プロローグ
Name change
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太陽が空の一番高いところまで昇りきるこの年の夏休み。 教室の窓から射し込む、ジリジリと焦げ付くような日差しが、私達の身体を火照らせていた。 「なぁ、名前。」 補習プリントをチェックしていると、低いけれど、まだ大人になりきれていない声が私を呼んだ。 私が気にしているせいなのか、2人きりで静かな教室で、彼が私の名前を呼ぶその声がやけに大きく響いたような気がした。 「先生、でしょ。」 私は、補習プリントから顔を上げるなり、彼を叱る。 前の席の椅子を90度回転させて、こちらを向いていた彼は、気にした様子もなく、汗ばむ額にひっついた長い前髪を面倒くさそうにかきあげた。 「いいじゃねぇか。名前は名前だろ。」 「私は先生なの。 学校では呼び捨て禁止って言ってるのに、平気で名前呼ぶからドキドキするんだよ。」 「へぇ、俺に名前で呼ばれてドキドキしてんだ。」 彼は、口の端を片方だけ上げて、意地悪く口を歪めた。 からかう気満々の悪戯っ子な目が可愛くて、憎たらしい。 「そっちじゃない。」 少し睨みつけてやったのに、彼は楽しそうにケラケラと笑う。 箸が転んでもおかしい年頃の彼が、私は時々、無性に羨ましくなる。 それともただ、彼が悪戯なだけなのかもしれない。 きっと、何年経っても、彼は彼らしく、悪戯に笑うのだ———ふ、とそんな未来のことを思ってしまう。 出逢った頃の彼は、裏も表も尖っている刃のようだった。周りにいる人達を傷つけて、自分のことを傷つけていた。 痛々しかった彼が、今ではたくさんの仲間達に囲まれて、笑顔の中心にいる。 こうして、いつものことのように私をからかうことを覚えたことは、憎らしくて、そして、彼の担任教師として喜ばしいことだ。 「でさ、名前。」 彼がまた、担任である私の名前を、当然のように呼び捨てにする。 自分の周りにとても大きな壁を築き、誰にも心を許さない生徒だった彼と、心の距離を縮められたら———そう思っていた頃が、遠い昔のことのようだ。 今では、距離が縮まったどころか、大人扱いすらされていないように感じる。 私は肩を落として、溜息を吐いた。 「ねぇ、私のことを先生だと思ってないでしょ。」 「思ってるわけねぇじゃん。」 至極当然のように、彼が言う。 少しは、誤魔化しや言い訳をするかと思ったから、意表を突かれて、私の方が間違えたことを言ってしまったような気持ちになってしまう。 そんな私に、彼はまた、当然のように続けた。 「だって、名前は俺の恋人だろ。 女としてしか、見てねぇから。」 私をまっすぐに見つめる彼の瞳は、生徒のものではなくて、男のものになっていた。 いつの間に、そんなカッコいいことをサラリと言えるようになってしまったのだろうか。 今度こそ、彼の言った通りの〝ドキドキ〟に襲われた私は、真っ赤になった顔を見られるのが恥ずかしくて俯いてしまう。 まるで初心な少女のようなこんな反応、今どきの恋愛経験豊富な女子高生たちだってしないはずだ。 「どうした?腹が痛ぇの?」 訊ねる彼の顔を伺うように、少しだけ顔を上げて視線を向けると、意地悪なニヤけ顔と目が合った。 してやったりな彼の方が、いつだって優位に立っていて、私はいつも掌の上で悪戯に転がされている。 これでは、どちらが年上か分からない。 でも、楽しそうに笑いながら、一生懸命に私を愛してくれる彼の大きな掌は、とても居心地がいい。 「バカっ。」 「あ、ひでぇ。可愛い生徒に向かって。」 「こんなときばっかり。本当に調子がいいんだから。」 「でもさ、俺、すげぇ勉強頑張ってるだろ? これ、絶対ぇ満点だから。」 彼は、机の上に置かれた補習プリントを人差し指でトントンと叩いた。 