その夜に、沈む
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「悪いのは私じゃないとか、そんなのズルいよぉ~。」
カウンターに突っ伏して、ペトラが泣きながら声を上げる。
顔を隠すように折り曲げている腕のそばには、空になったグラスが幾つも残っている。
外の扉には、CLOSEの札を下げておいた。
今夜は、ペトラの貸切だ。それでも、お酒やつまみを作りながらだと、ペトラの飲み干すスピードに追い付けず、グラスの片づけが間に合わない。
特にお酒が弱いわけではないけれど、強くもない彼女は、酔っぱらうと泣き上戸になるのか。それとも、今回だけは特別なのかもしれない。
別れを告げられたとき、リヴァイに言いたかったけれど、言えなかったことを、必死にここで解消しようとしているのだろう。
「いっそ、私が悪いって言ってくれたら、直そうとするし
それでもダメなら、諦めがつくのにぃ。」
ペトラの泣き声は、止まらない。
さっきから、同じセリフの繰り返しだ。
リヴァイは、好きな人が誰なのかは言わなかったらしい。
そして、何とか食い下がろうと、また好きになってもらうように努力すると言ってみたようだが『ペトラは悪くない。悪いのはすべて俺だ。』と、気持ちを切り替えてもらうことも出来なかった。
リヴァイが自分から私とペトラの仲を壊すようなことを言うとは、初めから思っていない。
でも、もしかして、リヴァイが、大切なペトラに嘘を吐けずに、罪の意識から話してしまっていたら———そんな不安が、ずっとつきまとっていたのだ。
『全部、俺のせいにすればいい。
————悪いのは、俺だけでいい。
俺は今すぐ、お前を抱きたい。なまえが、欲しいー…。』
あの夜、リヴァイはそう言って、私を抱いた。
甘い誘惑と、リヴァイへの想いが、私を大胆に、そして、我儘にした。
今も私が覚えているあのセリフを、リヴァイが覚えていたのかは分からない。
でも、リヴァイはあのセリフの通り、すべてを自分の罪として、向き合っているのだろう。
どうやって隠して、どうやって今まで通り平然とペトラの姉でいようかと、そればかりを考えている私とは違って———。
「でも、好きな人が出来てしまったなんて、言いづらい別れの理由も
ちゃんと言ってくれるなんて、優しいと思うよ。誤魔化しちゃう男の人もいるし、同じ職場なら尚更。
そこをハッキリ言ってくれるって、それはリヴァイさんなりのペトラへの愛情だと思うな。」
自分でも気持ちが悪いくらいに、すらすらと慰めの言葉が出ていた。
ペトラの恋人と不貞を働き、もしかしたら、そのせいで別れたかもしれないのに、私は何を言っているのだろう。
自分で、自分が怖い。
でも、そんな私の醜さを知らない純粋なペトラは「私もそう思う。」とカウンターに突っ伏して小さく漏らす。
だから余計に、私は罪悪感に苛まれながら、自分の醜さを思い知る。
「あぁ、もう…っ。
別れて、何週間も経つのに、どうしてまだこんなに好きにさせるのぉ~っ。
優しくしないでよ、もっと好きになっちゃうよ~っ。」
カウンターに突っ伏したまま、泣きながらペトラが言う。
空いたグラスを洗っていた私の手が止まる。
昨日、もしくはここ数日の間に、リヴァイとペトラは別れたのだと思っていた。
別れたのが何週間も前なら、最近、カフェに毎晩のようにやってきていたリヴァイは、既にペトラと別れて、シングルになっていたということなのだろうか。
「そうなんだ、最近だと思ってたよ。」
私はまだ、平然を装っている。
でも、グラスを洗っている手には妙に力が入っている。
「紹介までしたのに、ごめんね。
本当はすぐになまえのところに来たかったんだけど
心の整理がつかなくて…。」
ゆっくりと顔を上げて、ペトラが申し訳なさそうに謝る。
泣き過ぎたせいか、目尻の辺りが赤くなっていて痛々しい。
「ううん、いいのよ。」
