23.天邪鬼は挑発に乗る
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
名前をベッドに寝かせたエースは、彼女の胸元まで掛布団をかけてやると、小さく息を吐いた。
玄関を出てすぐの壁に寄りかかって座り込んでいる名前を見つけたときは、額に触れた高熱と虚ろな表情に本格的にヤバいのではないかと思ったが、病院で点滴も打ってもらったことで、幾らかは落ち着いたように見える。
けれど、病院で看護師に体温を計ってもらい40度の熱があることがわかった名前は、信じられないくらいに熱いし、身体中汗だくだ。
解熱剤と点滴で少しは熱は下がったようだが、まだつらそうだ。
悪寒も続いているのか、名前がガタガタと震えながら掛布団の縁を両手で掴み、上まで持ち上げて口まで覆い隠した。
「う…ぅ…。」
苦し気に眉を顰めた名前からは、小さな呻き声が漏れ続けている。
下がらない熱で苦しんでいるのか。それとも、熱に魘されて、悪夢でも見ているだろうか。
(俺がアンタに見せられた悪夢よりはマシだと思うけどな。)
冷めた目で名前を見下ろしたエースは、一瞥することもなく背中を向けるとそのまま寝室を出た。
惚れた男と一緒になる為に、初恋を拗らせた高校三年の少年を、空っぽになった虚しい部屋に置き去りにした最低な女だ。
見つけてしまった手前、放っておくこともできず病院には連れて行ったが、これ以上、ここに残って看病を続ける義理はないはずだ。
高熱にうなされている姿は可哀想だとは思うし、同情もするが、このまま名前を放置することに躊躇いはない。
むしろ、そうしてしまった方が、心の奥で育ち過ぎたドロリとした感情がスッキリするような気がする程だ。
けれど、ひと先ずは———。
(疲れたな。)
アパートに来てから、もう2時間以上は経過している。
タクシーを呼んだり、抱えて病院に連れて行ったり、疲れてしまった。
まずは休憩をしよう———と、エースはリビングを見渡す。
1LDKの名前の部屋は、リビングに向かい合うようにカウンターキッチンが設置してある。その奥に白く塗られた木目調の食器棚、パスタや調味料を入れた透明の瓶が置かれた棚が置かれている。
昔、エースが見たことのある風景とよく似ている。
最初にこのアパートを見たときは、新婚夫婦が仲良く住んでいるのだと思ったこの部屋は、実際は名前がひとりで暮らしていた。
見る限りでは、男がいるような形跡は全くない。
アパートの外観通り、内装もクロスにオレンジ色の煉瓦柄が使われていたり、こだわって可愛らしい雰囲気を演出しているのが分かる。
リビングにあるのも、ソファとローテーブルにテレビ、小棚くらいだ。名前が好きそうなアンティークの小物がところどころに飾られてはいるけれど、いたってシンプルな女性の部屋だと言える。
部屋もよくある間取りで、玄関を開けると奥の部屋まで続いている狭い廊下に、あってもなくても大して変わらなそうな収納扉と洗面所、トイレに続く扉がある。洗面所の奥には、2人で入るには少し狭そうな小さな風呂。そして、廊下の一番奥にLDKに続く扉。寝室とLDKは完全な別室になっていて、リビングと繋がるように扉がある。
高校の頃のボロアパートからは昇格したといっても、いまだに1Rの部屋で生活しているエースよりは良い暮らしではあるが、普通のよくある女性のひとり暮らしの部屋だ。
仕事にかまけているせいで、旦那どころか彼氏もいないのだとヤソップ達も言っていたし、名前の親友であるベイはドーマに『男日照りの可哀想な女友達』と紹介していた。
この部屋から察するに、彼らの発言は間違いないのだろうと判断できる。
けれど、エースには、名前の部屋から『お前はもう関係ない男だ!』———という拒絶を感じるのだ。
ソファもローテーブルもテレビも、見たことがあるものに似ている食器棚も、この部屋にあるすべてが、エースが知っていたものとは違う。引っ越しの度に家具家電、小物を一新する人もいるだろう。けれど、そんな贅沢なことが出来るのはほんの少数派だ。
昔から、エースが『ケチだ!』とからかっていた名前に、そんなこだわりがあるとも思えない。
