後悔の香りが沁みついて離れないせいだ
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「ジャンって、サシャ達から聞いてたよりもずっと素敵よね。」
トロスト区に唯一あるクラブは、今夜もバンドマンの大音量のシャウトで騒がしかった。
鬱々とした世界で、我慢強い大人と我儘な子供を行ったり来たりしている若者達が集えば、そこはもう無法地帯だ。
彼らに混ざって騒ぐような気分にはなれず、テーブル席でバカ騒ぎをぼんやりと眺めている俺も、互いの声が届く為に普段よりも大きな声で喋って、騒がしい音に一役買っている。
そんな中で、ほんの少しの穢れすら知らないような澄んだ瞳で俺を見上げて、照れ臭そうに微笑んだのは、新しい恋の相手になる予定の彼女だった。
一本脚で立っている背の高いテーブルは、2人分のグラスを置くのが精一杯の面積しかないから、立っているのが疲れても、寄り掛かってしまえばきっと倒れてしまう。
だから、彼女が酔っぱらったときに寄り掛かるのは、俺なんだろう。
そう思うのは、彼女から発せられるセリフや仕草が、彼女を酔わせて、柔らかそうな頬を染めさせているのは、酒ではなくて俺だと教えてくれているからだ。
「アイツ等から何を聞いてたかは聞かねぇでおくわ。」
少し離れた場所でよく分からない踊りを披露しているバカな友人達を軽く睨みながらグラスを口に運べば、彼女が可笑しそうにクスクスと笑った。
この騒がしい中で、俺の声を、彼女はしっかりと聞き取ってくれたらしい。
まだ、2人きりで会ったことはない。
でも、彼女を紹介してくれたコニーとサシャを交えて会うのは、これで3度目だ。
もうそろそろ、俺は彼女を正式にデートに誘うべきだろう。
そして、曖昧なこの関係を深いものにしてもいいのかもしれない。
今夜、俺が彼女を部屋に誘ったとしたらどうなるのか、なんとなく分かってる。
「私、明日は休みなの。」
とても自然な話の流れで、彼女の明日の予定を知る。
でも、その裏に隠れた心理に気づけない程、俺はもう子供じゃない。
だって、カノジョが教えてくれたのだ。
恋というものがどういうものか。どんなに息苦しくて、どんなに胸を焦がして、どれほど触れたいと願うものなのか。
そして、喉を火傷させようとするほどに熱い酒と脳みそが溶けそうになるほどに甘いキス、それから加減を知らずに火照る身体と大人になると言うことの意味———。
俺はもう、子供じゃない。
新しい恋が出来ないわけでもないし、恋はしなくても、女と付き合うことは出来る。
だから今度こそ俺は———。
「それは羨ましいな。俺は朝イチから訓練だ。
指揮官の話を聞いてくれねぇどうしようもねぇ坊主と芋のせいで
始まる前から頭が痛ぇ。」
俺は、少し大袈裟に首を竦める。
大変ね、と彼女はクスクスと笑ってくれたけれど、眉尻は下がって、どこか寂し気だ。
勿体ないことをしたかな———少し、後悔をする。
「ジャンの指って、長くて綺麗ね。」
グラスに添えていた俺の手に、不意に、彼女が触れた。
「え?何か言った?」
騒がしい音の中、俺は少し大きめな声で、耳を彼女の方へと近づける。
「ううん、何でもないよ。」
彼女が苦笑気味に首を横に振れば、必然的に触れていた指が離れていく。
せめて、踊りに誘うべきだったかもしれないと気づいたけれど、訂正をするつもりもなく、俺はまたグラスを口に運んだ。
3杯目の数口で、少しずつ身体が熱くなってきた気がしていた。
これがそのまま、新しい恋への熱になればいい———そう思わないと言えば、嘘になる。
余計な気を遣ってくれたコニーとサシャの顔をたてる気もないが、彼らが紹介してくれた彼女は、贔屓目に見なくても可愛い。
色白で、細いのに出るところは出てて、大きな瞳と小さな鼻、いつも柔らかく微笑む唇も、彼氏がいないことがおかしいくらいに魅力的だ。
それに、彼女も俺のことを『魅力的』だと感じてくれているらしい。
