◇69ぺージ◇背中
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「リヴァイ先生、あちらでお話を致しましょう。ご説明もさせてください。」
どうして―。
溢れて止まらない悔しさや疑問を頭に抱えて、恋人同士にしか見えない後ろ姿を眺めていた俺に、名前の母親が言った。
俺の返事を待たずに、母親は茶室に戻り、中央の畳の上で綺麗な正座をした。
早くしろと急かすことはせず、でも、シャンと伸びた背筋は俺に選択の余地も与えない。
本当は、今すぐに名前を追いかけて引き留めたかった。
グッと拳を握り、小さく深呼吸をしてから茶室に戻り、母親と向かい合うように腰をおろした。
母親は、早速、本題に入った。
「彼は、表千家の茶道の家元のご子息です。
以前から、彼からは名前へ結婚の申し出があったのですが
名前がリヴァイ先生とお付き合いをすることになって、お断りをしておりました。」
「俺も結婚の予定があるって話なら聞いてた。断ったことも知ってる。
だから、聞きてぇ。それがどうして、今、一緒にいるんだ。」
「名前が倒れて救急車で運ばれたことを知って、心配して来てくださったんです。
それから、あぁして毎日のようにお友達といらして、
記憶を失くして落ち込んでいるあの娘を外に連れ出してくださっているんです。」
そして、漸く最近になって、少しずつ名前に笑顔が戻ってきたのだと、名前の母親は、安心したような表情を浮かべていた。
確かに、さっき見た名前は、あの男の隣でとても心を許しているようだった。
(どうして。)
名前の記憶障害が再発して3ヵ月。
俺は、行方を捜すことしか出来ず、名前を思い出すことすらしてやれなかった。
その間、あの男は名前の隣にいて、支えていたのだ。
俺が誰よりもそばで、そうしてやりたかったことを、あの男がしていた。
何も言葉が出ない俺に、名前の母親は間を置いてから口を開いた。
「少しだけ、お待ち頂けますか。見て頂きたいものがございます。」
訝しく思いながらも了承すれば、母親はゆっくりと腰を上げて立ち上がった。
茶室から出て行った母親は、それほど待たずに古い木箱を持って戻ってきた。
それは、大きくも小さくもなく、子供の宝箱のような形をしていた。
母親は、さっきもそうしていたように俺と向かい合うように正座をして腰をおろすと、その木箱を自分の膝の前にそっと置いた。
鍵がかかっているらしく、母親が小さな鍵を鍵穴に入れて回すとカチッと小さな音が鳴った。
何が出てくるのだろう。
そう思っていると、母親は鍵を開けたばかりの木箱にそっと手を添えて手前に押し出した。
自分で開けて見てくれ―。
言葉はなくとも、そういう意味だということは分かった。
俺は手を伸ばして木箱に触れた。
すぐに自分の元に引き寄せたが、蓋を開けるのには少し緊張した。
ゆっくりと、慎重に、蓋を開いた。
中に入っていたのは、見覚えのある日記帳だった。
少し古くなっているそれは、名前が初めて記憶障害を起こして入院した時にとても大切そうに持っていた日記帳だ。
「どうぞ、ご覧になってあげてください。」
昔の日記帳を見せられて躊躇う俺に、母親は手のひらを見せるようにして、そう勧めた。
躊躇いがちに、俺は日記帳を取り出した。
古い日記帳の下には、3か月前まで俺の家にあった日記帳もあったが、古い日記帳を読んで欲しいと母親に頼まれて、俺は手に取った日記帳をゆっくりと開いた。
見覚えのある素朴な文字にそっと触れると、何も温度のない感触なのに、なぜか名前に触れたような気がして、愛おしさが溢れた。
それと同時に、胸が苦しくもなった。
最初のページには、記憶障害になった日のことが書かれていた。
目を覚ましたら、自分の名前を呼ぶ知らない人達に囲まれていたこと、記憶障害だと言われたことが、不安そうに綴られていた。
その日から始まる大切な人達のリストも、俺が読んだことのあるものばかりだった。
でも、俺が付け焼刃のような知識で作った点滴薬を投与され、記憶を定着させることが出来るようになってからの日記は、今までのものとは雰囲気がガラリと変わった。
初めて読んだその日記に、俺は胸の温かさと、気恥ずかしさを覚えた。
