雨が上がった、やっと君に会えたよ
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今すぐに病院に向かえ———。
そう言われなくたって、俺は兵舎を飛び出していた。
大粒の雨が、足がもつれそうになるほどに前のめりになって走る俺の身体を痛いくらいに叩きつけていて、忘れてしまいたいと願っていた冷たくかたい絶望的な感触を無理やり蘇らせる。
エルヴィンに届いた情報によると、道路を歩いていたなまえに馬車がスピードを下げることもせずに突っ込んだらしい。
この大雨が災いして、馬と馭者の視界を阻んだのだろう。
意識不明の重体で病院に運ばれたというなまえの安否を知るのが、怖い。
でも、転がるように猛スピードで走る俺の脚は止まろうとはしてくれないのだ。
(俺のせいだ。俺が、会いに来いなんて言ったから…っ。)
死にたいほどに、自分を責めている。
俺がなまえにペトラの面影を重ねて、救われようなんて甘えたことをしなければ、こんなことにはならなかった。
いや、そもそも、俺はなまえに出逢わなければよかったのだ。
そうすれば、ペトラがこんな風に泣きじゃくることもなく、なまえがこんな目に遭うこともなかった。
すべて、悪いのは俺だ。
俺なのだ。
病院までの道のりが、壁の向こうにある海よりもずっと、果てしなく遠く感じた。
漸くたどり着いた病院で、俺は、通りがかった看護師を捕まえると、喚くようになまえの容態を訊ねた。
そして、教えてもらった病室へと急いで向かうと、勢いよく扉を開けて、病室に走りこんだ。
「なまえ!!」
俺は、まるでそのときその言葉しか知らない赤ん坊みたいに、なまえの名前を呼んだ。
ベッドの上に、なまえはいた。
白い壁と白い天井、白いシーツ。白い病衣に包まれたなまえは、まるで天使のようだった。
そして、いきなり部屋に飛び込んできて、名前を叫んだ俺に、見慣れた大きな瞳をさらに大きく見開いて、目を丸くした。
(よかった…っ。)
気づけば、俺はなまえに飛びつくようにして、抱きしめていた。
縋りつく———という表現の方が正しいかもしれない。
なまえの腰を抱きしめる腕と、胸元にうずめた頬から伝わる温もりと柔らかさが、なまえが生きている事実を俺の身体と心にしみこむように改めて実感させてくれる。
なまえは、生きている。
死んでない。
ちゃんと、生きている。
死んでなんか、いない———。
「リヴァイさん、どうしたんですか?
何かあったんですか?」
まるで空を舞う花のように俺の頭上に落ちてきた柔らかい声は、我を失って狂いそうになっている男の心配をしていた。
自分が事故に遭ったというのに、病院に運ばれたというのに、気の抜けたその声に、俺は少しだけ脱力して、安心もしたのだ。
そういえば、ペトラと同じだと思っていた細い腰は、日々の訓練に励んで筋肉質になっていた彼女よりもずっと華奢で細くて、想像していたよりも柔らかかった。
「何かあったじゃねぇよ。なまえが事故に遭ったんだろおが。
心配させやがって。」
顔を上げて、俺はなまえを叱った。
安心したからなのか、それとも、別の理由があるのかはわからないけれど、俺の声は震えていた。
だからだろうか。
目が合ったなまえは、小さく目を見開いた後に、ひどく傷ついたように眉尻を下げたのだ。
「リヴァイさん、泣いてるんですか…?」
なまえの手が、俺の左頬に添えられた。
柔らかい温もりが、濡れて冷たくなって強張っていた俺の頬を優しく暖めようとしているみたいだった。
「バカか…!」
俺は、左頬に添えられた手を上から包むように握りしめた。
少し、いやだいぶ、なまえには痛かったかもしれない。
でも、俺は強く、強く、力の限りに強く握ったのだ。
「ただの、雨だ…!」
そう、ただの雨だ。
土砂降りの雨が降っていただけなのだ。
だから俺は、びしょ濡れになっていただけ。
そう、ただの雨。雨だ。いつだって、雨が降っていただけだった———。