都合がいいじゃないか。
カノジョのおかげだ。
だって、1時間ほど前に、彼女が「楽しそうな場所ね」と褒めた行きつけのこのナイトクラブを教えてくれたのも、カノジョだ。
彼女が何度も「素敵」だと瞳と言葉で繰り返す今の俺を作ったのは、カノジョなのだ。
だから、忘れろと言う方が無理な話で———。
「ねぇ、ジャン。私———。」
「よかった、ジャンがいた。」
少し高めの凛とした声が、何かを伝えようとした彼女の覚悟を台無しにする。
振り返れば、相変わらず綺麗ななまえさんがそこにいて、目が合うと口元だけで緩やかに微笑んだ。
見覚えのあるワインレッドのドレスが、カノジョが俺のものだった頃を、あのときの苦い後悔と共に思い出させる。
「ジャンがいるかなって思って来てみてよかった。」
「俺を探してたみたいな言い方っすね。」
「だって、あれからずっとジャンに会いたかったんだもの。」
なまえさんが甘えるように言う。
相変わらず、妖艶な笑みで男を惑わすのが得意らしい。
そばにいる男達の視線をあちこちから感じるのも久しぶりだ。
物欲しそうに見られたってカノジョは俺のものだと優越感に浸ってみたり、いつか俺もそっち側になるのだろうかと不安になってみたり———カノジョのそばで過ごした日々の俺は情緒不安定で、無邪気に声高に笑う彼女に無理やり手を引かれて足場の悪い獣道を走らされてるみたいだった。
まぁ、今は、そんな獣道に独りで取り残されて、歩き出すことすらままならなくなっているのだけれど———。
「ジャンの知り合い…?」
躊躇いがちに彼女が俺に訊ねる。
怯えるように左右に揺れる瞳から、彼女が俺とカノジョの関係にいくらかの検討をつけていることが分かる。
それに、誤魔化すようなことでもない。
だって、俺とカノジョはもう〝終わって〟いるのだ。
それも、カノジョの気まぐれと、心変わりで、笑えてしまうくらいに呆気なく、だ。
「1人かと思って声をかけたんだけど、可愛いパートナーがいたのね。
ジャンの新しい彼女かしら?」
俺が答えるよりも先に、なまえさんが、チラリと彼女を見る。
一体、どれくらい本気でそれを俺に訊ねたのだろうか。
彼女が躊躇いがちに俺を見る。
不安と期待が入り混じった瞳が求めている答えはひとつだろう。
だから俺は、彼女から目を反らす。
「他人のこと詮索してねぇで、そっちの新しい男に叱られる前に
俺から離れた方がいいんじゃねぇの。」
「心配しなくても大丈夫よ。
残念だけど、私はまだ昔の恋を引きずってるから。」
なまえさんが困ったように眉尻を下げて、首を竦める。
嘘吐け———喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。
「それは残念ですね。早く、新しい恋でもしちまえばいいのに。」
「冷たいのね。
久しぶりに会えて、私はすっごく嬉しいのに。」
なまえさんが、口を尖らせる。
まるで、駄々っ子の子供みたいなその仕草は、相変わらず、カノジョを少し幼く見せる。
どうすれば、自分が可愛く見えるのかを知ってるのだ。
何もしなくたって、そこにいるだけで他人の視線を集めるほどの美しい容姿をしているくせに、カノジョは愛に飢えてる。
もっと、もっと、と欲しがるのだ。
だから、カノジョはその時、その状況で最高の自分を演じる。
他人に見える自分の姿を、カノジョは誰よりも知っているから、仕掛けられた相手は皆揃って、簡単に騙される。
カノジョの次にそれを知っているのは、誰だろう。
俺、だろうか。それとも、俺よりもカノジョのズルさを知っている男がいるのだろうか。
「相変わらず、長くて綺麗な指ね。」
なまえさんが、テーブルの上に無防備に置かれていた俺の手に触れる。
彼女がさっき触れたのと全く同じ場所に、同じように、華奢で細い指の感触を感じた。
見られていたのだろう———直感的にそう思った。
きっと、自惚れでも勘違いでもない。
これは、なまえさんから彼女への宣戦布告で、俺への誘いだ。
