【七海建人の場合】彼女は、私の愛する人
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「…!…ミン!…ナ…ン!!ナナ…、ナナミン!!」
どこか遠くで私を呼ぶ誰かの声が聞こえていたそのとき、私はとても優しい夢の中にいた。
桜並木を友人達と歩いている———そんな夢だ。
すぐにそれが夢であると理解できたのは、数メートル先で私と向き合うように後ろ向きになって歩いているのが、10年以上も前に亡くなったはずの友人だったからだ。
懐かしい友人の後ろを歩く私の隣には、初恋の彼女もいた。
相変わらず、無邪気な笑みを浮かべて、よく分からない話を楽しそうに聞かせてくる。
私達は皆、制服を着ているから、高専時代なのだろうと理解できた。
見覚えのない桜並木だった。けれど、なぜだかとても懐かしく感じる。暖かくて優しい、不思議な空間だ。
そういえば、あの頃も良く、こうやって3人で歩いていた。
意地の悪い先輩達にしごかれるためだけに運動場へ向かうときや、全員分の飲み物を誰が奢るのか賭けをしながら自販機に向かうとき、もう思い出せないような些細な日常の中でも、私達はこうやって3人で歩いていた。
恐ろしい呪霊との戦いで残酷な結末をそれなりに見た後だって、まるで物語の主人公にでもなったみたいに、彼らの悲劇と自分達は別だと信じていたような気がする。
愚かな私達は、これからもずっとそんな日々が続くことを疑いもしなかった。
どこかリアリティも混ざるその夢の世界が少しだけ現実と違っていたのは、私の気持ちがとても静かだったことと、いつも持ち歩いている呪具がなかったことだろうか。
『今からどこへ行くんですか。』
こんなにも穏やかな夢を見たのは久しぶりだったかもしれない。
だから私は、この夢を満喫してみることに決め、懐かしい姿をした彼らに訊ねてみた。
呪具がないということは任務に向かっているわけではないのでしょう。
そもそも、任務へ向かう道中であれば、高専時代の私はもう少し張りつめていただろうし、灰原はやる気に満ち溢れた表情をしていた。名前からも不安そうな様子は一切見られない。
2人とも、まるで呪霊から開放されたように安心した表情をしている。
嫌、安心しているというよりも、能天気だと表現した方がしっくりくる。
『何言ってんだよ、七海。学校に行くんだろ。』
『まだ寝惚けてるのー?』
私の疑問がそんなにもツボにハマったのか、灰原と名前が失礼なくらいに大笑いをする。
いつもツンとしてる友人が惚けたことを言ったことが面白いと、腹を抱えて笑う2人は、悩みとは無縁の普通の高校生のようだった。
そう思ってしまった私の意識が、夢を操ったのかは分からない。
ただ、名前が、続けた答えはこうだった。
『健全な高校生はね、朝から学校に通うものなんだよ。』
わかった?———と、名前はわざとらしく右手の人差し指を立てた。
前を歩く灰原も『うん、うん。』としみじみと頷く。
それでもやはり、私は首を傾げるしかなかった。
『確かに健全な高校生は朝から学校に通うでしょうが
呪術高専生徒は寮生活でしょう。』
『じゅじゅ…?』
『高専って何のことだ?』
今度は、首を傾げるのは彼らだった。
けれど、不思議そうな彼らを見て、私は漸くこの夢の意味を理解する。
これは、私の願いだ。
ただの高校生としての出逢い。たとえそれが、蚊帳の外で守られた張りぼてであろうとも、呪霊とは無縁の平和な世界の中で、私達は無知なまま、悩みも何もない能天気な顔をして日々を過ごす。
こうあればよかった————叶うはずないと知りながら、抱くことを忘れられなかった私の途方もない願いが見せている夢幻。
そう理解した瞬間、私は、自分が死んだことを思い出した。
胸元に触れる呪霊の手、10年以上変わらない灰原の姿、虎杖くんの叫び声————。
ひとつひとつ蘇る最期の記憶の中に、一番会いたかった人の姿はない。
(あぁ、よかった。名前はいなかった。)
私はこのとき、心底ホッとして胸を撫で降ろした。
こんなにも穏やかな時間の中にいる私は、魂が消えるまでの束の間に、少しだけ夢を見させてもらっているのかもしれない。
それはつまり、どんなに冷たく突き放しても、私のそばを離れようとしなかった頑固者の願いは、とうとう叶わなかったということの証だ。
本当は、最期に会いたかった。ひとめ、見たかった。
けれど、絶望的な姿をしている私を見せて泣かせたくもなかった。
彼女には、なによりも笑顔が似合うと思うから。
『それでね、建人。ねぇ、聞いてる?』
私の制服の裾を引っ張りながら、名前が不満気に口を膨らませる。
それは、あの頃によく見ていた懐かしい仕草だった。
最近の名前は、私が話を聞いていないことに慣れてしまったみたいに、気にもしていない様子でひとりで喋り続けていた。
それはまるで、いつか失われる時間を〝今〟で必死に埋めようとしているようで、見ていられなかった。
『えぇ、聞いてますよ。
今度、五条さんのサングラスにカラシを仕込んでおこうという話でしょう?』
『全然聞いてないじゃん!そしてなにそれ、いつか絶対やろう!
