動かない
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「わ…、すごい!ここ、設備がいいね。」
「あぁ。その割に人が少なくて良いだろ?」
2人揃って外に出られるようになり初めてやってきたのは、僕が以前から通っているS市内にある会員制のスポーツジムであった。
デートにしては色気がないのだが、なまえがさほど気にしていない上にちょっと割高な料金設定の会員制という特性上人の多くないここは僕達にとってうってつけの場所であった。
「ここだったら、通うのにいいかも。」
「そうか。ロッカーは向こうで、あっちにはウォーターサーバーも──」
「あれ?露伴先生?」
ここへ初めて来た彼女に色々と説明している所へ、割り込む声。人が少ないとはいえ、僕らの他にも誰かしらはいる。しかし、こんな所で話しかけられるなんて。
「?…あぁ、君か。久しぶりだな。」
確か、橋本陽馬。モデルの仕事をしながら、役者もやっている…と言っていた男。僕がここへ来るのは随分久しぶりだが、前に見た時よりも身体が出来上がっていて、ひと回り大きくなったように感じる。
「お久しぶりです。しばらく見ないと思ったら、ご結婚されたんですってね。」
「あぁ、いいよ、そういうのは。もう聞き飽きた。」
「…今日は、その噂の奥さんと?」
「…まぁな。あんまり騒ぐなよ。と言っても、君はそういうタイプじゃあないか。」
「こんにちは。露伴のお知り合い?よろしくね。」
僕の隣でニコ、と人当たりのいい笑顔で挨拶をするなまえ。話を遮りはしたが、間の取り方が完璧すぎて違和感がないのが不思議だ。橋本陽馬の方も特に気にした様子もなく「どうも…」と控え目な挨拶を返した。
「彼は橋本陽馬。ここでたまに会うんだ。モデルをやりながら、役者もやっているらしい。」
「ふふ…知ってる。モデルをやってる事までは知らなかったけど、一度会った事があるよ。」
「へぇ、そうなのか。」
「…俺…なまえさんと、1対1で話した事は……。」
「そうかもね。でも、がんばってほしかったから覚えてるよ。」
「…ありがとう、ございます。」
まさか、思いがけずそんな繋がりがあったとは。それにたった1度会っただけの、それも直接言葉を交わしたわけでもない相手の事を覚えているなんて。彼女の記憶力の良さには驚かされる。
「じゃあ、お邪魔になると良くないので、失礼します」と去っていく背中を見送って、なまえを見る。演技は完璧、顔も良いし気立てもいい。少々変な奴ではあるが、そんな事は気にならないくらいの出来た人間だ。
「あの子だけじゃなくて、会った事のある若い役者の子はだいたい覚えてるの。私にもこういう時があったなって懐かしんで、つい応援したくなっちゃって。」
「…君も、そんな風に言えるまでに成長したって事だな。」
「成長してなきゃ困る。何年女優としてやってると思ってるの。」
そういえば、僕も彼女に対してそう思っていた時期があった。それが今はどうだ。世間では知らない人はいないのではないかという知名度に、外見だけではない、僕も認める確かな実力。これに内面のあれやこれやを加味したら、もしかしたら僕はもう、彼女に追い越されているかもしれない。
「…さて、軽く走るか。」
「私もまずは、ランニングからかな。」
そんな人に好かれているなんて、一体僕は前世でどんな徳を積んだんだろうか。
「仲が宜しいんですね。」
「…君か…。仲が良いのは、当たり前だろ。じゃなきゃ、この僕が結婚なんてするわけがない。」
「それはそうですけど…、露伴先生が女性に親切にしているのは意外と言いますか。」
失礼な奴。でも、それは僕自身もそう思ってるよ。だからまぁ、今の失言くらいは、許してやる。
「で、何か用か?わざわざなまえがいない時に話しかけに来て。僕に用があるんだろ?」
今まで彼と会う度に言葉を交わしていたのは、僕がいつも1人でここに来ていたからだ。別にここで友達を作ろうとは思っていないし、向こうが話しかけてくるから、たまに話に付き合う程度。名前は橋本陽馬で、モデルと役者をしているというくらいしか知らない。その程度の付き合い。
「なまえは今、シャワーを浴びに行っている。だから、しばらく戻ってこないぜ。」
僕ら男と違って、女性の風呂は長い。特に、上がったあとが。
ガシャ、と手に持っていたダンベルを元へ戻して一息つき、彼──橋本陽馬を見る。やはり顔を合わせていなかった間に相当鍛えたのか、その身体は以前とはまるで別人のもののようだった。それに、表情だ。前はもう少し気さくでたまに笑顔を見せていた気がするのだが…今やその面影はなく、瞳には何も映していないような…。そう、何かに取り憑かれでもしたかのような顔だ。
「露伴先生、前に会った時の事、覚えていますか?」
「前?」
あいにく僕は、なまえほど記憶力が良い方ではない。というよりも、興味を引かれなかったものや不要だと判断した記憶は無意識に消してしまう。のだが、やや考えたあとに、彼の言っている"前に会った時の事"の記憶が蘇ってきた。
「あぁ…アレか。」
トレッドミル2台。リモコン1台。それだけを使ってやる、簡単なゲーム。
徐々に加速するトレッドミルが時速25kmに達した瞬間、どちらが早くリモコンを取る事ができるか。取った方はゆっくり減速し、やがて止まる。逆に取れなかった方は、加速し続けるマシンの上で体勢を崩し、無様に転倒する。ただそれだけ。
以前来た時に、確かにコイツとそんな事をした。だが、それがなんだというのか。
「まさか…またアレをやろうっていうんじゃあないだろうな?」
「そのまさかですよ。俺、あれから徹底的に走り込んだんです。毎日、毎日…。やってくれますよね?露伴先生。」
「ふむ…。」
まさか、前回僕に負けたのが悔しくてそこまでしたのか?そして、リベンジマッチを望んでいると。
ベンチに腰掛け、暫し考える。
前回と違って、今日はなまえがいる。リベンジを望んでいるという事は、前にやった台を指で弾くという手は使えないだろう。最悪、僕は負ける。それだけならまだしも、転倒して右手に怪我でもしたら目も当てられないだろう。…正直、彼女にそんなところは見られたくはない。が…、
「いいよ、やろう。」
見違えるほどに肉体改造をした彼の、今の実力が僕は見たい。どうしても見たい。
これは僕の、どうしようもなく悪い癖だ。
きっとなまえはまだ、戻ってはこない。もし最悪の事態になったとしても、誤って怪我をしたという結果のみを知られるだけだ。無茶をして怪我をするのは今に始まった事ではないしな。
ギ、と音を立てて立ち上がり、彼の方を向く。
「そうこなくっちゃ。ありがとうございます、露伴先生。」
感情の読めない顔で笑う橋本陽馬に僅かに恐ろしさを感じたが、それよりも今は、好奇心の方が勝ってしまった。
一体どれほど成長したのか、この目で確かめさせてもらおう。