福してもらえないだろうことも、ジャンが分からないはずがない。
それでもジャンは、勇気を出した。
覚悟を決めた。
もしかすると、仲間さえも敵に回すかもしれない未来でも、もう二度と、自分に嘘を吐かないで生きることを選んだのだ。
もう二度と、あの日のように、「嘘だ。」と嘘を吐いて、互いの涙を拭うのなんて、もう二度と嫌だから———。
きっとジャンは、人生の最後になるかもしれないこの時を、我儘にも正直に生きることを決めた。
あぁ、私も———。
おずおずと、私の右手は、ジャンの元へと向かっていく。
触れようとする。
でも———。
(ダメ…っ。)
ジャンに触れようとした手が、逃げるように戻って帰ってくる。
家族の笑顔がチラついた。
ベルトルトや仲間の信頼が、私を引き留める。
今となってはもう、パラディ島に住む人達に、憎しみという感情はない。
でも、この世界には、大切な人やモノがあまりにも多すぎる。
それに、幾ら私が、パラディ島に住むエルディア人を恨んでいなくても、彼らは違う。
超大型巨人を引き連れてやってきて、彼らを駆逐するためだけの計画を立てつづけた。
彼らは、憎しみという言葉では表せない程に、私を恨んでいる。
それ相応の報いを、私は受けなければならないのに、今更、どうやって、ジャンの手をとれるだろう。
「・・・分かった。
じゃあ、最後に、抱きしめていいか?」
諦めたジャンが、私の為に開いていた手をゆっくりと閉じていく。
落ちていくジャンの手を、思わず引き留めそうになって、私はすぐに目を逸らした。
「…いいよ。」
コクリと頷くや否や、腕を掴まれたのに気づいた時にはもう、力強く引き寄せられていた。
広い胸板に押し付けられると、懐かしい香りが私をあの日々に連れ戻す。
ジャンがいた。素直じゃないし、強がりでカッコつけだけど、私の小さな我儘も弱音もこぼさずに拾い上げてくれた恋人がいた。
彼の目の前にいたのは、嘘に塗り固められた私だったけれど、あの日々は確かに、生きてきた中で、一番幸せだった——。
「また、聞かせて。
お前の、渾身の嘘。」
「もう、無理。それはもう、ベルトルトの為のものだから。」
「…そっか。なら、仕方ねぇな。」
「うん。」
頷きながら、ジャンの背中にしがみつく。
私の涙が、ジャンのシャツの胸板を濡らしても、あの日のようにはもう、彼は涙を拭ってはくれなかった。
私も、彼の目尻にはもう、触れなかった。
渇いた指先で、正直者達は愛しあった痕を残す
聞こえないフリをしたんだ。君に背を向けて、永遠に消えて行こうとしたその瞬間。俺をずっと苦しめてきた〝優しい嘘〟を、今日を以て俺を支え続ける〝残酷な真実〟にして、いくよ———。
「愛してる…。」
私達が再会してしまったことは、死んでも言わないようにしよう。
来世まで続く、私達だけの秘密だ。
そう決めて、あなたが背を向けて歩き出したその瞬間、私の唇からは、ずっと言葉にすることが許されなかった〝真実〟が零れ落ちた。
でも、どうせ、あなたには聞こえない。
どうせ、誰も聞いてはくれない。
誰も、聞きたいとも思わない。
だからどうか、ほんの一瞬、立ち止まりかけた脚を、止めないで行って。
振り返りかけた首を、真っ直ぐに上に向けて、顔いっぱいに朝焼けを受けて。
その眩しさに目を細めたなら、涙をこらえて。
真実の愛を掴もうとして、開きかけた手は、爪が食い込むほどに握りしめて、血の滲む拳を作るの。
そしていつか、人の心に巣くう恐ろしい悪魔を倒してしまおう。
もう誰も、悲しい嘘吐きにならないでいられるように————。
言葉が、続かなかった。
あの日から3年が経って、大人びたジャンがそこにいる。
私の中にあるのは、それだけだった。
敵じゃない。騙し続けた相手でもない。共に長い時間を過ごして、共に大人への階段を上っていた人だ。
パラディ島にいるはずの彼がここにいる理由も、いや、それ以前に、マーレにやってくることが出来た理由も、脳裏にかすりもしなかったのだ。
ただ、もう終わったことだと理解しているのに、胸が詰まって、声にならない。
「それは、俺がマーレにいる理由?