でもその前に、もうすぐ優くんの妹のお誕生日だから、
プレゼントをみんなで選びに行こうって話!』
『あぁ、そうでしたね。』
『全然、ピンと来てない!』
全く聞いていなかったのだから、仕方がない。
怒っている名前を聞き流す私は、そういえば、現実でもそろそろ灰原の妹の誕生日だったことを思い出していた。
確かに、灰原がいた頃は、名前に連れられて一緒にプレゼントを買いに行っていた。
灰原の妹を見たのは、彼の葬儀が最後だった。
兄に似た大きな瞳に溢れんばかりの涙を零し泣きじゃくる姿に、胸が締め付けられたと同時に、友を守れなかった自分の弱さを思い知った。
悔しさと苛立ち、絶望。あの記憶は、私の心を折った出来事のひとつだ。
罪悪感は溢れるばかりだったのに、灰原の家族は、息子を我儘にスカウトし、死に追いやった呪術高専を一度も責めなかった。
私はそのとき、穏やかな物腰の父親と涙を堪えて凛としている母親を見て、彼は両親に似たことを知った。
葬儀以来、灰原の家族には会っていない。墓参りすら、命日をズラして、敢えて会わないように工夫をしていたのは、私の顔なんかを見せてしまったら、傷口を広げるだけだと思っていたからだった。
彼らは今、どうしているのだろう————自分が死んだ今、それを確かめる術はもう残っていないというのに、なぜかひどく気になる。
せめて、灰原がとても大切にしていた妹に、誕生日プレゼントくらいは贈ってやればよかった。
友人が出来なくなってしまった分も、私が———もう遅いというのに、死んだと分かった途端に、思ってもみなかった未練がこみ上げてくる。
それは、未練になると分かっていた思いならば、尚更だった。
やり残してきたことを意識した途端に、何度指摘したところでわざわざ短くするスカートのそばでひらひらと揺れる華奢な白い手から、私は目が離せなくなる。
頭の中まで17歳の男子高校生になったかのように、好きな人と手を繋ぐことで頭の中はいっぱいだ。
その〝好きな人〟が、一生懸命に私に話しかけているというのに、何も頭に入ってこない悪循環が、まさに10代の不器用な恋を物語っているようだった。
懐かしい———そんな気持ちになるのは、私もそれなりに穏やかで楽しい青春を過ごしたということなのだろう。
『それでね、原宿に新しく出来た雑貨屋さんに————。』
名前が何か言っていたけれど、私が見ているのは彼女の小さな手だけだった。
いつも名前は、隣を歩く私の手に楽しそうに触れてきていたから、手を繋いで歩くなんてとても簡単なことだと思っていた。
こんなにも勇気がいることだなんて、知らなかった。
もしかしたら名前も、初めて私の手に触れたときは、心臓が痛いくらいに緊張して、ありたっけの勇気を出したのだろうか。
その手を私は、冷たく振り払っていたのだろうか———。
私なんて、これは、あの世へ行く束の間に見ている夢だと分かっているというのに、気恥ずかしさと緊張でうまく動けないというのに。
『ねぇ、建人ってば、ちゃんと聞いて————。』
一呼吸を入れてから、スッと手を伸ばした。
初めて自分から触れた名前の手は、とても小さかった。私の手にすっぽりと包まれてしまうほどしかない。
少し力を込めてしまえば、容易く折れてしまいそうで、どれくらいの力で握り締めればいいのか分からなくて、柔らかく包むので精一杯だった。
そして、もう一つ意外だったのは、ひどく冷えていたことだ。
夢だというのに、この世界はとても温かい。胸の奥からじんわりと熱が伝わってくるような温かさがある。
そして、この夢の季節は、桜の咲く暖かい春だというのに、名前の手は冬の凍てつく冷気に晒され続けたかのように、とても冷たい。
『ふふっ。』
隣から、楽しそうな笑い声が聞こえて来た。
わざわざ確認するまでもなく、名前がどんな顔をしているのか想像がつく。
目の前で、少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに唇の両端を上げた友人の顔を見るのもなんだか恥ずかしくて、私は明後日の方を向いて平静を装った。