きっと、ここに引っ越す前に〝忘れたい過去と共に家具家電も全部捨ててしまいたい〟と処分をしたのだろう。
なんだか無性に腹が立って、エースは大股でリビング中央のソファへと向かった。
だが、それが失敗だった。
「冷たッ!?」
ソファに座ろうとして、足の裏に冷水を感じたエースは大声を上げる。
驚いたままソファに腰を降ろしていた為、反射的に、冷たい何かから逃げるために両足も床から持ち上げていた。
なんとも情けない恰好のままで足の下を覗き込めば、なぜか床に水たまりが出来ていてびしょ濡れになっている。すぐそばには、透明のグラスも転がっていた。
よく見てみれば、ソファ前に置かれているローテーブルの上に、市販の風邪薬が袋を開けるだけしたままで残されている。
(あぁ…、薬飲もうとしてコップ落としたのか。)
それで、風邪薬を断念したのだろう。
リビングに水たまりが出来ていた理由に納得する。
「めんどくせー。」
苛立ちを声に乗せたまま呟くように言って、エースは落ちているグラスを拾い上げ立ち上がる。
キッチンのシンクに適当にグラスを置いたエースは、洗面所に向かう。
洗面所には、ドラム式の洗濯機が置いてあり、その上にラック棚があった。そこにあった名前が好きそうな麻のカゴを引き出してみれば、思った通り、タオルが詰め込まれている。お世辞にも綺麗とは呼べない雑なたたみ方だ。
あの頃から、名前は変わっていないところばかりだ。
細かいことは気にしない大雑把な性格も、生徒のためならどんな損な役回りも喜んで引き受けるところも、あの笑顔も————。
けれど、エースの前にいる名前のすべてが変わってしまった。
あの頃は、エースの都合なんてお構いなしに付きまとっては、どんなに突き放しても笑顔でそばにいてくれた。
けれど今の名前は、エースの機嫌を伺っては、距離をとることばかりを考えているように見える。
冷たく突き放す自分の態度のせいだということもエースだって理解している。けれど、名前のよそよそしい態度が気に入らなくて、余計に意地の悪い対応をしてしまうのだ。
悪循環である。
「ふぅ。」
リビングの床も拭き終わると、エースはソファに深く腰かけた。
洗面所まで濡れたタオルを持っていくのも億劫で、テーブルの上に雑に投げる。
なんとなく壁掛けの時計を見れば、いつの間にかもう17時になっている。
本当なら今頃、サボの部屋でダラダラとテレビゲームに興じているはずだった。
そろそろ夕食のリクエストをしていて、もう少ししたら料理の得意なサボの手作りの美味しい食事を楽しんでいたかもしれない。
けれど実際は、昼食を食べ損ねたきり、何も食べていない。
思い出した途端に腹が減って来て、お腹の奥からキュルルルルと可哀想な泣き声が響く。
それもこれも、名前の親友であるベイにエースの連絡先を勝手に教えたドーマのせいだ。
今度、絶対に焼肉を奢らせよう———勝手にそう決意しながら、エースは今日の昼過ぎのことを思い出していた。
【エース、昨日振りね。ベイよ。ドーマから連絡先聞いたの。
実は、名前が熱を出して寝込んでるのよ。
仕事で行けないから、私の代わりに様子を見に行ってやってくれない?】
そんなメッセージがベイから届いたのは、遅い昼食に作ってくれたサボの手作り炒飯をスプーンですくった時だった。
昨日はあんなに楽しそうに夢の国を満喫していた名前が熱を出して寝込んでいるなんて驚いたし、一応、知り合いとして心配はした。
だが、それだけだ。
自分には関係ない———そう思って、最初は断ったのだ。
寝込んでいたとしてももういい大人なのだし、風邪を引いて熱があったって自分のことは自分で出来るだろう。
けれど、わざわざベイからエースに救援要請が来たのには、それなりの理由があった。
今朝、名前から熱が出たというメッセージが来たっきり、容態を心配したベイが何度メッセージを送っても返信はなく、電話をかけても繋がらないのだそうだ。
何かあったのではないかと心配していたところで、白羽の矢が立ってしまったのがエースだった。そこで、仕事仲間でもあるドーマにエースの連絡先を聞き、早速連絡を入れたという流れらしかった。
