かつて彼女は僕の運命の人だった
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世界の全てが、今日という日を祝福しているかのような澄み渡った青空だった。
リヴァイは近くのベンチに腰をおろした。
柔らかい風が流れる。遠くから、聞こえないはずの鐘の音まで聞こえてきた気がした。
今頃、彼女は幸せそうに微笑んでくれているだろうか。
かつてなまえと2人でよく来ていた公園は、あの日から何も変わらず、丁寧に手入れされた緑と彩りどりの花たちが美しいままだ。
散歩道を挟んだ向こうにある川は、底を泳ぐ魚達が見えそうなほど澄んでいる。
けれど、そのどれもリヴァイの心を動かしはしない。
とても美しいこの風景を共に眺める相手がいなくなっただけだ。それだけが、これほどまでにリヴァイの世界の色を奪うのだと、あと何度思い知れば、彼女を忘れられるのだろう。
ただぼんやりと、色褪せた風景を眺めていると、聞き覚えのない音が近づいているのに気がついた。
車輪が回る音だった。けれど、馬車のような大きなものが地面を転がる音よりも軽い。
不思議に思い、リヴァイは音がする方を見た。
小さな車輪の音を鳴らしていたのは、車椅子だった。車椅子の主人は、年老いた男性だ。
青空から吹く柔らかい風が、灰色になった彼の髪を靡かせている。
彼は、川のせせらぎに耳を傾けながら、散歩道をゆっくりとこちらに向かってくる。
そして、リヴァイの座るベンチのそばまで来ると、なんとなくという様子でこちらを見た。
しばらく目が合ったあと、彼が口を開く。
「悪いが、車椅子を押してくれないか?
家から1人で来たんだが、少し疲れてしまったんだ。
まだもう少し、この公園を見て回りたい。」
少し嗄れていたけれど、低く落ち着く声色だった。
彼にもこの公園に大切な思い出があるのだろうか。
リヴァイに、断る理由はなかった。
肯定の返事をしたリヴァイは、立ち上がると車椅子の後ろに立って、ハンドルの部分を握った。
「行きたいところはあるのか?」
「いや…、この散歩道を歩いてくれるだけでいい。」
車椅子に座っている老人には見えないと分かっていて、リヴァイは小さく頷くとゆっくりと車椅子を押し始めた。
グレイヘアの老人は、小柄で華奢に見えていたから、思っていたよりも重たくて、少しだけ驚いた。
車椅子というものが重たいのかもしれない。
肘掛けの部分に乗せられた手は皺くちゃで、枝のようにとても細い。結婚指輪もないから、独り身なのだろう。
こんなか弱そうな手でこの重い車椅子を操っていれば、誰かに押してほしいと頼みたくなるのも不思議ではない。
老人の小さく孤独な背中を見ながら、リヴァイがそんなことを考えていると、彼が話しかけてきた。
「ここは、若い頃によく来た場所なんだ。
久しぶりに来たが、昔と何も変わらないな…。
君もよく来るのか?」
「いや…。俺も半年前まではよく来てたが
最近はずっと来てなかった。アンタほどじゃないんだろうが、俺も久しぶりだ。」
「そうか。」
老人は小さく呟くと、また静かになった。
あまり話さないタイプなのか。それとも、懐かしい公園の風景を満喫しているだけかもしれない。
なんとなく今日は1人では居たくないと思っていたリヴァイにとっては、どちらでも構わなかった。
しばらく歩いていると、老人がまた喋り出した。
「君には夢はあるのか?」
「夢か…。この世界から巨人を駆逐して
自由な世界を取り戻すことだ。死んでいった仲間にもそう誓ってきた。」
「そうか。果てしない夢だな。」
「あぁ、俺もそう思う。」
リヴァイは、車椅子のハンドルを握る手に力を込める。
何体も何体も巨人を殺してきた。その巨人が、自分たちの同胞だと知ったあとも、躊躇わず殺してきた。
血に塗れた手だ。穢れのない魂そのもののような美しく綺麗ななまえをどうやってこの手で幸せにできるというのか。
パラディ島の本当の敵が何なのか、世界は知ってしまった。もう後には戻れない。