本当は、喉から心臓が飛び出てきそうなくらいにドキドキしている。
そして、喜んでもいる。
叶わなかった夢だった。叶えてあげられなかった夢だった。
ここにいる名前が、私の願いが見せた夢幻なのだとしても、彼女を笑顔に出来たことが嬉しかった。
『建人、手を繋ぐの下手すぎだよ~。
せっかくならこうでしょ。恋人繋ぎがいい。』
キャッキャと女子高生らしくハシャぐ名前が、繋いだばかりの手を握り直して、私の勇気を台無しにする。
ほんの少し苛立ったけれど、さっきよりも強く繋がった手が、冷えていた名前の手を温めているような気がして、なぜかすごく安心したのだ。
そのとき、暖かい春の風が吹いて、咲き終わり既に散っていた桜の花を舞い上がらせた。
名前の長い髪が風に揺らされて流れる。顔にかかる長い髪を、名前が繋いでいない方の手でかき上げる。
舞い上がった沢山の桜の花びらを、灰原が、もっと舞い上がれとばかりに面白そうにふわりと飛ばす。
それは、まるで祝福の花吹雪のように私の前でヒラヒラと踊っていた。
『よかったね。』
桜の花びらを舞いあがらせながら、灰原が穏やかな笑みを浮かべる。
ありがとう————そう答えたのは、名前だった。
でもどうしてだろうか。彼女は、灰原ではなく私の方を向いていたのだ。
私に告げられた『ありがとう。』の意味を聞くことは出来ないまま、私が、今まで見た中で最も穏やかで幸せな夢は淡く消えて、ゆっくりと幕を閉じていった。
その後、私が見たのは、生きてきた中で最も残酷な悲劇だった。
どこか遠くで私を呼ぶ誰かの声が聞こえていたそのとき、私はとても優しい夢の中にいた。
桜並木を友人達と歩いている———そんな夢だ。
すぐにそれが夢であると理解できたのは、数メートル先で私と向き合うように後ろ向きになって歩いているのが、10年以上も前に亡くなったはずの友人だったからだ。
懐かしい友人の後ろを歩く私の隣には、初恋の彼女もいた。
相変わらず、無邪気な笑みを浮かべて、よく分からない話を楽しそうに聞かせてくる。
私達は皆、制服を着ているから、高専時代なのだろうと理解できた。
見覚えのない桜並木だった。けれど、なぜだかとても懐かしく感じる。暖かくて優しい、不思議な空間だ。
そういえば、あの頃も良く、こうやって3人で歩いていた。
意地の悪い先輩達にしごかれるためだけに運動場へ向かうときや、全員分の飲み物を誰が奢るのか賭けをしながら自販機に向かうとき、もう思い出せないような些細な日常の中でも、私達はこうやって3人で歩いていた。
恐ろしい呪霊との戦いで残酷な結末をそれなりに見た後だって、まるで物語の主人公にでもなったみたいに、彼らの悲劇と自分達は別だと信じていたような気がする。
愚かな私達は、これからもずっとそんな日々が続くことを疑いもしなかった。
どこかリアリティも混ざるその夢の世界が少しだけ現実と違っていたのは、私の気持ちがとても静かだったことと、いつも持ち歩いている呪具がなかったことだろうか。
『今からどこへ行くんですか。』
こんなにも穏やかな夢を見たのは久しぶりだったかもしれない。
だから私は、この夢を満喫してみることに決め、懐かしい姿をした彼らに訊ねてみた。
呪具がないということは任務に向かっているわけではないのでしょう。
そもそも、任務へ向かう道中であれば、高専時代の私はもう少し張りつめていただろうし、灰原はやる気に満ち溢れた表情をしていた。名前からも不安そうな様子は一切見られない。
2人とも、まるで呪霊から開放されたように安心した表情をしている。
嫌、安心しているというよりも、能天気だと表現した方がしっくりくる。
『何言ってんだよ、七海。学校に行くんだろ。』
『まだ寝惚けてるのー?』
私の疑問がそんなにもツボにハマったのか、灰原と名前が失礼なくらいに大笑いをする。
いつもツンとしてる友人が惚けたことを言ったことが面白いと、腹を抱えて笑う2人は、悩みとは無縁の普通の高校生のようだった。
そう思ってしまった私の意識が、夢を操ったのかは分からない。
