その夜に、沈む
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リヴァイは、執務室で、部下から預かった報告書の確認をしていた。
見慣れた文字の中に、ペトラの几帳面で読みやすい文字を見つけて、思わず手が止まる。
頼りになる班員として、ペトラは常にリヴァイのそばにいた。
でも、それも、別れを告げたあの日までの話だ。
あれから、ペトラとは、訓練の最中も目が合わない。
彼女に対して同じようなことをした記憶がある。
理由は違えど、目を逸らされるツラさを、身に沁みて思い知っているところだ。
『私じゃ…、どうしてもだめなんですか…。』
他に好きな女ができたことを告げると、ペトラは、とうとう泣きだした。
大きな瞳に涙を溢れさせて、それでも堪えきれなかった涙が、幾つも幾つも白く綺麗な頬を零れて流れた。
あのとき、その涙を拭い、弱弱しく震える肩を抱きしめれば、ペトラはリヴァイを許したのだろう。
でも、リヴァイが、自分を許せなかった。
嘘を吐いて、ペトラのそばにいることは、出来なかった————。
ガチャ————執務室の扉が主人の断りなしに勝手に開いた音がして、リヴァイは、寄り道をしていた思考を止める。
調査兵団兵舎、兵士長の執務室に、我がもの顔で部屋に入ってくる人物は、限られている。
それに、リヴァイ自身も、そろそろだろうと思っていた。
怒りに任せて扉が開いたような騒がしい音に、焦りも驚きもせずに、冷静でいられたのは、その為だ。
リヴァイは、開いていた複数の報告書を綺麗にまとめてから、ゆっくりと首を後ろに向け、振り向いた。
思った通り、そこにいたのはハンジだ。
長く居座る気なのか、中央のソファに腰かけている。
「こんな時間にさ、ペトラが悲しそうな顔をして出て行ったんだよ。
心配だろう?
リヴァイなら、どこに行ったか知ってるんじゃないかと思ってさ。」
いつもの軽い口調に似ていたけれど、そこには隠す気のない棘があった。
リヴァイは、胸ポケットから懐中時計を取り出す。
確かに、こんな時間と表現してもおかしくない時間だ。
報告書の確認に集中し過ぎているうちに、こんな時間になっていたのかと驚いた。
こんな夜遅くに兵舎を出たのなら、ペトラが向かう場所はひとつしかない。
「きっと馴染みのバーだ。
ペトラが姉のように慕ってる女の店だから、問題ねぇ。」
「それでも、帰りが遅くなったら心配だろう。
店主が女性なら尚更だ。店主に送ってもらうわけにも行かないし。
このご時世、真夜中に女性が襲われたなんて話はよく聞くよ。」
「あぁ、そうだな。
遅くなるようなら、俺が———。」
そこまで言って、リヴァイは言葉を切った。
自分が迎えには行けない。
今はもうペトラの恋人ではないし、上司として迎えに行くことなら出来なくもないが、そこにはなまえがいる。
もう二度と、なまえには会わないと決めたのだ。
顔を見たら、またきっと———。
「オルオあたりに迎えに行かせる。」
「どうしてリヴァイが行かないの?」
別れたことを知っているくせに———。
少しキツめに責めるようなハンジは、とぼけているつもりなわけではないらしい。
「俺が行ってもペトラが困るだけだろ。
俺達はもう別れたんだ。」
ハッキリ告げることで、話を終わらせたかった。
でも、ハンジは簡単には引き下がってはくれなかった。
むしろ、話したいことは別にあったのだ。
「違うだろ。ペトラが姉のように慕ってるその店主に、会いたくないんだろ。」
「…!」
「ペトラがそばにいるときには、ね。
じゃなきゃ、キスもなにもできないもんね。」
痛いくらいに見開いたリヴァイの目は、瞬きを忘れていた。
ハンジが愛用している眼鏡の向こうで、悪い男を責めるように、瞳が鋭く光っている。
「ペトラと別れたって知って、驚いたんだ。
でも、最近、リヴァイはよく夜にどこかへ出かけていたし、
昼間も兵舎からいなくなることが多かった。それが何か関係あると思って———。」