まだ途中までしか採点していないけれど、確かにここまですべて正解だ。 彼がずっと苦手にしていた文法も間違えていないし、長文も理解して問題を解いているように見える。 「すごく頑張ってるねっ。 この調子なら夢のキャンパスライフも夢じゃないよっ。」 私の声は弾んでいた。 少しだけ大袈裟で、教師だという立場を忘れて、贔屓目に見ていたかもしれない。 だって、他の同級生達は受験対策の勉強を始めている中、今、彼にさせている補習課題は、高校1年生のものなのだ。 でも、自分の未来に興味を持たないどころか、悲しいくらいに絶望して投げやりになっていた彼が、大学受験を目指して勉強を始めてくれたことが、私は何よりも嬉しかった。 勉強を教える教師としてあるまじき考えかもしれないけれど、正直、大学に受からなくたってよかった。 彼が、自分には、夢と希望と可能性で満ち溢れているのだと気づいてくれた———それだけで、彼の未来は輝かしくなることが約束された気がしていた。 「でさ、名前。」 「何?」 私は、採点の為の赤ペンを置いて、改めて彼と向きあった。 今度は、私の名前を呼び捨てにされたことを注意しなかったのは、どうせ言っても聞かないと諦めたわけじゃない。 いつも軽い冗談ではぐらかすのが得意な彼が、とても真面目な顔をしていたからだ。 私は、彼の教師として、そして、彼の〝恋人〟として、彼の言葉をまっすぐに受け止めたいといつも思ってる。 「俺が志望大学に受かったら、ご褒美が欲しい。」 「ご褒美?ふふ、いいよ。何がいいの?」 真面目な顔をしてるから何かと思ったら、子供っぽい可愛らしいおねだりで、私は思わずクスリと笑ってしまう。 それなのに、彼はまだ真面目な顔をしていて、どこか緊張してるようにも見えた。 もしかして———。 「もしかして、何かすごい高いものとかねだる気? それはちょっと…、いくらくらい? 車とかはさすがに私のお給料じゃ———。」 「結婚して。」 彼の大きな掌が、机の上に無防備に置いていた私の左手を包んだ。 他の人よりも少しだけ高い平熱の彼の身体は、すぐに私を熱くする。 そんなことにも、最近やっと慣れてきたつもりだった。 でも、唐突のプロポーズをした彼の手は、いつもよりもだいぶ熱く感じた。 「・・・・え?」 「大学に入って、俺が18になったら、名前と結婚したい。 早く、名前を俺だけのもんに———。」 「ま、待っ、待って、待って…!」 「なんだよ。」 おそらく、彼にとって一大決心のプロポーズだったのだろう。 それを恋人に途中で止められて、彼はひどく不服そうに眉間に皴を寄せた。 でも、恋人にプロポーズをされた私には、喜びを感じる余裕はなかったのだ。 だって、高校三年の夏になっても、早生まれの彼はまだ17歳で、私はもう大人だ。 そして、担任教師でもある。 お互いを恋人だと呼ぶ関係になったとしても、私は大人として、彼の人生に責任を負わなくちゃいけない立場にあることは、変わらないのだ。 「18って、大学1年生だよ?夢のキャンパスライフを楽しむ真っただ中で、 もしかしたら、可愛い女子大生と新しい恋をするかもしれ——。」 「しねぇし。んだよ、俺のこと信じてねぇの。」 彼は機嫌を悪くして、思い切り眉を顰めた。 「そうじゃなくてっ。別に、絶対に浮気するとか心変わりするとか言ってるんじゃなくて…! 若いんだから、この先、何があるか分からないってことが言いたいの。 私は、あなたに後悔なんて絶対にさせたくないから…!」 だから————。 本当は、自分で言いながら、胸がキリキリと痛んでいた。 自分と彼の立場の違いも歳の差も、理解している。 頭では、理解しているつもりでいても、心がそうじゃないのだ。 でも私は、彼に、後悔の人生なんて歩んでほしくない。 彼には、自由と希望と夢が、とても似合っているから。だから——。 「分かったよ。」 