◇68ページ◇別世界
Name change
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ウォール都シーナ区は、この世界の中心だ。
経済や政治、すべてが廻るそこは、どの街よりも発展している。
だからこそ、そこから生まれてしまった膿もある。その膿を吐き出して出来た場所が、俺の生まれたスラム街だった。
そこから通りを幾つか挟んだ向こうに、超高級住宅地がある。
綺麗な緑に囲まれ、豪華で大きな邸宅が立ち並ぶそこは、汚れた世界と切り離され、生まれながらにして神に愛されたものだけが住むことを許される場所だ。
エルヴィンに聞いた住所を頼りに、一生踏み入れることはないと思っていた通りにやって来た俺は、まるで壁のような塀に囲まれた邸宅の前で足を止めた。
白鹿邸は、超高級住宅地の中でも特に豪華な邸宅の立ち並ぶ一角にあった。
一目で圧倒されそうな重厚な木材で造られた厳かな門構えの横には、鐘のような形をしたインターホンがついていた。
躊躇せずにボタンを押すと、高い音が鳴った。
この門構えの前に立っていると、インターホンの音すら、上品に聞こえてしまう。
インターホンの向こうからはすぐに応答があった。
「はい。」
「名前に会いに来た。」
「あ…、お嬢様のお友達でございますね。
すぐにお迎えに上がりますので、お待ちくださいませ。」
会わせられないとごねられても、何が何でも中に入ると気合を入れて来たから、案外とアッサリと受け入れられて拍子抜けだった。
俺を他の誰かと勘違いしているような気もしたが、そこを敢えて訂正してやるつもりはない。
インターホンが切れると、重厚な門構えがゆっくりと左右に開いていった。
自動だったらしい。
意外と近代的で驚いた。
古い造りの門だから、誰かが来て開けるのだと思っていた。
開いた門から中に入ると、そこには、古き良き日本が誇る美しい庭園が広がっていた。
それぞれかたちの違う大きめな石をランダムに並べた小道には葉っぱひとつ落ちておらず、生い茂る木々や花々は丁寧に手入れされているようだった。
空気まで澄んで美味しいような気がしてしまうくらいに、欺瞞で溢れた世界とは全くの別世界だった。
名前は、こんなところで生まれ育ったのか。
同じウォール都のシーナ区出身なのに、俺と名前はまるで住む世界が違っていた。
長い小道の向こうから、市紅茶色をした着物姿の若い女が歩いてくるのが見えた。
その奥にも美しい庭園が広がっているばかりで、邸宅は見えない。
どれだけ敷地が広いのかと、むしろ感心した。
着物姿の若い女は、俺を見ると驚いた顔をした後に、少しだけ首を傾げた。
「もしかして、初めていらっしゃるお友達でございますか?」
「まぁ…、そうだな。」
「そうでございましたか。失礼致しました。
では、名前様のお部屋までご案内致しますね。
他のお友達は先にいらっしゃって、お待ちかねでございますよ。」
ゆっくりとした話し方とふわりとした笑みは、この屋敷の中での時間がゆっくり流れていることを物語っているようだった。
白鹿家に仕えている使用人らしい彼女に案内されて、広い庭園の小道を歩いていると、しばらくして漸く、古いがとても立派な純和風な邸宅が見えてきた。
京都のお寺を思い出させるような造りで、さすが、茶道の家元の住む家だと思わせた。
普通の一軒家のリビングよりも広そうな玄関から邸宅に足を踏み入れた俺は、縁側を歩きながら美しい庭園を眺めた。
あの日、俺の前から消えてから、名前はこの景色を見ていたのかと思うと、胸が締め付けられた。
そんなことを思っていると、使用人の女がふ、と思い出したようにクスリと笑った。
「昨日、名前様はその木に登って落ちてしまったんですよ。」
「・・・・は?」
俺からは、間の抜けた声が漏れた。
それが可笑しかったのか、使用人の女は楽しそうに口を開き続ける。