だから俺は、さっき彼女にしたように誤魔化してはいけない。
だって、彼女となまえさんは違う。
彼女は、これから恋人になるかもしれない可愛い人で、なまえさんは、数か月前に、全身全霊で愛させた上に、呆気ない別れの言葉で俺の心臓を握り潰した人だ。
だから俺は、彼女と同じようにカノジョにしてはいけないから———。
「細くて綺麗な指のなまえさんに言われても
嫌味にしか聞こえねぇから。」
なまえさんの指を、親指の腹でなぞった。
自分の指を絡めようとしてはほんの一瞬逃げるように離れて、なまえさんは、まるで、自分のもののように俺の指を弄ぶ。
そして、俺の返事に満足をしたのか、楽しそうに小さく笑った。
「だって、大切に磨いてるもの。
大好きな人に、掴みたいと思ってもらえる手じゃなきゃ
私は、ひとりぼっちになっちゃうでしょう?」
なまえさんは、眉尻を下げて甘えるように言う。
捨てないでくれと追いすがる俺の手を振りほどいておいて、どの口が言うのかと、そう思えたらよかったのに、といつも思うのだ。
でも、時々、カノジョは、うまい言葉の向こうに、寂しさをチラつかせる。
それはきっと意図的ではなくて、無意識に、カノジョの本心が零れるのだ。
だから男は、カノジョを守りたくなってしまう。
自分こそが、そばにいてやろうと、覚悟をしてしまう。
呆気なく捨てられてひとりぼっちになってしまうのは、自分だというのに———。
「誰もなまえさんをひとりになんかしねぇだろ。
ひとりでいるところなんて見たことないですよ。」
「今、私は1人よ?
ジャンは、可愛い彼女と一緒にいるのにね。」
なまえさんの華奢で細い指が、弄ぶように触れていた俺のそれからスッと離れる。
そして、首を竦めて視線を向けたのは、彼女だった。
いつの間にか、彼女の方が邪魔者のような雰囲気になっていた。
これから深い仲になるはずだった俺達の間に割って入って来たのはなまえさんなのに、彼女が逃げるように目を反らしたのだ。
「あなたも思うでしょ?
ジャンの指って、触れたくなっちゃうくらいに綺麗で素敵よね。」
「え…っ、あ…、あの…っ、そう、ですね…っ。」
焦ったように、躊躇いがちに答えた彼女に、なまえさんは嬉しそうに「そうよね。」とハシャぐ。
こうしてどんどん、カノジョのペースに巻き込まれていく誰かを見るのも、いつもと同じだった。
「ねぇ、ジャン。私ね、ずっと思ってたのよ。」
「なに。」
素っ気なく答えた。
どうせくだらないことだ。
そのくせに、彼女を刺激するか、俺を弄ぶ言葉のどちらかなのだ。
カノジョはいつだって、勝利を掴むのは自分なのだと、知っているから———。
「そんなに綺麗な手で、世界が救えるの?
調査兵の指って、もっとゴツゴツしてるのに。
リヴァイは、華奢なのに、もっと指の皮が厚かったわ。」
また、だ———。
俺はたぶん、無意識に、眉間に皴を寄せたと思う。
放った空気も、鋭くなったはずだ。
だから、彼女は不安そうにしたのだろうし、なまえさんは思い通りになって機嫌が良さそうに大きく瞬きをした。
なまえさんの中にいる人類最強の兵士を消せる男なんて、きっといない。
でも、だからって、なまえさんは、人類最強の兵士を求めようとはしない。
カノジョのプライドがそうしているのか、それとも、ただ単純に、カノジョの知る一番優れた男が人類最強の兵士なだけなのかは分からない。
ただ、俺はいつも、その名前に自尊心を傷つけられる。
どう頑張ったってあの男には勝てないことを、俺はありとあらゆる経験から知っているからだ。
「無理でしょうね。
惚れてる女の手すら掴めてねぇこの手が、世界を掴めるとは思えないんで。」
諦めではなくて、突き放すように言った。
俺の精一杯の強がりに、なまえさんは、大きな瞳をさらに見開いて、キョトンとした顔をする。
それがやけに可愛くて、俺はイラッとしたのに、カノジョはその後、可笑しそうに吹き出したのだ。
そして、妖艶に微笑んで、こう続ける。