事情は飲み込めたエースだったが、それでも、名前の元へ行くことは躊躇われた。
だから、元婚約者の男に頼めばいいとも言ったのだ。
結婚は破談になっていたが、いまだに一緒に初詣に行くような仲のようだ。仕事帰りも、ほとんど毎日迎えに来ているようでもある。名前には『エースには関係ないこと』だと言われているし、どういう理由で別れたのかは知らないが、婚約者ではなくなった今もなんだかんだとうまくやっているのだろう。
けれど、運の悪いことに、その男は今、仕事で県外に出ていて帰ってくるのは3日後なのだと言う。
とにかく、生死だけでも確認してくれと急かすように頼まれてしまったエースは、これ以上の断る理由を思いつけなかった。
サボには『急用ができた』とだけ告げて、急いで部屋を出て、記憶を頼りにアパートまで走った。
そこで見つけたのが、熱があるくせになぜか玄関横の壁に寄りかかって座り込んでいる名前だった。
こんな真冬に、冷気に晒されたまま熱を出した身体で眠るなんて自殺行為だ。
エースに救援要請をしたベイの判断は正しかったと言わざるを得ないだろう。
確かに、エースが急がなければ、名前はあのまま凍死していたかもしれない。
(なんか食いてぇ…。)
空腹がエースの思考を呼び戻す。キュルルルルと泣き止まない腹に手を添えて、息を吐く。
ベイからは、病院から帰ってからでいいから状況の報告をしてほしいと言われている。
メッセージを送ったら、念のため、寝室で寝ている名前の様子を確認してから帰ろう————そう決めて、エースは、ズボンのポケットからスマホを取り出す。
ベイとのトーク画面を開き、病院から帰って来た旨のメッセージを打つ。
点滴を打ち幾らかは落ち着き眠っており、このまま様子見で問題ないと医師に言われていることも付け足して送信をすれば、すぐに既読がついた。
病院に運ばれるほどの高熱を出した親友のことが心配だったのだろう。
エースからの連絡をずっと気にしていたのかもしれない。
返信もすぐに来た。
【ありがとう。安心したわ。
名前もエースがそばにいてくれて心強かったでしょうしね。
じゃあ、このまま今日は名前のことをよろしくね。】
メッセージを読んだエースは、僅かに眉を顰めて訝し気に首を傾げる。
まさか、ベイはエースに、このまま今夜はこの家に泊れと言っているのだろうか。
昨日、夢の国で初めて会った名前の親友を思い出す。
名前は、知り合えば芯のある強い女性だと分かるけれど、与える第一印象はふわりと柔らかい女性のイメージだ。実際は、頑固でマイペースな面倒なところがあるけれど、見た目だけの印象でなら、男に『守ってあげたい』と思わせるタイプだろう。
それとは正反対に、ベイは第一印象から、強い女性だった。少し冷たい印象を与える美人であるのが原因かもしれないが、実際に話してみても、自分の思い通りに周りを動かすのが得意な女王様タイプだった。
このままベイのペースに流されてしまえば、エースは本当に一晩を名前が眠る家で過ごさなければならなくなる。
それは避けたい————正直な気持ちだ。
エースは少し考えてから、メッセージ入力画面を開き文字をタップする。
【俺は帰るけど、鍵はどうすればいいっすか。
会社の場所教えてくれれば届けに行くし、待っててほしければ
帰って来るまではここで待つくらいなら出来るけど。】
暗に、ここに泊る気は全くないのだという意思を込めて、送信を押す。
今回もまたすぐに既読がついた。
何と返事が返ってくるのだろう————不安で緊張しながら待っていたエースとは裏腹に、ベイはあまり悩まなかったのかほとんど間髪を入れずにメッセージを送って来た。
【私は今夜デートなの♡】
たった一行に、ベイからの沢山の命令が凝縮されているようだった。
けれど、エースだって諦めない。
早く帰って、お腹いっぱいに夕飯を食べて、ゆっくり眠りたいのだ。
【親友の部屋に勝手に男を泊めていいのかよ。】
少し挑発的なメッセージを送った。
これで、エースが本気で泊まりたがっていないことをベイも理解できるだろう。
既読がついてすぐに返信が来る。
【あら、あなたが名前の部屋に泊るのは
