5. 不思議の国からの逃亡
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違う世界に紛れ込んで来てしまった不思議の国のアリスもビックリするくらいに、俺は必死に走っていた。 冬休み明けの学校は、いつもとは雰囲気がまるで違っていたせいだ。 この先に、懐中時計を持っているウサギがいたら、追いかけてくる俺の形相に恐れおののいて逃げだすに違いない。 でも、彼女は違う。彼女は、俺から逃げない。 絶対に、逃げなかったのだ。 俺がどんなに逃げだって、俺がどんなに傷つけたって、俺がどんなに怖がったって、彼女は俺から逃げないで、向き合ってくれた。 だから———。 「おーい!エース!廊下を走んじゃねぇ!!」 すれ違いざまにラクヨウに叱られたけれど、気にする余裕なんてあるわけがない。 学校中が、冬休み明けの大ニュースで持ちきりだ。 廊下でも、生徒達が話題に挙げて盛り上がっている。 だから、嫌でも耳に入ってくるのだ。 「ねぇ、聞いた?名字先生、結婚するから学校辞めたんだって。」 「朝早く来たコの話だと、婚約者も一緒に挨拶に来てたらしいよ。 女の人みたいなすっごく綺麗な人だったって!」 「サッチ先生から聞いたんだけど、高校の同級生で、初めての彼氏なんだって~。」 「マジ!?すごいロマンチック!! いいなぁ、私も初めての彼氏と結婚したい!!」 「でも、名前先生の受け持ちって3年じゃなかった? 受験前に、急に結婚するからやめるって無責任じゃない?」 「思った!名前チャン大好きだったのになぁ、ちょっと幻滅。」 「先輩たち、どうするんだろう。」 名前の一面しか知らないくせに、分かったような顔で彼女のことを悪く言う彼らが許せなかった。 彼女は、無責任な大人とは違う。 いつだって、自分のことよりも生徒のことばかりを考えて、真っすぐに向き合ってくれる数少ない大人のひとりだ。 生徒が嬉しかったら、まるで自分のことのように喜んで、生徒が悲しかったら、まるで自分のことのように傷ついて、生徒が悔しい思いをしたら、誰よりも怒って守ってくれる。 彼女は、教師という仕事が大好きで、誇りを持っている。そんな彼女が、受験前の、卒業前の生徒を残して、無責任に辞めるわけがない。 それに———。 (名前は、俺と結婚するって約束した————!) 愛してる———と優しく微笑んだ彼女を抱きしめたのは、まだ数日前の話だ。 心変わりだって、絶対にしないと言っていた。 彼女は、絶対に、嘘を吐かない。 彼女は、絶対に、俺に嘘を吐かない———。 「名前!!」 勢いをつけすぎて滑る足をそのままに、俺は外国語教室の扉を開いた。 大学の講義室を模した造りになっているこの教室で、英語教師の彼女は授業をする。 だから、誰よりも早く学校に来る彼女は、毎朝、ここで授業の準備をしている。 だから、いつもみたいに、彼女は外国語教室の黒板を念入りに綺麗にしているはずだったのだ。 でも、ここもやっぱり、いつもの俺が知っている世界ではなくなっていた。 彼女が生徒からもらって喜んで飾っていた手作りのトロフィーやメダルはデスクから消え、本棚からも彼女の愛用書籍がなくなっている。 その代わりにあるのは、不思議の国の入口で立ち尽くす俺と、気だるい表情で長机に腰を降ろして、真っ黒な黒板を見てぼんやりしているマルコだけだった。 マルコが、俺の方を向く。まるで、俺がここに来ることを知っていたみたいに———。 「名前はどこ行ったんだよ!お前、知ってんだろ!!」 教室に走りこんだ俺は、そのままマルコの胸ぐらをつかみ上げた。 新任の教師だった彼女の良き相談相手が、マルコだった。 