「そうですか。」
フッと春風が吹くような、柔らかい息遣いだった。
なまえは、とても優しくそう言うと、俺を包むように抱きしめた。
「よかったです。
自分のせいで、大切な人が泣いていたら、とても悲しいですから。
ただの雨でよかったです。」
「…っ、あぁ、そうだな…っ。
ただの雨だ。ただの雨で、よかったっ。」
柔らかく包むように抱きしめるなまえを、俺は縋るように強く強く抱きしめ返した。
しばらくそうした後、俺はゆっくりと身体を離した。
そして、なまえの温もりを出来るだけ近くで感じられるように、柔らかいベッドに深く腰かける。
俺はそうして、初めて、なまえと向かい合ったのだ。
「今夜、なまえを俺の部屋に誘ったのは、伝えたいことがあったからだ。
伝えたいことが、たくさんあった。
俺のことで、知ってもらわねぇといけないことが、たくさんあったんだ。」
「はい、リヴァイさんはいつも、何かを言いたそうにしていたから
知っていましたよ。」
なまえは、見慣れた柔らかい笑みは見せなかった。
でも、声色はとても柔らかくて、たとえば、母親が我が子に向ける愛情というのはそういうものなのだろうかと思ってしまうほどに優しかった。
俺が、いくら誘っても会いに来てはくれないペトラをひたすら待ち続けていたとき、なまえも俺が一歩踏み出すのを待っていたのだろうか。
何も知らないままで、何も聞こうともしないで、ただひたすら、ひとりぼっちで。
もしかすると、俺の作り笑いに気づきながら、俺のことを〝優しい人〟だと微笑みながらすべてを許すように包んで、身勝手で我儘なキスを受け入れていたのかもしれない。
「でも、今はもう、伝えたいことはひとつしかない。」
俺は、なまえの頬に手を添える。
一瞬だけ、最期に触れたペトラの頬の冷たさを思い出した。
俺は、ペトラを愛していた。
照れ臭くて、恥ずかしくて、俺のことを何でも理解してくれていたペトラには言わなくたって伝わっていると知っていて、結局、終には最期まで伝えられないままだったけれど、本当に本当に心から、彼女を愛していた。
愛していたのだ、彼女を。
俺は、愛していた————。
「————愛してる。」
耳に届いたのは、自分でも聞いたことのないような柔らかくて優しい声だった。
そして、いつも冷たくて何を考えてるか分からないとハンジにもよく言われる俺の目が、細く緩んで、目尻が下がったのが分かった。
なまえが、ゆっくりと、ゆっくりと目を見開いていく。
そして、潤んだ瞳から、大粒の涙がひとつ、またひとつ、と零れていった。
その涙を拭うように瞼を指でそっと撫でてやれば、俺達はとても自然にそっと瞳を閉じた。
そして、ゆっくりと、でも必然的に、唇が重なる。
『リヴァイ兵長は、冷たく見えるけど、本当はすごく優しい人。
だからみんな、兵長についていきたいと思うんですよ。』
不意に、優しいペトラの声が蘇った。
でも、残念だけれど俺は、ペトラが思うほど優しくはない。
だって、いつまでも愛していくと心で誓っていた恋人への———、元恋人への想いはそのままで、彼女に心からの愛を伝えられてしまうし、愛を込めたキスだって出来てしまう。
本当にごめん。
俺は、幸せだ。
ペトラの思うような優しい男ではなかったかもしれないし、失った愛をひとりきりで永遠に想い続ける強さもなかったけれど、それでも幸せなのだ。
なまえを愛して、想われて、幸せだ。
あぁ、悲しくて、寂しくて、どうしようもなく切ないくらいに、俺は今————。
「私もです…っ。愛してる…っ。
リヴァイさんを、リヴァイさんだけを、愛してます…っ。」
唇が離れれば、泣きじゃくりながら愛を伝えるなまえを、俺は、今度こそ優しく包み込むように抱きしめた。
あぁ、こんな風に『愛してる』と言ってやれていたら、ペトラはどんな風に喜んで、どんな風に、その言葉を返してくれたのだろう。
ペトラにしてやりたかったこと、伝えたかったことが、たくさんある。
