◇No.31◇心という臓器はありません
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雨雲が月も星も隠してしまっていた夜、なまえはローと一緒にポーラータング号のバーに向かっていました。
あの日から、特別な約束を交わすこともせず、夜になるとなまえがローの部屋に誘いに行き、一緒にバーで過ごすのが夜の定番になっています。
天井の海が綺麗なバーで過ごす夜を気に入ったなまえと、静かな場所でゆっくりと読書をしたいローの気持ちが一致したということでしょう。
今夜も一緒にバーにやってきた2人は、扉を開けて中に入ると、いつもの大きなソファの上に先客がいることに気がつきました。
それは、エレンでした。
ソファの上で横になって、眠っています。
グロスと海賊の悪策によって故郷を奪われてしまった町の住人達は、ローの作戦に乗る覚悟を決め、土地の権利書を手放しました。
そして、その代わりに引っ越し費用を手に入れましたが、彼らはそれは今後の復興費用として手元に残し、町を取り戻すまでは、ポーラータング号で過ごすことになりました。
彼らが借りたのは、広めの作戦会議室です。ここ数日はそこで寝泊まりをして、不要に船から降りないようにローから指示をだされています。
時々、必要な日用品を買いに数名が出かける以外は、町の住人達はローの指示をきちんと守っているようでした。
船員約20数名が過ごすには広い船内ですが、そこに街の住人達も加わると手狭でした。
それでも、あと少しの辛抱だと皆頑張っています。
絶対に、故郷を取り戻す——。
住民たちの気持ちは、ひとつに重なっていました。
ですが、子供達は狭い船内に閉じ込められるのはとてもつまらないようで、初日は初めての海賊船に興味を示して冒険をしていた3人でしたが、今朝は『外に遊びに行きたい!』と大人達を困らせていました。
きっと、仕方なくポーラータング号の中を冒険していたエレンは、最終的に辿り着いたこの場所で、気持ちの良い波の揺れの光を感じながら眠ってしまったのでしょう。
いつもの場所を奪われてしまったなまえとローは、その隣にあるソファに腰かけました。
「カルラのところに連れて行った方がいいですか?」
なまえがローに訊ねました。
ローは、チラりとエレンの方を見た後、必要ないと適当に答え、読みかけだった医学本を開きました。
いつもなら天井の海を見上げるばかりのなまえが、エレンの方に視線を向けます。
町の住人達がポーラータング号で身を隠すことが決まったとき、海賊を憎んでいるエレンとミカサは、反対をすると思われていました。
ですが、あの火の海から町の住人達を救ってくれた海賊に対して思うことがあったのか、彼らは素直に大人達の決定に従いました。
それでも、エレンだけは、やはりどうしても海賊を許せてはいないのかもしれません。
ポーラータング号に足を踏み入れた時、初めての海賊船に瞳と好奇心をキラキラさせているアルミンの隣で、エレンは悔しそうに拳を握っていました。
それから数日が経ち、力自慢の船員達に護身術を習っているミカサと、船の構造や海図の見方、書き方を興味津々に船員達に訊ねては書庫にこもって勉強をしているアルミンに比べ、エレンは1人でいることの方が多いのをなまえもよく見かけていました。
医学本の世界にすっかり入り込んでいるローの隣で、なまえがエレンを眺めていると、バーの扉が開きました。
扉を開いたのは、カルラでした。
ローとなまえを見つけた彼女は、一瞬、少し驚いた顔をした後、困った顔で訊ねました。
「うちの息子、見てませんか?」
「そこで寝てる。」
医学本から顔を上げ、ローが隣のソファを指さしました。
ソファの上で丸まって小さくなっていたので、カルラは気づいていなかったようです。
エレンの姿を確認しホッとしたような顔をした後、彼女はローとなまえに迷惑をかけて申し訳なかったと謝りました。
そして、バーに入って来て、エレンの肩を揺すります。
「エレン、起きて。部屋に戻るわよ。」