「奥様の大切なお客様のお子様のラジコン飛行機が木に引っかかってしまったのです。
私共も長い棒を持って来てなんとか取ろうとしたのですが、うまくいかず、ワンワンと泣いてしまって。
すると、名前様が、登って取ればいいんじゃないかと仰って。」
「それで、自分が登ったのか?」
「はい。もうわたくし共もビックリして…!お嬢様にそんな危険なことはさせられないと申したのですが、
まるで、お猿さんのようにスルスル~っと。」
「アイツなら出来そうだな。」
思わずクスリと笑ってしまうと、使用人の女も楽しそうに頷いた。
「無事に飛行機は取れた名前様だったのですが、
それで喜んだ拍子にバランスを崩して、そのまま落ちてしまって。」
「大丈夫だったのか?頭は打たなかったか?」
心配になって訊ねてみると、それは大丈夫だと使用人の女は大きく頷いた。
一応、医者も呼んで診て貰って、問題ないと太鼓判も押されたらしい。
呼ばれて名前を診た医者がナイルだと聞いて、俺もホッと息を吐いた。
「名前様、落ちるときに自分を守ることはしないで、
大切そうにラジコンの飛行機を抱きしめていらっしゃったんです。
傷ひとつない飛行機を受け取って喜んでいるお坊ちゃまを見て、お嬢様はとても嬉しそうでした。」
「そうか。アイツらしいな。」
「はい、とても。」
柔らかく微笑んでいる名前が頭に浮かんで、胸が温かくなった。
使用人が嬉しそうに頬を緩めたように、無意識に俺も頬が緩んでいたと思う。
「名前様は、綺麗なだけではなくて、心までお美しい方です。
悲しいことがあったのに、いつも柔らかく微笑んで、私達にもとてもよくしてくれます。
今度こそ…、幸せになって欲しいと、白鹿家に仕える者すべてが心から思っております。」
自分の胸に手を添えた使用人は、真剣な目でそう告げた。
この大きな屋敷の中には、名前への愛で溢れているようだった。
「あ、そういえば、お名前を伺っていませんでしたね。」
名前は何と言うのかー。
ついに使用人に名前を訊ねられた俺は、名乗るのを躊躇った。
この屋敷にいる人間のどれだけが、俺の名前を知っているのか分からない。
若い使用人の彼女は、まだ下っ端のようだし、そこまで俺の名前が浸透しているとは思えない。
でも、万が一、知っていたらー。
俺の名前を聞いた途端に追い出されかねない。
そんなことを考えているときだった。
縁側の向こうから、山藍摺色の着物姿の老婆が歩いてくるのが見えた。
10年以上経っても、時が止まったように変わらないその姿で、彼女が白鹿家に仕える使用人頭だとすぐに分かった。
確か、名前はキクとか言ったはずだ。
マズい。
そう思ったときにはもう、キクは俺に気づいて目を見開いた。
「ハナ!」
「あ、キクさん。今、名前様のお友達をお部屋にご案内しているところなんですよ。」
まだ状況を把握していない若い使用人は、小走りで駆け寄ってきたキクに微笑んだ。
そんな彼女をキクはひと睨みした後、俺に頭を下げた。
「アッカーマン先生、お久しぶりでございます。」
「覚えてたんだな。」
「もちろんでございます。先生は、名前様の命の恩人でございますから。
あの日から、名前様から毎日のように先生のお話を聞かされておりました。」
頭を下げたままでそう言ったキクは、ゆっくりと顔を上げた。
俺を見たキクの目は、とても友好的には見えなかった。
追い出す気だと、すぐに分かった。
「え…、アッカーマン…?アッカーマンって、あの…っ。
も…っ、申し訳ありません…っ。名前様にお会いになられたと聞いたので、
てっきり、お待ちになっているお友達かと…っ。」
若い使用人は、俺とキクの顔を交互に見ながら、軽いパニックになっていた。
どうやら、使用人の下っ端にまで俺の名前は浸透してしまっていたらしい。
「いつも、お客様をお招きするときにはまずは名前を伺いなさいと言っているだろ。
もういい、アンタは自分の仕事に戻りな。」
「も、申し訳ございませんでした…っ。」