きっとそれはいつまでも、後悔となって俺の中に残り続けるのだろう。
『愛してる』と伝えないまま、別れがくるなんて思ってもなかった。
思いたくもなかった。
でも、今の俺にはもう、ペトラに伝えられる言葉は、ひとつしか残っていない。
たったひとつしか、残っていないのだ。
あぁ、悲しいけれど、寂しいけれど、そろそろ『さよなら』と言わないといけないらしい。
—愛してた、誰よりも。心から愛してたよ。
さよなら———。
雨が上がった夜空で、美しい星が柔らかく光っていた
昼間は晴れていたのに、夜空は分厚い雲に覆われて、土砂降りになっていた。
傘に落ちる雨が、リヴァイさんを想って鼓動する私の心臓を叩いているような気がして、息が苦しくなる。
今夜、リヴァイさんに初めて誘われた。
向かい合って話していても、リヴァイさんはいつもどこか遠くにいて、私の向こうをぼんやりと見ている。
そこに誰がいて、その人はどんな顔をして、リヴァイさんを見つめ返しているのか、私には分からない。
私の気持ちに気づいていて、リヴァイさんが私のそばにいてくれる理由も、知らない。
とても愛おしそうに私に優しいキスをしてくれるのに、唇が離れた途端に、後悔したような顔をする理由も、泣きだしそうに眉をしかめる理由も、私は何も知らない。
気にならないと言ったら嘘になるけれど、聞き出そうとも思わない。
ただ、もしも、リヴァイさんが知って欲しいと思った時には、私はしっかり受け入れたい。
それがどんなに残酷で、どんなに私を傷つけても、私はそのすべてを赦して受け入れたい。
だって、この残酷な世界で、人類最強の兵士と謳われながら、大きな荷を背中に乗せて戦っている彼を、私はほんの少しでも癒す存在で、いたいから。
「今夜も、雨かぁ…。それも土砂降りって…、なんか不安。」
道の真ん中で立ち止まり、私は傘の向こうの夜空を見上げた。
土砂降りの雨を降らせる夜空は、覗かれるのを怖れているかのように、一寸先も見えない闇を広げている。
いつもなのだ。リヴァイさんに会った日の夜は、必ず雨が降る。
それはまるで、泣けないリヴァイさんの代わりに夜空が泣いてくれているようで、私はいつも胸が引き裂かれそうになる。
彼は、どんな悲しみを抱えているのだろう。
ひとりぼっちで、どれほどに深い悲しみを————。
『危ない!!』
どこからか焦ったような声がした。
若い女性のものだったと思う。
でも、それは、あまりにも突然で、一瞬だった。
驚いた私は、辺りを見渡してその声の主を探した。
でも、店仕舞いもとっくに終わった後の土砂降りの商店街には、若い女性どころか、見慣れた店主たちの姿すら一人も見つからない。
聞き間違えだったのだろうか———そう思ったときに、それは起こった。
目の前に現れたのは、持ち上がった大きな2本の前脚と、悲鳴のような馬の鳴き声、それから、真っ暗な夜空を舞うランタンの光に照らされた驚愕の表情を浮かべる馭者の顔だった。
何が起こったのかはわからなかった。
それなのに、これから何が起こるのかは漠然と分かるもので『あぁ、私はこのまま、リヴァイさんに会えないまま、リヴァイさんの心も知らないまま、馬車に轢かれて死ぬのだな』と最悪な未来が頭をよぎったのだ。
それなのに———。
「…!?」
私の身体を、誰かが抱きしめた。
確かにそう感じたはずなのに、目の前には誰もいない。
それからすぐに、ドンッと人間と馬車がぶつかる大きな衝撃音が響いた。
でも、ぶつかったのは私じゃない。
だって、私はその衝撃を誰か越しに感じたのだ。
そしてそのまま私の身体は飛ばされて、地面に落ちていった。
でも、勢いよく地面に落ちたそのときも、誰かが私を庇ってくれたおかげで、鈍い衝撃を受けただけだった。
あぁ、でも、地面に落ちた時に頭は打ったのかもしれない。
ぼんやりとして、仰向けに倒れ真っ暗な夜空を見上げたままで、身体が動かない。
『いつも、ありがとう。』
誰かが、私の頭を優しく撫でる。