それとも〝ここ〟にいる、理由?」
見た目は大人びても、ズルい訊ね方は、あの頃とちっとも変わらない。
ここは敵の本拠地だというのに、切れ長の目に怯えはなく、余裕ぶった態度と口ぶりだ。
「どっちなら、答えてくれるの?」
「俺を殺さない方かな。」
「じゃあ・・・・、聞かない。」
私はスッと目を逸らし、また、黒い海を眺める。
背後に立つジャンが動くような気配はない。彼の周りに、他におかしな気配も感じていなかった。
単身でマーレに乗り込んだとは考えにくい。
この辺りは、白い砂浜がいつからか砂漠に変わっているような何もない場所で、エルディア人の少数民族が暮らす部落が幾つかある。にも関わらず、細い通りを一本入れば、そのまままっすぐにマーレの都市街に出られる。
もしも、パラディ島から視察に誰かが来ることがあったら、ここは身を隠すのにちょうどいいと、前からずっと思っていた。
別に、だからって、この海を散歩していたわけじゃない。
ただ、わざわざ報告をしなかったのは、警備だなんだと、また難しいことを考えさせられることになることが分かっていたから、面倒だったからなだけだ———。
「そんなに俺を殺したくない?」
後ろから、ジャンに訊ねられる。
早く、消えてくれたいいのに———。
全神経を集中させても、彼が動くような気配を感じることが出来ない。
「どうしてそうなるの?」
振り返りもせず言って、馬鹿にするような渇いた笑いを返す。
そして、誰にも気づかれないように、公どころか、誰にも捧げたことなんか一度もない心臓を、胸元に這う薄いレースの上から握りしめる。
「可愛いな、その服。すげぇ似合ってる。」
ジャンが言う。
その途端に、心臓が悲鳴を上げた。
「ありがと。」
「何て言うんだっけ…、その白いの。」
「ウェディングドレス。」
「あ~、そう。結婚するときに着るんだよな。」
「パラディ島でもそうだったでしょ。
どうして、忘れたフリなんかするの。」
「お前を真似して、嘘ついてみた。」
「バカじゃないの。」
「バカなフリするお前よりは、バカじゃねぇ。」
「・・・。」
返事なんて、出来るわけがなかった。
口を噤んで、海の向こうを睨みつける。
子供の頃から、この海の向こうには、悪魔が住むと教えられてきた。
恐ろしい悪魔が、私達をこんなに苦しませ、虐げられる生活を強要させているのだと、そう信じ込んでいた。
それはそれは、とてつもなく恐ろしい生き物が、この海の向こうにいるはずだったのだ。
でも、そこにいたのは、私達と同じように、悩みを抱えながらも生きる普通の人間だった。
(あぁ、本当に恐ろしい…。)
だから、英雄になるはずだった私達は、悪魔にならなければならなかった。
こんなにも、苦しむ羽目になった。
大嫌いだ。自分達だけは幸せだと高らかに笑うマーレ人も、何も知らないエルディア人も、何も知ろうとしないエルディア人も、みんな嫌い。
「なぁ。」
夜風が吹いて、ウェディングドレスの薄いシルク生地が舞い上がる。
透けるレース生地から、冷たい風が吹き抜けていくから、身体が震えた。
「なに?」
「さっき、誰に手を伸ばしてたんだ?」
「何のこと?」
「その海の向こうにいるのは、お前の憎い敵だろ。
悪魔の末裔、だっけ?」
見られていたのだろうとは思っていたけれど、それを訊ねられることは想定外だった。
そこは、見なかったことにするのが、大人になった私達のルールなはずだ。
空気の読めないエレンのようなことをして、さらには、とぼけることすら許してくれないなんて、ジャンは意地悪だ。
無視をしていれば、ジャンが逃げ道を奪うみたいに続ける。
「あの海の向こうに、お前の旦那になる男はいねぇよ。」
「知ってるよ!!そんなことくらい!!」
とうとう我慢できずに振り返った私は、声を荒げて怒鳴っていた。
肩で息をして、ジャンを睨みつける。
悔しいのは、なぜか滲んで、ジャンの姿が良く見えないことだ。
鼻の奥と、喉が、ツンとして、痛くて息苦しい。
目頭が熱くて、目尻から頬にかけて、生温かい。
要するに、私は、絶対に涙を見せたくない男の前で、泣いている。
「じゃあ、聞くよ!どうして、ジャンがマーレにいるの!?