つけられていた————。
さすがというべきか、周囲の気配には人一倍敏感なはずのリヴァイだけれど、ハンジにつけられているなんて、全く気付かなかった。
そしてハンジは、最後になまえの店に行ったあの夜、2人がキスをしているのを見て、すべてを悟ってしまった。
「————本気なの?」
ハンジが、真っ直ぐにリヴァイを見る。
その瞳は、どちらの答えも望んでいないのだと思う。
本気だと言ったところで、遊びだと言ったところで、ハンジは許さないのだろう。
それなら、リヴァイの答えは、ひとつに決まっていた。
「あぁ。本気だ。」
リヴァイがそう答えた途端に、部屋の空気が一気に張りつめた。
普段は好奇心いっぱいの奇行種のようにヘラヘラとしているハンジだけれど、死亡率の高い調査兵団で分隊長にまで昇りつめ、団長であるエルヴィンからも厚い信頼を勝ち取っているのだ。
彼女が怒ったときの圧は、リヴァイでさえも、気負いされそうになる。
特に、温厚なハンジが、仲間のために怒りをあらわにしているときは、尚更だ。
「なら、どうしてペトラと恋人になったんだ!
私は言ったはずだよ!彼女を傷つけたら許さないよって!
リヴァイは、そんなことにはならないと言わなかったか!?」
ハンジが声を荒げる。
それも仕方のないこと、当然だ。
リヴァイも、ハンジから警告された時のことをよく覚えている。
ペトラから告白を受ける前日だった。
もしも、気持ちを打ち明けられたらどうするのかと、冗談交じりで話題を振られたのだ。
あのとき、きっと、ハンジはペトラが告白をする気になったことを知っていたのだろう。
同じ職場、しかもペトラはリヴァイの班員だ。
その立場上、恋人になればいろいろなところで影響が出てくるかもしれない。
もしも、気持ちが離れてしまい、別れることになったら、気まずいのは当事者同士だけではない。
それだけではない。
調査兵達は、常に、残酷な死の可能性に晒されている。
死に別れの恋人達なんて、今までも嫌というほどに多く見てきた。
ずっと一途にリヴァイを想い続けてきたペトラの相談役だったハンジは、まるで天国から地獄に突き落とされるように、恋が実ってから傷つくよりは、初めから恋人にならない方が良いとも考えていたようだった。
それはきっと、ハンジ自身が、リヴァイが、今までどういうつもりで恋人を作らなかったかを知っているほどに、長い付き合いの友人だったからというのもあるのだと思う。
「それは、悪かったと思ってる。
ペトラにも謝った。」
「謝ったって…。」
ハンジが呆れたように、掠れたような失笑を漏らす。
そして、目を見開き、怖い顔で大きく口を開いた。
「謝るくらいなら、初めからちゃんと振ってやれよ!
リヴァイの気持ちとペトラの気持ちの温度差くらい、知ってたさ!
それでも、これから好きになれると思ったんだろう!?
リヴァイだって確かに、ペトラを愛おしそうに見てたじゃないか!!」
言い返す言葉もない。
ハンジの言う通りなのだ。
大切だった。それは、嘘じゃない。
友人達から指摘されるまで、彼女の恋心に気づくことはなかったけれど、知った後も嫌だとは思わなかった。
ペトラは、気遣いの出来る優しい強さを持っている女性だ。
恋愛に特に興味があるわけでもなければ、殺伐とした世界で巨人を殺すことを生業にしている自分と〝恋〟というのは、程遠い存在だと信じていた。
でも、ペトラのことなら、愛せる気がした。
これから、誰よりも愛おしい女性になっていくのだろうと、その恋心を伝えらえられていないときから、漠然と感じていたのも嘘じゃない。
あとは、どちらが先にそれを言葉にするのかだけだったときに、ペトラから告白をされて、調査兵という立場上、恋人という存在を作ってもいいのかと悩んだけれど、悲しい顔をさせたくなくて、受け入れた。
でも今、それを死ぬほど後悔している。
「相手の女だって、頭がおかしいんじゃないのか!?