柔らかくて、可愛らしい声だ。でも、知ってる人じゃない。
誰だろう———そう思うのに、降りしきる土砂降りの雨が瞼を叩くから、前がよく見えない。
でもきっと、私を助けてくれたのが彼女なのだ。
お礼を言うのは私の方なのに、どうして彼女が『ありがとう』なんて言うのだろう。
それに、『いつも』というのはどういう意味だろうか。
私は、この可愛らしい声の主を知らない。
あぁでも、微かにするこの、土と鉄と石鹸が染み込んだような香りは、知ってる。
リヴァイさんと、同じだ。
だからだろうか。すごく、安心する。
「大丈夫ですか!?」
叩く雨の音の混じって、焦ったような男の人の声が響く。
そして、彼が私を覗き込めば、狼狽えた男の人の表情がよく見えた。
雨にまぎれた彼女の姿は、全然見えなかったのに———。
あぁ、でも、聞こえる———。
『もう少し、待っていてあげて。
彼は優しいだけ、悲しいくらいに優しすぎるだけだから。』
何を、待ってあげればいいのだろう。
でも、〝悲しいくらいに優しすぎる彼〟が誰なのかは、分かった気がする。
もしも彼女が言っているのが、リヴァイさんのことなら、心配しないでほしい。
私は、彼を愛しているから。
いつまでも待っていられるし、彼の悲しい優しさが降らせる雨なら一緒に打たれてもいい。
たとえそれが永遠になろうが、気にしない。
だから、あなたもどうか————。
「心配、しないで。」
「…!!大丈夫ですか!?心配しないでって、大丈夫ってことですか?
聞こえますか?!」
次第に薄れていく意識の中で、安心したような柔らかくて優しい笑みだけは、なぜだかわからないけれどハッキリと見えた気がした。
そう言われなくたって、俺は兵舎を飛び出していた。
大粒の雨が、足がもつれそうになるほどに前のめりになって走る俺の身体を痛いくらいに叩きつけていて、忘れてしまいたいと願っていた冷たくかたい絶望的な感触を無理やり蘇らせる。
エルヴィンに届いた情報によると、道路を歩いていたなまえに馬車がスピードを下げることもせずに突っ込んだらしい。
この大雨が災いして、馬と馭者の視界を阻んだのだろう。
意識不明の重体で病院に運ばれたというなまえの安否を知るのが、怖い。
でも、転がるように猛スピードで走る俺の脚は止まろうとはしてくれないのだ。
(俺のせいだ。俺が、会いに来いなんて言ったから…っ。)
死にたいほどに、自分を責めている。
俺がなまえにペトラの面影を重ねて、救われようなんて甘えたことをしなければ、こんなことにはならなかった。
いや、そもそも、俺はなまえに出逢わなければよかったのだ。
そうすれば、ペトラがこんな風に泣きじゃくることもなく、なまえがこんな目に遭うこともなかった。
すべて、悪いのは俺だ。
俺なのだ。
病院までの道のりが、壁の向こうにある海よりもずっと、果てしなく遠く感じた。
漸くたどり着いた病院で、俺は、通りがかった看護師を捕まえると、喚くようになまえの容態を訊ねた。
そして、教えてもらった病室へと急いで向かうと、勢いよく扉を開けて、病室に走りこんだ。
「なまえ!!」
俺は、まるでそのときその言葉しか知らない赤ん坊みたいに、なまえの名前を呼んだ。
ベッドの上に、なまえはいた。
白い壁と白い天井、白いシーツ。白い病衣に包まれたなまえは、まるで天使のようだった。
そして、いきなり部屋に飛び込んできて、名前を叫んだ俺に、見慣れた大きな瞳をさらに大きく見開いて、目を丸くした。
(よかった…っ。)
気づけば、俺はなまえに飛びつくようにして、抱きしめていた。
縋りつく———という表現の方が正しいかもしれない。
なまえの腰を抱きしめる腕と、胸元にうずめた頬から伝わる温もりと柔らかさが、なまえが生きている事実を俺の身体と心にしみこむように改めて実感させてくれる。
なまえは、生きている。
死んでない。
ちゃんと、生きている。
死んでなんか、いない———。
「リヴァイさん、どうしたんですか?