私達を殺しに来た!?それとも、殺す準備でも始めるつもりなのよね!?
そんなの望むところよ!!こっちだって、アンタ達を皆殺しにする算段はついてる!!
どうせ、無鉄砲につっこむことしか能のないアンタ達が、マーレに乗り込むことなんて想定済みなんだから!!
それなのに、どうして来ちゃうの!?本当に殺されちゃっていいの!?
どうして…っ、どうして、今日なの…!?どうして…っ、今日…っ、〝ここ〟に、ジャンがいるの…っ。」
今日は、私とベルトルトの結婚式だった。
まだ早いと言いながら、いつまで続くか分からない命と私達の関係に不安を募らせたベルトルトが、精一杯にロマンチックなプロポーズをしてくれて、今日に至った。
アットホームな結婚式は、朝から夜の今まで続いていて、気心知れた仲間と、ウザいけど頼もしいジーク戦士長と、大好きな家族に囲まれて、とても幸せだった。
幸せ、だったのだ。
今ここで、ジャンに再会するまで、私は自分のことを世界で一番幸せだと思い込むことが出来ていたはずだったのに———。
「ここに来たのは、お前の言う通りの理由で、マーレを視察するためだ。
今日だったのは、偶々。それは、俺も驚いてる。」
ジャンの声には、一切の動揺がなかった。
「嘘吐き。」
「マジだって。外の空気でも吸おうと思って歩いてたら
ウェディングドレスの花嫁が1人で海を見ててさ。何やってんだと思ったら、なまえでビビった。」
「見なかったことにして通り過ぎるか、私にバレないうちに隠れ家に戻ってエルヴィン団長達に
報告した方が良かったんじゃないの。」
「それと、俺が〝ここ〟にいる理由だけど、
なまえの嘘が聞きたくて、声をかけた。」
ドキン、と心臓が鳴ったことに気づかなかったフリをして、意地悪く笑って見せる。
「ハハ、バカじゃないの。
マーレにまで来て、私に、愛してるって言ってもらいに来たの?」
「それが、嘘なら。聞かせてよ。」
ジャンは、私をまっすぐに見て、目を逸らそうとしない。
どうして、彼は、こんなに強いんだろう。
逃げたいときなんて、数えきれないくらいにあったはずなのに、ジャンはいつも、残酷な現実から目を逸らさない。
震えた脚で、震えた手で、それでも、自分を弱くしようとしてくる恐怖と必死に戦って、正しいけど辛い道を選ぶのだ。
「お前の、今の、渾身の嘘を聞かせてみろよ。
何でも、聞いてやるから。」
ジャンが言う。
マーレに帰ってきてから、誰も、私の声なんて、聞いてくれなかった。
英雄ともて囃し、エルディア人の誇りだと持ち上げるばかりで、誰も、私を地面には降ろしてくれない。
上司も、仲間も、友人も、恋人も、家族でさえも、私は、壁の向こうにいる憎むべき敵を殺すために存在していると思ってる。
弱くて、馬鹿で、間抜けで、我儘な私は、必要ないのだ。
知ってる。
生まれたときから、私は、そうなるように決まっていた。
そのため、幼少期から英才教育を受けた結果、マガト指揮官が、次期戦士長は私に任せたいと言い出すくらいに、誰よりも優秀な〝戦士〟になった。
「私は、ベルトルトを愛してるの。」
「うん。」
「今日も、ベルトルトとの結婚を皆に祝福してもらって、すごく幸せだった。
無条件にありのままの私を愛してくれる家族と、優しい旦那様がいて、
心から信頼できる仲間もいる、理解のある上司がいる。私は、世界で一番の幸せ者よ。」
