妖精
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電車がまた次の駅へと走り出した。
この電車はベルリンに向かっている。
真木はボックスの客席に座りながら、窓から雪の降るドイツの街を見た。
ちょうど一仕事終えてきたところだ。
今朝の新聞を読みながらふぅと小さく息を吐いた。
新聞の一面に一人の女性が写っていた。
エリーナ クルチェフスキー。
ドイツが誇る大女優だ。
真木は一度だけ、会ったことのある。
それは本当に偶然、本来出会うことのない人間だった。
真木は美術商という肩書きの傍、大日本帝国陸軍のスパイとしてこのドイツに潜入している。
この仕事はドイツ中を飛び回る口実にはちょうどいい。
偶然に振り回されたのは、真木が仕事でミュンヘンに訪れていた時だった。
大きなトランクを手に提げ、先ほど接触した情報提供者からもらった情報を頭の中で整理する。
道を歩いていると、十字路に差し掛かる。この道は少し脇に逸れた道なので自分以外に人はいなかった。
ドンッ!
ぶつかってきた黒い物体、いや人間…?
真木は怪訝そうに顔を上げた。
真っ黒の服に身を包み、日差しはないのに黒のサングラス、マスクをつけている。
ぶつかった相手はあからさまに眉毛を潜めて、真木を見上げて指を指す。
『ちょっとあなた!わたしを誰だと思っているの?!ぶつかったのなら謝罪なさい!』
ぶつかってきたのはそっちだろ…と思わず文句をこぼしたくなったが、その声に聞き覚えがあった。
『わたしはドイツの妖精、エリーナ クルチェフスキー様よ!』
サングラスをすっと外して、満更でもない顔をしながら手を大きく空へかざした。
『…はぁ…。』
『はぁ?!?!なにそのため息!』
『失礼。顔を隠しているところを見ると、素性を隠しているように思ったのですが…ご自分から正体をバラしてらっしゃったので…』
『はっ…!って…なんなのよ!あなた!!私は名乗ってあげたのだから貴方も名乗りなさい!この…この…日本人が!!』
『…僕は特に名前をお伺いはしてませんけどね。まぁいいです。…カツヒコ マキです。』
『マキ?マキね!わかったわ、マキ!さぁ、喜びなさい!私と話が出来たのだから!喜びなさい!』
『生憎…僕は美術専門なので…映画などには興味ないんですよ。』
『なっ…に…日本人はドイツの映画の良さもわからないのね!』
この妖精はどうやらテレビで見る姿とはまったくの別人だ。
こうは言ったものの、真木は優秀なスパイだ。
ドイツの有名どころは全て把握している。
もっとも、テレビの中の彼女はもっと大人っぽい人物だったが。
『マキ!マキ!』
『あまり大きな声で名前を連呼するのはやめていただけますか?ミス クルチェフスキー。』
『マキ!私とあそびなさい!この私と遊んでいいと言っているのよ!さぁ!』
『……すみませんが…。』
真木はキラキラと瞳を輝かせた妖精に向かって、何度目かのため息を漏らした。
『この通り…僕はまだ仕事中なので。貴方には付き合えませんよ。もっとも、そんな格好をしていたらすぐに撮影所に連れ戻されるとは思いますが。』
『な…だ!なんで私が撮影所から逃げてきたってわかるのよ!』
真木はすっと妖精の服を、サングラスを、マスクを順番に指差して行く。
『怪しすぎますよ。それではすぐに貴方がミス クルチェフスキーだとわかります。』
『顔がわからなければいいと思ってたわ…まぁいいわ!私の考えを見抜くなんて、日本人のくせになかなかやるじゃない!マキ!さぁ、私を遊びに連れて行きなさい!!』
『僕の話を聞いていましたか?仕事中なので。それに…只の美術商が貴方のようなスターを連れ歩いてたらパパラッチに捕まってしまいますよ。そういうのも遠慮したいので。』
妖精は自分の申し出をのらりくらりと交わす真木に苛立ちを覚えていた。
