美しい月よ、臆病な心を守って
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『本当に綺麗だ、君のことだよ。』
少し低めの柔らかい声で、あの人は本当に愛おしそうに微笑んだ。
それは、ちょうど1年前の今夜の出来事だ。
世界がますます厳しい状況に陥っている中で、遠い昔から王家に仕えて来た名家出身の貴族の娘である私の毎日は、贅沢品や華やかなもので溢れている。
でも、いつもそうなわけじゃない。
もう二度と立ち直れないと信じ切ってしまうくらいに、悲しいこともある。
たとえそれが、日々命を賭けて戦っては、大切な同胞を失っている調査兵達が聞いたら、呆れるどころか失望してしまうくらいに些細なことだったのだとしても、私にとっては人生で最も悲しい出来事のひとつだってこともある。
心から愛していた恋人が、他の女性とも交際していることが分かったのだ。
私の方が浮気で、婚約の話まで出ていたらしい相手の女性から、訴えるとまで言われてしまった。
私は、何が起こったのか分からないのにひどくショックで涙が止まらないし、厳格な両親は大激怒で、もう二度とこんな恥ずかしい真似をしないようにとお見合いの準備まで始め出してしまった。1年前のちょうどその頃だ。
いつもと同じつまらないパーティーで、いつもと同じつまらない笑顔をはりつけて、いつもと同じつまらない社交辞令を聞き流していた私は、彼女の腰を抱き優しく微笑む彼を見つけてしまった。
とても幸せそうな2人は、悲しいくらいにお似合いで、遠くから見ていることしか出来ない自分が、あまりにも惨めで、可哀想で、その場に居続けることは出来なかった。
逃げ込んだ先は、パーティー会場に続く階段を駆け下りて、古い洋館をぐるりとまわった奥にある裏庭だった。
『綺麗…。』
噴水の縁に座って、月を見上げた私が思わず零した心の声だった。
それが、恋人だと思っていた男が、何度だって繰り返した言葉と同じだったことが不快だったけれど、やっぱり、月は綺麗だった。
穢れもなく、ただ美しく、堂々と、夜の闇を柔らかく照らすその姿を言葉にするのならば、それはやっぱり、綺麗、が一番しっくり来たのだ。
私の心の声なんて、生まれてからずっと、誰かが拾い上げてくれたことなんてない。
ほんの些細な私の言葉すらも受け止めてくれていると信じていた人さえ、本当は私を騙すことしか考えていなかったのだ。
だから、その夜だって、私が零した心の声は、闇の中に消えて、なかったことになってしまう—————そのはずだったのだ。
『綺麗だね。』
不意に聞こえて来た澄んだ綺麗な声に、私は驚いて思わず振り向いた。
そこに立っていたのは、夜と同化してしまいそうなほどに深い紺色のタキシードに身を包んだ、あの人だった。
身長は高い方ではなかったけれど、それでも私よりも長身で、筋肉がついて引き締まった細くもしっかりしたスタイルのあの人は、私を上手く誘おうとしていたどの男達よりもタキシードを着こなしていた。
星の明かりを映して宝石のようにキラキラと輝く瞳と夜に咲く花のような薄いピンク色の唇。中世的な顔立ちはとても美しくて、思わず見惚れてしまった程だった。
『とてもいい場所だね。
つまらないパーティーに嫌気がさして抜け出して来たんだけど、
もしかしてここは君の秘密の隠れ家だったかな?』
あのとき、そうだと言って追い返してしまえばよかったのかもしれない。
きっとそうだ、と何度後悔したか分からない。
でもたぶん、もしも時間が戻ったとしても、私は同じあの人を受け入れてしまうのだと思う。
隣に座ったあの人から流れてくる空気が、ひどく心地よかったことを、私は今でも覚えているのだ。
きっと、まるで月のような、優しいあの微笑みのせいだ。
気づけば私は、出逢ったばかりのあの人に心を許していた。
壁に囲まれた狭い世界で、何の不自由もなく、お姫様のように守られて暮らせている私は、自分の身が置かれている運命を有難く思わないといけないのだということは知っている。
それでも、私にとって、彼こそが世界のすべてだった。
だから、彼に捨てられた今、私は、恐ろしい巨人の蔓延る壁の外に無防備に放り出されたような気持ちだったのだ。
悲しいのか、怒りなのか、絶望か———。
自分でも整理できない気持ちを、あの人は、それこそ夜空を柔らかく照らし続ける月のように、ただ優しく包み込むように聞いてくれた。