「それはどうかしらね。今なら、世界は無理でも
惚れてる女の手くらいは掴めると思うわよ?ね?」
なまえさんが、彼女に同意を求める。
その意図を読み取ってしまった彼女は、躊躇いがちに、それでもしっかりと頷いた。
そして、不安と期待の入り混じった瞳で、俺を見つめる。
その隣で、なまえさんは相変わらず妖艶に、でも、ゲームを楽しむ子供のように無邪気に、俺がどちらを選ぶのかをワクワクしながら待っている。
俺が、今から掴まないといけない手なら、もう分かりきってる。
だって、目の前にあるのは、掴めば幸せになれるかもしれない手と、掴んでしまえばオシマイの不幸を招く手なのだから。
「ただし、両手でしっかり握らなきゃ、逃げられちゃうわよ。
二兎を追う者は一兎をも得ずって、よく言うでしょ?」
すべてを手に入れておいてよく言う———。
そんな言葉が頭をよぎったのがなんとなく見えた気がしたのは、なまえさんの手を掴んだ向こうで、彼女が泣きながら立ち去っていく背中が見えたせいだと思う。
俺はまた、間違った選択をしたらしい。
それも、理性で考えて、己の意志で。
愚の骨頂だ。
「ねぇ、ジャン。」
なまえさんが、俺の頬に手を添えて甘えるように首を傾げた。
「また俺を振り回すこと言うんだろ。もう聞きたくねぇ。」
突き放すように言いながら、俺はなまえさんの腰を抱き寄せる。
いつの間にか、クラブの音楽は、俺となまえさんが2人でよく聞いていたラブソングに変わっていた。
俺よりも随分と背の低いなまえさんの額に自分の額を重ねるようにして、身体を屈めれば、必然的に距離がぐっと近くなる。
数か月前までは、俺の身体にまで染みついていたはずの香りが、音楽と一緒になって俺の思考も身体も、すべてを、なまえさんに支配されていた頃に戻した。
「ここにジャンがいてくれて、本当に凄く嬉しかった。」
「俺は最悪な気分だ。」
「それが好きな癖に。」
「すげぇ自信。」
「このナイトクラブもそうだし、いろんなことをジャンに教えたよね。」
「今思い返しても、覚えるには早ぇことばっかりだった。」
「だから、ジャンはこんなに早く、素敵な男の人になったわ。
誰から見ても魅力的よ。」
なまえさんが、俺の腰に腕を回し、胸元に頬を寄せて抱きつく。
言っていることも、やっていることも、勝手すぎる。
文句のひとつでも、言ってやればいい。
分かってる。
少し離れたところにいるコニーとサシャが、さっきからずっと俺達を見てる。
昔の恋人を選んで大切な友人を傷つけたことを怒っている風でもなく、ただ心配そうに。
俺は、まだ戻れるだろうか。
まだ、やり直せるだろうか。
カノジョを、諦められるだろうか。
でも、その代わりに俺は———。
「それはどうも。」
なまえさんの額に口づけた。
クスリと笑った後に顔を上げたなまえさんが、甘えるように俺を見つめるから、喜んでいるように見える。
きっと、カノジョは、俺のことが好きだ。
愚かで、思いのままに操りやすい俺が、気に入ってる。
だから、喜んでいるっていうのは、あながち間違ってもいないと思う。
「ねぇ、私が教えたことの中で、一番のお気に入りってなに?」
「さぁ、なんだったかな。」
わざとはぐらかせば、なまえさんは、俺よりもずっと悪戯な顔で口の端を上げた。
「私、明日は仕事休みなの。」
「それは羨ましいな。俺は、死んでも満足できないお姫様に生気を全部吸われた後に
朝イチから、聞き分けの悪ぃ兵士達の訓練指導だ。
指揮官になったところで、誰も俺の言うことなんか聞いちゃくれねぇ。」
「それは大変ね。」
なまえさんが、可笑しそうにクスクスと笑う。
そして、生やしだしてもうしばらく経つ俺の顎髭を、慣れた手つきで撫でた。
「ジャンの一番のお気に入り、思い出したら
もう二度と忘れちゃわないように、一晩中かけて、私にも教えてくれる?」
熱っぽい瞳には、魔力を持っているに違いない。
俺は、もう目を反らせないし、それどころか吸い込まれていくのだ。