自分で幸せにしてやれないのがどれほど悔しくても、寂しくても、悲しくても、リヴァイは追い縋るなまえを突き放し、手を放した。
そして、今度はこの手で、なまえが家族を築き、幸せに暮らす世界を守るのだ。自分にはもう、それしか出来ないのだからーーー。
「叶えるのは難しい夢だ。きっとお前は、これからたくさんの仲間を失うことになるだろう。
そこまでして叶えたい夢なのか?」
「叶えるさ。誰を失っても、幸せに生きていて欲しいやつがいる。」
世界を守ると言えば、嘲笑が飛ぶことはよくあった。
否定されるのには慣れている。
けれど、たくさんの経験を経て来た老人の言葉だったからなのか、リヴァイの胸にとても重たく響いた。
でも、だからと言って、胸に誓った願いが揺らぐわけではない。
「そのために、お前は地獄を戦うのか。」
「あぁ、そうだ。」
「それならいいさ。ただ一つ。アドバイスをさせてくれないか。
年寄りの戯言だと聞き流してくれても構わない。」
「なんだ?」
訊ねるリヴァイに、老人はゆっくりと振り向いた。
灰色に染まった髪は、彼の目にもかかっている。もう長く手入れもしていないのだろう。ところどころ跳ねていて、少し薄汚れて見えるのに今更気づいた。
だが、前髪の向こうから覗く切長の目だけは、異様なほどに力強かった。
思わず立ち止まったリヴァイを、枝のように痩せ細った腕に手、小柄で華奢な身体にはアンバランスなその瞳がまっすぐと見据える。
「君に運命の人だと思う相手が現れたら、しっかりと彼女の手を掴むんだ。
絶対にその手を放したらダメだ。」
「…っ。」
リヴァイは逃げるように、その力強い意志から目を逸らした。
もう手遅れだ。運命の相手だと思っていた心から大切な彼女はもう、二度と手の届かない場所へ行ってしまう。
「君に、大切だと思える人はいるかい?」
「いや、そんなものはいねぇ。」
否定した後、リヴァイは少し考えてから、もう一度、訂正するように口を開いた。
「昔はいたんだ。俺が、人生で心から愛した、たった1人だった。」
「そうか。そんな人に人生に一度でも出逢えるのは、とても幸運なことだ。」
「あぁ、そうだな。俺は幸せだった。彼女さえいればそれでいいとさえ思った。
…諦めたらいけない人だった。アンタに昔話のように話すことしか出来ねぇ今になって
死ぬほど後悔しても遅いのに。」
リヴァイは悔しげに唇を噛んだ。
そんなリヴァイを慰めるように、老人が優しく諭す。
「後悔をしているのなら、その気持ちを彼女に伝えたらどうだ?」
「困らせるだけだ。それに、俺は彼女に笑っていて欲しいだけなんだ。
恐ろしい巨人からも、敵からも1番離れた場所で。」
「そこが1番安全だからか?」
「あぁ、そうだ。巨人の群れに飛び込む男のそばにいるより有意義だろ?」
リヴァイは、自分を卑下するように言った。
そんなリヴァイを、老人はとても哀れそうに見つめる。
「お前が、命をかけて守ってやればいい。
俺のそばにいるのが1番安全だと胸をはればいいじゃないか。
君は、人類最強の兵士なんだろう?」
老人の言葉に、リヴァイは少し目を見開いた。
彼が何も言わないから、調査兵団の兵士長であることは気づいていないのだと思っていた。
「それとも、君は女1人守れない弱い男だったのか。」
「どうやって、守ってやればいいって言うんだ?教えてくれよ…!
無責任なことを言うのはやめてくれっ。本当は俺だって…、誰にも彼女を渡したくない!
ずっと俺のそばにいて欲しかった…っ。」
出逢ったばかりの見知らぬ老人だったはずの彼に、リヴァイは、気づいたら胸の内をこぼしてしまっていた。
もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
心から愛していたことを、心から後悔をしていることもーーー。
「やり直すのに遅すぎるなんてことはない。
やってみないと、本当のことなんて誰にもわからないままだろう?