自分のことを姉のように慕ってくれてるペトラの恋人を
よく寝とれたもんだよ!そして今夜は、何も知らない顔をしてペトラを慰めるのかい!?
最低だな!!同じ女として、反吐が出る!」
「なまえは悪くねぇ!!」
なまえを悪く言われて、カッとなった。
思わず、怒鳴ってしまい、ハッとして「すまない。」と小さな声で謝る。
なまえのことになると、理性よりも感情が先に動く。
だから、なまえに会うのは怖かった。
でも、会いたかった。そばにいたかった。
妹のように可愛がってるペトラの恋人としてでもいいから、会いたかった。
でもすぐに、それだけでは、足りなくなった。
触れたくなった。欲しくなった。
重なる切ない視線の先に、夢を見てしまった———。
「彼女の為なら、初めて感情をあらわにして庇うんだ。」
「悪いのは、すべて俺だ。アイツはいつも、俺を避けようとしてた。
ペトラを守ろうとしていたのに、俺が無理やり気持ちを押し付けた。
アイツは何も悪くねぇんだ。だから、悪く言うのはやめてくれ。」
「でも、リヴァイと寝たんだろう?知ってるよ、出張の日、帰りが遅れたよね。
あの日、リヴァイと女がホテルに入ったのをモブリットが見たんだ。
ずっと…、黙ってたみたいだけど…。今夜、悲しそうに兵舎を出て行くペトラを見て
黙っていられなくなったと、私のところに来たよ。」
そういうことか———と、今夜になってやっとハンジがやってきた理由も、彼女がひどく怒っている理由も、納得した。
悪いことをすれば、どこかで必ずバレるのだ。
隠し通すことなんて出来ない。
どんなにうまい嘘を重ねても、どこかに必ず綻びが生まれる。
だから、リヴァイは、これ以上は自分の気持ちを誤魔化さずに、ペトラと別れることを選んだ。
「帰る道が塞がれて———。」
「言い訳はいいよ。あの大雨の日のことは、モブリットから事情は聞いてる。
同じ理由で宿を探してたわけだからね。あの夜も、彼女の方から誘ったわけでもないのかもしれない。
リヴァイが嘘を吐く男じゃないことも知ってる。
別れを告げたのだって優しさなんだろう。彼女も、ペトラに知られないようにしているのは
きっとペトラが可愛いからなんだろうね。でも…、私はどうしても、許せないんだよ…っ。」
ハンジの声は、怒りと悲しみで、震えていた。
リヴァイが別れを告げたのは、これ以上、ペトラを裏切り、傷つけたくなかったからだ。
でも、それは本当に優しさだったのだろうか。
なまえへの気持ちに蓋をして、ペトラを愛するように努力をしてやった方が、彼女達は幸せだったのかもしれない。
きっと、本当の優しさというのを持っているのは、ハンジなのだろう。
でも、どうしても、出来なかった。
初めてなまえに会った日、重なった瞳に心臓が高鳴って、頭の奥で何かが警告し始めたときから、これ以上近づいてはいけないと気づいていた。
でも、恋人がいるリヴァイにとっては〝恋〟とは呼んではいけない感情だと理解してしまったときにはもう、気持ちは抑えられずに、なまえを求めていた。
いつか、なまえが間違いを犯してくれることを望んだ。なまえが間違いを犯すようにミスリードしようと狡賢いこともした。
そんな駆け引きも面倒になって、自分の気持ちをなまえに押し付け、抱いた。
「———好きなの?」
「あぁ。」
「ペトラより?」
「・・・あぁ。」
「どうしても?」
「そうじゃねぇなら、ペトラと別れねぇし、
どんな事情があっても、他の女と宿には入らねぇ。」
「そうだよね。そういうところも潔癖なのがリヴァイだって
私も、モブリットも知ってる。
だから、あぁ〜…。」
諦めたとは違うのかもしれないけれど、ハンジはそう言うと、俯き大きく息を吐き、両手で頭を抱えた。
どうしようもない空気が流れる。