少し涙目になりながら、若い使用人は深く頭を下げた後、小走りで立ち去った。
「お屋敷までいらしたということは、
名前様のご事情もある程度は把握していらっしゃるということでよろしいですね。」
「あぁ。名前を迎えに来た。」
俺の答えに、キクは眉を顰めた。
「申し訳ございませんが、名前様とアッカーマン先生はもう赤の他人でございます。
わざわざお迎えに頂いて心苦しいですが、今すぐお帰りくださいませ。」
「帰るつもりはねぇ。あっちに名前の部屋があるんだろ。今すぐ行く。」
「さぁ、お帰りはこちらでございます。」
縁側の向こうへと歩き出した俺の前に、スッと自分の足を出したキクは、ジャケットの裾を握りしめて挑むような目で見上げて来た。
絶対に名前には会わせないー。
キクの目は、言わずともそう語っていた。
数秒のにらみ合いを続けているときだった。
「キク、大切な客人をお茶も出さずに帰すとはどういうことですか。」
凛とした声が、俺とキクの耳に届いた。
俺が向かおうとしていた縁側の向こうからやって来たのは、名前の母親だった。
上品な着物を身に纏い、ピンと背筋を伸ばす堂々としたその姿は、キクと同様に10年前から時が止まったように変わっていなかった。
「白鹿邸へ、ようこそいらっしゃいました。リヴァイ先生。」
俺の目の前に立った名前の母親は、深く頭を下げた。
さっきのキクとは違う、友好的な印象を受けて、幾分かはホッとした。
研修医時代、それなりに患者の家族と医師として友好を築いた彼女とは、争いたくないと思っていた。
「ハナが私の元へやって来て教えてくれました。
キク、すぐにリヴァイ先生を奥の茶室に案内して差し上げて。」
「ですが…!彼は名前様を迎えに来たと仰るのです!
今すぐにお帰り頂くのが賢明なご判断かと…!!」
「リヴァイ先生は、名前の命の恩人ですよ。
彼に無礼を働くのは、私が許しません!」
「…!…はい、奥様。申し訳ございませんでした。
奥様の、仰せのままに。」
納得はいっていないようだったが、主人である彼女の剣幕にキクは頭を下げた。
経済や政治、すべてが廻るそこは、どの街よりも発展している。
だからこそ、そこから生まれてしまった膿もある。その膿を吐き出して出来た場所が、俺の生まれたスラム街だった。
そこから通りを幾つか挟んだ向こうに、超高級住宅地がある。
綺麗な緑に囲まれ、豪華で大きな邸宅が立ち並ぶそこは、汚れた世界と切り離され、生まれながらにして神に愛されたものだけが住むことを許される場所だ。
エルヴィンに聞いた住所を頼りに、一生踏み入れることはないと思っていた通りにやって来た俺は、まるで壁のような塀に囲まれた邸宅の前で足を止めた。
白鹿邸は、超高級住宅地の中でも特に豪華な邸宅の立ち並ぶ一角にあった。
一目で圧倒されそうな重厚な木材で造られた厳かな門構えの横には、鐘のような形をしたインターホンがついていた。
躊躇せずにボタンを押すと、高い音が鳴った。
この門構えの前に立っていると、インターホンの音すら、上品に聞こえてしまう。
インターホンの向こうからはすぐに応答があった。
「はい。」
「名前に会いに来た。」
「あ…、お嬢様のお友達でございますね。
すぐにお迎えに上がりますので、お待ちくださいませ。」
会わせられないとごねられても、何が何でも中に入ると気合を入れて来たから、案外とアッサリと受け入れられて拍子抜けだった。
俺を他の誰かと勘違いしているような気もしたが、そこを敢えて訂正してやるつもりはない。
インターホンが切れると、重厚な門構えがゆっくりと左右に開いていった。
自動だったらしい。
意外と近代的で驚いた。
古い造りの門だから、誰かが来て開けるのだと思っていた。
開いた門から中に入ると、そこには、古き良き日本が誇る美しい庭園が広がっていた。
それぞれかたちの違う大きめな石をランダムに並べた小道には葉っぱひとつ落ちておらず、生い茂る木々や花々は丁寧に手入れされているようだった。
