彼女にとって、ただのよくある〝いつもの金曜の夜〟が始まった。
仕事が終わり、家に帰った彼女は、黒いワンピースに着替えてから、ドレッサーの椅子に座る。
そして、ただのよくある〝いつもの深呼吸〟をしてから、自分自身を見つめた。
あと30分もすれば、彼女を迎えに彼がやってくる。
ただのよくある〝友達の友達〟というやつだ。
彼女は、ポーチを開くと、中から口紅を取り出した。
真っ赤な口紅で、薄い唇を塗りつぶす。
子供の頃から変わらない無邪気な笑顔の彼女には、あまり似合わない。
そして、今夜も彼女は、自分に言い聞かせる。

（大丈夫。お酒を1,2杯飲むだけよ。
　あなたならこれくらい出来るでしょ。）

ドレッサーに置いていたスマホが、バイブを鳴らした。
メッセージを確認した彼女は、バッグにスマホを入れてから部屋を出る。
階段を降りた彼女は、降りた先のリビングで、兄の親友の彼を見つけた。
まるで、我が家のように寛いでソファに背中を預けて座り、ティーカップの縁を上から包むように持ち上げて、紅茶を飲んでいる。
それも、ただのよくある〝いつもの光景〟だ。

「お兄ちゃんは？」
「風呂。」

彼は、彼女を見ようともせずに、紅茶を飲みながら答える。

「そう。リヴァイは、また夕飯食べてくの？
　週末になると必ず来るけど、行くとこないの？」
「週末は、誰かさんが飯を食わないおかげで、俺の分があるからな。」
「私が食べたって、リヴァイの分もイザベルに作らせてるくせに。
　可愛い妹をこき使わないでよ。」
「なら、お前が飯作ってくれるのか？」

飲みかけのティーカップから顔を上げて、彼が彼女を見る。
でも、彼女は彼から目を反らした。

「美人の彼女にでも作ってもらえばいいじゃん。
　私はリヴァイに構ってる暇、ないから。」
「またデートか。今日も似合わねぇお洒落して忙しそうだな。
　ファーランが、なまえのこと心配してたぞ。」
「もういい大人なんだから、お兄ちゃんにもリヴァイにも関係ない。」

彼女は、彼に背を向けて玄関に向かう。
そして、後ろから聞こえてくる「気をつけろよ。」という彼の声に、持っているバッグを強く握りしめた。
家を出ると、門の向こうに真っ赤なスポーツカーが停まっていた。
助手席に彼女が乗り込むと、運転席に座っている男が満足気な笑みを浮かべる。
今夜も、サイドミラーに映る自分を見た彼女は、似合わない真っ赤な口紅に眉を顰めそうになった。

「今夜も綺麗だね。」

男は、まるで、そうしてやれば、彼女が喜ぶと分かっているみたいに、躊躇いもなく彼女の長い髪に触れて、慣れた手つきで撫でた。
だから彼女も、男の望むような女を演じる。

「ありがとう。」

嬉しそうに微笑んで、でも、少しだけ、照れ臭そうにする。
すると、男はまた、満足そうな笑みを浮かべて、彼女の頬に触れるだけのキスをした。
車が走り出して、男は、ただのよくある〝いつもの日常〟のフリをして、自慢話を聞かせる。
楽しくもなんともないそれに、彼女は、相槌を打っては、時々、不思議そうに首をかしげた。
そうすれば、男は機嫌を良くして、途切れることなく喋り続けてくれる。
それが、彼女にはいつも都合がよかった。
それから、音楽が大音量で鳴り響くクラブに入った彼らは、いつもの仲間とハイタッチを交わして、お酒を飲んでは踊った。
男がつまらないジョークを言えば、彼女は、それが最高のセンスだと思っているみたいに、面白そうに笑う。
笑っているうちは、少しの間だけ、間違いがなくなった。
そして、彼女は、カタチだけは、彼のことを忘れようと努力しているフリをする。
兄の親友に恋をしてしまっていることも、彼が美人の新しい恋人と一緒にいるところを見てしまったことも、彼を想って流した沢山の涙も、枕を濡らして眠った夜の数も、それでも、彼が好きで忘れられないことも、ほんの一瞬だけ、忘れられた。

「化粧直してくるね。」
「あぁ。」

友人達とのくだらない話に夢中で、心ここにあらずで返事をした男に背を向けて、彼女は化粧室へ向かった。
鏡の前に立った彼女は、ただのよくある〝いつもの深呼吸〟をしてから、自分自身を見つめる。
バッグの中からポーチを取り出すと、真っ赤な口紅を薄い唇に塗る。
あの日、彼に腰を抱かれて街を歩いていた美人の恋人がつけていたのと同じ、真っ赤な口紅だ。
彼が選ぶのはいつも、彼女とは正反対の女性だった。
美人で、大人っぽくて、真っ赤な口紅がよく似合う。似合わない口紅で背伸びをしても、近づこうとしても、彼の恋人になれるわけではないことを、彼女は知っている。
こんなことをして誤魔化しても、彼への気持ちが消えるわけではないことも彼女は知っている。
たとえ、それを嫌というほどに理解していても、彼女は口紅を塗るのだ。
だって、それが、彼女の〝いつもの彼への想い方〟だから———。