NOCバレした先輩と信頼関係?を築く話
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※諸伏先輩の偽名を緑川唯としています。
第九話
ヘアセットよし、アクセよし、化粧よし、ドレスよし、靴にも汚れ無し。頭のてっぺんから足のつま先までを確認してホテルの部屋を出た。
今日参加するパーティは本命ではない。今日と同じ会場で開催される次のパーティこそが本命であり、そのための下見である。フィッシュテールの黒いパーティドレスの胸元に思わず触れて、だめだ変な癖がついちゃったぞ、と慌てて手を体の横に戻した。
スマホしか入らない小さいミニバッグから中身を取り出して降谷さんに連絡を入れる。
会場である大ホールのある階にエレベーターで移動して、私は表情をとりつくろうのに精一杯になってしまった。だって、ここにいる筈のない人がいる。
「せんぱ、」
びっくりして思わず先輩、と呼びかけそうになって名前ではないもののさすがにまずいだろうと途中で口を閉じた。
諸伏先輩はスーツ姿で、緑川唯の時とはまた違う細身のフレームの眼鏡をかけてはいるものの、髪は彼本来の黒髪そのままだ。何故ここに。
我慢していたのに困惑が顔に出てしまった。怒られるかと思ったが、諸伏先輩は近づいてきたかと思うと私の腰に手を回してぐい、と引いて壁際へと歩いていく。降谷さんは、と頭の片隅でそう思ったが、多分諸伏先輩が下見を務めるのだろう、何故かは分からないが。
「あの、なんで、」
「相手がオレじゃ不満か?」
「いえあの、そうじゃなくて」
「……あいつがちょっと怪我をした。代理だ」
降谷さんが、怪我。ぞっとするような言葉に息をのんだ私に、諸伏先輩が宥めるように背を撫でてくれる。
顔に怪我をして、今日のようなパーティには出れないのだと教えてもらった。そうひどい怪我ではないとも教えてもらって、ほっと安堵の息を吐く。
「その眼鏡だけで大丈夫なんですか?」
「正直心もとない。でもあのウィッグだと浮く」
「……それは、そうですね」
「下見が終わり次第部屋で変装予定だ。手早く済ますぞ」
正直に言わせてほしい。なぜこのタイミングで、こんなことになってしまったんだと喚きたい気持ちでいっぱいだ。
私はまだ、完全には冷静になれていないのに。脳味噌が勝手に作り出した諸伏先輩の幻に翻弄され、恋人偽装もやっとの思いでしている、そういう状況で。緑川唯ではなく諸伏先輩の姿のままでこんな、あの幻に似た状況下に置かれてしまうなんて……もしかして厄日か?
チャラそうな緑川唯ではない。優しくて料理ができて、私が仕事でミスをしたら次はどうしたらいいと思う? って導いてくれる諸伏先輩が、まるで恋人にするみたいに私の腰を抱いている。下見がメインだからだろう、甘く微笑むようなことはないけれど。
……あれっ、なんか私集中できないんですけど。
「あの……ごめんなさい。ちょっとだけ離れてもらってもいいですか」
「は?」
ふざけてるのか、そう音なき声が聞こえた気がする。
訝しく思ったのだろう諸伏先輩が、会場を見まわしていたのを一旦やめて顔ごとこちらを振り返る。そうして目を大きく見開いた。
「これぐらい、いつもやってるだろ……?」
「そう、ですね……?」
緑川唯とはもう3年も恋人のフリをしている。バイト先でもその行き来でも手をつなぐし体を寄せ合うし、なんかよく分からないけど抱きしめられたこともある。
いつもやってる、そうだその筈なんだけど、どうにも落ち着かないのはこの前の幻のせい?