小さく首を横に振って微笑めば、ペトラがホッとしたように「ありがとう。」と笑う。
その笑みもまた痛々しくて、胸がズキリと痛んだ。
「2週間くらい前に、突然、別れて欲しいって言われたの。」
「そっか…。」
「大雨で出張から帰ってくるのが予定より遅れた翌日の夜、突然別れたいって、」
「え。」
ガシャーーーン———。
洗っていたグラスがシンクに落ちて割れた大きな音が、私の喉の奥から漏れた、掠れたような小さな声をかき消した。
「大丈夫!?」
ペトラが心配そうに何か言っているのは聞こえていた。
でも、私は見開いた目で、泡だらけのシンクの中央に散らばる割れたグラスの破片を凝視していた。
リヴァイが大雨のせいで帰りが遅れた出張には、身に覚えがある。
だって、その夜こそ、私とリヴァイが、同じ罪を背負った夜だからだ。
これが最後かもしれない———まるでそんな強迫観念に駆られているみたいに、私達は寝るのも忘れて夢中で身体を重ね合った。
そのせいで、目が覚めたのはチェックアウトの時間を過ぎてからで、リヴァイは連泊の代金を支払ってから、私を自宅も兼用しているこのカフェまで送ってくれたのだ。
「なまえ?どうしたの、大丈夫?」
ペトラに腕を掴まれて、ハッとして顔を上げた。
顔を上げて、慌てて言い訳をする。
「ごめん、泡で手が滑っちゃったみたいっ。
大きな音にビックリして、固まっちゃってた。」
「もう~、どうしたのかと思っちゃったよ~。
グラス割るの、今日だけで2回目だよ〜。
なまえって、しっかりしてそうだけど、抜けてるんだから。」
ペトラが、冗談めかして笑う。
私も「そうかなぁ。」と笑って誤魔化した。
急いで片付けた後、驚かせてしまったお詫びに、とペトラの好きなつまみを作って、おかわりのお酒と一緒に出す。
つまみを一口かじった後、ペトラは「さっきの続きなんだけど、」と話題を元に戻した。
私は、妹の恋の話を聞くお姉さんになりきって「うん、なぁに?」と首を傾げる。
「いつもなら、大雨で足止めされても、朝には帰ってくる人が、
昼過ぎにやっと帰ってきて、ずっと執務室にこもってた。
きっとあの大雨の夜、好きな人に会ってたんだよ。」
確信したように、ペトラが言う。
私に同意を求めるように、真っ直ぐに見つめる瞳は、優しい姉を求めているのだろう。
「そうとは限らないんじゃない?
どうしてそう思うの?」
「だって、帰ってきてからのリヴァイさん、明らかにおかしかったもん。
おかえりなさいって挨拶に行っても、どこか心ここにあらずで、私と目も合わせてくれなかったし。
きっと、真面目な人だから、私を裏切ってしまって普通には出来なかったんだと思うの。」
鋭い———平静を装おうとしていたのに、私の心臓は、緊張でバクバクと大きな音を立てるから、ペトラにも聞こえてしまうんじゃないかと余計に焦る。
ペトラの言うように、リヴァイの態度が、あからさまにおかしかったというのもあるのかもしれない。
でもきっと、女の直感というものより、ペトラが何年もただ一途にリヴァイだけを見つめてきたからこそわかる、彼の変化だったのだろう。
「そうかなぁ。私はあんまりリヴァイさんのことは知らないけど、
出張の帰りに浮気してくる人には見えなかったけどなぁ。」
「じゃあ、出張から帰ってきた日の態度がおかしかったのは
どうしてだと思うの?」
ペトラの口調は、どこか責めるように語尾を強くしていた。
そうだねと同意してくれると思っていた優しい姉が、リヴァイの肩を持ったのが悔しくて、寂しかったのだろう。
でも私は、自分を守ることに必死だった。
「大雨で帰りが遅れたことで、ひとりになる時間が増えて
これからのことをいろいろ考えちゃったのかもしれないよ?」
口から出まかせに違いなかった。
でも、適当でもない。
きっとリヴァイは、ひとりでいろんなことを考えたのだと思う。
だから、しっかりとペトラと向き合い、別れを告げた。
いまだに誤魔化すことばかり考えている私とは違う。