空気まで澄んで美味しいような気がしてしまうくらいに、欺瞞で溢れた世界とは全くの別世界だった。
名前は、こんなところで生まれ育ったのか。
同じウォール都のシーナ区出身なのに、俺と名前はまるで住む世界が違っていた。
長い小道の向こうから、市紅茶色をした着物姿の若い女が歩いてくるのが見えた。
その奥にも美しい庭園が広がっているばかりで、邸宅は見えない。
どれだけ敷地が広いのかと、むしろ感心した。
着物姿の若い女は、俺を見ると驚いた顔をした後に、少しだけ首を傾げた。
「もしかして、初めていらっしゃるお友達でございますか?」
「まぁ…、そうだな。」
「そうでございましたか。失礼致しました。
では、名前様のお部屋までご案内致しますね。
他のお友達は先にいらっしゃって、お待ちかねでございますよ。」
ゆっくりとした話し方とふわりとした笑みは、この屋敷の中での時間がゆっくり流れていることを物語っているようだった。
白鹿家に仕えている使用人らしい彼女に案内されて、広い庭園の小道を歩いていると、しばらくして漸く、古いがとても立派な純和風な邸宅が見えてきた。
京都のお寺を思い出させるような造りで、さすが、茶道の家元の住む家だと思わせた。
普通の一軒家のリビングよりも広そうな玄関から邸宅に足を踏み入れた俺は、縁側を歩きながら美しい庭園を眺めた。
あの日、俺の前から消えてから、名前はこの景色を見ていたのかと思うと、胸が締め付けられた。
そんなことを思っていると、使用人の女がふ、と思い出したようにクスリと笑った。
「昨日、名前様はその木に登って落ちてしまったんですよ。」
「・・・・は?」
俺からは、間の抜けた声が漏れた。
それが可笑しかったのか、使用人の女は楽しそうに口を開き続ける。
「奥様の大切なお客様のお子様のラジコン飛行機が木に引っかかってしまったのです。
私共も長い棒を持って来てなんとか取ろうとしたのですが、うまくいかず、ワンワンと泣いてしまって。
すると、名前様が、登って取ればいいんじゃないかと仰って。」
「それで、自分が登ったのか?」
「はい。もうわたくし共もビックリして…!お嬢様にそんな危険なことはさせられないと申したのですが、
まるで、お猿さんのようにスルスル~っと。」
「アイツなら出来そうだな。」
思わずクスリと笑ってしまうと、使用人の女も楽しそうに頷いた。
「無事に飛行機は取れた名前様だったのですが、
それで喜んだ拍子にバランスを崩して、そのまま落ちてしまって。」
「大丈夫だったのか?頭は打たなかったか?」
心配になって訊ねてみると、それは大丈夫だと使用人の女は大きく頷いた。
一応、医者も呼んで診て貰って、問題ないと太鼓判も押されたらしい。
呼ばれて名前を診た医者がナイルだと聞いて、俺もホッと息を吐いた。
「名前様、落ちるときに自分を守ることはしないで、
大切そうにラジコンの飛行機を抱きしめていらっしゃったんです。
傷ひとつない飛行機を受け取って喜んでいるお坊ちゃまを見て、お嬢様はとても嬉しそうでした。」
「そうか。アイツらしいな。」
「はい、とても。」
柔らかく微笑んでいる名前が頭に浮かんで、胸が温かくなった。
使用人が嬉しそうに頬を緩めたように、無意識に俺も頬が緩んでいたと思う。
「名前様は、綺麗なだけではなくて、心までお美しい方です。
悲しいことがあったのに、いつも柔らかく微笑んで、私達にもとてもよくしてくれます。
今度こそ…、幸せになって欲しいと、白鹿家に仕える者すべてが心から思っております。」
自分の胸に手を添えた使用人は、真剣な目でそう告げた。
この大きな屋敷の中には、名前への愛で溢れているようだった。
「あ、そういえば、お名前を伺っていませんでしたね。」
名前は何と言うのかー。
ついに使用人に名前を訊ねられた俺は、名乗るのを躊躇った。
この屋敷にいる人間のどれだけが、俺の名前を知っているのか分からない。