きっと、頭のいいハンジは、これから起こりうるいろんな想定をして、最低な気分になっているのだろう。
だってどれもすべて、ペトラが傷つき、悲しむものだろうから———。
「心配するな。」
「無理だよ。」
ハンジが顔を上げる。
「どうすんの、これから。隠すっていっても、リヴァイとその女が付き合ってることは
いつかきっとペトラにバレるよ。」
「付き合ってねぇ。」
「それは今は、ってことだろ。妹のように可愛がってるコの恋人と寝ちゃうってことは、
その女もリヴァイに気があるに決まってる。
もしそうじゃなくたって、そんな危ない関係、バレないわけがない。」
「バレねぇ。」
「どうしてそんなこと言い切れるんだよ!」
ハンジが、また声を荒げた。
怒りと焦りが、彼女の感情をかき乱しているのだろう。
でも、リヴァイはいたって冷静だった。
なぜなら———。
「これから一生、俺達が会うことはねぇ。」
「・・・は?」
「お前が、俺とアイツが一緒にいるのを見た夜から今日まで、一度も会ってねぇし、今後もねぇ。」
「なんで、そんな…。」
ハンジは俯くと、小さくブツブツと喋りだした。
あの夜から今日までのリヴァイの行動を思い返しているのだろう。
しばらくしてから、ハンジは顔を上げて、口を開いた。
「本当に、もう会わないの?」
夜に、リヴァイが兵舎から出かけるところを見かけていないことを記憶から確認したのだろう。
今日まで会っていないという話を信じてくれたようだ。
「会わねぇ。」
「どうして?ペトラに申し訳ないから?」
それも、間違いではない。
きっと正解だ。
でも、一番は、そうではないのだ。
「アイツにとって、俺の気持ちは迷惑だった。」
言いながら、リヴァイは、無意識に視線を落としていた。
あのとき、いや、なまえへの気持ちを自覚してからずっと、賭けをしているようだった。
一言一言、小さな仕草のすべてに、願ってはいけない期待をした。
そしてあのとき、最後の賭けに負けたのだ。
ショックだった。悲しかった。
でも、仕方がないとも思った。
だって———。
リヴァイは、無意識に下がっていた視線を、今度は意識的に上げる。
「なまえにとって、ペトラは大切な妹だ。それを知っていて、俺が無理やり抱いちまったが、
アイツはずっと、後悔してた。なまえが、俺よりも、ペトラの笑顔を守ることが大切だと
思ってるなら、その気持ちを大切にしてやりたい。
ペトラの姉でいたいなまえを、これ以上、苦しめて、傷つけたくねぇ。」
どうして、あの日、簡単に引き下がってしまったのだろう———これでよかったと自分に言い聞かせる度に、手を伸ばせば掴めたかもしれなかったなまえに背を向けたことを後悔していた。
でも、ハンジが、真っ直ぐにぶつかってくれたおかげで、やっと理解した。
リヴァイは、自分の気持ちよりも、ペトラの気持ちよりも、なまえの気持ちを優先したかったのだ。
いつの間にか、なまえを、心から愛してしまっていたから———。
「そうか。分かったよ。」
ハンジがゆっくりと頷いて、立ち上がる。
「でも、私にとってはペトラと同じようにリヴァイだって大切な友人なんだよ。
幸せになって欲しいと思っている。だから、それが本当に正しい答えなのかは、
またゆっくりと時間をかけて考えるのも良いんじゃないかと思うよ。」
出来れば、君の愛する人と一緒にね————背を向けて、ハンジはそう続けた。
「一方的に怒ってしまって申し訳なかった。」
ハンジの謝罪が聞こえてすぐに、扉が閉まる。
今更、何を考えなおせばいいのだろうか。
リヴァイは、椅子の背もたれに背中を預けて天井を見上げた。
見慣れないシミを見つけて、零した舌打ちが、静かすぎる部屋に虚しく響いた。
見慣れた文字の中に、ペトラの几帳面で読みやすい文字を見つけて、思わず手が止まる。