そこには、初めて恋を知った少女の可愛らしい想いが切々と綴られていた。
【リヴァイ先生に会うと、ドキドキする。】
【今日は会えるかな。会いたいな。】
【朝起きて想うのはいつもリヴァイ先生のことなの。 】
【ママに聞いたら、それは恋だよって教えてくれたの。】
【私、リヴァイ先生に恋をしたみたい。】
【リヴァイ先生にかみをクシャッてされるのが大好き。】
【でも、はずかしくてお顔が見れないの。】
【私もママみたいにお料理上手になって、お弁当作ってあげたいな。】
【どうして私は子供なんだろう。アンカさん達みたいにお話してみたい。】
【たい院したくない。リヴァイ先生に会えなくなるのは、さみしい。】
そこに書かれているのは、俺のことばかりだった。
一緒に話したこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。俺のほんのささいな言動で一喜一憂している少女の恋心が、全て詰まっていた。
「子供の淡い初恋なんだと思っていたんです。でも、あの娘にとって
一生に一度の大恋愛だったんでしょうね。
退院してからもずっと、その日記帳を眺めては、リヴァイ先生のことだけを想っていました。」
母親が話しだして、俺は日記帳に落としていた視線を上げた。
「名前は、最後の最後まで、リヴァイさんと一緒に生きる未来を諦めませんでした。
結婚の約束を破棄した後、どうにか記憶を失くさない治療は出来ないかと
ナイル先生のところに通っていたんです。難しいと言われてしまったみたいですけど…。」
「そうだったのか。」
「リヴァイ先生とお付き合いできるようになったと名前から聞いた後、
一度だけ、様子を見に行ったことがあるんです。」
「…!」
「元旦です。初詣に行くと連絡を貰っていたので、こっそり。」
驚いた俺に、母親は悪戯のバレた子供のような顔で苦笑した。
その後、母親は一度、悲しそうに目を伏せたが、少し間を開けてから視線を上げると、今度はとても嬉しそうに微笑んだ。
「名前のあんなに幸せそうな笑顔を見たのは初めてで、驚きました。
母親の私でさえ知らないあの娘が、リヴァイ先生の前にいました。
本当に、リヴァイ先生のことが大好きだったんですね。」
母親はとても嬉しそうに言ったけれど、過去形になっていたそれは、俺の胸をグサリと刺した。
だから、俺は何も言葉を返すことは出来ず、じっと口を噤んで視線を落とすと、ひたすらに日記帳のページを開き続けた。
そして、最後のページを開いて、俺は手を止めた。
そこに箇条書きされているのは、俺が苦し紛れで出した『理想の女』の条件だった。
ファーランは、子供に対して大人げないと言っていたけれど、俺だってもう少し甘い条件にすることくらい本当は出来たのだ。
でも、日記帳にペンを走らせている少女の横顔はとても真剣で、適当には出来なかった。
理想の女の条件の一番最後に付け足させた文字には、俺の願いが込められていた。
だから、あのとき、それが一番大切な条件だと言って、俺は―。
「リヴァイさんは、名前のことを理想以上だと仰ってくださりましたけど、
あの娘はなれなかったんです。だから、大好きな人のお嫁さんにはなれません。
仕方ないんです。いえ、これがきっとあの娘の運命なんです。」
母親はそう言うと、正座したままで少しだけ後ろにさがった。
そして、膝の前に両手をつき、頭を下げた。
土下座の格好で、母親は俺に最後のお願いをした。
「勝手な我儘だということは重々承知でお願い致します。
リヴァイ先生が、もしも本当に、名前のことを想ってくださるのなら、
どうか、身を引いてくださらないでしょうか。あの娘の幸せを、遠くから見守ってあげて欲しいのです。」
名前の母親の必死な願いは、分からないでもなかった。
今、名前は、過去の記憶はないものの何不自由なく暮らしていて、同じ世界に住む男が隣で守ってくれている。
これ以上を望む必要はないのかもしれない。
でも俺は、名前の事情だとか、そんなもの関係ないくらいに、愛しているのだ。
「顔を上げてくれ。俺は身を引くつもりはねぇ。だからここに来た。」
「いいえ、リヴァイ先生が頷いて下さるまで、私は頭を下げ続けます。」