何かあったんですか?」
まるで空を舞う花のように俺の頭上に落ちてきた柔らかい声は、我を失って狂いそうになっている男の心配をしていた。
自分が事故に遭ったというのに、病院に運ばれたというのに、気の抜けたその声に、俺は少しだけ脱力して、安心もしたのだ。
そういえば、ペトラと同じだと思っていた細い腰は、日々の訓練に励んで筋肉質になっていた彼女よりもずっと華奢で細くて、想像していたよりも柔らかかった。
「何かあったじゃねぇよ。なまえが事故に遭ったんだろおが。
心配させやがって。」
顔を上げて、俺はなまえを叱った。
安心したからなのか、それとも、別の理由があるのかはわからないけれど、俺の声は震えていた。
だからだろうか。
目が合ったなまえは、小さく目を見開いた後に、ひどく傷ついたように眉尻を下げたのだ。
「リヴァイさん、泣いてるんですか…?」
なまえの手が、俺の左頬に添えられた。
柔らかい温もりが、濡れて冷たくなって強張っていた俺の頬を優しく暖めようとしているみたいだった。
「バカか…!」
俺は、左頬に添えられた手を上から包むように握りしめた。
少し、いやだいぶ、なまえには痛かったかもしれない。
でも、俺は強く、強く、力の限りに強く握ったのだ。
「ただの、雨だ…!」
そう、ただの雨だ。
土砂降りの雨が降っていただけなのだ。
だから俺は、びしょ濡れになっていただけ。
そう、ただの雨。雨だ。いつだって、雨が降っていただけだった———。
「そうですか。」
フッと春風が吹くような、柔らかい息遣いだった。
なまえは、とても優しくそう言うと、俺を包むように抱きしめた。
「よかったです。
自分のせいで、大切な人が泣いていたら、とても悲しいですから。
ただの雨でよかったです。」
「…っ、あぁ、そうだな…っ。
ただの雨だ。ただの雨で、よかったっ。」
柔らかく包むように抱きしめるなまえを、俺は縋るように強く強く抱きしめ返した。
しばらくそうした後、俺はゆっくりと身体を離した。
そして、なまえの温もりを出来るだけ近くで感じられるように、柔らかいベッドに深く腰かける。
俺はそうして、初めて、なまえと向かい合ったのだ。
「今夜、なまえを俺の部屋に誘ったのは、伝えたいことがあったからだ。
伝えたいことが、たくさんあった。
俺のことで、知ってもらわねぇといけないことが、たくさんあったんだ。」
「はい、リヴァイさんはいつも、何かを言いたそうにしていたから
知っていましたよ。」
なまえは、見慣れた柔らかい笑みは見せなかった。
でも、声色はとても柔らかくて、たとえば、母親が我が子に向ける愛情というのはそういうものなのだろうかと思ってしまうほどに優しかった。
俺が、いくら誘っても会いに来てはくれないペトラをひたすら待ち続けていたとき、なまえも俺が一歩踏み出すのを待っていたのだろうか。
何も知らないままで、何も聞こうともしないで、ただひたすら、ひとりぼっちで。
もしかすると、俺の作り笑いに気づきながら、俺のことを〝優しい人〟だと微笑みながらすべてを許すように包んで、身勝手で我儘なキスを受け入れていたのかもしれない。
「でも、今はもう、伝えたいことはひとつしかない。」
俺は、なまえの頬に手を添える。
一瞬だけ、最期に触れたペトラの頬の冷たさを思い出した。
俺は、ペトラを愛していた。
照れ臭くて、恥ずかしくて、俺のことを何でも理解してくれていたペトラには言わなくたって伝わっていると知っていて、結局、終には最期まで伝えられないままだったけれど、本当に本当に心から、彼女を愛していた。
愛していたのだ、彼女を。
俺は、愛していた————。
「————愛してる。」
耳に届いたのは、自分でも聞いたことのないような柔らかくて優しい声だった。