頼りになる班員として、ペトラは常にリヴァイのそばにいた。
でも、それも、別れを告げたあの日までの話だ。
あれから、ペトラとは、訓練の最中も目が合わない。
彼女に対して同じようなことをした記憶がある。
理由は違えど、目を逸らされるツラさを、身に沁みて思い知っているところだ。
『私じゃ…、どうしてもだめなんですか…。』
他に好きな女ができたことを告げると、ペトラは、とうとう泣きだした。
大きな瞳に涙を溢れさせて、それでも堪えきれなかった涙が、幾つも幾つも白く綺麗な頬を零れて流れた。
あのとき、その涙を拭い、弱弱しく震える肩を抱きしめれば、ペトラはリヴァイを許したのだろう。
でも、リヴァイが、自分を許せなかった。
嘘を吐いて、ペトラのそばにいることは、出来なかった————。
ガチャ————執務室の扉が主人の断りなしに勝手に開いた音がして、リヴァイは、寄り道をしていた思考を止める。
調査兵団兵舎、兵士長の執務室に、我がもの顔で部屋に入ってくる人物は、限られている。
それに、リヴァイ自身も、そろそろだろうと思っていた。
怒りに任せて扉が開いたような騒がしい音に、焦りも驚きもせずに、冷静でいられたのは、その為だ。
リヴァイは、開いていた複数の報告書を綺麗にまとめてから、ゆっくりと首を後ろに向け、振り向いた。
思った通り、そこにいたのはハンジだ。
長く居座る気なのか、中央のソファに腰かけている。
「こんな時間にさ、ペトラが悲しそうな顔をして出て行ったんだよ。
心配だろう?
リヴァイなら、どこに行ったか知ってるんじゃないかと思ってさ。」
いつもの軽い口調に似ていたけれど、そこには隠す気のない棘があった。
リヴァイは、胸ポケットから懐中時計を取り出す。
確かに、こんな時間と表現してもおかしくない時間だ。
報告書の確認に集中し過ぎているうちに、こんな時間になっていたのかと驚いた。
こんな夜遅くに兵舎を出たのなら、ペトラが向かう場所はひとつしかない。
「きっと馴染みのバーだ。
ペトラが姉のように慕ってる女の店だから、問題ねぇ。」
「それでも、帰りが遅くなったら心配だろう。
店主が女性なら尚更だ。店主に送ってもらうわけにも行かないし。
このご時世、真夜中に女性が襲われたなんて話はよく聞くよ。」
「あぁ、そうだな。
遅くなるようなら、俺が———。」
そこまで言って、リヴァイは言葉を切った。
自分が迎えには行けない。
今はもうペトラの恋人ではないし、上司として迎えに行くことなら出来なくもないが、そこにはなまえがいる。
もう二度と、なまえには会わないと決めたのだ。
顔を見たら、またきっと———。
「オルオあたりに迎えに行かせる。」
「どうしてリヴァイが行かないの?」
別れたことを知っているくせに———。
少しキツめに責めるようなハンジは、とぼけているつもりなわけではないらしい。
「俺が行ってもペトラが困るだけだろ。
俺達はもう別れたんだ。」
ハッキリ告げることで、話を終わらせたかった。
でも、ハンジは簡単には引き下がってはくれなかった。
むしろ、話したいことは別にあったのだ。
「違うだろ。ペトラが姉のように慕ってるその店主に、会いたくないんだろ。」
「…!」
「ペトラがそばにいるときには、ね。
じゃなきゃ、キスもなにもできないもんね。」
痛いくらいに見開いたリヴァイの目は、瞬きを忘れていた。
ハンジが愛用している眼鏡の向こうで、悪い男を責めるように、瞳が鋭く光っている。
「ペトラと別れたって知って、驚いたんだ。
でも、最近、リヴァイはよく夜にどこかへ出かけていたし、
昼間も兵舎からいなくなることが多かった。それが何か関係あると思って———。」
つけられていた————。
さすがというべきか、周囲の気配には人一倍敏感なはずのリヴァイだけれど、ハンジにつけられているなんて、全く気付かなかった。
