第1部 M県S市杜王町
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ピンポーン
私は今、岸辺くんの家の前にいて、インターホンを鳴らしている。ここに来たのは自分の意思だ。典明は最初渋っていたのだが、岸辺くんの家を訪ねる目的を話すと嫌々ではあったが、納得してくれたのだ。
……なかなか出てこないな…。そう思ってもう一度インターホンを押すと、扉が荒々しく開かれて中から岸辺くんが出てきた。
「煩いな!僕は今忙し……!なまえさん!?と、花京院さん!?」
彼は私達の姿を認めると、とても驚いた顔を見せた。無理もない。昨日告白した相手とその恋人が、自分の家を訪ねてきたのだ。こんな状況、なかなかないだろう。
「岸辺くん、忙しかった?ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
時間は取らせないから、と言うと、彼は佇まいを直し、私達を家に通してくれた。ちゃんと扉を抑えてくれる辺り、思ったよりも常識や教養がある人なのかもしれないと、失礼な事を考えた。玄関に入る際、典明と岸辺くんはしばし見つめあっていたが、典明がプイ、と顔を逸らしたので何も起きなかった。岸辺くんも特に気にした様子はなく、先日入った部屋へと、私達を案内してくれた。その際、私が持っていた買い物袋もサッと持ってくれて、私はなんだか照れくさくなってしまった。本当にこの人は、私の事が好きなのだと感じたからだ。ときめいたとかでは断じてない。
「それで、今日はどうしたんです?」
いくらか落ち着いたのか、いつも通りの様子で、彼は尋ねた。まず、突然家を訪ねたことを謝罪すると、それは気にしないでくれ、と気遣いを見せた。確か彼は20歳前後だと思ったが、随分と落ち着いていて、大人顔負けの気遣いができているように見える。
「あのね、台所を貸してほしくて。ホテルにはないから。」
本題を話すと、彼はなぜわざわざ料理をするのかと問うた。ごもっともだ。自宅以外で料理をしようだなんて、滅多に考える事ではない。
「典明に、手作りのご飯を食べさせてあげたくて。」
そう言うと彼は幽霊にご飯?と言いたげに首を傾げたので空条亭に帰省した時の出来事を話すと、ようやく納得してくれた。今日ここに来たのは、食べ物の味を感じるようになった典明のために、私が作ったご飯を食べて欲しくてやってきたのが理由だ。なぜ岸辺くんの家なのか。それは彼が一軒家に住んでいて、私達の事情を知る数少ない人物だったからだ。他意はない。
「良かったら、岸辺くんも食べてね。典明が食べたものは、私が食べるから。」
岸辺くんの分は、場所を貸してくれる事への僅かばかりのお礼だ。典明は、嫌そうにしているが。
「そういう事なら、どうぞ。好きに使ってもらって構わない。それと、足りない調理器具があれば教えてくれ。僕が買いに行く。」
許可をもらって喜んでいたら要らぬ気遣いをさせてしまい、慌てて断った。彼はもしかしたら、案外好きな人には尽くすタイプなのかもしれない。気をつけなければ。
「岸辺くんは、お仕事してていいよ。お仕事頑張ってね。」
そう最後に告げて、キッチンの前で彼と分かれた。
まずは使用する調理器具が全部あるか、チェックするところからだ。
岸辺くんと分かれてから約1時間。ついに料理が完成した。最初は不満げだった典明も、中盤からは機嫌を直して私の作る様子を私について回って眺めていた。その姿がワンちゃんのようでかわいくて、頭を撫でたら嫌がられてしまった。いつも唇を尖らせて拗ねる典明を余計にかわいく思っているのに、彼は気が付かないのだろうか。
出来上がったカレーライスを3人分、とりあえずキッチンに並べて岸辺くんを呼ぶが、集中しているのか返事がない。初めてこの家に来た時は窓から入ったので順路は分からないが、だいたいの仕事場の位置は覚えている。直接呼びに行こうと、私はキッチンから出て、階段へと足を乗せた。
「すごい…。」
カリカリとペンが紙を走る音が聞こえる部屋のドアから中を覗くと、思った通り中に岸辺くんがいた。だが、あまりの集中力に声をかけるのが憚られた。私も"Tenmei"を描いている時は周りの音や声が聞こえなくなる時があるが…承太郎や典明から見たら、私もああ見えるのだろうか?
そっと部屋の扉を押し開け、忍び足で彼の後ろへ近づき原稿を覗き見る。近くで見ると、彼の描くスピードの速さに驚いた。先程からたまに聞こえるドシュ、ドシュ、という音は、ここから聞こえていたのか。
「すごい…!」
2回目の陳腐な感想が口から漏れると、岸辺くんはビクッと肩を跳ねさせて、こちらを向いた。しまった、驚かせてしまったようだ。
「あ、ごめんね。せっかく集中してたのに…。ご飯できたよ。カレーだけど。」
「もう?あぁ、もうそんなに経っていたのか。」
岸辺くんは時計をチラリと見て、立ち上がって体を伸ばした。その際に彼のお腹がチラリと見えたが、なんとなく、見ないふりをして視線を逸らした。典明の程ではないが、なかなかにいい体をしていそうだったのだ。
「もうよそっちゃったから、早く食べよう。」
と、典明の手を取ってそそくさと部屋を出たが、典明の私を見る視線が、少し痛かった。
「美味しそうじゃあないか。戴きます。」
岸辺くんは何の変哲もない私のカレーライスを一口食べて「ん、うまい。」と言ったのを確認して、私も典明にスプーンを差し出した。典明は長い横の髪の毛を手で抑えて口を開けた。典明は幽霊だから髪の毛が汚れることはないのに、癖でやってしまったのだろう。その仕草がやけに美しく思えて、一瞬見とれてしまったのか記憶が飛んだ。気がついたら彼は目を細めて私を見ていて、美味しい、と言っているのが分かった。
「君達は、本当に幸せそうだな。」
岸辺くんは私達を見てそう零した。岸辺くんの目から見ても幸せそうに見えるのだろうか、私達は。
「…幸せだよ。色々…本当に色々あったけど、典明がいるから、いつも幸せだったんだ。」
辛い事も沢山あったが、いつもそばに典明がいたから、私は今、ここにいる。もちろん、典親の存在も大きい。
「…羨ましいな…。」
岸辺くんがポツリとそう漏らした。羨ましい、か。彼にはまだ、10年前以前の話しかしていない。エジプトでの一件の話を聞いても、果たしてそんな事が言えるのだろうか。
「ご飯を食べ終えたら、この前の話の続き、しようか。」
この前の続き。私達の、旅の話だ。別に辛い話だけではないのだ。むしろ楽しい話の方が多い。典明との全てを明かす気はないが、旅の話くらいなら、話してもいい。そう思って、提案した。
「なまえさんが、辛くないのなら、ぜひ。」
そう言った岸辺くんの顔はとても優しい笑顔を浮かべていた。それが典明の笑顔と一瞬重なって見えてしまって、僅かに、目眩がした。