俺たちは皆、生きていれば間違いくらい起こす。
でもその度に、やり直すチャンスも用意されてるはずだ。」
あの力強い意志のある瞳が、リヴァイをまっすぐに見つめてくる。
「戦いもしないで、彼女を諦めていいのか?」
本当はまだ迷いがあったリヴァイの胸に、老人の言葉は痛いくらいに突き刺さった。
でも、もう手遅れなのだ。もう、彼女は取り戻せない。
リヴァイは力無く首を横に振る。
「今日は彼女の結婚式なんだ。内地の貴族に見そめられた彼女は、
これから世界で1番幸せな女になって、俺の手の届かない場所へ行く。
今思い返すと、アイツが俺の腕の中にいたことの方が夢みたいなことだったんだ。」
リヴァイは、車椅子から手を離すと、自分の両掌を見下ろして、悲しそうに言った。
諦めてはいけない人だった。きっとこれからも永遠に愛し続けるだろう人だ。
でも、突然になまえに結婚の話が舞い込んできたあの時、リヴァイは手放す選択しかないと思ってしまった。
彼女は断るつもりだった。でも、リヴァイがそれを許さなかった。
自分と一緒にいても、得られる平穏なんて限られている。いや、そんなものは元からなかったのだ。
いつ愛する人が戦死したという知らせを聞くことになってしまうのかと、なまえはいつも怯えていた。
1人きりで不安な夜を何度、枕を濡らして越えてきたのか、もう彼女でさえ数えることはできなくなっていたはずだ。
それだけ長い月日を共に過ごして、そして、愛し合い、傷つけあってきた。
でも、これからリヴァイが彼女に捧げられるだろう幸せの大きさは、たった一目彼女を見て恋に落ちた男に負けてしまう。
世界を救う、と言ったってそれはいつになるのだろう。たとえ、世界を救えたとして、必ず平穏は訪れるのか。
不確かな未来のために、自分の我儘のために、なまえを愛で縛りつけることは出来なかった。
そうして、なまえとリヴァイは別々の道を歩き始めた。
「俺はただ、若い君に後悔しない選択をしてほしいだけだ。」
「俺は後悔するつもりはねぇ。」
「…そうか。」
老人はそう言ったきり、もう何も言わなくなった。
彼も、彼女を諦めてしまった。
リヴァイは小さく息を吐いて、車椅子のハンドルを握った。
そして、再びゆっくりと歩き始める。
穏やかな風が緑の良い匂いを運んでくる。川のせせらぎは、とても優しい音だった。
あぁ、けれどやっぱり、なまえといた時とは全てが様変わりしている。きっと、他の人から見れば、何も変わらない景色のはずなのにーーーー。
「俺の昔話を聞いてくれるか。」
しばらく黙っていた老人が喋り出した。
リヴァイが肯定の返事を返せば、老人は小さく頷いてから、静かに語り出した。
「俺にもかつて、運命の人がいた。」
とても寂しい語り口から、老人の昔話は始まった。
「とても綺麗で、美しい。今思い出しても、笑顔しか浮かばない。
穢れのない魂がそのままカタチになったような人だった。」
柔らかい声色は、老人がその人をまだ心から愛しているのだろう、とリヴァイに思わせた。
「決して、諦めたらいけない人だった。でも、俺には力がなかった。
いや…、そう思い込んでいたんだ。俺には彼女を守れない。幸せには出来ない、と。
だから、手放した。この手で、彼女を突き放した。」
老人は、自分の両掌を見下ろした。
枝のように細くしわくちゃの手は、微かに震えていた。
年老いた彼はもう、ただ普通に手を見ることも出来ないくらいに、身体が衰えているのだろう。
「その後、彼女は結婚したよ。金も地位もある男が相手だった。
そんな男にみそめられた彼女を誰もが羨んだ。」
「幸せになってくれたなら、よかったじゃないか。」
リヴァイは、慰めるように言った。
まるで、自分のための言葉だと、自分でもわかっていた。
けれど、それを嘲笑うように、まだ話は終わらないと、老人が続ける。
「男は、美しい彼女をそばに置いておきたいだけだった。