そして、いつも冷たくて何を考えてるか分からないとハンジにもよく言われる俺の目が、細く緩んで、目尻が下がったのが分かった。
なまえが、ゆっくりと、ゆっくりと目を見開いていく。
そして、潤んだ瞳から、大粒の涙がひとつ、またひとつ、と零れていった。
その涙を拭うように瞼を指でそっと撫でてやれば、俺達はとても自然にそっと瞳を閉じた。
そして、ゆっくりと、でも必然的に、唇が重なる。
『リヴァイ兵長は、冷たく見えるけど、本当はすごく優しい人。
だからみんな、兵長についていきたいと思うんですよ。』
不意に、優しいペトラの声が蘇った。
でも、残念だけれど俺は、ペトラが思うほど優しくはない。
だって、いつまでも愛していくと心で誓っていた恋人への———、元恋人への想いはそのままで、彼女に心からの愛を伝えられてしまうし、愛を込めたキスだって出来てしまう。
本当にごめん。
俺は、幸せだ。
ペトラの思うような優しい男ではなかったかもしれないし、失った愛をひとりきりで永遠に想い続ける強さもなかったけれど、それでも幸せなのだ。
なまえを愛して、想われて、幸せだ。
あぁ、悲しくて、寂しくて、どうしようもなく切ないくらいに、俺は今————。
「私もです…っ。愛してる…っ。
リヴァイさんを、リヴァイさんだけを、愛してます…っ。」
唇が離れれば、泣きじゃくりながら愛を伝えるなまえを、俺は、今度こそ優しく包み込むように抱きしめた。
あぁ、こんな風に『愛してる』と言ってやれていたら、ペトラはどんな風に喜んで、どんな風に、その言葉を返してくれたのだろう。
ペトラにしてやりたかったこと、伝えたかったことが、たくさんある。
きっとそれはいつまでも、後悔となって俺の中に残り続けるのだろう。
『愛してる』と伝えないまま、別れがくるなんて思ってもなかった。
思いたくもなかった。
でも、今の俺にはもう、ペトラに伝えられる言葉は、ひとつしか残っていない。
たったひとつしか、残っていないのだ。
あぁ、悲しいけれど、寂しいけれど、そろそろ『さよなら』と言わないといけないらしい。
—愛してた、誰よりも。心から愛してたよ。
さよなら———。
雨が上がった夜空で、美しい星が柔らかく光っていた
昼間は晴れていたのに、夜空は分厚い雲に覆われて、土砂降りになっていた。
傘に落ちる雨が、リヴァイさんを想って鼓動する私の心臓を叩いているような気がして、息が苦しくなる。
今夜、リヴァイさんに初めて誘われた。
向かい合って話していても、リヴァイさんはいつもどこか遠くにいて、私の向こうをぼんやりと見ている。
そこに誰がいて、その人はどんな顔をして、リヴァイさんを見つめ返しているのか、私には分からない。
私の気持ちに気づいていて、リヴァイさんが私のそばにいてくれる理由も、知らない。
とても愛おしそうに私に優しいキスをしてくれるのに、唇が離れた途端に、後悔したような顔をする理由も、泣きだしそうに眉をしかめる理由も、私は何も知らない。
気にならないと言ったら嘘になるけれど、聞き出そうとも思わない。
ただ、もしも、リヴァイさんが知って欲しいと思った時には、私はしっかり受け入れたい。
それがどんなに残酷で、どんなに私を傷つけても、私はそのすべてを赦して受け入れたい。
だって、この残酷な世界で、人類最強の兵士と謳われながら、大きな荷を背中に乗せて戦っている彼を、私はほんの少しでも癒す存在で、いたいから。
「今夜も、雨かぁ…。それも土砂降りって…、なんか不安。」
道の真ん中で立ち止まり、私は傘の向こうの夜空を見上げた。
土砂降りの雨を降らせる夜空は、覗かれるのを怖れているかのように、一寸先も見えない闇を広げている。