ただ、名前が、続けた答えはこうだった。
『健全な高校生はね、朝から学校に通うものなんだよ。』
わかった?———と、名前はわざとらしく右手の人差し指を立てた。
前を歩く灰原も『うん、うん。』としみじみと頷く。
それでもやはり、私は首を傾げるしかなかった。
『確かに健全な高校生は朝から学校に通うでしょうが
呪術高専生徒は寮生活でしょう。』
『じゅじゅ…?』
『高専って何のことだ?』
今度は、首を傾げるのは彼らだった。
けれど、不思議そうな彼らを見て、私は漸くこの夢の意味を理解する。
これは、私の願いだ。
ただの高校生としての出逢い。たとえそれが、蚊帳の外で守られた張りぼてであろうとも、呪霊とは無縁の平和な世界の中で、私達は無知なまま、悩みも何もない能天気な顔をして日々を過ごす。
こうあればよかった————叶うはずないと知りながら、抱くことを忘れられなかった私の途方もない願いが見せている夢幻。
そう理解した瞬間、私は、自分が死んだことを思い出した。
胸元に触れる呪霊の手、10年以上変わらない灰原の姿、虎杖くんの叫び声————。
ひとつひとつ蘇る最期の記憶の中に、一番会いたかった人の姿はない。
(あぁ、よかった。名前はいなかった。)
私はこのとき、心底ホッとして胸を撫で降ろした。
こんなにも穏やかな時間の中にいる私は、魂が消えるまでの束の間に、少しだけ夢を見させてもらっているのかもしれない。
それはつまり、どんなに冷たく突き放しても、私のそばを離れようとしなかった頑固者の願いは、とうとう叶わなかったということの証だ。
本当は、最期に会いたかった。ひとめ、見たかった。
けれど、絶望的な姿をしている私を見せて泣かせたくもなかった。
彼女には、なによりも笑顔が似合うと思うから。
『それでね、建人。ねぇ、聞いてる?』
私の制服の裾を引っ張りながら、名前が不満気に口を膨らませる。
それは、あの頃によく見ていた懐かしい仕草だった。
最近の名前は、私が話を聞いていないことに慣れてしまったみたいに、気にもしていない様子でひとりで喋り続けていた。
それはまるで、いつか失われる時間を〝今〟で必死に埋めようとしているようで、見ていられなかった。
『えぇ、聞いてますよ。
今度、五条さんのサングラスにカラシを仕込んでおこうという話でしょう?』
『全然聞いてないじゃん!そしてなにそれ、いつか絶対やろう!
でもその前に、もうすぐ優くんの妹のお誕生日だから、
プレゼントをみんなで選びに行こうって話!』
『あぁ、そうでしたね。』
『全然、ピンと来てない!』
全く聞いていなかったのだから、仕方がない。
怒っている名前を聞き流す私は、そういえば、現実でもそろそろ灰原の妹の誕生日だったことを思い出していた。
確かに、灰原がいた頃は、名前に連れられて一緒にプレゼントを買いに行っていた。
灰原の妹を見たのは、彼の葬儀が最後だった。
兄に似た大きな瞳に溢れんばかりの涙を零し泣きじゃくる姿に、胸が締め付けられたと同時に、友を守れなかった自分の弱さを思い知った。
悔しさと苛立ち、絶望。あの記憶は、私の心を折った出来事のひとつだ。
罪悪感は溢れるばかりだったのに、灰原の家族は、息子を我儘にスカウトし、死に追いやった呪術高専を一度も責めなかった。
私はそのとき、穏やかな物腰の父親と涙を堪えて凛としている母親を見て、彼は両親に似たことを知った。
葬儀以来、灰原の家族には会っていない。墓参りすら、命日をズラして、敢えて会わないように工夫をしていたのは、私の顔なんかを見せてしまったら、傷口を広げるだけだと思っていたからだった。
彼らは今、どうしているのだろう————自分が死んだ今、それを確かめる術はもう残っていないというのに、なぜかひどく気になる。
せめて、灰原がとても大切にしていた妹に、誕生日プレゼントくらいは贈ってやればよかった。
友人が出来なくなってしまった分も、私が———もう遅いというのに、死んだと分かった途端に、思ってもみなかった未練がこみ上げてくる。
それは、未練になると分かっていた思いならば、尚更だった。
