日記
ブレードランナーは良いもの
2019/11/03 06:01感想
なぜ今ブレードランナーなのかというと、作中の時期設定が2019年の11月だからです。
劇場公開が1982年なので37年前の作品ということになりますね。
37年当時に思い描いていた架空のネオ・ロサンゼルスを描いてるので、現代の2019年と比べて観ると面白いですよね。全然違くて最高。車は空を飛びませんよ!
この映画、とにかく美術が素晴らしいんです。
サイバーパンクっていうんですか?
幾何学的な高層ビルが建ち並んでいて、巨大なネオンの看板が夜空を埋めていて、地面は常に雨で濡れていて、ネオンがその地面に怪しく反射している。
スターウォーズと同じ特撮なんだけど、なんかこっちのほうがSFアニメみたいなタッチがあってめちゃくちゃカッコイイんです。
そしてなぜかずっと夜。昼間の描写がない(画面が明るいのはラストシーンぐらい)。
排水溝みたいな所からずっとスモークが焚かれているので、その白さと、ネオンのきらめきを際立たせるための夜演出なんだろうなあ。
あとやけに日本語が多い。日本語というか、日本と中国が混じったなんとなくの「東洋文化」。
2018年に公開されたウェス・アンダーソンの映画『犬ヶ島』もそうだったけど、海外の映画監督がつくる日本ってどうしてああなのかしら(笑)
古いんだよ、モチーフが。未来の日本っていってるのにまだ和服。もうそれ絶滅危惧種ですから。
まあ絵的には最高に混沌としてて面白いんだけどね。番傘とか。
2017年に続編である「ブレードランナー2049」が公開されましたが私はそっちのほうはまだ観てなくてですね、だってなんかレビューの評価低くて。それに、続き作る必要あったのかって疑問もありまして。
なので今回続編の感想は無しです。
ここでは前作ブレードランナーの感想と、主人公にまつわる最大の謎「デッカードは人間か、レプリカントか」についてちょっと考察してみたいと思っています。
完全にネタバレ含みますので、これから観る予定のかたはスルーでお願いします。
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デッカードはレプリカントである。って主張してるのは制作側だとスコット監督ひとりだけみたいなんですよね。
その他のスタッフは「人間である」「分からない」「分からないほうがいい」という見解だそうで。
で、じゃあどっちなのかと個人で考察してみようとしても、この作品、バージョンによってどっちにも取れるようになってるみたいなので、どっちが正解かの結論を出すことができないんですね。
監督のいうことが大正義だとするなら、一番最後に編集されたファイナル・カット版の解釈が、つまりデッカードはレプリカントである、という結論が正解なのでしょうけども。
でもレイチェルがレプリカントであるから、デッカードは人間であって欲しい気がしますね、私は。
レプリカントであるレイチェルと、人間であるデッカードが種を超えて結ばれる、みたいな物語が理想だと思うんですけどね。
単純に考えればですよ。
でもそれだと監督の意図を拾いきれない、安い感動が大好きなライトな観客、みたいな感じになってしまうので、ここはあえて、「デッカードは人間ではなくレプリカントである」説を前提として語ってみようと思うんですね。
私がレンタルしてきたのがクロニクルって円盤なので、オリジナル劇場公開版と、インターナショナル版(完全版)、それとラストシーンがカットされてる最終版ってやつを総合的に観て語ります。
めんどくさいですねー。なんでこんなにエディション増やしたん……
まずデッカードがレプリである、と読み取れるようなシーンを探しましょうか。
ブライアント警察署長に呼び出されるシーン。
すでにブレードランナーを引退しているにもかかわらず、奴隷狩り、つまり反逆レプリの処刑を命じられるデッカード。
そこでターゲットであるレプリカントを1人ずつ説明される。
「宇宙植民地から脱走したのは6匹。男3匹に女3匹。3日前タイレル社の記録室に3匹が押し入り1匹は殺したが2匹は消えた」
脱走レプリの名前と製造年月日は以下の通り。
・レオン ―2017.04.10 男
・ロイ・バッティ―2016.01.08 男
・ゾーラ ―2016.06.12 女
・プリス ―2016.02.14 女
1人は殺して4人は逃亡中。あれ?脱走したのは6人だから1人足りない…。
このシーン、バージョン違いでは死んだのは2人に修正されてるんですって。でもオリジナル版では1人足りないことになってる。