ありとあらゆるパーティーに彼女を連れて行って自慢をしては、好きな時に抱くだけ抱いて、
義理の家族に虐げられ苦しむ彼女を守ろうともせず
とうとう傷ついた彼女をボロ雑巾のように捨ててしまった。」
老人が淡々と話したのは、あまりにも酷過ぎる彼女のその後だった。
けれど、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
「捨てられた彼女にはもう家族や頼る相手は誰もいなかった。
それでも、彼女は、俺を探していたらしい。」
「らしい?会いにきたんじゃねぇのか?」
訊ねるリヴァイに、老人はまたもや力無く首を横に振る。
「彼女は、俺を探す途中の道端で、力尽きて死んでしまった。」
思いもよらなかった結末に、リヴァイは思わず息を呑む。
「倒れてる彼女を見つけた奴から聞いたんだが、彼女は重い病を患っていたそうだ。
きっと、その病が原因で捨てられたんだろうな…。
その病気もきちんと治療していれば治るものだったのに、
婚家の奴らは、彼女のために使う金を出し惜しんだんだ。」
「クソ野郎だな。」
リヴァイが吐き捨てるように言った。
その反応が可笑しかったのか、老人はハッと鼻で笑った。
「あぁ、本当だ。クソ野郎だ。」
「そうだ、そいつらはクソ野郎ーーー。」
「俺は、なんてクソ野郎だったんだろうな。幸せになって欲しいからと言い訳して
本当は、彼女を幸せにする自信がなかっただけの、ただの弱虫だっただけのくせに…。
誰より愛していたのに…、守ってやりたかったのに…、1人さみしく死なせてしまった…っ。」
老人の声は、震えていた。
枝のように弱々しい両掌を見下ろすその肩も小刻みに震えている。
リヴァイには、彼にかけてやれる言葉はなかった。
「死の間際に、彼女が俺の名前をうわ言のように繰り返していたそうだ。
だから、彼女の知らせを別れていたはずの俺が受け取ることができた。」
彼女もまた、結婚した後もずっと老人を愛していたのだろうか。
それでも、老人の「幸せになってほしい」という願いを受け止めて、死ぬまでずっと頑張って生きたんだ。
他の男の隣で妻になった後も、他の男に抱かれている時も、彼女が老人だけを想い続けていたのだとしたら、それはどれほど彼女を苦しめていたのだろう。
もし、結婚相手が愛に溢れた男だったのだとしても、それでも、優しい彼女は昔の男を愛し続けてしまう自分の罪深さに苦しんだのではないだろうか。
果たしてそれは、本当に彼女にとっての幸せだったのか。老人が願った幸せだったのか。
「彼女の死の知らせを聞いた俺が駆けつけた時にはもう、彼女は小さな墓の下で眠っていた。
最期の姿すら見れなかった。それからもずっと俺以外に、彼女の墓を参りにくる奴は1人もいない。
俺が選択を間違えたから、なまえはひとりぼっちになってしまった。だからーーーー。」
老人が振り返り、リヴァイをまっすぐに見つめる。
グレイヘアから覗く切長の瞳からは、少し前まであった力強い意志は消えていた。
不安と悲しみで満ちている。でもそこに、彼はほんの少しの希望を捉えようとしているようにも見えた。
「お願いだ。俺の代わりに、彼女を救ってくれ。
まだ彼女は生きてる。手遅れなんかじゃない。お前なら、まだやり直せる。
俺のように…、永遠に失ってから、後悔しないでくれ…!」
老人が悲鳴のような声を上げた。
この瞬間に、リヴァイは、自分がなぜ見ず知らずの老人に胸の内をこぼしてしまったのかを理解した気がした。
リヴァイは、車椅子のハンドルから手を離すと、老人に背を向けて駆け出した。
今すぐに、なまえを迎えに行かなければならない。
それがどんなに困難でも、愚かな行動だとしても、きっとこれが彼女の幸せに繋がると信じて、守り続けるのだ。
なまえを守り生きること、それが自分が生を受けたときに授けられた使命なのだと今、強く思った。
(巨人がなんだ、世界がなんだ…!
その全てから、俺がなまえを守ってやればいいだけだ…!)