無論、真木の言葉が全面的に正しい。
妖精がわがまますぎるだけだ。
『仕方ないわ…。』
『わかっていただけたのならば幸いです。まぁ…はやく撮影所に戻ってください。』
『いいえ。今すぐ警察を呼ぶわ。貴方に連れてこられたと言い張るわよ。』
いつの間にか、真木の片手をぎゅっと掴んでいる。
『ほんとに呼んじゃうわよ!絶対離さなくってよ!さぁ!私を連れて行きなさい!さぁさぁ!』
真木は思わず小さく舌打ちをした。
さっさとベルリンへと戻って情報提供者からの情報をまとめたい気持ち、なにより個人的にこの目の前にいる妖精がうるさくて気に入らなかった。
『(大事にするのはあれだが…すこし落とすか。)』
そう決意し、この妖精を気絶させようと腕に力を込め妖精に目をやる。
その目には今にも溢れそうなほどの涙が溢れていた。
注意してみると身体が小刻みに震えていた。
『…連れて行くなら…それなりの覚悟を見せていただきましょう…。』
真木は腕の力を抜き、代わりにそう言った。
スパイにとって、目立つことはご法度だ。
しかし、妖精は目立つ。
長い美しい金髪、今時の子は絶対に着ないであろう真っ黒な服。
真木はにやりと笑みを浮かべながら妖精にハサミを手渡した。
『マキ!マキ!』
真木の目の前には、妖精がいた。
髪を短く切り、真木が被っていた茶色のキャスケット帽子を被り、オレンジの大きなメガネを付けていた。
服はドイツの少年がよく来ているようなものを着ている。
『マキ!見て!馬!』
妖精は目に映るもの全てに興味を示し、真木の体をあっちこっちへと振り回した。
そして妖精が望んだことは、少しでも撮影所から離れている動物園、公園などだった。
動物園をご満悦に堪能した妖精は、小さなお店でサッカーボールを買って真木に手を振った(妖精は高額紙幣しか持っていなかった為、真木が立て替えた。)
ぽんぽんと数回リフティングを試したが、なかなか上手くいかずブスッとした表情で真木に向かってボールを蹴飛ばした。
『…マキ、どうして聞かないの?』
真木がボールを蹴り返すと、妖精は足でボールを止め、俯きながらそう問いかけた。
会って数時間のこの日本人が、何故何も聞かずに自分の我儘に付き合ってくれるのかが気になったらしい。
『聞いて答えるとは思えなかったので。それに、人には話したくないことだってあるよ。僕にもある。だから聞かなかっただけですよ。』
『…そう、日本人のくせになかなかの逸材だわ!』
『その…日本人のくせにっていうのはやめて欲しいですけど。』
真木本人としてはただ無駄に目立つ、という理由だが、妖精は申し訳なさそうに眉を下げる。
『ごめんなさい、マキ。パパが口癖にように言っていたから。』
妖精はボールを拾い上げ、ギュッと抱きしめた。
そして、彼女にしては珍しく辺りを見渡して人がいないかの確認を行っている。
そして、小走りで真木へと駆け寄ると抱きしめていたボールから手を離し、ギュッと真木の胸に抱きついた。
てんてん…とボールが地面を跳ねる。
『私は、この国から逃げたい。』
そう発した言葉は、出会った時の彼女のように震えていた。
今、妖精が携わっている仕事は総統直々の命のものらしい。
最初はとても誇らしく思い、自分の全てを出し切って演技をしようと意気込んでいた。
しかし…その内容は、ユダヤ人の迫害を推奨する内容だった。
妖精にはユダヤ人の友人もたくさんいる。
同じ映画関係で何度も一緒に共演した友を迫害するだけでは飽き足らず、それを推奨するような役を演じさせられるというのだ。
彼女の友人は命からがらドイツから亡命したものの、連絡の取りようがない為、生死は定かではない。
そしてついに撮影の合間の休憩時間を見計らって逃げてきたとのことだ。
世間知らずの妖精が行った精一杯の変装が出会った時のあれだったそうだ。