『私はただ、心から愛した人に、同じように愛してもらいたかっただけなの。
私の家や、両親のことも関係なく。私という人間を、見て欲しかった。
彼こそが、私の願いを叶えてくれる人だって、信じていたのに…。』
誰も拾ってくれなかった心の声を、余すことなく吐き出した私の心は、空でも飛んでしまいそうなくらいに軽くなっていた。
だから、見上げた夜空に浮かぶ月が、独りきりでぼんやりと眺めていたときよりも、ひどく鮮やかに輝いて見えたのだ。
『綺麗…。』
少し前に零したのと同じ心の声が、私の唇から漏れた。
やっぱり、彼がよく私に言っていた耳障りの良いだけの言葉と同じだったけれど、今度は不快には思わなかった。
そのときはきっと、あの人が優しく聞いてくれることで、いつの間にか私の心に刺さり鋭く尖っていた棘が、ひとつ残らずなくなっていたのだ。
『あぁ、綺麗だね。』
あの人が同意してくれたことが嬉しくて、私の笑顔が弾けた。
でも、あの人は月なんて見上げていなかった。
あの人は、隣でずっと、私だけを見つめていたのだ。
重なった視線も、不意に握られた手も、初めての失恋に打ちのめされていた心でさえも、糸が縺れるように絡まって、離れなかった。
ひどく、綺麗だった。
紺のタキシードを身に纏って、金髪をキラキラと輝かせるあの人は、奇跡みたいに触れられる月だった。
星を映して煌めく綺麗な瞳には、私の姿が映っていた。
だから、まるで私が、夜空に煌めく星になってしまったようで———。
『本当に綺麗だ、君のことだよ。』
胸が高鳴るとか、頬が染まるとか、そういう感覚はよく分からない。
でも、私は、初めての音が心の奥からしたのを聞いたのだ。
それがどんな音かと聞かれたら、あの人に同じことを言われたら分かるよ、としか言えないけれど、確かに聞こえたのだ。
何度だって聞いたことのある、私の内面なんて見てくれない男達のつまらないお世辞や口説き文句と同じだったはずなのに、あの人の唇が動いて、あの人の声が綴った台詞は、全てが美しく奏でられているメロディーのように、私の心を満たしていた悲しみを消し去ってくれた。
それが、また新たな悲しみを生むことになるなんて、そのときの私は、知る由もなかったのだけれど———。
少し低めの柔らかい声で、あの人は本当に愛おしそうに微笑んだ。
それは、ちょうど1年前の今夜の出来事だ。
世界がますます厳しい状況に陥っている中で、遠い昔から王家に仕えて来た名家出身の貴族の娘である私の毎日は、贅沢品や華やかなもので溢れている。
でも、いつもそうなわけじゃない。
もう二度と立ち直れないと信じ切ってしまうくらいに、悲しいこともある。
たとえそれが、日々命を賭けて戦っては、大切な同胞を失っている調査兵達が聞いたら、呆れるどころか失望してしまうくらいに些細なことだったのだとしても、私にとっては人生で最も悲しい出来事のひとつだってこともある。
心から愛していた恋人が、他の女性とも交際していることが分かったのだ。
私の方が浮気で、婚約の話まで出ていたらしい相手の女性から、訴えるとまで言われてしまった。
私は、何が起こったのか分からないのにひどくショックで涙が止まらないし、厳格な両親は大激怒で、もう二度とこんな恥ずかしい真似をしないようにとお見合いの準備まで始め出してしまった。1年前のちょうどその頃だ。
いつもと同じつまらないパーティーで、いつもと同じつまらない笑顔をはりつけて、いつもと同じつまらない社交辞令を聞き流していた私は、彼女の腰を抱き優しく微笑む彼を見つけてしまった。
とても幸せそうな2人は、悲しいくらいにお似合いで、遠くから見ていることしか出来ない自分が、あまりにも惨めで、可哀想で、その場に居続けることは出来なかった。
逃げ込んだ先は、パーティー会場に続く階段を駆け下りて、古い洋館をぐるりとまわった奥にある裏庭だった。
『綺麗…。』
噴水の縁に座って、月を見上げた私が思わず零した心の声だった。
それが、恋人だと思っていた男が、何度だって繰り返した言葉と同じだったことが不快だったけれど、やっぱり、月は綺麗だった。
穢れもなく、ただ美しく、堂々と、夜の闇を柔らかく照らすその姿を言葉にするのならば、それはやっぱり、綺麗、が一番しっくり来たのだ。
私の心の声なんて、生まれてからずっと、誰かが拾い上げてくれたことなんてない。