初めてではないはずだけど?】
返り討ちかのような挑発的な返事だ。
親友なのだから当然なのかもしれないけれど、やっぱり、ベイは自分達の過去の関係を知っていたようだ。
それならば、別れた理由だって理解しているはずだ。
意地の悪いメッセージに腹が立ったエースの指が、高速で動く。
【なら、俺がもう二度と名前と関わり合いたくねぇことも
分かってるはずだよな。
昨日から何考えてんのか知らねぇけど、俺はもうアイツのことなんて
何とも思ってねぇから。】
勢いで打ったメッセージだった。
挑発に乗ったと言われたら、その通りかもしれない。
素直すぎるところは、エースの長所であり、短所でもある。
今回はソレが、短所となってしまった。
そして、エースは知らなかったけれど、数多の男を手玉に取って来たベイにとっては、年下の素直な男の子を操ることなんて、玩具で遊ぶよりも容易いことなのだ。
分かりやすいエースなら尚更である。
【それはよかったわ。
私の可愛い親友が襲われることもないみたいだし、
エースはこの世で一番安全な男だって分かって安心したわ。】
【とにかく、倒れてる名前を見つけたのはエースなんだから
責任もって看病をしっかりして。
それくらいできるでしょ、もう大人なんだから。
それとも、まだ子供のエースくんは、ひとりじゃ不安なのかしら?】
間髪入れずに続けて届いたメッセージに、エースの自尊心が刺激される。
馬鹿にされたみたいで腹が立って【出来るに決まってんだろ!】とメッセージを送ってしまう。
それこそがベイの手のひらの上で踊らされていることなのだと知るには、エースにはまだ悪い女を知る数が少なすぎたのだ。
【じゃあ、私の可愛い親友をよろしく♡
お世話になるのは名前なんだから、お礼は本人にさせてね。
恩人の頼みは断れないと思うから、好きなことお願いしちゃえばいいわ。】
届いたメッセージの向こうで、したり顔で微笑むベイが見えた気がした。
その瞬間、エースは唐突に、自分がベイにコントロールされていたことを理解する。
けれど、時すでに遅しだ。
自分の馬鹿さ加減に呆れたエースはため息を吐き、スマホをポケットに突っ込むと、ソファから立ち上がりキッチンへと向かった。
玄関を出てすぐの壁に寄りかかって座り込んでいる名前を見つけたときは、額に触れた高熱と虚ろな表情に本格的にヤバいのではないかと思ったが、病院で点滴も打ってもらったことで、幾らかは落ち着いたように見える。
けれど、病院で看護師に体温を計ってもらい40度の熱があることがわかった名前は、信じられないくらいに熱いし、身体中汗だくだ。
解熱剤と点滴で少しは熱は下がったようだが、まだつらそうだ。
悪寒も続いているのか、名前がガタガタと震えながら掛布団の縁を両手で掴み、上まで持ち上げて口まで覆い隠した。
「う…ぅ…。」
苦し気に眉を顰めた名前からは、小さな呻き声が漏れ続けている。
下がらない熱で苦しんでいるのか。それとも、熱に魘されて、悪夢でも見ているだろうか。
(俺がアンタに見せられた悪夢よりはマシだと思うけどな。)
冷めた目で名前を見下ろしたエースは、一瞥することもなく背中を向けるとそのまま寝室を出た。
惚れた男と一緒になる為に、初恋を拗らせた高校三年の少年を、空っぽになった虚しい部屋に置き去りにした最低な女だ。
見つけてしまった手前、放っておくこともできず病院には連れて行ったが、これ以上、ここに残って看病を続ける義理はないはずだ。
高熱にうなされている姿は可哀想だとは思うし、同情もするが、このまま名前を放置することに躊躇いはない。
むしろ、そうしてしまった方が、心の奥で育ち過ぎたドロリとした感情がスッキリするような気がする程だ。
けれど、ひと先ずは———。
(疲れたな。)
アパートに来てから、もう2時間以上は経過している。
タクシーを呼んだり、抱えて病院に連れて行ったり、疲れてしまった。
まずは休憩をしよう———と、エースはリビングを見渡す。
1LDKの名前の部屋は、リビングに向かい合うようにカウンターキッチンが設置してある。その奥に白く塗られた木目調の食器棚、パスタや調味料を入れた透明の瓶が置かれた棚が置かれている。