いつもなのだ。リヴァイさんに会った日の夜は、必ず雨が降る。
それはまるで、泣けないリヴァイさんの代わりに夜空が泣いてくれているようで、私はいつも胸が引き裂かれそうになる。
彼は、どんな悲しみを抱えているのだろう。
ひとりぼっちで、どれほどに深い悲しみを————。
『危ない!!』
どこからか焦ったような声がした。
若い女性のものだったと思う。
でも、それは、あまりにも突然で、一瞬だった。
驚いた私は、辺りを見渡してその声の主を探した。
でも、店仕舞いもとっくに終わった後の土砂降りの商店街には、若い女性どころか、見慣れた店主たちの姿すら一人も見つからない。
聞き間違えだったのだろうか———そう思ったときに、それは起こった。
目の前に現れたのは、持ち上がった大きな2本の前脚と、悲鳴のような馬の鳴き声、それから、真っ暗な夜空を舞うランタンの光に照らされた驚愕の表情を浮かべる馭者の顔だった。
何が起こったのかはわからなかった。
それなのに、これから何が起こるのかは漠然と分かるもので『あぁ、私はこのまま、リヴァイさんに会えないまま、リヴァイさんの心も知らないまま、馬車に轢かれて死ぬのだな』と最悪な未来が頭をよぎったのだ。
それなのに———。
「…!?」
私の身体を、誰かが抱きしめた。
確かにそう感じたはずなのに、目の前には誰もいない。
それからすぐに、ドンッと人間と馬車がぶつかる大きな衝撃音が響いた。
でも、ぶつかったのは私じゃない。
だって、私はその衝撃を誰か越しに感じたのだ。
そしてそのまま私の身体は飛ばされて、地面に落ちていった。
でも、勢いよく地面に落ちたそのときも、誰かが私を庇ってくれたおかげで、鈍い衝撃を受けただけだった。
あぁ、でも、地面に落ちた時に頭は打ったのかもしれない。
ぼんやりとして、仰向けに倒れ真っ暗な夜空を見上げたままで、身体が動かない。
『いつも、ありがとう。』
誰かが、私の頭を優しく撫でる。
柔らかくて、可愛らしい声だ。でも、知ってる人じゃない。
誰だろう———そう思うのに、降りしきる土砂降りの雨が瞼を叩くから、前がよく見えない。
でもきっと、私を助けてくれたのが彼女なのだ。
お礼を言うのは私の方なのに、どうして彼女が『ありがとう』なんて言うのだろう。
それに、『いつも』というのはどういう意味だろうか。
私は、この可愛らしい声の主を知らない。
あぁでも、微かにするこの、土と鉄と石鹸が染み込んだような香りは、知ってる。
リヴァイさんと、同じだ。
だからだろうか。すごく、安心する。
「大丈夫ですか!?」
叩く雨の音の混じって、焦ったような男の人の声が響く。
そして、彼が私を覗き込めば、狼狽えた男の人の表情がよく見えた。
雨にまぎれた彼女の姿は、全然見えなかったのに———。
あぁ、でも、聞こえる———。
『もう少し、待っていてあげて。
彼は優しいだけ、悲しいくらいに優しすぎるだけだから。』
何を、待ってあげればいいのだろう。
でも、〝悲しいくらいに優しすぎる彼〟が誰なのかは、分かった気がする。
もしも彼女が言っているのが、リヴァイさんのことなら、心配しないでほしい。
私は、彼を愛しているから。
いつまでも待っていられるし、彼の悲しい優しさが降らせる雨なら一緒に打たれてもいい。
たとえそれが永遠になろうが、気にしない。
だから、あなたもどうか————。
「心配、しないで。」
「…!!大丈夫ですか!?心配しないでって、大丈夫ってことですか?
聞こえますか?!」
次第に薄れていく意識の中で、安心したような柔らかくて優しい笑みだけは、なぜだかわからないけれどハッキリと見えた気がした。
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