「それで?」
「私は…っ、ジャンなんて…っ、愛してない…っ。」
少しだけ屈むように背中を丸めて、絞り出した声を張り上げた。
風邪でも引いたかのように、カラカラと渇いた喉が痛む。
「お前、嘘が下手になったな。」
ジャンが、苦笑する。
でも、そんなはずはない。
私はあれからもずっと、嘘を吐いて生きてきた。
家族に、仲間に、上司に、好きだと頬を染めて告白をしてくれた恋人に、自分自身にも、嘘を吐いて生きてきたのだ。
誰よりも、嘘が得意なはずだ。
心から、心から愛する人にだって、初めて愛した人にだって、『世界を救うため』だとあまりにも壮大な大義名分を利用して、最低な嘘が吐ける女なのだから——。
「まぁ、いいか。聞きたかった嘘は聞けたし。」
ジャンが小さく笑った。
どこか清々し気なその顔に、光が射す。
口元からチラリと覗いた白い歯が光って、私は、その眩しさに思わず目を細めた。
いつの間にか、夜が明けていたらしい。
朝焼けが、私達の周りを明るく照らし、グレーだった砂浜は無垢な白に、黒かった海は澄んだ青色に———紺色に染まっていた世界が色づき始め出している。
「お前は、俺よりも先に、海の向こうを見たんだよな。
そこには、悪魔はいたか?」
一瞬の躊躇いの後に、私は正直に首を横に振った。
聞いていた悪魔なんて、どこにも存在しなかった。
強いて言うのなら、悪魔というのは、誰かの痛みに対して〝無知〟になれてしまう悲しい人間の都合の良い性質の中にいる。
「あぁ、俺も。海の向こうに、悪魔なんか見つけられなかった。
そんなのがいたら、もっと楽だったのにな。」
声が、ここにきて、初めて沈んだ。
ジャンが、小さく目を伏せる。
マーレへ視察にやってきて、ジャンは何を見て、何を感じたのだろう。
それが、私が、パラディ島を初めて見たときと同じだったとしたら、彼の心の痛みに、胸を掻きむしりたくなる。
彼が、本当の意味で〝悪魔〟なら、どんなによかったのに———。
「なぁ、なまえ。
海の向こうに、惚れてる男はいねぇと思うなら、俺の手をとって。」
ジャンが差し出したのは、あの日、掴めなかった大きな手だった。
真っ直ぐな切れ長の瞳が、戸惑う私を映し出すけれど、心の奥にずっと隠していた本音にはもう、とっくの昔に、迷いなんてなくなっていることは知っているのだろうか。
知らないから、ジャンの手は、不安を必死に振り払うように、力強く開かれている。
「遠くねぇよ。お前が、本当に欲しかったものも、俺が、掴みたかったものも、遠くなんかねぇ。
俺達は、深く考えすぎただけだ。
だって、手を伸ばせば、ほら、そこにある。」
真っ直ぐ伸ばされたジャンの指の先に、太陽の光が射してキラキラ輝いて見えた。
明るくて、ジャンに似て素直になるのがあまり得意ではないお母さんと、優しくて真面目なお父さんをまた傷つけるかもしれないことも、友人にはきっと祝福してもらえないだろうことも、ジャンが分からないはずがない。
それでもジャンは、勇気を出した。
覚悟を決めた。
もしかすると、仲間さえも敵に回すかもしれない未来でも、もう二度と、自分に嘘を吐かないで生きることを選んだのだ。
もう二度と、あの日のように、「嘘だ。」と嘘を吐いて、互いの涙を拭うのなんて、もう二度と嫌だから———。