カルラが肩を揺すりますが、エレンはピクリとも反応しません。
すっかり深い夢の中に入り込んでしまっているようです。
きっと——。
「環境も心境も変わりすぎて疲れてるんだろう。
寝かせておけばいい。俺達は構わねぇ。」
ローは、エレンにチラリと視線を向けて言いました。
こんなにぐっすり眠っているのに起こすのは忍びない、と本当は思っていたカルラは、そう言ってもらえてホッとしたようでした。
そして、ローの気遣いに感謝をして、眠るエレンの隣に腰を降ろしました。
「ローさん、なまえさん、ハートの海賊団の皆さんには、
本当に心から感謝しています。」
カルラは、ローとなまえの方を向き、頭を下げました。
ですが、感謝をされたローは、面倒くさそうに眉を顰めました。
「もう何度も聞いた。それに、これは言わば同盟みてぇなもんだ。
お前達から土地の権利書を貰って油断したアイツ等から俺達は大金を奪う。
計画が成功するために必要なことをしてるだけで、感謝される覚えはねぇ。」
「えぇ、分かっています。それでも、何度感謝してもしたりないほど、感謝しているんです。
だって、この子は、私と主人にとって愛のすべてですから。」
カルラはそう言うと、柔らかく目を細め、ソファで眠るエレンの頬をとても愛おしそうに撫でました。
「なまえさんが火の海に飛び込んで、ローさんがそれを許可してくれたから、
この子は今、こうして私のそばにいてくれる。私はまた、息子の温かい頬を撫でられるんです。
本当に…、ありがとうございます。」
カルラはそこまで言うと、やっぱり、またローとなまえに頭を下げました。
ローは面倒くさそうに首を竦め、返事もせずに本に視線を落とします。
ですが、なまえは、とても真剣な顔で口を開きました。
「エレンは、愛のすべてですか?」
「えぇ。」
「愛は温かいですか?」
「とっても。触れても、心も、とても温かくなります。
ローさんとなまえさんのおかげですよ。」
カルラはふわりと微笑んで答えました。
それになまえは真剣な表情で耳を傾けます。
彼女達の会話がすれ違っていることに気づいているのは、話が嫌でも耳に入ってくるローだけでした。
ですが、なまえは家族愛について訊ねたわけではないと訂正するのも面倒で聞き流しました。
そうしていると、なまえが立ちあがり、エレンの眠るソファの方へ向かいました。
「温かくありません。」
眠るエレンの前に立つと、なまえは、さっきカルラがしたようにエレンの頬に触れました。
「え?」
なまえが何を言っているのか分からず、カルラが不思議そうに首を傾げました。
「私は、愛の温度を知りたいです。
でも、私は温度を感知できないので、愛の温度を知ることは出来ないようです。」
なまえの答えを聞いて、カルラはやっと意味を理解しました。
そして、可笑しそうにクスリと笑います。
「エレンは、私とグリシャにとっての愛だけれど、
なまえさんは違うでしょう?」
「違いますか?」
「そうよ。人それぞれ愛の対象は違うの。だから、分からなかっただけよ。
いつかきっと、なまえさんも愛と出逢ったら、その温かさが分かるわ。」
カルラが柔らかく微笑みます。
愛を知りたいというなまえを安心させてあげたいと思ったのです。
ですが、なまえは首を横に振りました。
「私は愛と出逢ってはいけません。」
「どうして?」
「愛は身を滅ぼします。
自由に生きていくためには、愛とは出逢ってはいけません。」
なまえはキッパリと答えました。
研究室から自分を逃がしてくれた男に言われたその言葉が、愛についての彼女が知るすべてだったからです。
それ以外は、恋愛物語や週刊誌の知識しかありません。
静かなバーでキッパリと答えたなまえの声は、とてもよく通りました。
思わず、ローが顔を上げてなまえの方を向きました。
なまえが、何度も『愛について知りたい。』と言っているのを聞いたことはあったローですが、彼女が『身を滅ぼす愛に出逢わない為』に、愛を知ろうとしていたとは思っていなかったので驚いたのです。
なまえの答えを聞いたカルラも、少し驚いたように目を見開きました。