「…これからのこと?」
「ほら、調査兵団の兵士さんも時々、飲みに来ることがあるけど
恋人がいる人もいるし、いない人もいる。いない人の中には、
いつ死ぬか分からない自分が、大切な人を悲しませたくないって言ってる人もいたから…。」
「でも…、リヴァイさんは死なないよ…っ。」
「そうね、とても強い人だもんね。
だからこそ、沢山の仲間の恋人との悲しくて残酷な別れを見てしまったんじゃないかな。
そんな悲しい思い、ペトラにはさせたくなかったのかもしれないな、って、ふっとね、そう思ったのよ。」
眉尻を下げ、困ったような笑みを見せた。
他の誰かが見たら、失恋に悲しむペトラを慰める優しい姉に見えているだろう。
優しい姉の仮面の向こうに、可愛い妹の恋人を愛してしまった醜い女の顔が隠れているなんて、誰も思わない。
そして私は、これからもずっと、偽物の仮面をかぶって生きていくことを選んだ。
本当の意味でペトラを失わないように、優しい恋人の仮面を外し、本物の姿で彼女と向き合うことを選んだリヴァイは、いつかきっと、元通りとはいかなくても、職場の上司と部下という関係性を取り戻すのだろう。
そうではなくても、信頼し合える仲間という絆は今も消えていない。
ペトラを悲しませる勇気も、リヴァイを愛す勇気も持てなかった私は、継ぎ接ぎだらけの姉の仮面を必死に守り続けることしか選べなかった。
リヴァイのように、強くなれない。
「好きな人がいるって言ったのは、嘘ってこと?」
「ん~…、わからないけど。
私が見たリヴァイさんは、ペトラが愛おしくて仕方ないって顔をしてたから、信じられなくて。
そう言った方が、ペトラがしっかりと自分を忘れて、新しい恋をしてくれるって
そう思ったのかもしれないなって。」
少なくとも、リヴァイさんはペトラとまっすぐに向き合っているってことだよ———それだけは確かなことだから、無意識に、私の声にも力が入っていた。
婚約までしたのに、他に女を作って、そのことを伝えることも謝罪することもなく、私の前から姿を消した不誠実な男もいるのだ。
リヴァイは、ぶっきらぼうで不愛想で、冷たく見えるけれど、とても誠実で、優しくて、愛に溢れた人だ。
私も、気づいていた。知っている。
とても素敵な人で、恋人になれたら、とても大切にしてもらえるのだろう。
ペトラと話しながら、しみじみと感じている。
だからって、今更、どうにかしようとは思わないし、思ってはいけないのも分かっている。
私達は出逢うのが、遅すぎた———そんな言い訳も、彼を愛して愛されたペトラに失礼だ。
「———もし、そうなら…、リヴァイさんは勝手だよ…。
それでも私は、リヴァイさんの恋人でいたい…、愛してるのに…。」
しばらく黙り込んだ後、ペトラが、ポツリ、呟く。
「そうね。」
それでも愛してる———痛いほどわかる気持ちに、私の声も沈む。
「でも、」
ペトラが続ける。
「リヴァイさんに好きな人が出来たって言うのは、本当だと思う。
嘘を、吐くような人じゃないから…。
だから、好きになったんだもん。」
ペトラが目を伏せ、悲しそうに言う。
自分勝手な罪悪感を癒すために、優しさを装い、リヴァイのことまで悪く言っていたのだと、今更気づいて、ハッとしたと同時に、自分に嫌気がさした。
ひどく申し訳なく思っても、ペトラにも、リヴァイにも謝れない。
それも、自分の不貞をペトラに知られたくないという保身のために———。
「そっか。ペトラがそう思うのなら、そうなんだろうね。
ペトラが一番、リヴァイさんのことをきっとわかってるもの。
ずっと、見て来たんだもんね。」
コクン、と頷いた後、ペトラが続ける。
「今までずっと…、女の人の影なんかなかったし、興味ない人なんだと思ってた。
私が告白したときも、きっと私のことが好きだったんじゃなくて、優しいから断れなくて、
恋人になってくれたんだって知ってる。」
「そんな…っ、絶対にそんなことないよ…!
