動かない
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ゴォン、ゴォン、とマシンの回転する音。2人分のタッタッタッと規則正しい走行音。走る事で上がる、息の音。
走り始めてからどれくらいの時間が経っただろうか。たまにこちらからいくつか言葉を投げかけたが、走り始めてからというもの向こうからの返答はなく僕らの間には異様な雰囲気が漂い始めていた。
「…時速16kmを超えました。」
久しぶりに言葉を発したかと思えば、それだけ。さっき「けっこう本気じゃあないか」と言ったが、けっこうどころか、かなり本気でやっているらしい。
「この前のようにはならない。…徹底的にやっつけてやるからな…岸辺露伴…。」
……これは…、勝負を受けたのは、間違いだったかもしれない。
バサ、と上着が脱ぎ捨てられ、彼の身体が顕になる。…なるほど、本気で身体を鍛えたというのは、どうやら本当らしい。
「凄いな…その脇腹のところ…。」
前鋸筋。ただ何となく筋トレをしているだけでは鍛え辛い箇所の筋肉。アスリートならばそこが発達している人もいるだろうが、ただの一般人が、陰影がつくほど盛り上がるなんて……今まで見た事がない。
「時速18kmを超えました。」
彼のその言葉のあとに、目を疑うようなものが視界に映った。奴の筋肉が、ありえない形にボコボコと盛り上がり始めている。時速18kmを超えるスピードで走りながらなので見間違いかと思ったが、肩も脚も同じように盛り上がっているので間違いない。今、何かが起こっている。
「時速19km。」
マズイ…マズイぞこれは…。タラ、と顬を伝う汗は、運動しているからかいた汗ではない。これは、冷や汗だ。
無意識のうちにチラ、とシャワー室の方を見る。きっとまだ戻っては来ないだろうが……この今の状況に、彼女が巻き込まれるのが一番の問題だ。
「余所見なんて余裕ですね。」
時速20kmに達するかというところで、奴はあろうことか、クルッと身体を反転させバック走をし始めた。時速20kmで回転するトレッドミルの上で、だ。
コイツ正気か…!?なんなんだ、一体…ッ!!
「はッ!」
橋本陽馬はその状態で傍らに並んでいた20kgのダンベルを軽々と持ち上げ、前方へと放り投げた。そのダンベルの行く先は──窓だ。
案の定20kgもあるダンベルは軽々と窓を突き破り、下へと落下していった。そこでやっと、奴の行動以外にもおかしなところがある事に気がついた。
「…なぜ…誰もいない……!」
いくら人が少ないジムだからといって、僕らしかいないなんておかしい。受付をしたスタッフはどこへ行った?
橋本陽馬…コイツは本当に、あの橋本陽馬か…!?
「ここからが苦しいですよッ!露伴先生ッ!」
「お前ッ!何者だッ!…ッ、止めろッ!!」
このままではマズイとリモコンに向かって手を伸ばすが──呆気なく、それは阻止された。右手の中指より外側3本の指を、一瞬にして折られてしまった。
「ぐぁぁあっ!」
クソッ…!!
この状況はもう、引き返せない。僕が奴の勝負に乗った瞬間から、こうなる事はきっと決まっていたのだ。……ならば、こうするしかないッ!
「ヘブンズドア!」
「っ、露伴!!」
半ば悲鳴のような声で僕の名を呼んだのは、なまえだ。シャワー室の方から駆け寄ってきたに違いない彼女は、この今の異様な光景に離れたところで足を止めた。
良かった…彼女は無事なようだ…と僅かばかり安心したところで、足が縺れかける。
「ろ…、露伴…!」
「ッなまえ…!!僕は、大丈夫だ…っ!近づくなッ……!!」
一歩踏み出そうとした彼女は僕の声を聞き、ビクッと体を強ばらせ、停止した。…いい子だ。
「!?何だ…?」
「おまえ…!?…まさか!」
パラパラと、徐々に奴のページが捲れていく。その中に見えたものは、奴が邪魔だと思った人間のリスト。その全てに、[殺害済]と記載されている。
…このままだと僕は、あそこに載る事になる。
「リモコンを絶対に取りに行かないと…ま、まずいッ!!」
ドドドド、とおおよそ人間の走行音らしからぬ音を立てながら、僕も奴も、メーターに注目する。24.8……24.9……、そしてついに…25km…!!
「ヘブンズドアーッ!!」
同時に伸ばされた手。奴─橋本陽馬の手はリモコンを掴み取り、対して僕は、奴の手にヘブンズドアを発動した。
「勝利は確かに君の方だ……。…それで駄目か…?」
─ピッ
「そのボタンを押したのは…君だ…。」
「はっ!」
「露伴ッ…!!」
体勢を崩した橋本陽馬は、ものすごいスピードで視界から消え去って行った。しかし最後まで僕の方を睨みつけており「露伴……」と恨みの籠った視線だった事は分かった。
「ハァ…ハァッ、…うっ…!」
「露伴…、露伴っ…!」
ヨロヨロと歩み寄ってきたなまえは震えながら、瞳からポロポロと涙を流していた。その姿があまりにも悲痛で思わず駆け寄って抱きしめたくなったが、酷使し過ぎた身体はいう事を聞かず限界を迎えていてそれは叶わなかった。這うように彼女近づくようガラスの破片から離れたところで、彼女も僕の元に辿り着き力の限り抱きしめられた。その身体はふるふると震えていて、酷く後悔した。僕が好奇心に負けて迂闊に勝負を受けなければ、なまえはこんなに怯える事はなかったのだと。
「露伴……!」
「悪かった……、すまない、なまえ…。」
上がった息も、運動を止めた事で噴き出してきた汗も気にせず、目の前で泣き続けるなまえを抱きしめた。
なんだか、出会いのきっかけとなった映画の撮影現場での1件を思い出すな…。
「ウッ…!…っ、なまえ…ここを、早く離れよう…!…立てるか…?」
右手の痛みで、強制的に現実に引き戻される。橋本陽馬……アイツはきっと、生きている。なぜか僕はそう、確信していた。それならば一刻も早くなまえを連れて、ここを離れなければならない。
「ま…まって…、……。」
そう言って目を閉じて、深呼吸をするなまえ。2回、3回と繰り返して目を開けた彼女からはもう、怯えている表情は消え失せていた。
「行こう、露伴。掴まって。」
なんとも情けない。奴に勝ちを譲った上に、汗だくで、足元もおぼつかなくて、彼女に介助してもらうなんて。