あの人ごと、私を愛して
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「わ…!すごい人の数…!」
「おい、キョロキョロするな。余所見なんかしてたら、一瞬で逸れるぞ。」
人、人、人。そして車。それと──
「露伴くん、牛!」
ギュッと露伴くんの腕を捕まえて、道を悠々と歩く牛を指差す。まだ空港から出て数分しか経っていないのに、早速カルチャーショックだ。
「おい…腕を掴むな。いや…この腕を離したら、きっと君はすぐに迷子になるだろうな。」
「ん…、すっごい人混み…!押し潰されそう。」
「全く…取材に来たっていうのに、これじゃあ写真のひとつも撮れないな。」
空港の前には現地民が群がっており、観光客にお恵みを貰おうとおしくらまんじゅう状態。これはこれでこの国の文化として露伴くんの求める"リアリティ"なのだろうが、ゆっくり観察する暇もない。逸れぬようにと露伴くんも向こうから私の腕を引いてくれてようやく、人混みから抜け出す事ができた。
そうして吸い込んだ空気は、異国の香りがした。
「ホテルの部屋、露伴くんと一緒なの?」
まずは荷物を預けに行こうと向かったホテル。インドのホテル事情はよく知らないが、日本のよくあるホテルに比べると年季が入っているのが一目見て分かる。それはまぁ、良かった。
ロビーで露伴くんが受け取った部屋の鍵は、ひとつ。それが意味するのは、取った部屋がひとつであるという事で。さすがに何も聞かないわけにはいかないと思い口をついて出たのが、先ほどのセリフだ。
「あぁ、君にひとつ、約束してもらう。インドに滞在している間は、僕から離れるなよ。ひとりでホテルから出るのも、部屋から出るのも禁止だ。僕がトイレや風呂に入っている間は、誰も部屋に入れるな。ホテルの従業員でも、だ。それくらいここは、治安が悪い。」
「…もし、守れなかったら…?」
「そうだな。君なんてすぐどこかに連れ去られて、レイプされちまうだろうな。」
「……。」
ここに来てようやく、露伴くんに着いてきた事を少し後悔した。露伴くんの腕に自分の腕を絡ませると彼は何か言いたげにこちらを見たが、すぐに興味を失い視線を逸らした。嫌そうな顔ではあったので、腕を組んだのが嫌だったのかもしれない。でも、だって、何がなんでも露伴くんと逸れたくないんだから仕方ないじゃない!
「さすがインド…どの料理もスパイスがふんだんに…。」
食事は全て現地のものを、という露伴くんと共にチェックインしてすぐホテル近くの飲食店へと出向くと、外からでも分かるほどに香辛料の香りが鼻を刺激した。いざ料理が運ばれてくるとその香りがグッと強くなり、途端にお腹の虫が鳴きだした。向かいの席の露伴くんに聞かれただろうかと心配になったが、お店の喧騒に上手く紛れこんで聞こえていないようでホッとした。食いしん坊だと思われたらたまったもんじゃない。
「戴きます。」
「おい待て、写真を撮ってからだ。」
お預けを食らうなんて思ってもみなかったが、これはそもそも露伴くんの仕事のためのインド旅行だと思い出し大人しく待った。異国の料理なんて私の記憶にはないが、もしかしたら食べた事があるのかもしれないと思うと変な感じだ。記憶には残っていないが、体や舌が、覚えているかもしれない。
「よし、食っていいぜ。君が食事しているところも何枚か撮らせてくれ。」
「はーい。今度こそ戴きます!」
今度こそ手を合わせて、食事前の挨拶を済ませてスプーンを手にする。そして名前も分からないインド料理を、次々口に放り込んでいった。不思議な事に、馴染みのないスパイスを使った料理ばかりだというのに体が抵抗を感じたりだとかそういった事はなく、すんなりと喉を通っていく。
「…なんか、不思議な感覚…。覚えてないのに、食べた事があるような…。」
途中、スプーンを口に運ぶ手を止めては無意識に自分の右側に視線を向けている事に気がついた。何が気になるのか、分からない。ただ、本当に無意識に、そちらを向いていた。
「……気になるのか?」
私の手が止まっている事に気がついた露伴くんが、気遣うように声をかけてくれる。そこでようやく気づいたが、彼も写真を撮るのをやめて料理に手を付け始めていた。
「気になるというか…、…分からない。ただなんというか……懐かしい?ような…変な感じ。」
「ふーん…そうか…。君、結構たくさん食えそうだし、色々頼んでみなよ。デザートとか、紅茶とかさ。」
「…そうだね。ありがとう。」
そういえばインドといえば紅茶が有名だった。渋めの紅茶やチャイティーと甘いデザートが合うのだと、昔教えてもらった事がある。…誰に?どこで?わざわざインドでの紅茶の楽しみ方を教えてもらうなんて、インドまで誰かと一緒に来た事があるのだろうか?だとしたら、もしかして……。
「…花京院、くん…。」
口から出たのは、ほぼ反射的だった。向かいの席から、露伴くんがじっとこちらを見ているような視線を感じる。だけどもう完全に露伴くんは私の意識の外側にいて、もう一度右側の空いている席へ視線を向けた。
そこにいつも、彼がいた気がして。
少しの間そうしてぼーっとしていたら、目の前に見た事のないデザートと、チャイティーが静かに置かれた。甘い匂いに混ざってスパイスの香りが鼻腔をくすぐって、また少しだけ、懐かしい気持ちになった。
「…ん、…おいしい…。」
気がついたらポロ、と涙が零れて、でもなぜ泣いているのかは分からなくて、少しだけ混乱した。きっと記憶の片鱗に触れて、脳が驚いたのだろうと思う。
「…人の脳について、未だ解明されていない事の方が多いらしい。その中で解明されている…記憶に関する脳のメカニズムでは、特定の匂いを嗅ぐ事で、その匂いと結びついた過去の記憶や感情が呼び起こされる現象がある、とされている。」
「…露伴くん、頭が良さそうな事を言うのね。」
「君よりかは、良いだろうな。何か、思い出したか?」
「……、…分からない。ただ、何か思い出せそうで…。」
「それは、思い出したい記憶なのか?」
もう少しで何かを思い出せそうなのに、頭の中にモヤがかかっていて思い出せなくて、もどかしい。どうしたらこのモヤを晴らす事ができるだろうかと考えて、露伴くんの言葉選びの違和感に気がつくのが少し遅れてしまった。
「…思い出したい記憶って…?」
私は以前、記憶を取り戻したいと露伴くんに伝えたはずだ。それなのにその言い回しは…。それではまるで、思い出したくない…思い出さない方がいい記憶があるみたいじゃないか。私の考えすぎだろうかと露伴くんを見ると、彼は少し考えるように間を置いて、
「…、…いや、言葉の綾だ。」
と撤回する言葉を口にした。
しかし、露伴くんは私の忘れてしまった過去の記憶を知っているはず。それを元に今の言葉が出てしまったのなら……。
「ほら、チャイティーが冷めちまうぜ。温かいうちに飲んじまった方がいい。」
「…うん。」
何となく、露伴くんが撤回する言葉を口にしたのは彼なりの気遣いの気がして、それ以上の追求は憚られた。だって露伴くんが気遣うなんて、よっぽどの事なんだろうと思ったから。
少しだけ…記憶を取り戻すのが怖くなった。