昔、エースが見たことのある風景とよく似ている。
最初にこのアパートを見たときは、新婚夫婦が仲良く住んでいるのだと思ったこの部屋は、実際は名前がひとりで暮らしていた。
見る限りでは、男がいるような形跡は全くない。
アパートの外観通り、内装もクロスにオレンジ色の煉瓦柄が使われていたり、こだわって可愛らしい雰囲気を演出しているのが分かる。
リビングにあるのも、ソファとローテーブルにテレビ、小棚くらいだ。名前が好きそうなアンティークの小物がところどころに飾られてはいるけれど、いたってシンプルな女性の部屋だと言える。
部屋もよくある間取りで、玄関を開けると奥の部屋まで続いている狭い廊下に、あってもなくても大して変わらなそうな収納扉と洗面所、トイレに続く扉がある。洗面所の奥には、2人で入るには少し狭そうな小さな風呂。そして、廊下の一番奥にLDKに続く扉。寝室とLDKは完全な別室になっていて、リビングと繋がるように扉がある。
高校の頃のボロアパートからは昇格したといっても、いまだに1Rの部屋で生活しているエースよりは良い暮らしではあるが、普通のよくある女性のひとり暮らしの部屋だ。
仕事にかまけているせいで、旦那どころか彼氏もいないのだとヤソップ達も言っていたし、名前の親友であるベイはドーマに『男日照りの可哀想な女友達』と紹介していた。
この部屋から察するに、彼らの発言は間違いないのだろうと判断できる。
けれど、エースには、名前の部屋から『お前はもう関係ない男だ!』———という拒絶を感じるのだ。
ソファもローテーブルもテレビも、見たことがあるものに似ている食器棚も、この部屋にあるすべてが、エースが知っていたものとは違う。引っ越しの度に家具家電、小物を一新する人もいるだろう。けれど、そんな贅沢なことが出来るのはほんの少数派だ。
昔から、エースが『ケチだ!』とからかっていた名前に、そんなこだわりがあるとも思えない。
きっと、ここに引っ越す前に〝忘れたい過去と共に家具家電も全部捨ててしまいたい〟と処分をしたのだろう。
なんだか無性に腹が立って、エースは大股でリビング中央のソファへと向かった。
だが、それが失敗だった。
「冷たッ!?」
ソファに座ろうとして、足の裏に冷水を感じたエースは大声を上げる。
驚いたままソファに腰を降ろしていた為、反射的に、冷たい何かから逃げるために両足も床から持ち上げていた。
なんとも情けない恰好のままで足の下を覗き込めば、なぜか床に水たまりが出来ていてびしょ濡れになっている。すぐそばには、透明のグラスも転がっていた。
よく見てみれば、ソファ前に置かれているローテーブルの上に、市販の風邪薬が袋を開けるだけしたままで残されている。
(あぁ…、薬飲もうとしてコップ落としたのか。)
それで、風邪薬を断念したのだろう。
リビングに水たまりが出来ていた理由に納得する。
「めんどくせー。」
苛立ちを声に乗せたまま呟くように言って、エースは落ちているグラスを拾い上げ立ち上がる。
キッチンのシンクに適当にグラスを置いたエースは、洗面所に向かう。
洗面所には、ドラム式の洗濯機が置いてあり、その上にラック棚があった。そこにあった名前が好きそうな麻のカゴを引き出してみれば、思った通り、タオルが詰め込まれている。お世辞にも綺麗とは呼べない雑なたたみ方だ。
あの頃から、名前は変わっていないところばかりだ。
細かいことは気にしない大雑把な性格も、生徒のためならどんな損な役回りも喜んで引き受けるところも、あの笑顔も————。
けれど、エースの前にいる名前のすべてが変わってしまった。
あの頃は、エースの都合なんてお構いなしに付きまとっては、どんなに突き放しても笑顔でそばにいてくれた。
けれど今の名前は、エースの機嫌を伺っては、距離をとることばかりを考えているように見える。
冷たく突き放す自分の態度のせいだということもエースだって理解している。けれど、名前のよそよそしい態度が気に入らなくて、余計に意地の悪い対応をしてしまうのだ。
悪循環である。
「ふぅ。」
リビングの床も拭き終わると、エースはソファに深く腰かけた。