「いいよ。」
頬に触れて、抱き寄せて、口づけた。
遠くから、聞き慣れたため息が聞こえた気がした。
トロスト区に唯一あるクラブは、今夜もバンドマンの大音量のシャウトで騒がしかった。
鬱々とした世界で、我慢強い大人と我儘な子供を行ったり来たりしている若者達が集えば、そこはもう無法地帯だ。
彼らに混ざって騒ぐような気分にはなれず、テーブル席でバカ騒ぎをぼんやりと眺めている俺も、互いの声が届く為に普段よりも大きな声で喋って、騒がしい音に一役買っている。
そんな中で、ほんの少しの穢れすら知らないような澄んだ瞳で俺を見上げて、照れ臭そうに微笑んだのは、新しい恋の相手になる予定の彼女だった。
一本脚で立っている背の高いテーブルは、2人分のグラスを置くのが精一杯の面積しかないから、立っているのが疲れても、寄り掛かってしまえばきっと倒れてしまう。
だから、彼女が酔っぱらったときに寄り掛かるのは、俺なんだろう。
そう思うのは、彼女から発せられるセリフや仕草が、彼女を酔わせて、柔らかそうな頬を染めさせているのは、酒ではなくて俺だと教えてくれているからだ。
「アイツ等から何を聞いてたかは聞かねぇでおくわ。」
少し離れた場所でよく分からない踊りを披露しているバカな友人達を軽く睨みながらグラスを口に運べば、彼女が可笑しそうにクスクスと笑った。
この騒がしい中で、俺の声を、彼女はしっかりと聞き取ってくれたらしい。
まだ、2人きりで会ったことはない。
でも、彼女を紹介してくれたコニーとサシャを交えて会うのは、これで3度目だ。
もうそろそろ、俺は彼女を正式にデートに誘うべきだろう。
そして、曖昧なこの関係を深いものにしてもいいのかもしれない。
今夜、俺が彼女を部屋に誘ったとしたらどうなるのか、なんとなく分かってる。
「私、明日は休みなの。」
とても自然な話の流れで、彼女の明日の予定を知る。
でも、その裏に隠れた心理に気づけない程、俺はもう子供じゃない。
だって、カノジョが教えてくれたのだ。
恋というものがどういうものか。どんなに息苦しくて、どんなに胸を焦がして、どれほど触れたいと願うものなのか。
そして、喉を火傷させようとするほどに熱い酒と脳みそが溶けそうになるほどに甘いキス、それから加減を知らずに火照る身体と大人になると言うことの意味———。
俺はもう、子供じゃない。
新しい恋が出来ないわけでもないし、恋はしなくても、女と付き合うことは出来る。
だから今度こそ俺は———。
「それは羨ましいな。俺は朝イチから訓練だ。
指揮官の話を聞いてくれねぇどうしようもねぇ坊主と芋のせいで
始まる前から頭が痛ぇ。」
俺は、少し大袈裟に首を竦める。
大変ね、と彼女はクスクスと笑ってくれたけれど、眉尻は下がって、どこか寂し気だ。
勿体ないことをしたかな———少し、後悔をする。
「ジャンの指って、長くて綺麗ね。」
グラスに添えていた俺の手に、不意に、彼女が触れた。
「え?何か言った?」
騒がしい音の中、俺は少し大きめな声で、耳を彼女の方へと近づける。
「ううん、何でもないよ。」
彼女が苦笑気味に首を横に振れば、必然的に触れていた指が離れていく。
せめて、踊りに誘うべきだったかもしれないと気づいたけれど、訂正をするつもりもなく、俺はまたグラスを口に運んだ。
3杯目の数口で、少しずつ身体が熱くなってきた気がしていた。
これがそのまま、新しい恋への熱になればいい———そう思わないと言えば、嘘になる。
余計な気を遣ってくれたコニーとサシャの顔をたてる気もないが、彼らが紹介してくれた彼女は、贔屓目に見なくても可愛い。
色白で、細いのに出るところは出てて、大きな瞳と小さな鼻、いつも柔らかく微笑む唇も、彼氏がいないことがおかしいくらいに魅力的だ。
それに、彼女も俺のことを『魅力的』だと感じてくれているらしい。
都合がいいじゃないか。
カノジョのおかげだ。
だって、1時間ほど前に、彼女が「楽しそうな場所ね」と褒めた行きつけのこのナイトクラブを教えてくれたのも、カノジョだ。