リヴァイさんは、ペトラが好きだから———。」
「ありがとう。でも、いいの。分かってたから。
それでもいいと思ってた。これから、本当に私のことを好きになってくれたらいいって…。」
でも———とそこまで言って、ペトラが言葉を切る。
顔を伏せた肩が、小さく震えている。
少し待つと、ペトラが大きく息を吸った。
「少し前から、夜に出歩くようになったの。帰りも遅いし、私に触れる手もぎこちなくて、
何かがおかしいって気づいてた。女の人がいるのかなって…、考えたりもした。
でも、リヴァイさんの優しさに甘えて、気づかないフリをした。
本当は…、別れ話だって、突然なんかじゃなくて、あぁやっぱりって…思ったの…。」
それでも、信じたくなくて————ペトラは両手で顔を覆う。
失恋の涙は、枯れることを知らないのかと疑いたくなるほどに、いつまでの流れ続けて、心をすり減らしていくことを、私も以前の恋で思い知っている。
今、その苦しみをペトラが抱えている。
しかもその原因は、私なのだ。
あぁ、それでも、リヴァイを愛している————会うことは拒んでも、この気持ちを無視することも捨てることも出来ない。
私の苦しみは、誰にも言えない。
言っちゃいけない。
その晩、ペトラは強めのお酒を飲みながら、リヴァイへの想いと悲しみを語り続けた。
優しいお姉さんの仮面をかぶり続ける私は、それを、水を飲みながら聞き続けた。
カウンターに突っ伏して、ペトラが泣きながら声を上げる。
顔を隠すように折り曲げている腕のそばには、空になったグラスが幾つも残っている。
外の扉には、CLOSEの札を下げておいた。
今夜は、ペトラの貸切だ。それでも、お酒やつまみを作りながらだと、ペトラの飲み干すスピードに追い付けず、グラスの片づけが間に合わない。
特にお酒が弱いわけではないけれど、強くもない彼女は、酔っぱらうと泣き上戸になるのか。それとも、今回だけは特別なのかもしれない。
別れを告げられたとき、リヴァイに言いたかったけれど、言えなかったことを、必死にここで解消しようとしているのだろう。
「いっそ、私が悪いって言ってくれたら、直そうとするし
それでもダメなら、諦めがつくのにぃ。」
ペトラの泣き声は、止まらない。
さっきから、同じセリフの繰り返しだ。
リヴァイは、好きな人が誰なのかは言わなかったらしい。
そして、何とか食い下がろうと、また好きになってもらうように努力すると言ってみたようだが『ペトラは悪くない。悪いのはすべて俺だ。』と、気持ちを切り替えてもらうことも出来なかった。
リヴァイが自分から私とペトラの仲を壊すようなことを言うとは、初めから思っていない。
でも、もしかして、リヴァイが、大切なペトラに嘘を吐けずに、罪の意識から話してしまっていたら———そんな不安が、ずっとつきまとっていたのだ。
『全部、俺のせいにすればいい。
————悪いのは、俺だけでいい。
俺は今すぐ、お前を抱きたい。なまえが、欲しいー…。』
あの夜、リヴァイはそう言って、私を抱いた。
甘い誘惑と、リヴァイへの想いが、私を大胆に、そして、我儘にした。
今も私が覚えているあのセリフを、リヴァイが覚えていたのかは分からない。
でも、リヴァイはあのセリフの通り、すべてを自分の罪として、向き合っているのだろう。
どうやって隠して、どうやって今まで通り平然とペトラの姉でいようかと、そればかりを考えている私とは違って———。
「でも、好きな人が出来てしまったなんて、言いづらい別れの理由も
ちゃんと言ってくれるなんて、優しいと思うよ。誤魔化しちゃう男の人もいるし、同じ職場なら尚更。
そこをハッキリ言ってくれるって、それはリヴァイさんなりのペトラへの愛情だと思うな。」