リヴァイは、唇を噛んで、駆けるスピードを上げた。
もう諦めない。彼女と共に生きる未来を守るのだーーーー。
リヴァイは近くのベンチに腰をおろした。
柔らかい風が流れる。遠くから、聞こえないはずの鐘の音まで聞こえてきた気がした。
今頃、彼女は幸せそうに微笑んでくれているだろうか。
かつてなまえと2人でよく来ていた公園は、あの日から何も変わらず、丁寧に手入れされた緑と彩りどりの花たちが美しいままだ。
散歩道を挟んだ向こうにある川は、底を泳ぐ魚達が見えそうなほど澄んでいる。
けれど、そのどれもリヴァイの心を動かしはしない。
とても美しいこの風景を共に眺める相手がいなくなっただけだ。それだけが、これほどまでにリヴァイの世界の色を奪うのだと、あと何度思い知れば、彼女を忘れられるのだろう。
ただぼんやりと、色褪せた風景を眺めていると、聞き覚えのない音が近づいているのに気がついた。
車輪が回る音だった。けれど、馬車のような大きなものが地面を転がる音よりも軽い。
不思議に思い、リヴァイは音がする方を見た。
小さな車輪の音を鳴らしていたのは、車椅子だった。車椅子の主人は、年老いた男性だ。
青空から吹く柔らかい風が、灰色になった彼の髪を靡かせている。
彼は、川のせせらぎに耳を傾けながら、散歩道をゆっくりとこちらに向かってくる。
そして、リヴァイの座るベンチのそばまで来ると、なんとなくという様子でこちらを見た。
しばらく目が合ったあと、彼が口を開く。
「悪いが、車椅子を押してくれないか?
家から1人で来たんだが、少し疲れてしまったんだ。
まだもう少し、この公園を見て回りたい。」
少し嗄れていたけれど、低く落ち着く声色だった。
彼にもこの公園に大切な思い出があるのだろうか。
リヴァイに、断る理由はなかった。
肯定の返事をしたリヴァイは、立ち上がると車椅子の後ろに立って、ハンドルの部分を握った。
「行きたいところはあるのか?」
「いや…、この散歩道を歩いてくれるだけでいい。」
車椅子に座っている老人には見えないと分かっていて、リヴァイは小さく頷くとゆっくりと車椅子を押し始めた。
グレイヘアの老人は、小柄で華奢に見えていたから、思っていたよりも重たくて、少しだけ驚いた。
車椅子というものが重たいのかもしれない。
肘掛けの部分に乗せられた手は皺くちゃで、枝のようにとても細い。結婚指輪もないから、独り身なのだろう。
こんなか弱そうな手でこの重い車椅子を操っていれば、誰かに押してほしいと頼みたくなるのも不思議ではない。
老人の小さく孤独な背中を見ながら、リヴァイがそんなことを考えていると、彼が話しかけてきた。
「ここは、若い頃によく来た場所なんだ。
久しぶりに来たが、昔と何も変わらないな…。
君もよく来るのか?」
「いや…。俺も半年前まではよく来てたが
最近はずっと来てなかった。アンタほどじゃないんだろうが、俺も久しぶりだ。」
「そうか。」
老人は小さく呟くと、また静かになった。
あまり話さないタイプなのか。それとも、懐かしい公園の風景を満喫しているだけかもしれない。
なんとなく今日は1人では居たくないと思っていたリヴァイにとっては、どちらでも構わなかった。
しばらく歩いていると、老人がまた喋り出した。
「君には夢はあるのか?」
「夢か…。この世界から巨人を駆逐して
自由な世界を取り戻すことだ。死んでいった仲間にもそう誓ってきた。」
「そうか。果てしない夢だな。」
「あぁ、俺もそう思う。」
リヴァイは、車椅子のハンドルを握る手に力を込める。
何体も何体も巨人を殺してきた。その巨人が、自分たちの同胞だと知ったあとも、躊躇わず殺してきた。
血に塗れた手だ。穢れのない魂そのもののような美しく綺麗ななまえをどうやってこの手で幸せにできるというのか。
パラディ島の本当の敵が何なのか、世界は知ってしまった。もう後には戻れない。