そして、自分の隣に座るように促します。
素直に従ってなまえが隣に座ると、カルラは彼女の手をそっと包むように握ってから言いました。
「確かに、愛で身を滅ぼすこともあるかもしれないわ。」
「はい、知っています。そう教えられました。」
「でも、それがすべてじゃないのよ?」
「違いますか?」
「私は、エレンにも、エレンの命を救ってくれたあなたにも
身を焦がす愛に出逢って欲しいと思ってる。」
「身を焦がす愛ですか?私とエレンは燃えるのですか?」
言葉通りに受け取るなまえの素直さに、カルラは一瞬だけキョトンとした後に、楽しそうに笑いました。
そして、不思議そうに首を傾げているなまえに言います。
「大好きで大好きで、その人の言葉ばかり考えるようになってね、
心がギュウッとするの。それがね、身を焦がす愛よ。」
「私には心という臓器はありません。」
「ふふ、私にもそんな臓器はないわ。」
カルラが楽しそうに答えます。
なまえは、カルラの言っていることが難し過ぎて、傾げた首が元に戻りません。
「人間には心があると、天才博士が言っていました。
だから、カルラにも心という臓器があるはずです。」
「んー、それは正しいけど、少し間違ってるわ。」
「天才博士は間違えましたか?」
「間違えというよりも、少しだけ、言葉が足らなかったと思うの。
心っていうのはね、人と人との触れ合いで生まれるもので、臓器というわけじゃないの。」
「触れ合いで生まれるのですか?赤ちゃんですか?卵ですか?」
なまえの回答がとても素直過ぎて、カルラは綻んだ頬が戻りそうにありませんでした。
目の前にいるのは大人の女性なのに、小さな女の子と話しているようで、とても可愛らしく仕方がなかったのです。
「生まれるって言ったのが分かりづらかったのね。
心はね、覚えるものなの。
なまえさんだって、優しくされたら、優しさを返したいと思うでしょう?」
「はい。優しさには、優しさのお返しが必要です。」
「そうよね。そうやってね、人は心を覚えていくの。
だから、優しくした人は、優しい心がどんどん大きくなって、
意地悪ばかりの人は、心がどんどん意地悪くなっていくの。」
「心は覚えるものですか?」
「えぇ、だから、ロボットだから心がないなんてことはないし、
人間でも、心がない人はいるし、ロボットにだって心がある人はいるのよ。
カジノオーナのグロスとか、なまえさんがそうだわ。」
「グロスには心がありませんか?」
「えぇ、仮にあるとしたらそれは欲にまみれてとても汚れてしまっている。
でも、自分の危険を顧みずに火の海に走って、仲間達を信じたなまえちゃんには、とても綺麗な心があるわ。
——ねぇ、ローさん?」
カルラが、ローの方を向いて、ニコリと微笑みました。
さっきまでなまえに見せていた柔らかい微笑みとは違って、どこか悪戯っ子のような笑みでした。
急に話を振られたローは、戸惑います。
チラリと視線を向けた先にいたなまえは、真剣な顔で答えを待っていて、話を流すことは出来ませんでした。
「…そうだな。あるんじゃねぇのか。」
ローの答えを聞いたカルラは、とても満足気に微笑みました。
ですが、なまえは素直に受け止められません。
だって、彼女はロボットです。
どれだけ天才的な技術で人間に似せていたとしても、所詮機械なのです。
心があるわけがありません。
でも、なまえが誰よりも信じているローが『心がある』と判断して、混乱してしまったのです。
「それは、このハートのことですか?」
必死に思考を司る電子回路をまわして、なまえが見つけた答えは、胸元に彫られたハート柄のタトゥーでした。
セーターの襟元を下に引っ張ったなまえは、胸元のタトゥーをカルラに見せました。
「まぁ、素敵なタトゥーね。」
「ローが書いてくれました。これで私は本物のハートの海賊団になりました。」
「そう、よかったわね。
きっと、なまえさんは、ローさんから心を貰ったのね。」
「はい、ローが私の胸にハートを描いてくれました。」
今度こそ、なまえに意味が通じていないことを理解していたカルラでしたが、その姿が可愛らしくて、クスリと笑うだけでした。