自分でも気持ちが悪いくらいに、すらすらと慰めの言葉が出ていた。
ペトラの恋人と不貞を働き、もしかしたら、そのせいで別れたかもしれないのに、私は何を言っているのだろう。
自分で、自分が怖い。
でも、そんな私の醜さを知らない純粋なペトラは「私もそう思う。」とカウンターに突っ伏して小さく漏らす。
だから余計に、私は罪悪感に苛まれながら、自分の醜さを思い知る。
「あぁ、もう…っ。
別れて、何週間も経つのに、どうしてまだこんなに好きにさせるのぉ~っ。
優しくしないでよ、もっと好きになっちゃうよ~っ。」
カウンターに突っ伏したまま、泣きながらペトラが言う。
空いたグラスを洗っていた私の手が止まる。
昨日、もしくはここ数日の間に、リヴァイとペトラは別れたのだと思っていた。
別れたのが何週間も前なら、最近、カフェに毎晩のようにやってきていたリヴァイは、既にペトラと別れて、シングルになっていたということなのだろうか。
「そうなんだ、最近だと思ってたよ。」
私はまだ、平然を装っている。
でも、グラスを洗っている手には妙に力が入っている。
「紹介までしたのに、ごめんね。
本当はすぐになまえのところに来たかったんだけど
心の整理がつかなくて…。」
ゆっくりと顔を上げて、ペトラが申し訳なさそうに謝る。
泣き過ぎたせいか、目尻の辺りが赤くなっていて痛々しい。
「ううん、いいのよ。」
小さく首を横に振って微笑めば、ペトラがホッとしたように「ありがとう。」と笑う。
その笑みもまた痛々しくて、胸がズキリと痛んだ。
「2週間くらい前に、突然、別れて欲しいって言われたの。」
「そっか…。」
「大雨で出張から帰ってくるのが予定より遅れた翌日の夜、突然別れたいって、」
「え。」
ガシャーーーン———。
洗っていたグラスがシンクに落ちて割れた大きな音が、私の喉の奥から漏れた、掠れたような小さな声をかき消した。
「大丈夫!?」
ペトラが心配そうに何か言っているのは聞こえていた。
でも、私は見開いた目で、泡だらけのシンクの中央に散らばる割れたグラスの破片を凝視していた。
リヴァイが大雨のせいで帰りが遅れた出張には、身に覚えがある。
だって、その夜こそ、私とリヴァイが、同じ罪を背負った夜だからだ。
これが最後かもしれない———まるでそんな強迫観念に駆られているみたいに、私達は寝るのも忘れて夢中で身体を重ね合った。
そのせいで、目が覚めたのはチェックアウトの時間を過ぎてからで、リヴァイは連泊の代金を支払ってから、私を自宅も兼用しているこのカフェまで送ってくれたのだ。
「なまえ?どうしたの、大丈夫?」
ペトラに腕を掴まれて、ハッとして顔を上げた。
顔を上げて、慌てて言い訳をする。
「ごめん、泡で手が滑っちゃったみたいっ。
大きな音にビックリして、固まっちゃってた。」
「もう~、どうしたのかと思っちゃったよ~。
グラス割るの、今日だけで2回目だよ〜。
なまえって、しっかりしてそうだけど、抜けてるんだから。」
ペトラが、冗談めかして笑う。
私も「そうかなぁ。」と笑って誤魔化した。
急いで片付けた後、驚かせてしまったお詫びに、とペトラの好きなつまみを作って、おかわりのお酒と一緒に出す。
つまみを一口かじった後、ペトラは「さっきの続きなんだけど、」と話題を元に戻した。
私は、妹の恋の話を聞くお姉さんになりきって「うん、なぁに?」と首を傾げる。
「いつもなら、大雨で足止めされても、朝には帰ってくる人が、
昼過ぎにやっと帰ってきて、ずっと執務室にこもってた。
きっとあの大雨の夜、好きな人に会ってたんだよ。」
確信したように、ペトラが言う。
私に同意を求めるように、真っ直ぐに見つめる瞳は、優しい姉を求めているのだろう。
「そうとは限らないんじゃない?