「名前の記憶を取り戻す薬を作るつもりだ。」
「…!」
俺の言葉に驚いた名前の母親は、大きく息を吸って勢いよく顔を上げた。
見開く目を視線が重なってから、俺はさらに続けた。
「名前の記憶はなくなったわけじゃねぇ。閉じ込められてるだけだ。
それをちゃんと取り戻す薬を、今の俺なら作ってやれる。必ず、作ってやる。
それに…。」
そこまで、息継ぎなしで言って、俺は一度言葉を切った。
呼び起こすことをしないようにしていた遠い記憶。
でも、思い出してしまえば、俺にとって大切過ぎたその記憶は、信じられないくらいに鮮やかに蘇った。
その思い出の中で、名前と俺は指切りをしていた。
そこで交わした約束を、俺は必ず守りたい。
必ず、なんて言ってはいけないのかもしれない。
でも、俺は必ず名前の記憶を取り戻すつもりだ。
そうやって、名前を助けて、笑顔を守ってやりたかったい。
ゆっくりと息を吸ってから、俺は続けた。
「また記憶を失ったら、今度は消えない魔法をかけてやると約束したんだ。」
でも、俺の決意を聞いた母親は、しばらくの間を置いた後、静かに首を横に振った。
「いいえ、記憶はもう、戻らなくていいんです。」
「なぜだ…!名前はいつも忘れちまったやつのことを想って
泣いてただろう!?思い出させてやればもう、悲しむ必要もねぇ!!」
前のめりになって、俺は、名前の母親の判断を咎めた。
間違ったことを言っているつもりはなかった。
だからつい責めるような言い方になってしまった。
そんな俺に、名前の母親は背筋をしゃんと伸ばして答えた。
「だからです。」
「だから?」
訝し気に、俺の眉間に皴が寄った。
「名前は今、総二郎さんのことを昔からの恋人だと信じています。」
「…は?」
「学生の頃からの恋人だったことにしてほしい、と私が彼にお願いしたんです。
最初は驚いていた名前でしたが、一緒に過ごすうちに信じてくれるようになりました。」
「嘘の記憶を縫い付けたのか…!」
責めるように睨む俺を、名前の母親は真っすぐに見据えた。
その瞳には、罪悪感の欠片も宿っていなかった。
まっすぐに俺を見据え、少し前に恋人だと信じた男からのプロポーズを受け、婚約の運びとなったと言い出した。
大切な人達との記憶を大切にしていた名前に嘘を教えるなんて、最低だ。
そうやっ騙して、婚約をさせるなんて、最悪だ。
そう思った俺に、母親は続けた。
「もしかしたら、あの娘はもう一生、リヴァイ先生の隣にいたときのような
幸せそうな笑顔を私達には見せてくれないのかもしれません。
それでも…、あの娘には悲しんでほしくないんです。」
「それなら…!俺が薬を作って、記憶を取り戻せば…っ。」
「大好きなリヴァイ先生のことを忘れてしまっていると知って、
傷つく名前が見たいですか?」
「…!」
悲しそうな目で訊ねられて、俺はハッとした。
それでも、名前を迎えに行きたい―。
そう、続けたかった言葉は、名前の母親にまた土下座をされて、声になることはなく喉の奥へと引っ込んだ。
俺なんかに土下座している母親の肩は小刻みに震えていて、苦しんでいる様子が嫌というほどに分かってしまった。
「お願いです…。名前がリヴァイ先生と一緒に過ごした、あの娘にとっての人生で一番の幸せは
きっともう超えることは出来ないのでしょう。でも、これから、私達が必ず幸せにします。
だから…っ、お願いします…っ。忘れてあげてください…っ。あの娘のために、どうか…っ。」
忘れてあげて―。
母親の懇願は、最後はもう、涙で声になっていなかった。
名前が悲しまないように、どうか忘れてくれと懇願されて、俺は何も言えなかった。
だって、いつまでも俺が名前を想って苦しむことを、誰よりも望んでいないのが名前なのだと―。
だから、用意周到に準備を整えて、再発をしてしまったタイミングで、魔法が解けた様に自分の存在を消したのだとー。
「…っ。」
俺は唇を噛んで、正座した膝の上で両手を握りしめた。
名前が誰よりも忘れたくなかったのは俺なのだと、母親は言った。
そのために、記憶障害を抑えるのに効果がありそうな治験や治療を自ら探してきては、受けて来た。
それでも、ダメだった。