いつかきっと、聡い彼女なら分かる日がくると思ったからです。
だから、その代わり、カルラはなまえにこう伝えました。
「いつか、身を焦がすような素敵な愛に出逢えたらね、
なまえさんは、その人を心から愛してあげてほしいの。」
「私が、その人を愛するんですか?」
「えぇ、そうよ。そうすればきっと、その人もなまえさんを愛してくれるわ。
そして、身を焦がす愛は、身を守る愛に代わるの。」
「身を守る愛、ですか?」
「そう。私がエレンの為なら命を捨ててでも守ろうとするのと同じように、
なまえさんが愛した誰かも、あなたの為ならどんな苦労も厭わないくらいに愛してくれる。
そして、その愛はきっと、なまえさんの身を滅ぼすどころか、守ってくれるわ。」
カルラはそう言って、なまえの胸元に描かれたハートにそっと触れました。
少し熱いくらいの温度が、カルラの手のひらに流れ込んできます。
電子回路が休む間もなく動き続けるなまえの体温は、人間のそれよりも少し高くなっていました。
なまえも、自分の胸元に描かれているハートを眺めました。
カルラの言っていることは、理解出来ませんでした。
理解出来ないことが、たくさんありすぎたのです。
だって—。
「誰が、ロボットを愛しますか?」
人間同士でさえ、愛し合うのは難しく、脆く儚いものなのに——。
なまえの問いは、カルラの胸に、ズシリと刺さりました。
その通りです。
一体、誰がロボットを心から愛し、身を挺して守ろうとしてくれるというのでしょうか。
そんな人がいれば、それはきっと、心底の変わり者で、頭のおかしい人です。
でも、もし本当に、そんな人が現れたのなら——。
「もし、ロボットのなまえさんを愛してると言う人が現れたら、
その人はきっと、たくさん悩んで、たくさん考えて、それでも愛してると答えを出した人だわ。
だから、その人の愛は、信じてあげてほしい。」
——自分が愛されるわけがないなんて悲しいことを思わないで。
なまえの頬を優しく撫でて、カルラは悲し気に揺れる瞳をそのままに、とても真剣に伝えました。
それに対して、なまえは肯定も否定もしませんでした。
あまりにも難しい話ばかり聞かされ、自分の常識のすべてを覆され、高度な技術で出来ているなまえの電子回路は、答えるべき言葉を見つけられなかったのです。
それからすぐに、エレンが目を覚まし、母子はバーから出て行きました。
医学本を読んでいるローの隣で、いつもは天井の海を眺めているなまえは、ただひたすら自分の胸元を見ていました。
セーターで隠れていて、ハートのタトゥーは見えませんが、それでもずっと胸元に落とした視線は動きません。
しばらくそうしていた後、ふ、と何かに気づいたような顔をしてなまえが顔を上げました。
その動きに気づいたローが、医学本から視線を上げたのとほぼ同時に、頬に人間よりも熱い温度が触れました。
柔らかいそれは、なまえの手のひらでした。
「何してんだ。」
自分の頬に触れて、真剣な顔をしているなまえに、ローは訝し気に訊ねます。
「温かくないです。」
「温度を感じねぇからだろ。」
「はい、そうです。ローが正しいです。
カルラは間違っています。」
そう言って、なまえは、ローから手を離しました。
なまえは、答えを見つけたようでした。
ローは、それを肯定も否定もしませんでした。
愛についての議論だって、人間同士でさえ意見が分かれる難しいものなのです。
でも、ローは、知っていることもあります。
なまえが見つけた答えよりも、カルラの話していた愛が正解だった方がとても幸せだということです。
そして、その方が、確率の低い難しい答えだということでした。
だって、なまえの言う通り、人間同士でさえ、愛し合う者同士で傷つけ合っては、愛を憎しみに変えたり、無関心に変えてしまうのです。
愛とは、とても脆く儚い、愛の熱に火照った者だけが見える幻のようなものなのです。
それなのに、誰が、ロボットなんか愛するでしょうか。
ロボットが人間と愛し合うなんて、そんなことが起これば奇跡です。