『お願いマキ!私を日本に連れて行って!私は大切な友人を迫害するなんて出来ない!』
真木はとんだ甘ちゃんだと心内思った。
このドイツでは総統が全てだ。
しかも彼女はドイツの大女優だ、亡命などそう簡単に出来るものではない。
そして真木はドイツに潜入するスパイだ、そんな危険な賭けをする気にはなれなかった。
『僕は家族に勘当されながらドイツにきたので…しばらく日本には帰りません。なのでそのお願いはきけないですね。』
妖精の気持ちもわからなくはない。
最近のユダヤ人の迫害は目に余るものがある、そしてこのドイツの妖精が演じればドイツの国民は今以上ユダヤ人の迫害を激しくするだろう。
しかし…。
『それに、貴方が今このドイツから逃げるのはまぁ…不可能に近いと思いますよ。貴方のような方をドイツの秘密警察が逃すはずがない。そう、今ももしかすると血相を変えて探しているかもしれません。』
『そんな……。』
『ただ…僕が言えることは…、』
『貴方の友人は自分達の立場のことよりまず貴方の命を大事にしろ、と言うんではないですか?』
『…でも…。』
『まぁ…貴方がしっかりなされて、なおかつ僕が日本に帰るときには…連れて行くことも検討しますよ。』
真木はまだ納得のいってなさそうな表情を浮かべる妖精に向かってそう言った。
無論、連れて帰る気などさらさらなかったが…妖精はその言葉でパァッと表情が明るくなった。
『ほ…本当?!マキ!』
『もちろん、今は辛くてもしっかりと仕事をこなすこと、貴方が精神的にもっとしっかりと大人になることが条件にはなりますが…。』
『ええ!ええ!もちろんだわ!嬉しい!』
妖精はくるりと服を翻してその場で一回りし、真木の手をぎゅっと握った。
『ありがとう!マキ!』
あれからもう何ヶ月経ったのか、真木は新聞に写る妖精の顔を見ながらふとそう思った。
何ヶ月、いやもはや年単位で時間が過ぎていたかもしれない。
あれから妖精とは連絡を取っていない。
彼女はしつこく連絡先を聞いてきたが、自分はあくまで日本軍のスパイマスターとしてこの地にいる。
素人に連絡先を教えるわけにはいかなかった(これは自分の為というよりは、妖精に危害が及ばないように考慮した結果だ)。
そので真木は自分から連絡をすることを伝えた。
『(一仕事終わったんだ…たまには連絡をしてやらないと、あれはうるさいからな…)』
頭の中で初めてぶつかった時の彼女の顔を思い出して、新聞から顔を上げた。
もし自分がこの仕事をやりきって…この国から出るときは…
ドーーーーン!
規則正しく線路を走る電車の音から一変して衝突音が響いた。
真木の吐く息が白い。
身体を太い鉄骨が貫いている。
どうやら列車事故に巻き込まれたようだ。外からは野次馬の悲鳴が聞こえてくる。
真木は自分の胸部を貫いている鉄骨を続いて生暖かい液体の流れる自分の右手を見る。
これはダメだ、自分は永くない。
こんな状況なのにニヤリと笑みが浮かんだ。
血だらけの右手でシャツの右襟をぎゅっと摘む。
これだ…これだけであの人は気付いてくれる……。
真木は自分の身体からガクッと力が抜けるのがわかった。
『……(君をここから連れ出すのは難しそうだ…。)』
最期に彼女の無邪気な笑顔が脳裏に浮かんだ。
紛れもなく、女優ではない只のエリーナ クルチェフスキーの顔だ。
そして真木 克彦は事切れた。
エリーナ クルチェフスキーは寒空の下待っていた。
先日、彼から連絡が来たのだ。
はじめて会った時のように、長い金髪を短く切り、地味な少年服を身に纏っている。
それもまた彼から指示があった。
胸には送られてきた小さなブローチがついている。
カツ…カツ…
エリーナは近寄る足音に振り返る。
そこにいたのは……。
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