マルコなら、何かを知っているかもしれないと思ったのだ。 「名前、じゃねぇ。名字先生だろ。友達みてぇに言うんじゃねぇよい。」 「友達なんて思ってねぇよ!!名前は俺の…っ。」 恋人だ———と言いかけて、無意識にブレーキがかかる。 言ってはいけない。誰にも知られてはいけない。 彼女にいつも言われていたことだ。 当然だ。俺はまだ子供で、高校生で、彼女は大人で、教師だ。 恋人とどこに遊びに行っただとか、何をしただとか、聞いてもいないのにバカみたいな顔で惚気てる同級生達のようなことが出来る関係ではない。 でも、俺達は恋人だ。恋人なのに、どうして————。 「俺の、なんだよい。」 「————なんでもねぇよ…っ。」 俺は掴んでいたマルコの胸ぐらを突き放すように手を離した。 やっぱり、言えなかった。 彼女に迷惑をかけたくなかったのだ。 堂々と〝恋人〟だと言えないことが、こんなに悔しいと思ったことはなかった。 彼女を守れる男になりたいのに、俺という恋人の存在は、彼女にとって迷惑でしかないのだと、今、嫌というほどに思い知ってしまったのだ。 「俺にとっては、」 「あ?」 どこに行ったのだろう、どういうことなのだろう———。 頭が痛い状況に、グルグルと回答を探そうとしている俺を、マルコが見下ろす。 それが、大人と子供の差のような気がして、余計に俺を焦らせた。 「名前は可愛い妹だ。 アイツがお前ぐらいの歳の頃から知ってる。」 「知ってる、そんなこと。名前が教えてくれた。 名前は俺にいろんなことを教えてくれたんだ。お前が知らねぇ名前のことだって、俺は———。」 「アイツが結婚するヤツも、ソイツが高校の頃から知ってる。 むしろ、名前よりも古い付き合いだ。」 思わず目を見開いて、俺はマルコを見た。 マルコの目が俺を見下ろす。 俺は、マルコのこの目が苦手だ。 嘘つきな気だるげな表情の向こうで、鋭く光る眼が、俺の情けない本音もすべて見透かしているような気がしていたから。 だからずっと、目をそらしてきた。逃げてきた。 でも、それをもうしなくなったのは、俺にはもう、見透かされて怖い気持ちなんてないからだ。 だって、彼女がいつも、俺の気持ちを受け止めてくれたから———。 「俺にとって弟みてぇなヤツで、我儘で勝手なところもあるが、 アイツのことを大切にしてる。昔からお似合いの二人だよい。」 「…信じねぇ。」 俺は、目を伏せて、グッと拳を握った。 まだ18のクソガキの俺に出来ることなんて、それくらいしかなかったのだ。 悔しい、悔しいけど———。 俺には、名前を信じることくらいしか出来ないから———。 「あ?」 「信じねぇよ、そんなこと!」 マルコを見返して力強く叫んだ。 誰が何を言ったって、何をしたって、俺の気持ちを揺るがすことなんて出来やしないのだ。 俺の気持ちは俺のもので、俺が信じたいと思うものを信じ続ければ、絶対に裏切られないって。もし、傷ついてしまったら必ずそばで守ってやるって、そう約束してくれたのは、他の誰でもなく彼女だ。 だから、俺は、彼女を信じる。 あの日の彼女を、俺の知る彼女を、信じる————。 睨むようにマルコを見返していたら、諦めるように溜息を吐かれた。 「言いてぇことがあるなら、本人に言えよい。」 「だからどこにいるんだって、さっきから聞いてんだろ!!」 「今頃、引っ越しの準備してるはずだよい。」 「は!?引っ越しって、なんで———。」 「早く行かねぇと、もう二度と会えなくなるぞ。」 聞きたいことは山ほどあった。 でも、それは、マルコではなくて、彼女から聞きたかった。 だって、俺はきっと、マルコが何を言ったって信じてはやれない。 彼女の言葉じゃないと、俺は信じられないから———。 |