そしてハンジは、最後になまえの店に行ったあの夜、2人がキスをしているのを見て、すべてを悟ってしまった。
「————本気なの?」
ハンジが、真っ直ぐにリヴァイを見る。
その瞳は、どちらの答えも望んでいないのだと思う。
本気だと言ったところで、遊びだと言ったところで、ハンジは許さないのだろう。
それなら、リヴァイの答えは、ひとつに決まっていた。
「あぁ。本気だ。」
リヴァイがそう答えた途端に、部屋の空気が一気に張りつめた。
普段は好奇心いっぱいの奇行種のようにヘラヘラとしているハンジだけれど、死亡率の高い調査兵団で分隊長にまで昇りつめ、団長であるエルヴィンからも厚い信頼を勝ち取っているのだ。
彼女が怒ったときの圧は、リヴァイでさえも、気負いされそうになる。
特に、温厚なハンジが、仲間のために怒りをあらわにしているときは、尚更だ。
「なら、どうしてペトラと恋人になったんだ!
私は言ったはずだよ!彼女を傷つけたら許さないよって!
リヴァイは、そんなことにはならないと言わなかったか!?」
ハンジが声を荒げる。
それも仕方のないこと、当然だ。
リヴァイも、ハンジから警告された時のことをよく覚えている。
ペトラから告白を受ける前日だった。
もしも、気持ちを打ち明けられたらどうするのかと、冗談交じりで話題を振られたのだ。
あのとき、きっと、ハンジはペトラが告白をする気になったことを知っていたのだろう。
同じ職場、しかもペトラはリヴァイの班員だ。
その立場上、恋人になればいろいろなところで影響が出てくるかもしれない。
もしも、気持ちが離れてしまい、別れることになったら、気まずいのは当事者同士だけではない。
それだけではない。
調査兵達は、常に、残酷な死の可能性に晒されている。
死に別れの恋人達なんて、今までも嫌というほどに多く見てきた。
ずっと一途にリヴァイを想い続けてきたペトラの相談役だったハンジは、まるで天国から地獄に突き落とされるように、恋が実ってから傷つくよりは、初めから恋人にならない方が良いとも考えていたようだった。
それはきっと、ハンジ自身が、リヴァイが、今までどういうつもりで恋人を作らなかったかを知っているほどに、長い付き合いの友人だったからというのもあるのだと思う。
「それは、悪かったと思ってる。
ペトラにも謝った。」
「謝ったって…。」
ハンジが呆れたように、掠れたような失笑を漏らす。
そして、目を見開き、怖い顔で大きく口を開いた。
「謝るくらいなら、初めからちゃんと振ってやれよ!
リヴァイの気持ちとペトラの気持ちの温度差くらい、知ってたさ!
それでも、これから好きになれると思ったんだろう!?
リヴァイだって確かに、ペトラを愛おしそうに見てたじゃないか!!」
言い返す言葉もない。
ハンジの言う通りなのだ。
大切だった。それは、嘘じゃない。
友人達から指摘されるまで、彼女の恋心に気づくことはなかったけれど、知った後も嫌だとは思わなかった。
ペトラは、気遣いの出来る優しい強さを持っている女性だ。
恋愛に特に興味があるわけでもなければ、殺伐とした世界で巨人を殺すことを生業にしている自分と〝恋〟というのは、程遠い存在だと信じていた。
でも、ペトラのことなら、愛せる気がした。
これから、誰よりも愛おしい女性になっていくのだろうと、その恋心を伝えらえられていないときから、漠然と感じていたのも嘘じゃない。
あとは、どちらが先にそれを言葉にするのかだけだったときに、ペトラから告白をされて、調査兵という立場上、恋人という存在を作ってもいいのかと悩んだけれど、悲しい顔をさせたくなくて、受け入れた。
でも今、それを死ぬほど後悔している。
「相手の女だって、頭がおかしいんじゃないのか!?