署長がこのすぐあとに「タイレル社に1匹ネクサス6型のレプリがいるからテストして来い」と言うので、「あ、もう1人はそのレプリのことか」と納得してしまいそうになるんですが、会いに行ってみるとどうも今回脱走したレプリとは違うモノであることが窺える。
ので、その脱走した反逆レプリの残り1人がデッカードのことじゃないかと仮定してみます。
そうなるとまず矛盾が。
一緒に脱走して来たんだから、レオンやロイがデッカードの顔を知らない訳がない。
ってことはデッカードは顔を変えられているか、もしくはアイツはもう人間側に捕らえられて、俺たちの仲間ではないとすでに知っていたことに
なりますね。
ロイとレオンが合流するシーン、レオンはホテルに人がいて写真を取りに帰れなかったと報告する。
するとロイは「それは警察官、か?」とやけにもったいぶった訊き方をする。
デッカードが警察に回収され、自分たちを狩るブレードランナーに改造されたと知ってるような雰囲気がある。
よし、ここはそういうことで収めよう。
ところでこのロイとレオンのシーンでさ(オリジナル版の話です)、
「時間はまだある…」の次のカット、ロイのバストアップのカットよく観て。
肩のところに人の手が置いてあるんだけど。左手。
このときロイは電話ボックス的な物の中にいて、背後に人はいないんだよ。コンコンってガラスを叩く音がするから、
レオンはずっと電話ボックスの外にいたことになる。じゃああの手は映しちゃいけない手だったってことになりますよね。
編集ミス?画角ミス??指摘してる記事が見つからないんだけど、やだーやめてよ怖いよ……。
さて、まだ腑に落ちない点がある。
デッカードがレプリである、と仮定して観ていったときに一番はじめに引っかかるのがデッカードの初登場シーン。
新聞の求人広告を見て仕事探してますね。
デッカードは一度ブレードランナー、俗にいう殺し屋稼業を辞めているひと。
辞めているにもかかわらず、署長のブライアントに召集されて、新しい任務を頼まれる。
デッカードに偽の記憶を埋め込むなら、最初から「俺は現役ブレードランナー、殺し屋だ」って思わせとけばいいのに、なぜわざわざ「引退した身」という哀愁を漂わす必要があるんだろう。
その答えを必死で考えてみたんですが、デッカードのそばにはガフっていうめちゃ怪しい雰囲気の同僚がいますよね。
あの男が鍵なんじゃないでしょうか。
ガフは杖をついていて歩くのが不便そう。でもパイプ役として署長の役には立っている。
ガフはデッカードの見張り役なのではないでしょうか。そして、過去にブレードランナーをしていたのはガフなのでは?
デッカードの持っている記憶はガフのもので、記憶の複製を了承する代わりに、引退していた自分をまた雇ってもらった。
記憶のコピー先を見張るという役割を与えられて。
ガフがなぜか愛おしそうにデッカードを見るのでこんな仮説を立ててみたんですがどうですかね。無理あるかな。
高性能レプリのレイチェルがタイレル社長の姪の記憶を貰ってるってのは説明されてますが、その姪が存命なのかそうでないのかは言及されてなかったはずなので生きてる人間の記憶・思い出のコピーももしかしたら可能なのかなって。
というか記憶のコピーって何?
脳を取り出して移植するってこと?
よくわからん。
デッカードがレプリであると示唆されているシーンは最終版で追加されてますね。
ユニコーンの夢をみるデッカード。そしてお前の夢の中身を知っているぞ、と言っているかのようにガフがユニコーンの折り紙をマンションの廊下に残している。
デッカードはそれを見つけて、何かを悟ったような表情をする。つまり自分がレプリカントであると自覚したってことですね。
オリジナル版はユニコーンの夢がカットされてるので、このシーンは「ガフはここでレイチェルを見つけた。殺さなかったのは4年の寿命があるので情けをかけたのだろう」とデッカードが納得する様子として描かれてますね。
レプリカントは目に光が入ると写真の赤目現象みたいに黒目が赤くなるんですよね。
デッカードの目が赤く光ったように見えるのは、レイチェルに対して「俺は君を追わない。借りがあるから」って言ったすぐあとのシーン。レイチェルの背後にまわったのでカメラのピントが合ってないんですが、そのボケた中でデッカードの目のハイライトが若干ピンクっぽく見えるんですよ。
赤目になる・ならないはこの作品の中でかなり重要らしいので、「想定外だけど赤く見えてしまった」みたいなシーンは絶対入れないと思うんですよね。なので、赤く見えたってことはもうそれだけでレプリカントですよって証明になりうるわけです。
ではデッカードがレプリカントであることは物語にどのような作用をするのかを考えてみますか。
なぜスコット監督はデッカード=レプリカント設定にこだわるのか、です。