あぁ、だから——。
『その人の愛は、信じてあげてほしい。』
カルラはそう、言ったのでしょうけれど———。
あの日から、特別な約束を交わすこともせず、夜になるとなまえがローの部屋に誘いに行き、一緒にバーで過ごすのが夜の定番になっています。
天井の海が綺麗なバーで過ごす夜を気に入ったなまえと、静かな場所でゆっくりと読書をしたいローの気持ちが一致したということでしょう。
今夜も一緒にバーにやってきた2人は、扉を開けて中に入ると、いつもの大きなソファの上に先客がいることに気がつきました。
それは、エレンでした。
ソファの上で横になって、眠っています。
グロスと海賊の悪策によって故郷を奪われてしまった町の住人達は、ローの作戦に乗る覚悟を決め、土地の権利書を手放しました。
そして、その代わりに引っ越し費用を手に入れましたが、彼らはそれは今後の復興費用として手元に残し、町を取り戻すまでは、ポーラータング号で過ごすことになりました。
彼らが借りたのは、広めの作戦会議室です。ここ数日はそこで寝泊まりをして、不要に船から降りないようにローから指示をだされています。
時々、必要な日用品を買いに数名が出かける以外は、町の住人達はローの指示をきちんと守っているようでした。
船員約20数名が過ごすには広い船内ですが、そこに街の住人達も加わると手狭でした。
それでも、あと少しの辛抱だと皆頑張っています。
絶対に、故郷を取り戻す——。
住民たちの気持ちは、ひとつに重なっていました。
ですが、子供達は狭い船内に閉じ込められるのはとてもつまらないようで、初日は初めての海賊船に興味を示して冒険をしていた3人でしたが、今朝は『外に遊びに行きたい!』と大人達を困らせていました。
きっと、仕方なくポーラータング号の中を冒険していたエレンは、最終的に辿り着いたこの場所で、気持ちの良い波の揺れの光を感じながら眠ってしまったのでしょう。
いつもの場所を奪われてしまったなまえとローは、その隣にあるソファに腰かけました。
「カルラのところに連れて行った方がいいですか?」
なまえがローに訊ねました。
ローは、チラりとエレンの方を見た後、必要ないと適当に答え、読みかけだった医学本を開きました。
いつもなら天井の海を見上げるばかりのなまえが、エレンの方に視線を向けます。
町の住人達がポーラータング号で身を隠すことが決まったとき、海賊を憎んでいるエレンとミカサは、反対をすると思われていました。
ですが、あの火の海から町の住人達を救ってくれた海賊に対して思うことがあったのか、彼らは素直に大人達の決定に従いました。
それでも、エレンだけは、やはりどうしても海賊を許せてはいないのかもしれません。
ポーラータング号に足を踏み入れた時、初めての海賊船に瞳と好奇心をキラキラさせているアルミンの隣で、エレンは悔しそうに拳を握っていました。
それから数日が経ち、力自慢の船員達に護身術を習っているミカサと、船の構造や海図の見方、書き方を興味津々に船員達に訊ねては書庫にこもって勉強をしているアルミンに比べ、エレンは1人でいることの方が多いのをなまえもよく見かけていました。
医学本の世界にすっかり入り込んでいるローの隣で、なまえがエレンを眺めていると、バーの扉が開きました。
扉を開いたのは、カルラでした。
ローとなまえを見つけた彼女は、一瞬、少し驚いた顔をした後、困った顔で訊ねました。
「うちの息子、見てませんか?」
「そこで寝てる。」
医学本から顔を上げ、ローが隣のソファを指さしました。
ソファの上で丸まって小さくなっていたので、カルラは気づいていなかったようです。
エレンの姿を確認しホッとしたような顔をした後、彼女はローとなまえに迷惑をかけて申し訳なかったと謝りました。
そして、バーに入って来て、エレンの肩を揺すります。
「エレン、起きて。部屋に戻るわよ。」
カルラが肩を揺すりますが、エレンはピクリとも反応しません。
すっかり深い夢の中に入り込んでしまっているようです。
きっと——。