きっとジャンは、人生の最後になるかもしれないこの時を、我儘にも正直に生きることを決めた。
あぁ、私も———。
おずおずと、私の右手は、ジャンの元へと向かっていく。
触れようとする。
でも———。
(ダメ…っ。)
ジャンに触れようとした手が、逃げるように戻って帰ってくる。
家族の笑顔がチラついた。
ベルトルトや仲間の信頼が、私を引き留める。
今となってはもう、パラディ島に住む人達に、憎しみという感情はない。
でも、この世界には、大切な人やモノがあまりにも多すぎる。
それに、幾ら私が、パラディ島に住むエルディア人を恨んでいなくても、彼らは違う。
超大型巨人を引き連れてやってきて、彼らを駆逐するためだけの計画を立てつづけた。
彼らは、憎しみという言葉では表せない程に、私を恨んでいる。
それ相応の報いを、私は受けなければならないのに、今更、どうやって、ジャンの手をとれるだろう。
「・・・分かった。
じゃあ、最後に、抱きしめていいか?」
諦めたジャンが、私の為に開いていた手をゆっくりと閉じていく。
落ちていくジャンの手を、思わず引き留めそうになって、私はすぐに目を逸らした。
「…いいよ。」
コクリと頷くや否や、腕を掴まれたのに気づいた時にはもう、力強く引き寄せられていた。
広い胸板に押し付けられると、懐かしい香りが私をあの日々に連れ戻す。
ジャンがいた。素直じゃないし、強がりでカッコつけだけど、私の小さな我儘も弱音もこぼさずに拾い上げてくれた恋人がいた。
彼の目の前にいたのは、嘘に塗り固められた私だったけれど、あの日々は確かに、生きてきた中で、一番幸せだった——。
「また、聞かせて。
お前の、渾身の嘘。」
「もう、無理。それはもう、ベルトルトの為のものだから。」
「…そっか。なら、仕方ねぇな。」
「うん。」
頷きながら、ジャンの背中にしがみつく。
私の涙が、ジャンのシャツの胸板を濡らしても、あの日のようにはもう、彼は涙を拭ってはくれなかった。
私も、彼の目尻にはもう、触れなかった。
渇いた指先で、正直者達は愛しあった痕を残す
聞こえないフリをしたんだ。君に背を向けて、永遠に消えて行こうとしたその瞬間。俺をずっと苦しめてきた〝優しい嘘〟を、今日を以て俺を支え続ける〝残酷な真実〟にして、いくよ———。
「愛してる…。」
私達が再会してしまったことは、死んでも言わないようにしよう。
来世まで続く、私達だけの秘密だ。
そう決めて、あなたが背を向けて歩き出したその瞬間、私の唇からは、ずっと言葉にすることが許されなかった〝真実〟が零れ落ちた。
でも、どうせ、あなたには聞こえない。
どうせ、誰も聞いてはくれない。
誰も、聞きたいとも思わない。
だからどうか、ほんの一瞬、立ち止まりかけた脚を、止めないで行って。
振り返りかけた首を、真っ直ぐに上に向けて、顔いっぱいに朝焼けを受けて。
その眩しさに目を細めたなら、涙をこらえて。
真実の愛を掴もうとして、開きかけた手は、爪が食い込むほどに握りしめて、血の滲む拳を作るの。
そしていつか、人の心に巣くう恐ろしい悪魔を倒してしまおう。
もう誰も、悲しい嘘吐きにならないでいられるように————。
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