だから、もうこれは運命なのだと受け入れるしかないのだと、まるで、何も知らない名前に言い聞かせるように、母親は頭を下げたまま繰り返した。
どうして―。
溢れて止まらない悔しさや疑問を頭に抱えて、恋人同士にしか見えない後ろ姿を眺めていた俺に、名前の母親が言った。
俺の返事を待たずに、母親は茶室に戻り、中央の畳の上で綺麗な正座をした。
早くしろと急かすことはせず、でも、シャンと伸びた背筋は俺に選択の余地も与えない。
本当は、今すぐに名前を追いかけて引き留めたかった。
グッと拳を握り、小さく深呼吸をしてから茶室に戻り、母親と向かい合うように腰をおろした。
母親は、早速、本題に入った。
「彼は、表千家の茶道の家元のご子息です。
以前から、彼からは名前へ結婚の申し出があったのですが
名前がリヴァイ先生とお付き合いをすることになって、お断りをしておりました。」
「俺も結婚の予定があるって話なら聞いてた。断ったことも知ってる。
だから、聞きてぇ。それがどうして、今、一緒にいるんだ。」
「名前が倒れて救急車で運ばれたことを知って、心配して来てくださったんです。
それから、あぁして毎日のようにお友達といらして、
記憶を失くして落ち込んでいるあの娘を外に連れ出してくださっているんです。」
そして、漸く最近になって、少しずつ名前に笑顔が戻ってきたのだと、名前の母親は、安心したような表情を浮かべていた。
確かに、さっき見た名前は、あの男の隣でとても心を許しているようだった。
(どうして。)
名前の記憶障害が再発して3ヵ月。
俺は、行方を捜すことしか出来ず、名前を思い出すことすらしてやれなかった。
その間、あの男は名前の隣にいて、支えていたのだ。
俺が誰よりもそばで、そうしてやりたかったことを、あの男がしていた。
何も言葉が出ない俺に、名前の母親は間を置いてから口を開いた。
「少しだけ、お待ち頂けますか。見て頂きたいものがございます。」
訝しく思いながらも了承すれば、母親はゆっくりと腰を上げて立ち上がった。
茶室から出て行った母親は、それほど待たずに古い木箱を持って戻ってきた。
それは、大きくも小さくもなく、子供の宝箱のような形をしていた。
母親は、さっきもそうしていたように俺と向かい合うように正座をして腰をおろすと、その木箱を自分の膝の前にそっと置いた。
鍵がかかっているらしく、母親が小さな鍵を鍵穴に入れて回すとカチッと小さな音が鳴った。
何が出てくるのだろう。
そう思っていると、母親は鍵を開けたばかりの木箱にそっと手を添えて手前に押し出した。
自分で開けて見てくれ―。
言葉はなくとも、そういう意味だということは分かった。
俺は手を伸ばして木箱に触れた。
すぐに自分の元に引き寄せたが、蓋を開けるのには少し緊張した。
ゆっくりと、慎重に、蓋を開いた。
中に入っていたのは、見覚えのある日記帳だった。
少し古くなっているそれは、名前が初めて記憶障害を起こして入院した時にとても大切そうに持っていた日記帳だ。
「どうぞ、ご覧になってあげてください。」
昔の日記帳を見せられて躊躇う俺に、母親は手のひらを見せるようにして、そう勧めた。
躊躇いがちに、俺は日記帳を取り出した。
古い日記帳の下には、3か月前まで俺の家にあった日記帳もあったが、古い日記帳を読んで欲しいと母親に頼まれて、俺は手に取った日記帳をゆっくりと開いた。
見覚えのある素朴な文字にそっと触れると、何も温度のない感触なのに、なぜか名前に触れたような気がして、愛おしさが溢れた。
それと同時に、胸が苦しくもなった。
最初のページには、記憶障害になった日のことが書かれていた。
目を覚ましたら、自分の名前を呼ぶ知らない人達に囲まれていたこと、記憶障害だと言われたことが、不安そうに綴られていた。
その日から始まる大切な人達のリストも、俺が読んだことのあるものばかりだった。
でも、俺が付け焼刃のような知識で作った点滴薬を投与され、記憶を定着させることが出来るようになってからの日記は、今までのものとは雰囲気がガラリと変わった。
初めて読んだその日記に、俺は胸の温かさと、気恥ずかしさを覚えた。
そこには、初めて恋を知った少女の可愛らしい想いが切々と綴られていた。
