第5部 杜王町を離れるまで 後編
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「まずペンの事は置いておいて。筆で自由に塗ってみてくれ。」
露伴の椅子に座った直後、ペラ、と渡されたのは露伴が描いたであろう線画。これを塗り絵のように着色をしろという事らしい。デスクの横にはカラーインクのボトルやら専用の筆、水、パレット、スポイト等が既に用意されている。筆ならば、まだ使い慣れている。
「うん…。普通に塗るだけならば、問題ないな。基本に忠実で、正直その辺の漫画家よりも上手い。さすがだな、なまえさん。」
「はぁ…、よかった…。」
露伴に見守られながらの作業は、少しばかり、いや、かなり緊張したが、なんとかお褒めの言葉を頂いてホッと安堵のため息が漏れた。
「次は問題のペンの使い方だが…。一度、持ってみてくれ。」
ス、と差し出されたつけペンと呼ばれるペンを恐る恐る手に取り、持ってみる。前に教えてもらった持ち方だが、合っているだろうか?
「ふ…、そんな不安そうな顔をするな。合ってる。」
「!…よかった…。」
突然の優しい笑顔に、自然と力が入っていた肩が緩むのが分かった。その代わりに、思わず胸の奥がキュンとした。突然態度を変えるなんて、狡い。
「じゃあまず、僕と同じように線を引いてみてくれ。」
サッサッと別のペンで紙の上に線を数本引くその動作は当たり前だが慣れた動きで、無駄がない。隣に同じように線を引くが、露伴のように綺麗には引けない。一人で練習した時もそうだったのだ。
「ふむ…なるほど。じゃあこれは?」
スー、と長い線が1本。これも真似してみると一見綺麗だが、やはり上手くいかない。なんだか悲しくなってきた。曲線も同じようにやってみたが、結果は同じ。綺麗に引けない。
「うん。…多分、力の込め方が少し違うな。ちょっと手、借りるぞ。」
手を借りる?と思ったのも束の間。ペンを握る私の手を露伴が上から握って、私の手を動かし始めた。何をするのか先に言ってよ!と思ったが、それは単なる言い訳で、私がドキッとしたから、なのでただの八つ当たりだ。
「今と同じように、線を引いてみてくれ。ゆっくりな。」
「はい…。」
ふぅ、と短く息を吐いて、先ほどのように線を引くと「あぁ今、この指に力が入ってるな。ここはそんなに力を入れなくていい。もっと力を抜いて。あと、これは癖のようだが、手首を丸める際にペン先の向きが変わって紙に引っかかっているみたいだな。」と改善点をすぐに指摘してくるので思わず手が止まってしまった。
「露伴…すごいね。本当に先生みたい。」と露伴を振り返ると少し目を丸くして「一応、知り合いにも先生と呼ばれているんだがな。」と一言。そういえば、泉さんはもちろん康一くん達、一部の読者にもそう呼ばれていた漫画家の人を先生と呼ぶのはなぜなのだろうか。
「本当に、露伴先生のおかげで上達しそう。」
少し、希望が見えてきた。視線を前に戻して、ペン先にインクをつけて紙に乗せる。いま露伴に言われた事を意識してやってみると確かに描きやすくなっていて少し感動した。できないと思っていた事ができて、段々と楽しくなってくる。
「…君、教え甲斐があるし、かわいいなァ…。」
そう聞こえたかと思うと、私の手からつけペンが掠め取られ、デスクの横へと追いやられた。「急にどうしたの」と聞くよりも早く座っていた回転椅子を回されて強制的に露伴の方へ体を向けさせられて、露伴の顔が近くにあって驚いた。これは、なにかのスイッチが入っている。
「あとで、謝罪はいくらでもする。」となんの事なのかよく分からない前置きをして、露伴の顔が近づいて、唇を塞がれた。そのキスにはいつもより熱が篭っていて、情熱的なキスで、思わず逃げようと身を引いたが、これ以上は下がれなかった。デスクに背もたれが当たる感触を背中で感じた。
「…んっ、ふ……ッ!はぁ……っろ、は…。」
「あぁクソ……!こんなはずじゃあなかったのに…。」
