第1部 M県S市杜王町
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-岸辺露伴視点-
「波紋の呼吸っていう、呼吸法があってね、」
話の流れで出てきた単語だったが、なまえさんの事だ。こちらが何も言わなければサラッと流してしまうだろうと説明を求めると、とてもいい話が聞けた。口を挟んでよかったと、数分前の自分を褒めた。
波紋の呼吸。生まれ持ったセンスがないと習得は難しく、またセンスがあっても上手く扱えるとは限らないらしい。修行もとても厳しく、なまえさんですら苦戦したというので余程のものなのだろうと予想できた。要は、特殊な呼吸法で血液の循環をコントロールするものらしいのだが、それによってなまえさんは壁を歩いたり、足を強化して目にも止まらぬ速さで移動したり、傷の治癒速度を速める事もできるというので驚いた。次元が違いすぎる。まさに最強というに相応しい人なのではないだろうか?
「その、波紋の呼吸の修行が、呼吸矯正マスクっていうのを付けなきゃならなくてね。とっても苦しくて、典明も心配してくれてたんだけど、みんな、私ならできるって信じてくれてね。…嬉しかったなぁ…。」
ソファに膝を抱えて座り始めたなまえさんに、隣の部屋の押し入れからブランケットを持ってきて渡すと「ふふ。ありがとう…。」とお酒で潤んだ瞳で微笑まれたので思わず心臓が跳ねた。花京院さんを見ると、やはり僕を睨んでいたのでその視線から逃れるように、元いた場所へと座り直した。
「あ、そうだ。その頃に、典明の体を見る機会があってね、」
「ゲホッ…!」
突然の爆弾発言に、思わず盛大に噎せた。花京院さんも同じように噎せている。幽霊なのに。彼女は慌てて「あっ怪我の手当てだよ!?」と言うが、花京院さんは顔を赤くして口元を隠してしまった。
「岸辺くん、彫刻の経験はある?」
直前の話題となんの関係があるのか、彼女は突然真面目な顔で僕に聞いてきた。何か、ただならぬ雰囲気だ。
「いや…僕は独学でね。描きたいものを描いてるだけなんだ。大学も行ってない。」
正直に話すと彼女は長いため息を吐いて落胆している様子だった。クソ、こんな事ならちゃんと勉強しとくんだった…!と過去の自分を悔いたが、続いた彼女の言葉には呆れて声も出なかった。
「その時見た典明の体がね、美しすぎて……。これは死ぬまでに彫刻にして、後世に残さないと、って思ってるんだけど……。」
「……。」
…なるほど。だからか。花京院さんはもう、羞恥から、両手で顔を隠してしまった。なんだこの2人は。夫婦漫才でもやっているのか。
「……知り合いに、聞いてみるよ。」
なんと答えていいのか分からずにそう言うと、彼女は手を合わせて喜んだ。喜んでくれたのなら、まぁいいか。
その後エジプト入りした話なども聞かせてくれたが、エジプトに入ってからの旅は、今まで聞いていたものよりもずっと過酷な旅だったので、聞いているこっちが疲れてきた。そして犬が仲間に加わり、花京院さんが両目に怪我を負ったところまで話したところで、なまえさんの様子が変わった事に気がついた。表情が、少し固くなっている。
「なまえさん。今日はもうやめにしないか?それか、少し休憩しよう。僕も疲れた。」
花京院さんも彼女の手を取り、何かを伝えているようだ。その光景を見て、前までと違う点に、今、気がついた。花京院さんから、触れている、と。
「ありがとう…。ちょっと休憩しよう。」
彼女がそういった事で、思考が一旦ストップした。
テーブルを見ると、もう3本も開けている。1度酔いを覚まさせようと、台所へ行ってリビングへ戻ると、花京院さんが膝枕をして、彼女は眠ってしまっているようだった。
「花京院さん。水、ここに置いとくぞ。」
コト、とテーブルにコップを置くと、彼はチラリと視線を寄越した。そして、「岸辺露伴。」と、初めて聞く声で僕を呼んだ。