どうしてそう思うの?」
「だって、帰ってきてからのリヴァイさん、明らかにおかしかったもん。
おかえりなさいって挨拶に行っても、どこか心ここにあらずで、私と目も合わせてくれなかったし。
きっと、真面目な人だから、私を裏切ってしまって普通には出来なかったんだと思うの。」
鋭い———平静を装おうとしていたのに、私の心臓は、緊張でバクバクと大きな音を立てるから、ペトラにも聞こえてしまうんじゃないかと余計に焦る。
ペトラの言うように、リヴァイの態度が、あからさまにおかしかったというのもあるのかもしれない。
でもきっと、女の直感というものより、ペトラが何年もただ一途にリヴァイだけを見つめてきたからこそわかる、彼の変化だったのだろう。
「そうかなぁ。私はあんまりリヴァイさんのことは知らないけど、
出張の帰りに浮気してくる人には見えなかったけどなぁ。」
「じゃあ、出張から帰ってきた日の態度がおかしかったのは
どうしてだと思うの?」
ペトラの口調は、どこか責めるように語尾を強くしていた。
そうだねと同意してくれると思っていた優しい姉が、リヴァイの肩を持ったのが悔しくて、寂しかったのだろう。
でも私は、自分を守ることに必死だった。
「大雨で帰りが遅れたことで、ひとりになる時間が増えて
これからのことをいろいろ考えちゃったのかもしれないよ?」
口から出まかせに違いなかった。
でも、適当でもない。
きっとリヴァイは、ひとりでいろんなことを考えたのだと思う。
だから、しっかりとペトラと向き合い、別れを告げた。
いまだに誤魔化すことばかり考えている私とは違う。
「…これからのこと?」
「ほら、調査兵団の兵士さんも時々、飲みに来ることがあるけど
恋人がいる人もいるし、いない人もいる。いない人の中には、
いつ死ぬか分からない自分が、大切な人を悲しませたくないって言ってる人もいたから…。」
「でも…、リヴァイさんは死なないよ…っ。」
「そうね、とても強い人だもんね。
だからこそ、沢山の仲間の恋人との悲しくて残酷な別れを見てしまったんじゃないかな。
そんな悲しい思い、ペトラにはさせたくなかったのかもしれないな、って、ふっとね、そう思ったのよ。」
眉尻を下げ、困ったような笑みを見せた。
他の誰かが見たら、失恋に悲しむペトラを慰める優しい姉に見えているだろう。
優しい姉の仮面の向こうに、可愛い妹の恋人を愛してしまった醜い女の顔が隠れているなんて、誰も思わない。
そして私は、これからもずっと、偽物の仮面をかぶって生きていくことを選んだ。
本当の意味でペトラを失わないように、優しい恋人の仮面を外し、本物の姿で彼女と向き合うことを選んだリヴァイは、いつかきっと、元通りとはいかなくても、職場の上司と部下という関係性を取り戻すのだろう。
そうではなくても、信頼し合える仲間という絆は今も消えていない。
ペトラを悲しませる勇気も、リヴァイを愛す勇気も持てなかった私は、継ぎ接ぎだらけの姉の仮面を必死に守り続けることしか選べなかった。
リヴァイのように、強くなれない。
「好きな人がいるって言ったのは、嘘ってこと?」
「ん~…、わからないけど。
私が見たリヴァイさんは、ペトラが愛おしくて仕方ないって顔をしてたから、信じられなくて。
そう言った方が、ペトラがしっかりと自分を忘れて、新しい恋をしてくれるって
そう思ったのかもしれないなって。」
少なくとも、リヴァイさんはペトラとまっすぐに向き合っているってことだよ———それだけは確かなことだから、無意識に、私の声にも力が入っていた。