「環境も心境も変わりすぎて疲れてるんだろう。
寝かせておけばいい。俺達は構わねぇ。」
ローは、エレンにチラリと視線を向けて言いました。
こんなにぐっすり眠っているのに起こすのは忍びない、と本当は思っていたカルラは、そう言ってもらえてホッとしたようでした。
そして、ローの気遣いに感謝をして、眠るエレンの隣に腰を降ろしました。
「ローさん、なまえさん、ハートの海賊団の皆さんには、
本当に心から感謝しています。」
カルラは、ローとなまえの方を向き、頭を下げました。
ですが、感謝をされたローは、面倒くさそうに眉を顰めました。
「もう何度も聞いた。それに、これは言わば同盟みてぇなもんだ。
お前達から土地の権利書を貰って油断したアイツ等から俺達は大金を奪う。
計画が成功するために必要なことをしてるだけで、感謝される覚えはねぇ。」
「えぇ、分かっています。それでも、何度感謝してもしたりないほど、感謝しているんです。
だって、この子は、私と主人にとって愛のすべてですから。」
カルラはそう言うと、柔らかく目を細め、ソファで眠るエレンの頬をとても愛おしそうに撫でました。
「なまえさんが火の海に飛び込んで、ローさんがそれを許可してくれたから、
この子は今、こうして私のそばにいてくれる。私はまた、息子の温かい頬を撫でられるんです。
本当に…、ありがとうございます。」
カルラはそこまで言うと、やっぱり、またローとなまえに頭を下げました。
ローは面倒くさそうに首を竦め、返事もせずに本に視線を落とします。
ですが、なまえは、とても真剣な顔で口を開きました。
「エレンは、愛のすべてですか?」
「えぇ。」
「愛は温かいですか?」
「とっても。触れても、心も、とても温かくなります。
ローさんとなまえさんのおかげですよ。」
カルラはふわりと微笑んで答えました。
それになまえは真剣な表情で耳を傾けます。
彼女達の会話がすれ違っていることに気づいているのは、話が嫌でも耳に入ってくるローだけでした。
ですが、なまえは家族愛について訊ねたわけではないと訂正するのも面倒で聞き流しました。
そうしていると、なまえが立ちあがり、エレンの眠るソファの方へ向かいました。
「温かくありません。」
眠るエレンの前に立つと、なまえは、さっきカルラがしたようにエレンの頬に触れました。
「え?」
なまえが何を言っているのか分からず、カルラが不思議そうに首を傾げました。
「私は、愛の温度を知りたいです。
でも、私は温度を感知できないので、愛の温度を知ることは出来ないようです。」
なまえの答えを聞いて、カルラはやっと意味を理解しました。
そして、可笑しそうにクスリと笑います。
「エレンは、私とグリシャにとっての愛だけれど、
なまえさんは違うでしょう?」
「違いますか?」
「そうよ。人それぞれ愛の対象は違うの。だから、分からなかっただけよ。
いつかきっと、なまえさんも愛と出逢ったら、その温かさが分かるわ。」
カルラが柔らかく微笑みます。
愛を知りたいというなまえを安心させてあげたいと思ったのです。
ですが、なまえは首を横に振りました。
「私は愛と出逢ってはいけません。」
「どうして?」
「愛は身を滅ぼします。
自由に生きていくためには、愛とは出逢ってはいけません。」
なまえはキッパリと答えました。
研究室から自分を逃がしてくれた男に言われたその言葉が、愛についての彼女が知るすべてだったからです。
それ以外は、恋愛物語や週刊誌の知識しかありません。
静かなバーでキッパリと答えたなまえの声は、とてもよく通りました。
思わず、ローが顔を上げてなまえの方を向きました。
なまえが、何度も『愛について知りたい。』と言っているのを聞いたことはあったローですが、彼女が『身を滅ぼす愛に出逢わない為』に、愛を知ろうとしていたとは思っていなかったので驚いたのです。
なまえの答えを聞いたカルラも、少し驚いたように目を見開きました。
そして、自分の隣に座るように促します。
素直に従ってなまえが隣に座ると、カルラは彼女の手をそっと包むように握ってから言いました。