自分のことを姉のように慕ってくれてるペトラの恋人を
よく寝とれたもんだよ!そして今夜は、何も知らない顔をしてペトラを慰めるのかい!?
最低だな!!同じ女として、反吐が出る!」
「なまえは悪くねぇ!!」
なまえを悪く言われて、カッとなった。
思わず、怒鳴ってしまい、ハッとして「すまない。」と小さな声で謝る。
なまえのことになると、理性よりも感情が先に動く。
だから、なまえに会うのは怖かった。
でも、会いたかった。そばにいたかった。
妹のように可愛がってるペトラの恋人としてでもいいから、会いたかった。
でもすぐに、それだけでは、足りなくなった。
触れたくなった。欲しくなった。
重なる切ない視線の先に、夢を見てしまった———。
「彼女の為なら、初めて感情をあらわにして庇うんだ。」
「悪いのは、すべて俺だ。アイツはいつも、俺を避けようとしてた。
ペトラを守ろうとしていたのに、俺が無理やり気持ちを押し付けた。
アイツは何も悪くねぇんだ。だから、悪く言うのはやめてくれ。」
「でも、リヴァイと寝たんだろう?知ってるよ、出張の日、帰りが遅れたよね。
あの日、リヴァイと女がホテルに入ったのをモブリットが見たんだ。
ずっと…、黙ってたみたいだけど…。今夜、悲しそうに兵舎を出て行くペトラを見て
黙っていられなくなったと、私のところに来たよ。」
そういうことか———と、今夜になってやっとハンジがやってきた理由も、彼女がひどく怒っている理由も、納得した。
悪いことをすれば、どこかで必ずバレるのだ。
隠し通すことなんて出来ない。
どんなにうまい嘘を重ねても、どこかに必ず綻びが生まれる。
だから、リヴァイは、これ以上は自分の気持ちを誤魔化さずに、ペトラと別れることを選んだ。
「帰る道が塞がれて———。」
「言い訳はいいよ。あの大雨の日のことは、モブリットから事情は聞いてる。
同じ理由で宿を探してたわけだからね。あの夜も、彼女の方から誘ったわけでもないのかもしれない。
リヴァイが嘘を吐く男じゃないことも知ってる。
別れを告げたのだって優しさなんだろう。彼女も、ペトラに知られないようにしているのは
きっとペトラが可愛いからなんだろうね。でも…、私はどうしても、許せないんだよ…っ。」
ハンジの声は、怒りと悲しみで、震えていた。
リヴァイが別れを告げたのは、これ以上、ペトラを裏切り、傷つけたくなかったからだ。
でも、それは本当に優しさだったのだろうか。
なまえへの気持ちに蓋をして、ペトラを愛するように努力をしてやった方が、彼女達は幸せだったのかもしれない。
きっと、本当の優しさというのを持っているのは、ハンジなのだろう。
でも、どうしても、出来なかった。
初めてなまえに会った日、重なった瞳に心臓が高鳴って、頭の奥で何かが警告し始めたときから、これ以上近づいてはいけないと気づいていた。
でも、恋人がいるリヴァイにとっては〝恋〟とは呼んではいけない感情だと理解してしまったときにはもう、気持ちは抑えられずに、なまえを求めていた。
いつか、なまえが間違いを犯してくれることを望んだ。なまえが間違いを犯すようにミスリードしようと狡賢いこともした。
そんな駆け引きも面倒になって、自分の気持ちをなまえに押し付け、抱いた。
「———好きなの?」
「あぁ。」
「ペトラより?」
「・・・あぁ。」
「どうしても?」
「そうじゃねぇなら、ペトラと別れねぇし、
どんな事情があっても、他の女と宿には入らねぇ。」
「そうだよね。そういうところも潔癖なのがリヴァイだって
私も、モブリットも知ってる。
だから、あぁ〜…。」
諦めたとは違うのかもしれないけれど、ハンジはそう言うと、俯き大きく息を吐き、両手で頭を抱えた。
