第1部 M県S市杜王町
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昨日は典明の求愛が止まらなくて、結局岸辺くんの家には行けなかった。そもそも昨日は岸辺くんの家には行けない、と本人に伝えていたので構わなかったのだが"Tenmei"を描きたくて早めに帰ってきたというのに。典明が幸せそうで、私も幸せだったので別にいいのだが。
ホテルの前で待ち合わせていた岸辺くんと挨拶を交わすと「2人とも、何かいい事でもあったのか?」と一目見て気付かれるほどには、幸せオーラが漏れ出ていたらしい。
しかし、彼のその言葉に、典明が岸辺くんに笑顔を向けたので、岸辺くんも私も目を合わせて驚いて、手を取り合って喜んだ。きっと典明に、心の余裕ができたのだ。「触れるのは許可してない。」とすぐに引き剥がされたが、典明の心境の変化が、本当に、とても嬉しくてどうでもよかった。
「岸辺くん、早く行こう!亀友で、できるだけ大きいサイズのキャンバスを買い直したいの!」
岸辺くんと典明、2人の手を取って引っ張ると、笑顔の典明とは違い、岸辺くんは目を見開いて驚いた表情を浮かべた。そして数回パチパチと瞬きをし、空を見上げたかと思うとゆっくりと元に戻った。いつもの岸辺くんの顔である。
「分かった。まずは亀友に行こう。」
そう言って彼は車の後部座席のドアを開けたので典明と並んで乗り込んだのだが…今のは、なんだったのだろうか?
「今日は何時までいられる?昼食なんかも買って行こうかと思うんだが。」
彼のいつも通りの態度に、まぁいいかと考えるのをやめた。いつもと違うのは、典明も同じだからだ。
「そうだね、買って帰ろう。ねぇ、今日は6時までいるから、終わったらカフェ・ドゥ・マゴでご飯食べていかない?」
私の提案に2人とも異論はないようで、今日の予定が決まった。
亀友デパートで車に積み込めるくらいのキャンバスを買うつもりだったのだが、岸辺くんが無理やりF100号のキャンバスを買うので、車の上に括りつけて運んで帰ってきた。お陰で車には傷が付いていたが彼は「構わん。アホの仗助に直させるさ。」と気にしていないように言っていた。彼の性格からして、仗助くんに頼むなんて事、絶対にしないと思うのだが…。
しかし、それにしても大きい。今まで、こんなに大きいキャンバスに描いた事がない。私に、できるだろうか?バランスの確認のため離れて見るのも、いつもの彼の作業スペースだと狭くて困難なため、1階の使っていない部屋を使用する事になった。画材も、全て運び終えている。
キャンバスを見据えながら、昨日の、2人で涙を流した時の事を思い出し、新しいスケッチブックを開いた。これだけ大きいのだ。直接下描きを始めては、きっと何度も描き直す事になる。まずはラフスケッチからだ。時折昨日の記憶を引っ張りだして、何枚もラフを描いていたら昨日の感情が思い起こされて、またポロポロと涙が出ている事に気がついた。それでも手を止めずに描き続けて、満足いくまで描いた。鉛筆をテーブルにコト、と置くと典明がすぐさま涙を拭いてくれたので顔を上げると、岸辺くんもお茶を置いてくれたので、有難く頂いた。
「すごい集中力だな…。」
岸辺くんの集中力はこの前目の当たりにしているが、その彼がいうのなら相当集中していたのだろう。時計を見るとラフ画だけで、1時間描いていた事になっていてさすがに驚いた。道理で、目が痛むわけだ。
「ふふ。泣きすぎちゃった…。」と笑うと「君は目が腫れてもかわいいな。」と典明が言うので、前にも言われた気がするなと、彼に少し呆れてしまった。
「典明。岸辺くんも。どのラフ画がいいか意見を聞いてもいい?」
2人に見えるようにテーブルにラフ画を並べると、2人は真剣にそれを見てくれた。この中でも気に入ったものがあるが、それがどう見えるのか、ドキドキして反応を待った。
やがて2人は、ひとつのラフ画を指さして「これ。」と声を揃えた。それは私が一番気に入ったもので、思わず長いため息が漏れた。
「よかったぁ〜。私も、それがいいかなって思ってたんだ。」
安心したら、お腹が音を立てた。お腹がすいた。もうすぐお昼。キャンバスへの下描きは、午後になってからやろう。私のお腹の音を聞いて笑顔を浮かべる2人を引き連れて、リビングへと向かった。やっぱり、事前に昼食を買っていて良かった!
「岸辺くん。どうして、このサイズを無理して買ったの?」
昼食後、再びキャンバスの前へ戻って下描きをしながら、気になっていた事を彼に尋ねてみる。お店でも、今までこのサイズは使用したことがないと伝えたのだが、彼がどうしてもと譲らなかったのだ。描くのは私なのにだ。その結果、車を傷つけてまで運ぶ羽目になり、岸辺くんにメリットなんてないように思える。
「そんなの、君が描きあげられると思ったからだ。それに、僕が見たかったから。」
彼の理由は意外なもので、いや、逆にいうとそれしかないという程にシンプルなもので、質問した私が馬鹿なではないかと思わされた。
「うん。絶対描きあげるよ。楽しみにしててね。」
そこまで期待してくれているなら、応えなくてはならないと、やる気が湧いてきた。
「君は、すごいな。いとも簡単に、なまえを信じてあげられて。」
典明の声に、私達は彼を見た。典明は、自分と岸辺くんを比較しているようだ。
「何を言ってるんだ。花京院さんだって、僕にはできない事をしているじゃあないか。それに、僕は花京院さん込みで、なまえさんを信じてるんだ。知らないのか?なまえさんは、花京院さんがいるから強くて、素敵な女性なんだ。」
そう語る岸辺くんはドヤ顔で典明を見て、典明の方は呆気に取られている。私も典明と同じで、この数週間という短い期間で、よくそこまで理解したものだと感心している。
「……岸辺くん。私を、ヘブンズ・ドアで読んでみてくれない?」
「えっ?」
「なまえ!?」
思わず口をついて出た言葉に、2人は信じられないものを見るように私を見た。無理もない。絶対に見せようとはしなかったのだ。それをいきなり見てくれなんて、驚いて当然だ。
「読む覚悟があるなら、読んでみてほしい。その上で、岸辺くんに聞きたい事があるの。それに、昨日の出来事を上手く説明できる自信がないの。読んでもらった方が早い。」
典明も岸辺くんも、無言で真剣な顔で私を見るので、下描きをしている手を止めて向き直った。
「岸辺くんは、読む覚悟、ある?」
「……僕は、とっくに覚悟はできてるさ。だが本当に、」
いいのか?と彼は視線を典明へと向けた。迷っているのは、典明だけだ。そもそも私の記憶を見せるので、本来典明の許可は不要なのだが…。典明の返答を待つのは、彼の気遣いを無駄にしないためである。
「……なまえが、いいのなら良いだろう。その代わり、変な事をしたらエメラルドスプラッシュを出すからな。」
「…!もちろんだ。約束しよう。」
良かった。私は、今の岸辺くんになら記憶を見せてもいいと思った。いや、読んでほしいとさえ思っている。彼は本当に、私の、私達の事を全て理解した上で、それでも私を好きでいるのかと、確認したかったのだ。試すようで悪いが、お互いのためには必要だと思っている。
この先彼がどういう選択をするのか不安ではあるが、遅かれ早かれ記憶は見せる事になっていた、と自分に言い聞かせて、不安を心の奥にしまった。