「え…待て。花京院さん、アンタ…喋れないんじゃあ……ッ!?」
少なくとも、彼女からはそう聞いている。思わず声を発すると彼は「静かに。なまえが寝てるんだ。」と言い、彼女の頭を撫でた。なまえさんは、未だ気持ちよさそうに眠っている。
「それに、いつの間に触れられるように…。」
少なくとも2人が東京に行く前は、なまえさんからしか触れられなかったはずだ。だから、スタンドで、ハイエロファントで、彼女に触れていたのだ。
「触れられるようになったのは、つい昨日の事だ。喋れるようになったのは………最初からだ。」
沈黙の後に発した言葉は、意外なものだった。最初から、とは?今まで喋る事ができたのに、喋らなかったという事か?なぜ?なまえさんはきっと、花京院さんと話したかっただろうに。
「なぜ、今まで話せないフリを?」
率直な疑問をぶつけてみる。答えてくれるだろうかと不安だったが、意外にも彼は、その形のいい唇を動かした。
「僕は、彼女を離せない。彼女が、僕を離せないように。」
抽象的な言い方だが、何となく、言いたいことは分かる。何となく、だが。
「僕の存在は、きっと彼女を縛り付けてしまう。依存、させてしまう。それはきっと、彼女にとって良くない事だ。だから、自分に唯一できる喋らない事を徹底してきた。彼女との関わりは、最低限にしようと。しかし、最近のなまえは、どういう訳か僕の考えている事を理解できるようになってしまった。そして、ついには触れられるように…!…正直、すごく、嬉しい事だ。彼女も喜んでいる…。だけど……せっかく10年、話したいのに話せないフリをして、我慢してきたんだ…。…もう、僕にはどうしていいか、分からないッ…!」
彼はそう言って、なまえさんを起こさないように静かに涙を流した。流れた涙が彼女に零れないように、袖で拭っている。確かに、彼の泣き顔は、彼女の言う通りとても綺麗だ。
「話したいなら、話せばいい。きっと、彼女はとても喜ぶ。」
ちょっと無責任すぎるだろうか。だが、他にいい案は浮かびそうにない。あの花京院さんが、邪魔者である僕に話しかけてきたのだ。きっと、背中を押してほしいのだろうと思ったのだが、どうだろうか。
「そんなに、簡単に言うな…。…10年だぞ…。」
メソメソと泣く花京院さんは、いつもの彼と同一人物とはとても思えない。こういう時彼女なら、なんと言うのだろうか…分からない。分からないので、僕が思っていることを伝えるしかない。
「10年だろうがなんだろうが、選択肢は2つしかないだろう。潔く、話せる事を打ち明けるか、このまま黙っているか。」
少々言い方がキツくなったかもしれない。花京院さんは無言で彼女へ視線を移し、じっと寝顔を見つめている。指で優しく、頬を撫でながら。
「……なまえは、許してくれるだろうか…。」
弱々しい声で紡がれた言葉は、彼の不安をよく表していた。許してくれるか、だって?彼はなまえさんの事を一番理解しているんじゃあなかったのか?
「彼女が、アンタに怒るわけないだろう。泣いて喜ぶに決まってる。」
その僕の言葉に、彼はグッと口を引き結び、顔を伏せた。そのままキスするかと思われたが、あと数センチというところで止まって、ホッと胸を撫で下ろした。
「そう…そうだね…。君は、そういう子だよね、なまえ…。ありがとう…。」
花京院さんはなまえさんに向かって、優しく、感謝を述べた。背中を押す言葉をかけた、僕ではなく、なまえさんに。
だが、別にどうでもよかった。花京院さんの涙が止まって、笑顔が戻ったのだ。僕は確かに、なまえさんの事が好きだ。だが、花京院さんの事も好きだ。というより、僕は花京院さんといるなまえさんが好きなのだ。2人が幸せなら、それでいい。とりあえず、今は。
「今度は、花京院さんの話も聞かせてくれ。」
少しは仲良くなれたと思ってそう言ったのだが、花京院さんは相変わらず僕を睨みつけ「調子に乗るなよ。」と。…手懐けるのは、まだまだ先になりそうだ。