今から遡ること1週間前ー。

誰かが走る幾つもの靴音なら、少し前から扉の向こうから聞こえていました。
いつも静かな研究施設が騒がしくなっているようでしたが、白衣を羽織った男が、それを気にするような様子はありませんでした。
男は、部屋中に並ぶ多数のホルマリン液の中で、膝を抱えて眠るそれらを眺めながら、完成が近いことを知り、満足感に包まれていたのです。
慌てた研究員が飛び込んできたのは、そんなときでした。

「研究長！！H0(エイチゼロ)が逃亡しました！！」

焦ったように叫んだそれに、さっきまで満足気に口の端を上げていた男の顔色が変わります。
何が何でも探し出せという指示を出した後、男はモニタールームへと急ぎました。
この研究施設には至るところに映像電伝虫を配置してあります。
何処へ逃げたとしても、モニターに映ってしまうのです。
逃げられるわけがないー、男には自信がありました。
ですが、どうしても解せないこともあります。
なぜH0(エイチゼロ)が逃亡などするのでしょうか。
アレにそんなことが出来るはずがないのです。
だって、そもそもー。

(まさかー！)

男はハッとします。
ありえない、いや、でもー。
世界政府も認める、恐ろしいほどに高いIQを持った頭脳が高速で回転します。
ですが、出てくる答えは、ありえないとしか思えない1つだけでした。

「H0(エイチゼロ)の姿はどこにある！？」

男は、モニタールームの扉を殴るように開けて叫びました。
必ず探し出さなければなりません。
もしも、想定が当たっていたなら大変なことになるからです。
いいえ、男にはもう、想定が外れていない自信がありました。
だって、間違った答えを出したことなんて人生で1度もなかったですし、男の頭脳はコンピューターよりも優秀でした。
そして何より、このモニタールームの監視を抜けて、H0(エイチゼロ)を研究施設から連れ出せる人物なんて、1人しか思い当たる者はいませんでしたからー。