彼女が何度も「素敵」だと瞳と言葉で繰り返す今の俺を作ったのは、カノジョなのだ。
だから、忘れろと言う方が無理な話で———。
「ねぇ、ジャン。私———。」
「よかった、ジャンがいた。」
少し高めの凛とした声が、何かを伝えようとした彼女の覚悟を台無しにする。
振り返れば、相変わらず綺麗ななまえさんがそこにいて、目が合うと口元だけで緩やかに微笑んだ。
見覚えのあるワインレッドのドレスが、カノジョが俺のものだった頃を、あのときの苦い後悔と共に思い出させる。
「ジャンがいるかなって思って来てみてよかった。」
「俺を探してたみたいな言い方っすね。」
「だって、あれからずっとジャンに会いたかったんだもの。」
なまえさんが甘えるように言う。
相変わらず、妖艶な笑みで男を惑わすのが得意らしい。
そばにいる男達の視線をあちこちから感じるのも久しぶりだ。
物欲しそうに見られたってカノジョは俺のものだと優越感に浸ってみたり、いつか俺もそっち側になるのだろうかと不安になってみたり———カノジョのそばで過ごした日々の俺は情緒不安定で、無邪気に声高に笑う彼女に無理やり手を引かれて足場の悪い獣道を走らされてるみたいだった。
まぁ、今は、そんな獣道に独りで取り残されて、歩き出すことすらままならなくなっているのだけれど———。
「ジャンの知り合い…?」
躊躇いがちに彼女が俺に訊ねる。
怯えるように左右に揺れる瞳から、彼女が俺とカノジョの関係にいくらかの検討をつけていることが分かる。
それに、誤魔化すようなことでもない。
だって、俺とカノジョはもう〝終わって〟いるのだ。
それも、カノジョの気まぐれと、心変わりで、笑えてしまうくらいに呆気なく、だ。
「1人かと思って声をかけたんだけど、可愛いパートナーがいたのね。
ジャンの新しい彼女かしら?」
俺が答えるよりも先に、なまえさんが、チラリと彼女を見る。
一体、どれくらい本気でそれを俺に訊ねたのだろうか。
彼女が躊躇いがちに俺を見る。
不安と期待が入り混じった瞳が求めている答えはひとつだろう。
だから俺は、彼女から目を反らす。
「他人のこと詮索してねぇで、そっちの新しい男に叱られる前に
俺から離れた方がいいんじゃねぇの。」
「心配しなくても大丈夫よ。
残念だけど、私はまだ昔の恋を引きずってるから。」
なまえさんが困ったように眉尻を下げて、首を竦める。
嘘吐け———喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。
「それは残念ですね。早く、新しい恋でもしちまえばいいのに。」
「冷たいのね。
久しぶりに会えて、私はすっごく嬉しいのに。」
なまえさんが、口を尖らせる。
まるで、駄々っ子の子供みたいなその仕草は、相変わらず、カノジョを少し幼く見せる。
どうすれば、自分が可愛く見えるのかを知ってるのだ。
何もしなくたって、そこにいるだけで他人の視線を集めるほどの美しい容姿をしているくせに、カノジョは愛に飢えてる。
もっと、もっと、と欲しがるのだ。
だから、カノジョはその時、その状況で最高の自分を演じる。
他人に見える自分の姿を、カノジョは誰よりも知っているから、仕掛けられた相手は皆揃って、簡単に騙される。
カノジョの次にそれを知っているのは、誰だろう。
俺、だろうか。それとも、俺よりもカノジョのズルさを知っている男がいるのだろうか。
「相変わらず、長くて綺麗な指ね。」
なまえさんが、テーブルの上に無防備に置かれていた俺の手に触れる。
彼女がさっき触れたのと全く同じ場所に、同じように、華奢で細い指の感触を感じた。
見られていたのだろう———直感的にそう思った。
きっと、自惚れでも勘違いでもない。
これは、なまえさんから彼女への宣戦布告で、俺への誘いだ。
だから俺は、さっき彼女にしたように誤魔化してはいけない。
だって、彼女となまえさんは違う。