「確かに、愛で身を滅ぼすこともあるかもしれないわ。」
「はい、知っています。そう教えられました。」
「でも、それがすべてじゃないのよ?」
「違いますか?」
「私は、エレンにも、エレンの命を救ってくれたあなたにも
身を焦がす愛に出逢って欲しいと思ってる。」
「身を焦がす愛ですか?私とエレンは燃えるのですか?」
言葉通りに受け取るなまえの素直さに、カルラは一瞬だけキョトンとした後に、楽しそうに笑いました。
そして、不思議そうに首を傾げているなまえに言います。
「大好きで大好きで、その人の言葉ばかり考えるようになってね、
心がギュウッとするの。それがね、身を焦がす愛よ。」
「私には心という臓器はありません。」
「ふふ、私にもそんな臓器はないわ。」
カルラが楽しそうに答えます。
なまえは、カルラの言っていることが難し過ぎて、傾げた首が元に戻りません。
「人間には心があると、天才博士が言っていました。
だから、カルラにも心という臓器があるはずです。」
「んー、それは正しいけど、少し間違ってるわ。」
「天才博士は間違えましたか?」
「間違えというよりも、少しだけ、言葉が足らなかったと思うの。
心っていうのはね、人と人との触れ合いで生まれるもので、臓器というわけじゃないの。」
「触れ合いで生まれるのですか?赤ちゃんですか?卵ですか?」
なまえの回答がとても素直過ぎて、カルラは綻んだ頬が戻りそうにありませんでした。
目の前にいるのは大人の女性なのに、小さな女の子と話しているようで、とても可愛らしく仕方がなかったのです。
「生まれるって言ったのが分かりづらかったのね。
心はね、覚えるものなの。
なまえさんだって、優しくされたら、優しさを返したいと思うでしょう?」
「はい。優しさには、優しさのお返しが必要です。」
「そうよね。そうやってね、人は心を覚えていくの。
だから、優しくした人は、優しい心がどんどん大きくなって、
意地悪ばかりの人は、心がどんどん意地悪くなっていくの。」
「心は覚えるものですか?」
「えぇ、だから、ロボットだから心がないなんてことはないし、
人間でも、心がない人はいるし、ロボットにだって心がある人はいるのよ。
カジノオーナのグロスとか、なまえさんがそうだわ。」
「グロスには心がありませんか?」
「えぇ、仮にあるとしたらそれは欲にまみれてとても汚れてしまっている。
でも、自分の危険を顧みずに火の海に走って、仲間達を信じたなまえちゃんには、とても綺麗な心があるわ。
——ねぇ、ローさん?」
カルラが、ローの方を向いて、ニコリと微笑みました。
さっきまでなまえに見せていた柔らかい微笑みとは違って、どこか悪戯っ子のような笑みでした。
急に話を振られたローは、戸惑います。
チラリと視線を向けた先にいたなまえは、真剣な顔で答えを待っていて、話を流すことは出来ませんでした。
「…そうだな。あるんじゃねぇのか。」
ローの答えを聞いたカルラは、とても満足気に微笑みました。
ですが、なまえは素直に受け止められません。
だって、彼女はロボットです。
どれだけ天才的な技術で人間に似せていたとしても、所詮機械なのです。
心があるわけがありません。
でも、なまえが誰よりも信じているローが『心がある』と判断して、混乱してしまったのです。
「それは、このハートのことですか?」
必死に思考を司る電子回路をまわして、なまえが見つけた答えは、胸元に彫られたハート柄のタトゥーでした。
セーターの襟元を下に引っ張ったなまえは、胸元のタトゥーをカルラに見せました。
「まぁ、素敵なタトゥーね。」
「ローが書いてくれました。これで私は本物のハートの海賊団になりました。」
「そう、よかったわね。
きっと、なまえさんは、ローさんから心を貰ったのね。」
「はい、ローが私の胸にハートを描いてくれました。」
今度こそ、なまえに意味が通じていないことを理解していたカルラでしたが、その姿が可愛らしくて、クスリと笑うだけでした。
いつかきっと、聡い彼女なら分かる日がくると思ったからです。