自分で幸せにしてやれないのがどれほど悔しくても、寂しくても、悲しくても、リヴァイは追い縋るなまえを突き放し、手を放した。
そして、今度はこの手で、なまえが家族を築き、幸せに暮らす世界を守るのだ。自分にはもう、それしか出来ないのだからーーー。
「叶えるのは難しい夢だ。きっとお前は、これからたくさんの仲間を失うことになるだろう。
そこまでして叶えたい夢なのか?」
「叶えるさ。誰を失っても、幸せに生きていて欲しいやつがいる。」
世界を守ると言えば、嘲笑が飛ぶことはよくあった。
否定されるのには慣れている。
けれど、たくさんの経験を経て来た老人の言葉だったからなのか、リヴァイの胸にとても重たく響いた。
でも、だからと言って、胸に誓った願いが揺らぐわけではない。
「そのために、お前は地獄を戦うのか。」
「あぁ、そうだ。」
「それならいいさ。ただ一つ。アドバイスをさせてくれないか。
年寄りの戯言だと聞き流してくれても構わない。」
「なんだ?」
訊ねるリヴァイに、老人はゆっくりと振り向いた。
灰色に染まった髪は、彼の目にもかかっている。もう長く手入れもしていないのだろう。ところどころ跳ねていて、少し薄汚れて見えるのに今更気づいた。
だが、前髪の向こうから覗く切長の目だけは、異様なほどに力強かった。
思わず立ち止まったリヴァイを、枝のように痩せ細った腕に手、小柄で華奢な身体にはアンバランスなその瞳がまっすぐと見据える。
「君に運命の人だと思う相手が現れたら、しっかりと彼女の手を掴むんだ。
絶対にその手を放したらダメだ。」
「…っ。」
リヴァイは逃げるように、その力強い意志から目を逸らした。
もう手遅れだ。運命の相手だと思っていた心から大切な彼女はもう、二度と手の届かない場所へ行ってしまう。
「君に、大切だと思える人はいるかい?」
「いや、そんなものはいねぇ。」
否定した後、リヴァイは少し考えてから、もう一度、訂正するように口を開いた。
「昔はいたんだ。俺が、人生で心から愛した、たった1人だった。」
「そうか。そんな人に人生に一度でも出逢えるのは、とても幸運なことだ。」
「あぁ、そうだな。俺は幸せだった。彼女さえいればそれでいいとさえ思った。
…諦めたらいけない人だった。アンタに昔話のように話すことしか出来ねぇ今になって
死ぬほど後悔しても遅いのに。」
リヴァイは悔しげに唇を噛んだ。
そんなリヴァイを慰めるように、老人が優しく諭す。
「後悔をしているのなら、その気持ちを彼女に伝えたらどうだ?」
「困らせるだけだ。それに、俺は彼女に笑っていて欲しいだけなんだ。
恐ろしい巨人からも、敵からも1番離れた場所で。」
「そこが1番安全だからか?」
「あぁ、そうだ。巨人の群れに飛び込む男のそばにいるより有意義だろ?」
リヴァイは、自分を卑下するように言った。
そんなリヴァイを、老人はとても哀れそうに見つめる。
「お前が、命をかけて守ってやればいい。
俺のそばにいるのが1番安全だと胸をはればいいじゃないか。
君は、人類最強の兵士なんだろう?」
老人の言葉に、リヴァイは少し目を見開いた。
彼が何も言わないから、調査兵団の兵士長であることは気づいていないのだと思っていた。
「それとも、君は女1人守れない弱い男だったのか。」
「どうやって、守ってやればいいって言うんだ?教えてくれよ…!
無責任なことを言うのはやめてくれっ。本当は俺だって…、誰にも彼女を渡したくない!
ずっと俺のそばにいて欲しかった…っ。」
出逢ったばかりの見知らぬ老人だったはずの彼に、リヴァイは、気づいたら胸の内をこぼしてしまっていた。
もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
心から愛していたことを、心から後悔をしていることもーーー。
「やり直すのに遅すぎるなんてことはない。
やってみないと、本当のことなんて誰にもわからないままだろう?