【リヴァイ先生に会うと、ドキドキする。】
【今日は会えるかな。会いたいな。】
【朝起きて想うのはいつもリヴァイ先生のことなの。 】
【ママに聞いたら、それは恋だよって教えてくれたの。】
【私、リヴァイ先生に恋をしたみたい。】
【リヴァイ先生にかみをクシャッてされるのが大好き。】
【でも、はずかしくてお顔が見れないの。】
【私もママみたいにお料理上手になって、お弁当作ってあげたいな。】
【どうして私は子供なんだろう。アンカさん達みたいにお話してみたい。】
【たい院したくない。リヴァイ先生に会えなくなるのは、さみしい。】
そこに書かれているのは、俺のことばかりだった。
一緒に話したこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。俺のほんのささいな言動で一喜一憂している少女の恋心が、全て詰まっていた。
「子供の淡い初恋なんだと思っていたんです。でも、あの娘にとって
一生に一度の大恋愛だったんでしょうね。
退院してからもずっと、その日記帳を眺めては、リヴァイ先生のことだけを想っていました。」
母親が話しだして、俺は日記帳に落としていた視線を上げた。
「名前は、最後の最後まで、リヴァイさんと一緒に生きる未来を諦めませんでした。
結婚の約束を破棄した後、どうにか記憶を失くさない治療は出来ないかと
ナイル先生のところに通っていたんです。難しいと言われてしまったみたいですけど…。」
「そうだったのか。」
「リヴァイ先生とお付き合いできるようになったと名前から聞いた後、
一度だけ、様子を見に行ったことがあるんです。」
「…!」
「元旦です。初詣に行くと連絡を貰っていたので、こっそり。」
驚いた俺に、母親は悪戯のバレた子供のような顔で苦笑した。
その後、母親は一度、悲しそうに目を伏せたが、少し間を開けてから視線を上げると、今度はとても嬉しそうに微笑んだ。
「名前のあんなに幸せそうな笑顔を見たのは初めてで、驚きました。
母親の私でさえ知らないあの娘が、リヴァイ先生の前にいました。
本当に、リヴァイ先生のことが大好きだったんですね。」
母親はとても嬉しそうに言ったけれど、過去形になっていたそれは、俺の胸をグサリと刺した。
だから、俺は何も言葉を返すことは出来ず、じっと口を噤んで視線を落とすと、ひたすらに日記帳のページを開き続けた。
そして、最後のページを開いて、俺は手を止めた。
そこに箇条書きされているのは、俺が苦し紛れで出した『理想の女』の条件だった。
ファーランは、子供に対して大人げないと言っていたけれど、俺だってもう少し甘い条件にすることくらい本当は出来たのだ。
でも、日記帳にペンを走らせている少女の横顔はとても真剣で、適当には出来なかった。
理想の女の条件の一番最後に付け足させた文字には、俺の願いが込められていた。
だから、あのとき、それが一番大切な条件だと言って、俺は―。
「リヴァイさんは、名前のことを理想以上だと仰ってくださりましたけど、
あの娘はなれなかったんです。だから、大好きな人のお嫁さんにはなれません。
仕方ないんです。いえ、これがきっとあの娘の運命なんです。」
母親はそう言うと、正座したままで少しだけ後ろにさがった。
そして、膝の前に両手をつき、頭を下げた。
土下座の格好で、母親は俺に最後のお願いをした。
「勝手な我儘だということは重々承知でお願い致します。
リヴァイ先生が、もしも本当に、名前のことを想ってくださるのなら、
どうか、身を引いてくださらないでしょうか。あの娘の幸せを、遠くから見守ってあげて欲しいのです。」
名前の母親の必死な願いは、分からないでもなかった。
今、名前は、過去の記憶はないものの何不自由なく暮らしていて、同じ世界に住む男が隣で守ってくれている。
これ以上を望む必要はないのかもしれない。
でも俺は、名前の事情だとか、そんなもの関係ないくらいに、愛しているのだ。
「顔を上げてくれ。俺は身を引くつもりはねぇ。だからここに来た。」
「いいえ、リヴァイ先生が頷いて下さるまで、私は頭を下げ続けます。」
「名前の記憶を取り戻す薬を作るつもりだ。」
「…!」
俺の言葉に驚いた名前の母親は、大きく息を吸って勢いよく顔を上げた。