どうしようもない空気が流れる。
きっと、頭のいいハンジは、これから起こりうるいろんな想定をして、最低な気分になっているのだろう。
だってどれもすべて、ペトラが傷つき、悲しむものだろうから———。
「心配するな。」
「無理だよ。」
ハンジが顔を上げる。
「どうすんの、これから。隠すっていっても、リヴァイとその女が付き合ってることは
いつかきっとペトラにバレるよ。」
「付き合ってねぇ。」
「それは今は、ってことだろ。妹のように可愛がってるコの恋人と寝ちゃうってことは、
その女もリヴァイに気があるに決まってる。
もしそうじゃなくたって、そんな危ない関係、バレないわけがない。」
「バレねぇ。」
「どうしてそんなこと言い切れるんだよ!」
ハンジが、また声を荒げた。
怒りと焦りが、彼女の感情をかき乱しているのだろう。
でも、リヴァイはいたって冷静だった。
なぜなら———。
「これから一生、俺達が会うことはねぇ。」
「・・・は?」
「お前が、俺とアイツが一緒にいるのを見た夜から今日まで、一度も会ってねぇし、今後もねぇ。」
「なんで、そんな…。」
ハンジは俯くと、小さくブツブツと喋りだした。
あの夜から今日までのリヴァイの行動を思い返しているのだろう。
しばらくしてから、ハンジは顔を上げて、口を開いた。
「本当に、もう会わないの?」
夜に、リヴァイが兵舎から出かけるところを見かけていないことを記憶から確認したのだろう。
今日まで会っていないという話を信じてくれたようだ。
「会わねぇ。」
「どうして?ペトラに申し訳ないから?」
それも、間違いではない。
きっと正解だ。
でも、一番は、そうではないのだ。
「アイツにとって、俺の気持ちは迷惑だった。」
言いながら、リヴァイは、無意識に視線を落としていた。
あのとき、いや、なまえへの気持ちを自覚してからずっと、賭けをしているようだった。
一言一言、小さな仕草のすべてに、願ってはいけない期待をした。
そしてあのとき、最後の賭けに負けたのだ。
ショックだった。悲しかった。
でも、仕方がないとも思った。
だって———。
リヴァイは、無意識に下がっていた視線を、今度は意識的に上げる。
「なまえにとって、ペトラは大切な妹だ。それを知っていて、俺が無理やり抱いちまったが、
アイツはずっと、後悔してた。なまえが、俺よりも、ペトラの笑顔を守ることが大切だと
思ってるなら、その気持ちを大切にしてやりたい。
ペトラの姉でいたいなまえを、これ以上、苦しめて、傷つけたくねぇ。」
どうして、あの日、簡単に引き下がってしまったのだろう———これでよかったと自分に言い聞かせる度に、手を伸ばせば掴めたかもしれなかったなまえに背を向けたことを後悔していた。
でも、ハンジが、真っ直ぐにぶつかってくれたおかげで、やっと理解した。
リヴァイは、自分の気持ちよりも、ペトラの気持ちよりも、なまえの気持ちを優先したかったのだ。
いつの間にか、なまえを、心から愛してしまっていたから———。
「そうか。分かったよ。」
ハンジがゆっくりと頷いて、立ち上がる。
「でも、私にとってはペトラと同じようにリヴァイだって大切な友人なんだよ。
幸せになって欲しいと思っている。だから、それが本当に正しい答えなのかは、
またゆっくりと時間をかけて考えるのも良いんじゃないかと思うよ。」
出来れば、君の愛する人と一緒にね————背を向けて、ハンジはそう続けた。
「一方的に怒ってしまって申し訳なかった。」
ハンジの謝罪が聞こえてすぐに、扉が閉まる。
今更、何を考えなおせばいいのだろうか。
リヴァイは、椅子の背もたれに背中を預けて天井を見上げた。
見慣れないシミを見つけて、零した舌打ちが、静かすぎる部屋に虚しく響いた。