「……は…、…露伴、急にどう、ッ…!」
こんなはずじゃなかった、と言いながらも唇は止まらなくて、唇から頬、首へと移動していくキスは私の頭を麻痺させて、キスされた箇所は熱くなって、僅かに体を震わせた。一体なにがきっかけでこうなったのかは分からないが、こんなの、私だってこんなはずじゃなかった。
「…急にどうした、だって?本当…君は無自覚にかわいい事をするよな。人が必死に耐えてるっていうのに。…いや、今のはただの八つ当たりだな。そもそも最初に君の手に触れた僕が悪い。」
トン、と私の肩に頭を置いて、一人で反省会をするのはやめてほしい。未だ私には逃げ場はないし、下手に動けない。
「あの、…私、なにかまた間違えた…?」
露伴のスイッチが入った原因を知りたい。でないと、きっとまた同じ事をしてしまうから。そう思って聞いたのに「…そういうところだ。」としか答えてくれないので、結局分からなかった。
「はぁ…本当にすまない。悪かった。」
少し時間を置き落ち着きを取り戻した露伴は、先ほどの言葉通りきちんと謝罪をし体を離すのであまりの驚きで返事もせずじっと顔を見つめてしまった。案の定露伴は「なんだよ…。」と眉間に皺を寄せているが、「なんだよ」じゃないよ。
「露伴…。…ちゃんと、謝れるんだね…。」
「申し訳ないと思った相手には、きちんと謝るさ。……君、僕をなんだと思ってるんだ?」
「えーと、プライドが鬼のように高くて感謝も謝罪も絶対にしたくないのかと。」
「あぁそうだな。尊敬している相手ならしてやってもいいが、それに値しない人間には絶対にしたくないね。」
してやってもいい、とは。それは本当に感謝や謝罪の気持ちが込められているのか甚だ疑問である。
「って事は、露伴は私の事、多少は尊敬してくれてるって事?」
「……失言だったな。忘れてくれ。」
「えぇ〜!ねぇ露伴、なかった事にしないでよ!」
「うるさい。ほら、仕事に戻るぞ。ちゃんと座ってペンを持て。」
仕事と言われればやるしかない。はぐらかされた気がしないでもないが、恐らく先ほどの言葉は本音が漏れたのだろう。露伴の事だから、今それを指摘された事によって、照れくさくてツンツンしているだけなのだ。本当、かわいい奴。
「何ニヤニヤしてるんだ。腹立つな。」
「ん〜、露伴はかわいいなぁって思って。」
「はいはい。いいから練習に戻れ。」
もう仕事に意識を戻した露伴に倣って、私も真面目に取り組むことにしよう。露伴がかわいいのは本当だが、これはお仕事なのだから。とはいえ、同じお仕事でもずっと真剣な顔をしていては疲れるのでたまには笑顔も混じえて。
「露伴!私、上手になってる!よね?」
「あぁ。元々、君には芸術のセンスがあるからな。僕が少し教えれば上達すると思ってたよ。将来もし君が漫画家デビューする事があれば、"岸辺露伴の弟子です"って言いふらしてもいいんだぜ?」
「もう…露伴はすぐ調子に乗る。」
「調子にも乗るだろう。扉絵、期待しているからな。」
いつもよりもテンションが高く嬉しそうなその姿に、本当に心から褒めてくれたのだと分かる。そもそも普段、人を褒める事をしない露伴がこんなに手放しで褒めてくれるなんて、私って実はすごいのではないだろうか?
「3週連続で扉絵を描かなきゃならないが、1週間で1枚、描けそうか?」
「最初の1枚は来週の月曜日まででしょ?大丈夫。描くよ。」
構図は露伴が既に考えてくれているし、なにより私ひとりで描くのではなく露伴の漫画なので露伴の助言がもらえるのだ。唯一不安だったつけペンの使い方もいま覚えた。なにも不安要素がない。
「私、がんばって描くね。」
アシスタントさえ雇わず自分一人で今まで描き続けてきた露伴の漫画"ピンクダークの少年"に、今回初めて露伴以外の人の手が加わるという事で編集部内に衝撃が走ったらしい。その案を提案した露伴も、編集部の人達も、露伴のファンも認めさせるつもりで描こうと、改めて覚悟を決めた。