彼女は、これから恋人になるかもしれない可愛い人で、なまえさんは、数か月前に、全身全霊で愛させた上に、呆気ない別れの言葉で俺の心臓を握り潰した人だ。
だから俺は、彼女と同じようにカノジョにしてはいけないから———。
「細くて綺麗な指のなまえさんに言われても
嫌味にしか聞こえねぇから。」
なまえさんの指を、親指の腹でなぞった。
自分の指を絡めようとしてはほんの一瞬逃げるように離れて、なまえさんは、まるで、自分のもののように俺の指を弄ぶ。
そして、俺の返事に満足をしたのか、楽しそうに小さく笑った。
「だって、大切に磨いてるもの。
大好きな人に、掴みたいと思ってもらえる手じゃなきゃ
私は、ひとりぼっちになっちゃうでしょう?」
なまえさんは、眉尻を下げて甘えるように言う。
捨てないでくれと追いすがる俺の手を振りほどいておいて、どの口が言うのかと、そう思えたらよかったのに、といつも思うのだ。
でも、時々、カノジョは、うまい言葉の向こうに、寂しさをチラつかせる。
それはきっと意図的ではなくて、無意識に、カノジョの本心が零れるのだ。
だから男は、カノジョを守りたくなってしまう。
自分こそが、そばにいてやろうと、覚悟をしてしまう。
呆気なく捨てられてひとりぼっちになってしまうのは、自分だというのに———。
「誰もなまえさんをひとりになんかしねぇだろ。
ひとりでいるところなんて見たことないですよ。」
「今、私は1人よ?
ジャンは、可愛い彼女と一緒にいるのにね。」
なまえさんの華奢で細い指が、弄ぶように触れていた俺のそれからスッと離れる。
そして、首を竦めて視線を向けたのは、彼女だった。
いつの間にか、彼女の方が邪魔者のような雰囲気になっていた。
これから深い仲になるはずだった俺達の間に割って入って来たのはなまえさんなのに、彼女が逃げるように目を反らしたのだ。
「あなたも思うでしょ?
ジャンの指って、触れたくなっちゃうくらいに綺麗で素敵よね。」
「え…っ、あ…、あの…っ、そう、ですね…っ。」
焦ったように、躊躇いがちに答えた彼女に、なまえさんは嬉しそうに「そうよね。」とハシャぐ。
こうしてどんどん、カノジョのペースに巻き込まれていく誰かを見るのも、いつもと同じだった。
「ねぇ、ジャン。私ね、ずっと思ってたのよ。」
「なに。」
素っ気なく答えた。
どうせくだらないことだ。
そのくせに、彼女を刺激するか、俺を弄ぶ言葉のどちらかなのだ。
カノジョはいつだって、勝利を掴むのは自分なのだと、知っているから———。
「そんなに綺麗な手で、世界が救えるの?
調査兵の指って、もっとゴツゴツしてるのに。
リヴァイは、華奢なのに、もっと指の皮が厚かったわ。」
また、だ———。
俺はたぶん、無意識に、眉間に皴を寄せたと思う。
放った空気も、鋭くなったはずだ。
だから、彼女は不安そうにしたのだろうし、なまえさんは思い通りになって機嫌が良さそうに大きく瞬きをした。
なまえさんの中にいる人類最強の兵士を消せる男なんて、きっといない。
でも、だからって、なまえさんは、人類最強の兵士を求めようとはしない。
カノジョのプライドがそうしているのか、それとも、ただ単純に、カノジョの知る一番優れた男が人類最強の兵士なだけなのかは分からない。
ただ、俺はいつも、その名前に自尊心を傷つけられる。
どう頑張ったってあの男には勝てないことを、俺はありとあらゆる経験から知っているからだ。
「無理でしょうね。
惚れてる女の手すら掴めてねぇこの手が、世界を掴めるとは思えないんで。」
諦めではなくて、突き放すように言った。
俺の精一杯の強がりに、なまえさんは、大きな瞳をさらに見開いて、キョトンとした顔をする。
それがやけに可愛くて、俺はイラッとしたのに、カノジョはその後、可笑しそうに吹き出したのだ。
そして、妖艶に微笑んで、こう続ける。
「それはどうかしらね。今なら、世界は無理でも
惚れてる女の手くらいは掴めると思うわよ?ね?」