俺たちは皆、生きていれば間違いくらい起こす。
でもその度に、やり直すチャンスも用意されてるはずだ。」
あの力強い意志のある瞳が、リヴァイをまっすぐに見つめてくる。
「戦いもしないで、彼女を諦めていいのか?」
本当はまだ迷いがあったリヴァイの胸に、老人の言葉は痛いくらいに突き刺さった。
でも、もう手遅れなのだ。もう、彼女は取り戻せない。
リヴァイは力無く首を横に振る。
「今日は彼女の結婚式なんだ。内地の貴族に見そめられた彼女は、
これから世界で1番幸せな女になって、俺の手の届かない場所へ行く。
今思い返すと、アイツが俺の腕の中にいたことの方が夢みたいなことだったんだ。」
リヴァイは、車椅子から手を離すと、自分の両掌を見下ろして、悲しそうに言った。
諦めてはいけない人だった。きっとこれからも永遠に愛し続けるだろう人だ。
でも、突然になまえに結婚の話が舞い込んできたあの時、リヴァイは手放す選択しかないと思ってしまった。
彼女は断るつもりだった。でも、リヴァイがそれを許さなかった。
自分と一緒にいても、得られる平穏なんて限られている。いや、そんなものは元からなかったのだ。
いつ愛する人が戦死したという知らせを聞くことになってしまうのかと、なまえはいつも怯えていた。
1人きりで不安な夜を何度、枕を濡らして越えてきたのか、もう彼女でさえ数えることはできなくなっていたはずだ。
それだけ長い月日を共に過ごして、そして、愛し合い、傷つけあってきた。
でも、これからリヴァイが彼女に捧げられるだろう幸せの大きさは、たった一目彼女を見て恋に落ちた男に負けてしまう。
世界を救う、と言ったってそれはいつになるのだろう。たとえ、世界を救えたとして、必ず平穏は訪れるのか。
不確かな未来のために、自分の我儘のために、なまえを愛で縛りつけることは出来なかった。
そうして、なまえとリヴァイは別々の道を歩き始めた。
「俺はただ、若い君に後悔しない選択をしてほしいだけだ。」
「俺は後悔するつもりはねぇ。」
「…そうか。」
老人はそう言ったきり、もう何も言わなくなった。
彼も、彼女を諦めてしまった。
リヴァイは小さく息を吐いて、車椅子のハンドルを握った。
そして、再びゆっくりと歩き始める。
穏やかな風が緑の良い匂いを運んでくる。川のせせらぎは、とても優しい音だった。
あぁ、けれどやっぱり、なまえといた時とは全てが様変わりしている。きっと、他の人から見れば、何も変わらない景色のはずなのにーーーー。
「俺の昔話を聞いてくれるか。」
しばらく黙っていた老人が喋り出した。
リヴァイが肯定の返事を返せば、老人は小さく頷いてから、静かに語り出した。
「俺にもかつて、運命の人がいた。」
とても寂しい語り口から、老人の昔話は始まった。
「とても綺麗で、美しい。今思い出しても、笑顔しか浮かばない。
穢れのない魂がそのままカタチになったような人だった。」
柔らかい声色は、老人がその人をまだ心から愛しているのだろう、とリヴァイに思わせた。
「決して、諦めたらいけない人だった。でも、俺には力がなかった。
いや…、そう思い込んでいたんだ。俺には彼女を守れない。幸せには出来ない、と。
だから、手放した。この手で、彼女を突き放した。」
老人は、自分の両掌を見下ろした。
枝のように細くしわくちゃの手は、微かに震えていた。
年老いた彼はもう、ただ普通に手を見ることも出来ないくらいに、身体が衰えているのだろう。
「その後、彼女は結婚したよ。金も地位もある男が相手だった。
そんな男にみそめられた彼女を誰もが羨んだ。」
「幸せになってくれたなら、よかったじゃないか。」
リヴァイは、慰めるように言った。
まるで、自分のための言葉だと、自分でもわかっていた。
けれど、それを嘲笑うように、まだ話は終わらないと、老人が続ける。
「男は、美しい彼女をそばに置いておきたいだけだった。
ありとあらゆるパーティーに彼女を連れて行って自慢をしては、好きな時に抱くだけ抱いて、
義理の家族に虐げられ苦しむ彼女を守ろうともせず