これはー…邪推かもしれないんですけど、2049に繋げるために必要な設定だったのでは?と思うんです。
続編2049では、デッカードとレイチェルとの間に子どもが産まれてますよね。
レイチェルクラスの高性能レプリカントにもなると子どもが産めるんです。
で、デッカードが普通の人間の男だとした場合「人間とレプリカントが種を超えて子を成した!愛は素晴らしい!」になるんですけど、デッカードがレプリだった場合は「レプリカントとレプリカントが子を成した!新しくレプリを造る手間もコストも省けてラッキー!」になるんですよ。
タイレル社長だって趣味でレプリカント造ってるって設定ではないはずです。
より人間に近いものを、というより人間を造りたいと思ってるヤバい人として見ることもできる。
そのヤバさみたいなものを、狂気のようなものをちゃんと描くためには、デッカード=レプリカント説が必要になってくるのではないでしょうか。
レプリカントはタイレル社長にとってはみんな我が子同然であります。
まずレプリであるデッカードを自社に呼び出会いを演出し、レイチェルと関係を持つように仕向ける。
そして我が子であるレプリ2人が子どもを作ることができれば、自分はアダムとイヴを造り出した神になれる。
うーーーーん………
こじつけ感が強い……
でもそうじゃなきゃデッカードがレプリである必要性がどこにあるんだって話なんですよね。
デッカード=人間って設定したほうが、物語に深みが増して美味しいと思うんだけどな。
この作品、私は最初「アンドロイドと人間の話だから、機械だと思ってたアンドロイドが人の優しさに触れてやがて人の心を宿すみたいな感動モノだろ」と踏んでたんですが、実際のテーマはちょっと違ったみたいです。
やがてというか、宇宙植民地から脱走した時点で、もう反逆レプリたちには人と同じような感情が芽生えていた。
奴隷として扱われることを屈辱と感じ、仲間と結託して人間に歯向かい、地球に密航した6人。
しかし自分たちには4年という寿命がある。いざ地球に降り立ってみたものの、寿命が迫っていては自由に生きられない。
だから彼らはタイレル社長のもとを訪れて、長く生きられるようにしてくれと頼むんですね。
でもそれは叶わぬ夢で、仲間はブレードランナーやその連れによって次々殺されてしまう。
人間に盾突いたレプリカントは、4年という短い人生すらも、まっとうさせてもらえないのか。
レプリカントは自身がレプリカントであるということを自覚している。
だけど彼らが悲しさや悔しさや憤りをあらわにする様子は人間そのもので、レプリカントではない、人間である殺し屋のデッカードは感情なんてないぜと言わんばかりに、人と同じ見た目のレプリカントを追いつめて殺す。
ってシナリオにしたほうが、
一体どちらがより人間らしいのか。
人間であることの定義とは。
みたいなテーマが明確に浮かび上がってくるのでオススメなんですがね。
ちなみにこの間観たテッドでは、人であることの定義とは「愛を感じるかどうか」だったな。
レプリカントであるロイ・バッティが死ぬ直前にデッカードを助けたのは、人間的な愛を感じますよね。
デッカードのモノローグも「きっと死を目前にして命の尊さを悟ったのだろう。自分の命じゃなく、誰の命であってもだ。だから俺を救った」って言ってますからね。
でもあのシーン、当時監督が俳優さんに明かしたのはそういう慈悲の心が芽生えたからじゃなくて、ネクサス6型という神経の反射に優れたレプリカントだからこそ咄嗟に手が出た。が真相だったらしいですね。
ロイ本人は自分を人間そのものだと思いたがっていたが、最期の最期で、自分はやはりネクサス6型の、正真正銘のレプリカントなのだと思い知らされた。もう何かに抗う必要もない。
最期に見せたロイの、悲しげだけどどこか安堵したような表情はその設定を知ってたから表現できたものなんですよね。
でも後世になってスコット監督が語ったのは「いやあれはレプリカントに人の感情が芽生えて~」だからホント、インタビュー記事でカッコつけるのは『監督』の悪い癖です(笑)
オリジナル版の日本語吹き替えも観てみたんですが、ところどころアテレコされてないんですね、これ。
なんでかなーと調べてみたら、アテレコありの場面はTBSで放送されたTV版の部分で、TVでカットされた部分だから日本語吹き替えされてない、ということらしいです。
ブレードランナー観てるあいだずっと、ロイ・バッティの声がどっかで聴いたことあるなーと思ってたんですが、
そのあと一緒に借りてきた天空の城ラピュタ観た瞬間「ムスカ大佐だーーーーーー!(寺田豊さん)」
っていう気付きを得たのが今週のハイライトですね。
こういう偶然はわりと頻繁にありますね。