なまえさんが、彼女に同意を求める。
その意図を読み取ってしまった彼女は、躊躇いがちに、それでもしっかりと頷いた。
そして、不安と期待の入り混じった瞳で、俺を見つめる。
その隣で、なまえさんは相変わらず妖艶に、でも、ゲームを楽しむ子供のように無邪気に、俺がどちらを選ぶのかをワクワクしながら待っている。
俺が、今から掴まないといけない手なら、もう分かりきってる。
だって、目の前にあるのは、掴めば幸せになれるかもしれない手と、掴んでしまえばオシマイの不幸を招く手なのだから。
「ただし、両手でしっかり握らなきゃ、逃げられちゃうわよ。
二兎を追う者は一兎をも得ずって、よく言うでしょ?」
すべてを手に入れておいてよく言う———。
そんな言葉が頭をよぎったのがなんとなく見えた気がしたのは、なまえさんの手を掴んだ向こうで、彼女が泣きながら立ち去っていく背中が見えたせいだと思う。
俺はまた、間違った選択をしたらしい。
それも、理性で考えて、己の意志で。
愚の骨頂だ。
「ねぇ、ジャン。」
なまえさんが、俺の頬に手を添えて甘えるように首を傾げた。
「また俺を振り回すこと言うんだろ。もう聞きたくねぇ。」
突き放すように言いながら、俺はなまえさんの腰を抱き寄せる。
いつの間にか、クラブの音楽は、俺となまえさんが2人でよく聞いていたラブソングに変わっていた。
俺よりも随分と背の低いなまえさんの額に自分の額を重ねるようにして、身体を屈めれば、必然的に距離がぐっと近くなる。
数か月前までは、俺の身体にまで染みついていたはずの香りが、音楽と一緒になって俺の思考も身体も、すべてを、なまえさんに支配されていた頃に戻した。
「ここにジャンがいてくれて、本当に凄く嬉しかった。」
「俺は最悪な気分だ。」
「それが好きな癖に。」
「すげぇ自信。」
「このナイトクラブもそうだし、いろんなことをジャンに教えたよね。」
「今思い返しても、覚えるには早ぇことばっかりだった。」
「だから、ジャンはこんなに早く、素敵な男の人になったわ。
誰から見ても魅力的よ。」
なまえさんが、俺の腰に腕を回し、胸元に頬を寄せて抱きつく。
言っていることも、やっていることも、勝手すぎる。
文句のひとつでも、言ってやればいい。
分かってる。
少し離れたところにいるコニーとサシャが、さっきからずっと俺達を見てる。
昔の恋人を選んで大切な友人を傷つけたことを怒っている風でもなく、ただ心配そうに。
俺は、まだ戻れるだろうか。
まだ、やり直せるだろうか。
カノジョを、諦められるだろうか。
でも、その代わりに俺は———。
「それはどうも。」
なまえさんの額に口づけた。
クスリと笑った後に顔を上げたなまえさんが、甘えるように俺を見つめるから、喜んでいるように見える。
きっと、カノジョは、俺のことが好きだ。
愚かで、思いのままに操りやすい俺が、気に入ってる。
だから、喜んでいるっていうのは、あながち間違ってもいないと思う。
「ねぇ、私が教えたことの中で、一番のお気に入りってなに?」
「さぁ、なんだったかな。」
わざとはぐらかせば、なまえさんは、俺よりもずっと悪戯な顔で口の端を上げた。
「私、明日は仕事休みなの。」
「それは羨ましいな。俺は、死んでも満足できないお姫様に生気を全部吸われた後に
朝イチから、聞き分けの悪ぃ兵士達の訓練指導だ。
指揮官になったところで、誰も俺の言うことなんか聞いちゃくれねぇ。」
「それは大変ね。」
なまえさんが、可笑しそうにクスクスと笑う。
そして、生やしだしてもうしばらく経つ俺の顎髭を、慣れた手つきで撫でた。
「ジャンの一番のお気に入り、思い出したら
もう二度と忘れちゃわないように、一晩中かけて、私にも教えてくれる?」
熱っぽい瞳には、魔力を持っているに違いない。
俺は、もう目を反らせないし、それどころか吸い込まれていくのだ。
「いいよ。」
頬に触れて、抱き寄せて、口づけた。
遠くから、聞き慣れたため息が聞こえた気がした。