とうとう傷ついた彼女をボロ雑巾のように捨ててしまった。」
老人が淡々と話したのは、あまりにも酷過ぎる彼女のその後だった。
けれど、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
「捨てられた彼女にはもう家族や頼る相手は誰もいなかった。
それでも、彼女は、俺を探していたらしい。」
「らしい?会いにきたんじゃねぇのか?」
訊ねるリヴァイに、老人はまたもや力無く首を横に振る。
「彼女は、俺を探す途中の道端で、力尽きて死んでしまった。」
思いもよらなかった結末に、リヴァイは思わず息を呑む。
「倒れてる彼女を見つけた奴から聞いたんだが、彼女は重い病を患っていたそうだ。
きっと、その病が原因で捨てられたんだろうな…。
その病気もきちんと治療していれば治るものだったのに、
婚家の奴らは、彼女のために使う金を出し惜しんだんだ。」
「クソ野郎だな。」
リヴァイが吐き捨てるように言った。
その反応が可笑しかったのか、老人はハッと鼻で笑った。
「あぁ、本当だ。クソ野郎だ。」
「そうだ、そいつらはクソ野郎ーーー。」
「俺は、なんてクソ野郎だったんだろうな。幸せになって欲しいからと言い訳して
本当は、彼女を幸せにする自信がなかっただけの、ただの弱虫だっただけのくせに…。
誰より愛していたのに…、守ってやりたかったのに…、1人さみしく死なせてしまった…っ。」
老人の声は、震えていた。
枝のように弱々しい両掌を見下ろすその肩も小刻みに震えている。
リヴァイには、彼にかけてやれる言葉はなかった。
「死の間際に、彼女が俺の名前をうわ言のように繰り返していたそうだ。
だから、彼女の知らせを別れていたはずの俺が受け取ることができた。」
彼女もまた、結婚した後もずっと老人を愛していたのだろうか。
それでも、老人の「幸せになってほしい」という願いを受け止めて、死ぬまでずっと頑張って生きたんだ。
他の男の隣で妻になった後も、他の男に抱かれている時も、彼女が老人だけを想い続けていたのだとしたら、それはどれほど彼女を苦しめていたのだろう。
もし、結婚相手が愛に溢れた男だったのだとしても、それでも、優しい彼女は昔の男を愛し続けてしまう自分の罪深さに苦しんだのではないだろうか。
果たしてそれは、本当に彼女にとっての幸せだったのか。老人が願った幸せだったのか。
「彼女の死の知らせを聞いた俺が駆けつけた時にはもう、彼女は小さな墓の下で眠っていた。
最期の姿すら見れなかった。それからもずっと俺以外に、彼女の墓を参りにくる奴は1人もいない。
俺が選択を間違えたから、なまえはひとりぼっちになってしまった。だからーーーー。」
老人が振り返り、リヴァイをまっすぐに見つめる。
グレイヘアから覗く切長の瞳からは、少し前まであった力強い意志は消えていた。
不安と悲しみで満ちている。でもそこに、彼はほんの少しの希望を捉えようとしているようにも見えた。
「お願いだ。俺の代わりに、彼女を救ってくれ。
まだ彼女は生きてる。手遅れなんかじゃない。お前なら、まだやり直せる。
俺のように…、永遠に失ってから、後悔しないでくれ…!」
老人が悲鳴のような声を上げた。
この瞬間に、リヴァイは、自分がなぜ見ず知らずの老人に胸の内をこぼしてしまったのかを理解した気がした。
リヴァイは、車椅子のハンドルから手を離すと、老人に背を向けて駆け出した。
今すぐに、なまえを迎えに行かなければならない。
それがどんなに困難でも、愚かな行動だとしても、きっとこれが彼女の幸せに繋がると信じて、守り続けるのだ。
なまえを守り生きること、それが自分が生を受けたときに授けられた使命なのだと今、強く思った。
(巨人がなんだ、世界がなんだ…!
その全てから、俺がなまえを守ってやればいいだけだ…!)
リヴァイは、唇を噛んで、駆けるスピードを上げた。
もう諦めない。彼女と共に生きる未来を守るのだーーーー。
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