若い使用人の彼女は、まだ下っ端のようだし、そこまで俺の名前が浸透しているとは思えない。
でも、万が一、知っていたらー。
俺の名前を聞いた途端に追い出されかねない。
そんなことを考えているときだった。
縁側の向こうから、山藍摺色の着物姿の老婆が歩いてくるのが見えた。
10年以上経っても、時が止まったように変わらないその姿で、彼女が白鹿家に仕える使用人頭だとすぐに分かった。
確か、名前はキクとか言ったはずだ。
マズい。
そう思ったときにはもう、キクは俺に気づいて目を見開いた。
「ハナ!」
「あ、キクさん。今、名前様のお友達をお部屋にご案内しているところなんですよ。」
まだ状況を把握していない若い使用人は、小走りで駆け寄ってきたキクに微笑んだ。
そんな彼女をキクはひと睨みした後、俺に頭を下げた。
「アッカーマン先生、お久しぶりでございます。」
「覚えてたんだな。」
「もちろんでございます。先生は、名前様の命の恩人でございますから。
あの日から、名前様から毎日のように先生のお話を聞かされておりました。」
頭を下げたままでそう言ったキクは、ゆっくりと顔を上げた。
俺を見たキクの目は、とても友好的には見えなかった。
追い出す気だと、すぐに分かった。
「え…、アッカーマン…?アッカーマンって、あの…っ。
も…っ、申し訳ありません…っ。名前様にお会いになられたと聞いたので、
てっきり、お待ちになっているお友達かと…っ。」
若い使用人は、俺とキクの顔を交互に見ながら、軽いパニックになっていた。
どうやら、使用人の下っ端にまで俺の名前は浸透してしまっていたらしい。
「いつも、お客様をお招きするときにはまずは名前を伺いなさいと言っているだろ。
もういい、アンタは自分の仕事に戻りな。」
「も、申し訳ございませんでした…っ。」
少し涙目になりながら、若い使用人は深く頭を下げた後、小走りで立ち去った。
「お屋敷までいらしたということは、
名前様のご事情もある程度は把握していらっしゃるということでよろしいですね。」
「あぁ。名前を迎えに来た。」
俺の答えに、キクは眉を顰めた。
「申し訳ございませんが、名前様とアッカーマン先生はもう赤の他人でございます。
わざわざお迎えに頂いて心苦しいですが、今すぐお帰りくださいませ。」
「帰るつもりはねぇ。あっちに名前の部屋があるんだろ。今すぐ行く。」
「さぁ、お帰りはこちらでございます。」
縁側の向こうへと歩き出した俺の前に、スッと自分の足を出したキクは、ジャケットの裾を握りしめて挑むような目で見上げて来た。
絶対に名前には会わせないー。
キクの目は、言わずともそう語っていた。
数秒のにらみ合いを続けているときだった。
「キク、大切な客人をお茶も出さずに帰すとはどういうことですか。」
凛とした声が、俺とキクの耳に届いた。
俺が向かおうとしていた縁側の向こうからやって来たのは、名前の母親だった。
上品な着物を身に纏い、ピンと背筋を伸ばす堂々としたその姿は、キクと同様に10年前から時が止まったように変わっていなかった。
「白鹿邸へ、ようこそいらっしゃいました。リヴァイ先生。」
俺の目の前に立った名前の母親は、深く頭を下げた。
さっきのキクとは違う、友好的な印象を受けて、幾分かはホッとした。
研修医時代、それなりに患者の家族と医師として友好を築いた彼女とは、争いたくないと思っていた。
「ハナが私の元へやって来て教えてくれました。
キク、すぐにリヴァイ先生を奥の茶室に案内して差し上げて。」
「ですが…!彼は名前様を迎えに来たと仰るのです!
今すぐにお帰り頂くのが賢明なご判断かと…!!」
「リヴァイ先生は、名前の命の恩人ですよ。
彼に無礼を働くのは、私が許しません!」
「…!…はい、奥様。申し訳ございませんでした。
奥様の、仰せのままに。」
納得はいっていないようだったが、主人である彼女の剣幕にキクは頭を下げた。