ほんの些細な私の言葉すらも受け止めてくれていると信じていた人さえ、本当は私を騙すことしか考えていなかったのだ。
だから、その夜だって、私が零した心の声は、闇の中に消えて、なかったことになってしまう—————そのはずだったのだ。
『綺麗だね。』
不意に聞こえて来た澄んだ綺麗な声に、私は驚いて思わず振り向いた。
そこに立っていたのは、夜と同化してしまいそうなほどに深い紺色のタキシードに身を包んだ、あの人だった。
身長は高い方ではなかったけれど、それでも私よりも長身で、筋肉がついて引き締まった細くもしっかりしたスタイルのあの人は、私を上手く誘おうとしていたどの男達よりもタキシードを着こなしていた。
星の明かりを映して宝石のようにキラキラと輝く瞳と夜に咲く花のような薄いピンク色の唇。中世的な顔立ちはとても美しくて、思わず見惚れてしまった程だった。
『とてもいい場所だね。
つまらないパーティーに嫌気がさして抜け出して来たんだけど、
もしかしてここは君の秘密の隠れ家だったかな?』
あのとき、そうだと言って追い返してしまえばよかったのかもしれない。
きっとそうだ、と何度後悔したか分からない。
でもたぶん、もしも時間が戻ったとしても、私は同じあの人を受け入れてしまうのだと思う。
隣に座ったあの人から流れてくる空気が、ひどく心地よかったことを、私は今でも覚えているのだ。
きっと、まるで月のような、優しいあの微笑みのせいだ。
気づけば私は、出逢ったばかりのあの人に心を許していた。
壁に囲まれた狭い世界で、何の不自由もなく、お姫様のように守られて暮らせている私は、自分の身が置かれている運命を有難く思わないといけないのだということは知っている。
それでも、私にとって、彼こそが世界のすべてだった。
だから、彼に捨てられた今、私は、恐ろしい巨人の蔓延る壁の外に無防備に放り出されたような気持ちだったのだ。
悲しいのか、怒りなのか、絶望か———。
自分でも整理できない気持ちを、あの人は、それこそ夜空を柔らかく照らし続ける月のように、ただ優しく包み込むように聞いてくれた。
『私はただ、心から愛した人に、同じように愛してもらいたかっただけなの。
私の家や、両親のことも関係なく。私という人間を、見て欲しかった。
彼こそが、私の願いを叶えてくれる人だって、信じていたのに…。』
誰も拾ってくれなかった心の声を、余すことなく吐き出した私の心は、空でも飛んでしまいそうなくらいに軽くなっていた。
だから、見上げた夜空に浮かぶ月が、独りきりでぼんやりと眺めていたときよりも、ひどく鮮やかに輝いて見えたのだ。
『綺麗…。』
少し前に零したのと同じ心の声が、私の唇から漏れた。
やっぱり、彼がよく私に言っていた耳障りの良いだけの言葉と同じだったけれど、今度は不快には思わなかった。
そのときはきっと、あの人が優しく聞いてくれることで、いつの間にか私の心に刺さり鋭く尖っていた棘が、ひとつ残らずなくなっていたのだ。
『あぁ、綺麗だね。』
あの人が同意してくれたことが嬉しくて、私の笑顔が弾けた。
でも、あの人は月なんて見上げていなかった。
あの人は、隣でずっと、私だけを見つめていたのだ。
重なった視線も、不意に握られた手も、初めての失恋に打ちのめされていた心でさえも、糸が縺れるように絡まって、離れなかった。
ひどく、綺麗だった。
紺のタキシードを身に纏って、金髪をキラキラと輝かせるあの人は、奇跡みたいに触れられる月だった。
星を映して煌めく綺麗な瞳には、私の姿が映っていた。
だから、まるで私が、夜空に煌めく星になってしまったようで———。
『本当に綺麗だ、君のことだよ。』
胸が高鳴るとか、頬が染まるとか、そういう感覚はよく分からない。
でも、私は、初めての音が心の奥からしたのを聞いたのだ。
それがどんな音かと聞かれたら、あの人に同じことを言われたら分かるよ、としか言えないけれど、確かに聞こえたのだ。
何度だって聞いたことのある、私の内面なんて見てくれない男達のつまらないお世辞や口説き文句と同じだったはずなのに、あの人の唇が動いて、あの人の声が綴った台詞は、全てが美しく奏でられているメロディーのように、私の心を満たしていた悲しみを消し去ってくれた。
それが、また新たな悲しみを生むことになるなんて、そのときの私は、知る由もなかったのだけれど———。