洗面所まで濡れたタオルを持っていくのも億劫で、テーブルの上に雑に投げる。
なんとなく壁掛けの時計を見れば、いつの間にかもう17時になっている。
本当なら今頃、サボの部屋でダラダラとテレビゲームに興じているはずだった。
そろそろ夕食のリクエストをしていて、もう少ししたら料理の得意なサボの手作りの美味しい食事を楽しんでいたかもしれない。
けれど実際は、昼食を食べ損ねたきり、何も食べていない。
思い出した途端に腹が減って来て、お腹の奥からキュルルルルと可哀想な泣き声が響く。
それもこれも、名前の親友であるベイにエースの連絡先を勝手に教えたドーマのせいだ。
今度、絶対に焼肉を奢らせよう———勝手にそう決意しながら、エースは今日の昼過ぎのことを思い出していた。
【エース、昨日振りね。ベイよ。ドーマから連絡先聞いたの。
実は、名前が熱を出して寝込んでるのよ。
仕事で行けないから、私の代わりに様子を見に行ってやってくれない?】
そんなメッセージがベイから届いたのは、遅い昼食に作ってくれたサボの手作り炒飯をスプーンですくった時だった。
昨日はあんなに楽しそうに夢の国を満喫していた名前が熱を出して寝込んでいるなんて驚いたし、一応、知り合いとして心配はした。
だが、それだけだ。
自分には関係ない———そう思って、最初は断ったのだ。
寝込んでいたとしてももういい大人なのだし、風邪を引いて熱があったって自分のことは自分で出来るだろう。
けれど、わざわざベイからエースに救援要請が来たのには、それなりの理由があった。
今朝、名前から熱が出たというメッセージが来たっきり、容態を心配したベイが何度メッセージを送っても返信はなく、電話をかけても繋がらないのだそうだ。
何かあったのではないかと心配していたところで、白羽の矢が立ってしまったのがエースだった。そこで、仕事仲間でもあるドーマにエースの連絡先を聞き、早速連絡を入れたという流れらしかった。
事情は飲み込めたエースだったが、それでも、名前の元へ行くことは躊躇われた。
だから、元婚約者の男に頼めばいいとも言ったのだ。
結婚は破談になっていたが、いまだに一緒に初詣に行くような仲のようだ。仕事帰りも、ほとんど毎日迎えに来ているようでもある。名前には『エースには関係ないこと』だと言われているし、どういう理由で別れたのかは知らないが、婚約者ではなくなった今もなんだかんだとうまくやっているのだろう。
けれど、運の悪いことに、その男は今、仕事で県外に出ていて帰ってくるのは3日後なのだと言う。
とにかく、生死だけでも確認してくれと急かすように頼まれてしまったエースは、これ以上の断る理由を思いつけなかった。
サボには『急用ができた』とだけ告げて、急いで部屋を出て、記憶を頼りにアパートまで走った。
そこで見つけたのが、熱があるくせになぜか玄関横の壁に寄りかかって座り込んでいる名前だった。
こんな真冬に、冷気に晒されたまま熱を出した身体で眠るなんて自殺行為だ。
エースに救援要請をしたベイの判断は正しかったと言わざるを得ないだろう。
確かに、エースが急がなければ、名前はあのまま凍死していたかもしれない。
(なんか食いてぇ…。)
空腹がエースの思考を呼び戻す。キュルルルルと泣き止まない腹に手を添えて、息を吐く。
ベイからは、病院から帰ってからでいいから状況の報告をしてほしいと言われている。
メッセージを送ったら、念のため、寝室で寝ている名前の様子を確認してから帰ろう————そう決めて、エースは、ズボンのポケットからスマホを取り出す。
ベイとのトーク画面を開き、病院から帰って来た旨のメッセージを打つ。
点滴を打ち幾らかは落ち着き眠っており、このまま様子見で問題ないと医師に言われていることも付け足して送信をすれば、すぐに既読がついた。
病院に運ばれるほどの高熱を出した親友のことが心配だったのだろう。
エースからの連絡をずっと気にしていたのかもしれない。
返信もすぐに来た。
【ありがとう。安心したわ。
名前もエースがそばにいてくれて心強かったでしょうしね。
じゃあ、このまま今日は名前のことをよろしくね。】