見開く目を視線が重なってから、俺はさらに続けた。
「名前の記憶はなくなったわけじゃねぇ。閉じ込められてるだけだ。
それをちゃんと取り戻す薬を、今の俺なら作ってやれる。必ず、作ってやる。
それに…。」
そこまで、息継ぎなしで言って、俺は一度言葉を切った。
呼び起こすことをしないようにしていた遠い記憶。
でも、思い出してしまえば、俺にとって大切過ぎたその記憶は、信じられないくらいに鮮やかに蘇った。
その思い出の中で、名前と俺は指切りをしていた。
そこで交わした約束を、俺は必ず守りたい。
必ず、なんて言ってはいけないのかもしれない。
でも、俺は必ず名前の記憶を取り戻すつもりだ。
そうやって、名前を助けて、笑顔を守ってやりたかったい。
ゆっくりと息を吸ってから、俺は続けた。
「また記憶を失ったら、今度は消えない魔法をかけてやると約束したんだ。」
でも、俺の決意を聞いた母親は、しばらくの間を置いた後、静かに首を横に振った。
「いいえ、記憶はもう、戻らなくていいんです。」
「なぜだ…!名前はいつも忘れちまったやつのことを想って
泣いてただろう!?思い出させてやればもう、悲しむ必要もねぇ!!」
前のめりになって、俺は、名前の母親の判断を咎めた。
間違ったことを言っているつもりはなかった。
だからつい責めるような言い方になってしまった。
そんな俺に、名前の母親は背筋をしゃんと伸ばして答えた。
「だからです。」
「だから?」
訝し気に、俺の眉間に皴が寄った。
「名前は今、総二郎さんのことを昔からの恋人だと信じています。」
「…は?」
「学生の頃からの恋人だったことにしてほしい、と私が彼にお願いしたんです。
最初は驚いていた名前でしたが、一緒に過ごすうちに信じてくれるようになりました。」
「嘘の記憶を縫い付けたのか…!」
責めるように睨む俺を、名前の母親は真っすぐに見据えた。
その瞳には、罪悪感の欠片も宿っていなかった。
まっすぐに俺を見据え、少し前に恋人だと信じた男からのプロポーズを受け、婚約の運びとなったと言い出した。
大切な人達との記憶を大切にしていた名前に嘘を教えるなんて、最低だ。
そうやっ騙して、婚約をさせるなんて、最悪だ。
そう思った俺に、母親は続けた。
「もしかしたら、あの娘はもう一生、リヴァイ先生の隣にいたときのような
幸せそうな笑顔を私達には見せてくれないのかもしれません。
それでも…、あの娘には悲しんでほしくないんです。」
「それなら…!俺が薬を作って、記憶を取り戻せば…っ。」
「大好きなリヴァイ先生のことを忘れてしまっていると知って、
傷つく名前が見たいですか?」
「…!」
悲しそうな目で訊ねられて、俺はハッとした。
それでも、名前を迎えに行きたい―。
そう、続けたかった言葉は、名前の母親にまた土下座をされて、声になることはなく喉の奥へと引っ込んだ。
俺なんかに土下座している母親の肩は小刻みに震えていて、苦しんでいる様子が嫌というほどに分かってしまった。
「お願いです…。名前がリヴァイ先生と一緒に過ごした、あの娘にとっての人生で一番の幸せは
きっともう超えることは出来ないのでしょう。でも、これから、私達が必ず幸せにします。
だから…っ、お願いします…っ。忘れてあげてください…っ。あの娘のために、どうか…っ。」
忘れてあげて―。
母親の懇願は、最後はもう、涙で声になっていなかった。
名前が悲しまないように、どうか忘れてくれと懇願されて、俺は何も言えなかった。
だって、いつまでも俺が名前を想って苦しむことを、誰よりも望んでいないのが名前なのだと―。
だから、用意周到に準備を整えて、再発をしてしまったタイミングで、魔法が解けた様に自分の存在を消したのだとー。
「…っ。」
俺は唇を噛んで、正座した膝の上で両手を握りしめた。
名前が誰よりも忘れたくなかったのは俺なのだと、母親は言った。
そのために、記憶障害を抑えるのに効果がありそうな治験や治療を自ら探してきては、受けて来た。
それでも、ダメだった。
だから、もうこれは運命なのだと受け入れるしかないのだと、まるで、何も知らない名前に言い聞かせるように、母親は頭を下げたまま繰り返した。