やり残してきたことを意識した途端に、何度指摘したところでわざわざ短くするスカートのそばでひらひらと揺れる華奢な白い手から、私は目が離せなくなる。
頭の中まで17歳の男子高校生になったかのように、好きな人と手を繋ぐことで頭の中はいっぱいだ。
その〝好きな人〟が、一生懸命に私に話しかけているというのに、何も頭に入ってこない悪循環が、まさに10代の不器用な恋を物語っているようだった。
懐かしい———そんな気持ちになるのは、私もそれなりに穏やかで楽しい青春を過ごしたということなのだろう。
『それでね、原宿に新しく出来た雑貨屋さんに————。』
名前が何か言っていたけれど、私が見ているのは彼女の小さな手だけだった。
いつも名前は、隣を歩く私の手に楽しそうに触れてきていたから、手を繋いで歩くなんてとても簡単なことだと思っていた。
こんなにも勇気がいることだなんて、知らなかった。
もしかしたら名前も、初めて私の手に触れたときは、心臓が痛いくらいに緊張して、ありたっけの勇気を出したのだろうか。
その手を私は、冷たく振り払っていたのだろうか———。
私なんて、これは、あの世へ行く束の間に見ている夢だと分かっているというのに、気恥ずかしさと緊張でうまく動けないというのに。
『ねぇ、建人ってば、ちゃんと聞いて————。』
一呼吸を入れてから、スッと手を伸ばした。
初めて自分から触れた名前の手は、とても小さかった。私の手にすっぽりと包まれてしまうほどしかない。
少し力を込めてしまえば、容易く折れてしまいそうで、どれくらいの力で握り締めればいいのか分からなくて、柔らかく包むので精一杯だった。
そして、もう一つ意外だったのは、ひどく冷えていたことだ。
夢だというのに、この世界はとても温かい。胸の奥からじんわりと熱が伝わってくるような温かさがある。
そして、この夢の季節は、桜の咲く暖かい春だというのに、名前の手は冬の凍てつく冷気に晒され続けたかのように、とても冷たい。
『ふふっ。』
隣から、楽しそうな笑い声が聞こえて来た。
わざわざ確認するまでもなく、名前がどんな顔をしているのか想像がつく。
目の前で、少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに唇の両端を上げた友人の顔を見るのもなんだか恥ずかしくて、私は明後日の方を向いて平静を装った。
本当は、喉から心臓が飛び出てきそうなくらいにドキドキしている。
そして、喜んでもいる。
叶わなかった夢だった。叶えてあげられなかった夢だった。
ここにいる名前が、私の願いが見せた夢幻なのだとしても、彼女を笑顔に出来たことが嬉しかった。
『建人、手を繋ぐの下手すぎだよ~。
せっかくならこうでしょ。恋人繋ぎがいい。』
キャッキャと女子高生らしくハシャぐ名前が、繋いだばかりの手を握り直して、私の勇気を台無しにする。
ほんの少し苛立ったけれど、さっきよりも強く繋がった手が、冷えていた名前の手を温めているような気がして、なぜかすごく安心したのだ。
そのとき、暖かい春の風が吹いて、咲き終わり既に散っていた桜の花を舞い上がらせた。
名前の長い髪が風に揺らされて流れる。顔にかかる長い髪を、名前が繋いでいない方の手でかき上げる。
舞い上がった沢山の桜の花びらを、灰原が、もっと舞い上がれとばかりに面白そうにふわりと飛ばす。
それは、まるで祝福の花吹雪のように私の前でヒラヒラと踊っていた。
『よかったね。』
桜の花びらを舞いあがらせながら、灰原が穏やかな笑みを浮かべる。
ありがとう————そう答えたのは、名前だった。
でもどうしてだろうか。彼女は、灰原ではなく私の方を向いていたのだ。
私に告げられた『ありがとう。』の意味を聞くことは出来ないまま、私が、今まで見た中で最も穏やかで幸せな夢は淡く消えて、ゆっくりと幕を閉じていった。
その後、私が見たのは、生きてきた中で最も残酷な悲劇だった。
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