メッセージを読んだエースは、僅かに眉を顰めて訝し気に首を傾げる。
まさか、ベイはエースに、このまま今夜はこの家に泊れと言っているのだろうか。
昨日、夢の国で初めて会った名前の親友を思い出す。
名前は、知り合えば芯のある強い女性だと分かるけれど、与える第一印象はふわりと柔らかい女性のイメージだ。実際は、頑固でマイペースな面倒なところがあるけれど、見た目だけの印象でなら、男に『守ってあげたい』と思わせるタイプだろう。
それとは正反対に、ベイは第一印象から、強い女性だった。少し冷たい印象を与える美人であるのが原因かもしれないが、実際に話してみても、自分の思い通りに周りを動かすのが得意な女王様タイプだった。
このままベイのペースに流されてしまえば、エースは本当に一晩を名前が眠る家で過ごさなければならなくなる。
それは避けたい————正直な気持ちだ。
エースは少し考えてから、メッセージ入力画面を開き文字をタップする。
【俺は帰るけど、鍵はどうすればいいっすか。
会社の場所教えてくれれば届けに行くし、待っててほしければ
帰って来るまではここで待つくらいなら出来るけど。】
暗に、ここに泊る気は全くないのだという意思を込めて、送信を押す。
今回もまたすぐに既読がついた。
何と返事が返ってくるのだろう————不安で緊張しながら待っていたエースとは裏腹に、ベイはあまり悩まなかったのかほとんど間髪を入れずにメッセージを送って来た。
【私は今夜デートなの♡】
たった一行に、ベイからの沢山の命令が凝縮されているようだった。
けれど、エースだって諦めない。
早く帰って、お腹いっぱいに夕飯を食べて、ゆっくり眠りたいのだ。
【親友の部屋に勝手に男を泊めていいのかよ。】
少し挑発的なメッセージを送った。
これで、エースが本気で泊まりたがっていないことをベイも理解できるだろう。
既読がついてすぐに返信が来る。
【あら、あなたが名前の部屋に泊るのは
初めてではないはずだけど?】
返り討ちかのような挑発的な返事だ。
親友なのだから当然なのかもしれないけれど、やっぱり、ベイは自分達の過去の関係を知っていたようだ。
それならば、別れた理由だって理解しているはずだ。
意地の悪いメッセージに腹が立ったエースの指が、高速で動く。
【なら、俺がもう二度と名前と関わり合いたくねぇことも
分かってるはずだよな。
昨日から何考えてんのか知らねぇけど、俺はもうアイツのことなんて
何とも思ってねぇから。】
勢いで打ったメッセージだった。
挑発に乗ったと言われたら、その通りかもしれない。
素直すぎるところは、エースの長所であり、短所でもある。
今回はソレが、短所となってしまった。
そして、エースは知らなかったけれど、数多の男を手玉に取って来たベイにとっては、年下の素直な男の子を操ることなんて、玩具で遊ぶよりも容易いことなのだ。
分かりやすいエースなら尚更である。
【それはよかったわ。
私の可愛い親友が襲われることもないみたいだし、
エースはこの世で一番安全な男だって分かって安心したわ。】
【とにかく、倒れてる名前を見つけたのはエースなんだから
責任もって看病をしっかりして。
それくらいできるでしょ、もう大人なんだから。
それとも、まだ子供のエースくんは、ひとりじゃ不安なのかしら?】
間髪入れずに続けて届いたメッセージに、エースの自尊心が刺激される。
馬鹿にされたみたいで腹が立って【出来るに決まってんだろ!】とメッセージを送ってしまう。
それこそがベイの手のひらの上で踊らされていることなのだと知るには、エースにはまだ悪い女を知る数が少なすぎたのだ。
【じゃあ、私の可愛い親友をよろしく♡
お世話になるのは名前なんだから、お礼は本人にさせてね。
恩人の頼みは断れないと思うから、好きなことお願いしちゃえばいいわ。】
届いたメッセージの向こうで、したり顔で微笑むベイが見えた気がした。
その瞬間、エースは唐突に、自分がベイにコントロールされていたことを理解する。
けれど、時すでに遅しだ。
自分の馬鹿さ加減に呆れたエースはため息を吐き、スマホをポケットに突っ込むと、ソファから立ち上がりキッチンへと向かった。