だから、その代わり、カルラはなまえにこう伝えました。
「いつか、身を焦がすような素敵な愛に出逢えたらね、
なまえさんは、その人を心から愛してあげてほしいの。」
「私が、その人を愛するんですか?」
「えぇ、そうよ。そうすればきっと、その人もなまえさんを愛してくれるわ。
そして、身を焦がす愛は、身を守る愛に代わるの。」
「身を守る愛、ですか?」
「そう。私がエレンの為なら命を捨ててでも守ろうとするのと同じように、
なまえさんが愛した誰かも、あなたの為ならどんな苦労も厭わないくらいに愛してくれる。
そして、その愛はきっと、なまえさんの身を滅ぼすどころか、守ってくれるわ。」
カルラはそう言って、なまえの胸元に描かれたハートにそっと触れました。
少し熱いくらいの温度が、カルラの手のひらに流れ込んできます。
電子回路が休む間もなく動き続けるなまえの体温は、人間のそれよりも少し高くなっていました。
なまえも、自分の胸元に描かれているハートを眺めました。
カルラの言っていることは、理解出来ませんでした。
理解出来ないことが、たくさんありすぎたのです。
だって—。
「誰が、ロボットを愛しますか?」
人間同士でさえ、愛し合うのは難しく、脆く儚いものなのに——。
なまえの問いは、カルラの胸に、ズシリと刺さりました。
その通りです。
一体、誰がロボットを心から愛し、身を挺して守ろうとしてくれるというのでしょうか。
そんな人がいれば、それはきっと、心底の変わり者で、頭のおかしい人です。
でも、もし本当に、そんな人が現れたのなら——。
「もし、ロボットのなまえさんを愛してると言う人が現れたら、
その人はきっと、たくさん悩んで、たくさん考えて、それでも愛してると答えを出した人だわ。
だから、その人の愛は、信じてあげてほしい。」
——自分が愛されるわけがないなんて悲しいことを思わないで。
なまえの頬を優しく撫でて、カルラは悲し気に揺れる瞳をそのままに、とても真剣に伝えました。
それに対して、なまえは肯定も否定もしませんでした。
あまりにも難しい話ばかり聞かされ、自分の常識のすべてを覆され、高度な技術で出来ているなまえの電子回路は、答えるべき言葉を見つけられなかったのです。
それからすぐに、エレンが目を覚まし、母子はバーから出て行きました。
医学本を読んでいるローの隣で、いつもは天井の海を眺めているなまえは、ただひたすら自分の胸元を見ていました。
セーターで隠れていて、ハートのタトゥーは見えませんが、それでもずっと胸元に落とした視線は動きません。
しばらくそうしていた後、ふ、と何かに気づいたような顔をしてなまえが顔を上げました。
その動きに気づいたローが、医学本から視線を上げたのとほぼ同時に、頬に人間よりも熱い温度が触れました。
柔らかいそれは、なまえの手のひらでした。
「何してんだ。」
自分の頬に触れて、真剣な顔をしているなまえに、ローは訝し気に訊ねます。
「温かくないです。」
「温度を感じねぇからだろ。」
「はい、そうです。ローが正しいです。
カルラは間違っています。」
そう言って、なまえは、ローから手を離しました。
なまえは、答えを見つけたようでした。
ローは、それを肯定も否定もしませんでした。
愛についての議論だって、人間同士でさえ意見が分かれる難しいものなのです。
でも、ローは、知っていることもあります。
なまえが見つけた答えよりも、カルラの話していた愛が正解だった方がとても幸せだということです。
そして、その方が、確率の低い難しい答えだということでした。
だって、なまえの言う通り、人間同士でさえ、愛し合う者同士で傷つけ合っては、愛を憎しみに変えたり、無関心に変えてしまうのです。
愛とは、とても脆く儚い、愛の熱に火照った者だけが見える幻のようなものなのです。
それなのに、誰が、ロボットなんか愛するでしょうか。
ロボットが人間と愛し合うなんて、そんなことが起これば奇跡です。
あぁ、だから——。
『その人の愛は、信じてあげてほしい。』
カルラはそう、言ったのでしょうけれど———。