私の想いが通じたのか、彼は不服そうにしながらも受け入れた。 その途端に私は、心変わりするかもしれないと思っているの、と彼を責めそうになる。 大人ぶったことを言って、大人ぶった態度を見せる私は、本当は矛盾だらけで我儘で、まだまだ世間知らずの幼い恋心を彼に抱いているのだ。 「俺が他の女に目移りしねぇって証拠があればいいんだな。」 彼は、当然な顔をして、私が想定をしていないことを言う。 いつだって、そうだ。 だから私は、年下で、生徒でもある彼に振り回されてばかりで———。 「名前、これで写真撮って。」 彼は、ボロボロになった学生カバンを開くとスマホを取り出して、私に強引に渡した。 「写真を撮るの?」 見慣れた彼のスマホを手に持って、私は首を傾げた。 私が初めて彼の担任になった高校2年生の夏から使っているプラスチック製のスマホケースは、角が欠けてもうボロボロだ。その内側には、私と彼だけの秘密が隠してある。 先週、初めての夏休みデートで行った隣町で撮ったプリクラだ。 もうそんな歳じゃないと困り顔の私を強引にプリクラ機の中に引っ張った彼と撮った数枚の2ショット。 彼は、意地悪く笑いながら、でもどこか嬉しそうに、2人のプリクラをスマホケースの裏側に貼っていた。 学生の頃は平気でポーズをとっていたのに20歳を過ぎると途端に気恥ずかしくなる。 でも、はしゃぐ彼に合わせながら手を繋いだり、見よう見まねでポーズを撮ったり、唐突にキスをされてしまったり———本当は、年上の恋人をからかって笑っている彼よりも、私の方がずっと楽しんでいたと思う。 プリクラを撮ったのなんて高校生の頃ぶりだったけれど、彼は今、その高校生なのだな——と悲しくもなって、2人だけの秘密の共有が、くすぐったくもある。 「そう。俺がずっと名前が好きだって証拠の写真。」 彼はそう言いながら、私の右手の小指に、自分の小指を絡めた。 「俺は、名前をずーっとずーっと好きだと約束します。 指きりげんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます。指きった!」 彼が、指を無邪気に軽く振りながら、楽しそうに言い切った。 まるで子供がするようなそれが可笑しくて、でも、出逢った頃とはまるで正反対のそれが、本来の無邪気な彼らしくて。 たくさんの気持ちがこみ上げてきた私は、目尻から零れ落ちそうになる涙を小指で拭いながら、アハハと腹を抱えて笑う。 「ほら、笑ってねぇで証拠写真撮れって。」 「ちょっと待ってよ、今、カメラ出すから。」 「早く、早く。早くしねぇと俺、18になっちまう。」 「そんなに早くならないよ。」 「だな。そしたら、名前がまた1つ歳とっちまって かわいそうだしな。」 「うっさいな! ———よし、カメラ起動できたよ。」 右手の小指を、彼の大きな小指に捕まえられたまま、私は左手だけで不器用にカメラを向けた。 「18までじゃ名前がまた同じこと言い出しそうだから、 20まで待ってやるよ。20になっても俺が名前のことが好きだったら、今度こそ俺を信じろよ?」 彼は、絡めた私の小指を弄ぶように自分の指を動かしながら言う。 そんな彼の無邪気な仕草にすら、私が節操なくドキドキしてることを、この無垢で素直な少年は、気づいているのだろうか。 「うん、わかった。」 「そしたら、俺と結婚な?」 「え、でも、それは——。」 「はい、は?」 「は…はい。」 躊躇いながらも頷けば、彼が至極満足げに口の端を上げる。 私がカメラのシャッターを切ったとき、心の中で、もう一つシャッターを切っていたの。子供みたいに悪戯な笑顔と大人っぽい真剣な瞳がアンバランスな、愛おしい彼の姿を永遠に記憶に残しておけるように願って—————。 |
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