婚約までしたのに、他に女を作って、そのことを伝えることも謝罪することもなく、私の前から姿を消した不誠実な男もいるのだ。
リヴァイは、ぶっきらぼうで不愛想で、冷たく見えるけれど、とても誠実で、優しくて、愛に溢れた人だ。
私も、気づいていた。知っている。
とても素敵な人で、恋人になれたら、とても大切にしてもらえるのだろう。
ペトラと話しながら、しみじみと感じている。
だからって、今更、どうにかしようとは思わないし、思ってはいけないのも分かっている。
私達は出逢うのが、遅すぎた———そんな言い訳も、彼を愛して愛されたペトラに失礼だ。
「———もし、そうなら…、リヴァイさんは勝手だよ…。
それでも私は、リヴァイさんの恋人でいたい…、愛してるのに…。」
しばらく黙り込んだ後、ペトラが、ポツリ、呟く。
「そうね。」
それでも愛してる———痛いほどわかる気持ちに、私の声も沈む。
「でも、」
ペトラが続ける。
「リヴァイさんに好きな人が出来たって言うのは、本当だと思う。
嘘を、吐くような人じゃないから…。
だから、好きになったんだもん。」
ペトラが目を伏せ、悲しそうに言う。
自分勝手な罪悪感を癒すために、優しさを装い、リヴァイのことまで悪く言っていたのだと、今更気づいて、ハッとしたと同時に、自分に嫌気がさした。
ひどく申し訳なく思っても、ペトラにも、リヴァイにも謝れない。
それも、自分の不貞をペトラに知られたくないという保身のために———。
「そっか。ペトラがそう思うのなら、そうなんだろうね。
ペトラが一番、リヴァイさんのことをきっとわかってるもの。
ずっと、見て来たんだもんね。」
コクン、と頷いた後、ペトラが続ける。
「今までずっと…、女の人の影なんかなかったし、興味ない人なんだと思ってた。
私が告白したときも、きっと私のことが好きだったんじゃなくて、優しいから断れなくて、
恋人になってくれたんだって知ってる。」
「そんな…っ、絶対にそんなことないよ…!
リヴァイさんは、ペトラが好きだから———。」
「ありがとう。でも、いいの。分かってたから。
それでもいいと思ってた。これから、本当に私のことを好きになってくれたらいいって…。」
でも———とそこまで言って、ペトラが言葉を切る。
顔を伏せた肩が、小さく震えている。
少し待つと、ペトラが大きく息を吸った。
「少し前から、夜に出歩くようになったの。帰りも遅いし、私に触れる手もぎこちなくて、
何かがおかしいって気づいてた。女の人がいるのかなって…、考えたりもした。
でも、リヴァイさんの優しさに甘えて、気づかないフリをした。
本当は…、別れ話だって、突然なんかじゃなくて、あぁやっぱりって…思ったの…。」
それでも、信じたくなくて————ペトラは両手で顔を覆う。
失恋の涙は、枯れることを知らないのかと疑いたくなるほどに、いつまでの流れ続けて、心をすり減らしていくことを、私も以前の恋で思い知っている。
今、その苦しみをペトラが抱えている。
しかもその原因は、私なのだ。
あぁ、それでも、リヴァイを愛している————会うことは拒んでも、この気持ちを無視することも捨てることも出来ない。
私の苦しみは、誰にも言えない。
言っちゃいけない。
その晩、ペトラは強めのお酒を飲みながら、リヴァイへの想いと悲しみを語り続けた。
優しいお姉さんの仮面をかぶり続ける私は、それを、水を飲みながら聞き続けた。