「――ああ、なるほど」
「はい?」
「お前、緑川が嫌いなのか。なんだろ、髪型? 全体的な雰囲気が嫌い?」
「はい?」
「うん……ようやく取っ掛かりが見えた」
「え? あの、離れてもらわないと頭が回らないかも……!」
はいはい、って呆れたような、どこか嬉しそうな声が聞こえて、諸伏先輩が少しだけ体を離してくれる。ん、て差し出された左腕の肘の内側に手を回して、ようやく息ができた心地になった。
不自然にならないように深呼吸をして冷静さを取り戻そうとしている私に、諸伏先輩が囁いてくる。
「可愛いな、今日も」
「へっ」
「環しか見えない」
「っ!?」
「……ううん、ここまで劇的になるもんか? 言っておいてくれよ、緑川の外見が嫌いだって」
「からかってますね?」
「……口説いてる、っていうんだよ。こういうのは」
「くどっ……!?」
「でもまあ、優先事項は職務だ。――切り替えろ、できるな?」
諸伏先輩が乱しておいて、何を。反抗的な気持ちとは裏腹に、信頼する人からの声に一瞬で頭は冷静になった。
頬が熱いのはすぐには引かないが、思考はクリアだ。頷いた私の目を見て、諸伏先輩も軽く頷いている。
会場にいくつかの盗聴器を事前の取り決め通りに設置して、あとは不自然にならないようパーティを楽しむふりをしながら機器に問題がないかを確認し、会場を後にして部屋に向かった。
「ちょっと、なんでついてくるんです」
「部屋で変装予定だって言っただろ」
「ご自分の部屋でどうぞ」
「急な代理でとってない」
そりゃそうでしょうけど。
仕事が終わった今いろいろ落とされた爆弾が気になってとりあえず諸伏先輩から離れたい。一人にしてほしい。
でも突き放すわけにもいかない、この人を早く部屋に入れて変装させなければ。それが今の優先事項である。私個人の事情など二の次三の次で当然だ。
への字になっている口を自覚しながら部屋の鍵を開けて諸伏先輩を先に中に押し込んだ。もういい、とっとと変装してもらってお引き取り願おう。そう思った私の手を先輩がとって、ぐいっと引いた。手にしていたカードキーが床に落ちて、背後で扉が閉まる。
「なあ」
「なんです? 手を離してもらっていいですか?」
「これは命令じゃないんだけど」
「はい?」
「オレも環の肌に触れることを許されたいって言ったら、お前どうする?」
掴まれていない方の手で、またしてもこの前先輩が触れた胸元に触れていたらしい。
諸伏先輩の視線がその私の手の甲に向けられている。たぶん、触れたいのはその向こうって意味で。
幻がまたしても脳内に浮かんだ。忘れよう忘れようって、そうしないとこの人に迷惑がかかるって、そればっかり考えてるのに、努力をあざ笑うかのように鮮明に何度も繰り返される幻。視界が歪むのを止められない。
「泣くほど嫌……って顔じゃ、ないな」
「諸伏先輩に、そんな風に思ってもらえるような女じゃありません!」
「は?」
「私は、歴代彼氏に話してると疲れるって言われるような女だし、浮気もされたことあるし、暴力……は前話しましたね。それに、……その、濡れにくいから、面白くないって、捨てられたこともあるし!」
「まさか最後のやつが緑川に似てるとか言わないでくれよ……?」
「……あっ。そうですね、似てるかも。顔は断然緑川唯の方がいいですけど」
「そことかぶってるなら最初に教えて欲しかった……」
疲れ切ったような顔になった先輩が、私を掴んでいた手を離した。ほらほらほら! 私と話してると疲れるんでしょ!
「別れたくないって思っても、そうしてもらえるような女じゃないんです。だから、」
「こら」
先輩と別れたくない、だから、そんな熱っぽい目で見られても困る。
そう答えようとしたのに鋭く尖った声が飛んできて、初めてのことに驚いて身を固くする。仕事のミスを怒られた時だって聞いたことのないような声色だ。
「環の選んできた男たちがクズなだけであって、お前自身に価値がないわけじゃない。そこは履き違えるな」
「な、なんでそんな怒るんですか…!」
「信頼する相棒で、好きな女を貶されたら誰だって怒るだろ」
はっきりそう言われて、口説いてるとか言ってたしそうなんだろうなとは思ってたけど、やっぱり直接言葉にされた衝撃はすごかった。
金魚みたいに口をぱくぱくさせることしかできない。
「環には一ミリも届いてなかったことを今日知ったけど。……緑川の時のあれは、ほとんど演技じゃない」
「え?」
「心からの本音と、環に堂々と触れられるという下心でやってる」
「……ちょっと引きました」
「引くなよ」
いや無理ですよ。だって、それが本当なら全部……全部。
緑川唯じゃなくて諸伏先輩の姿に置き換わった過去の記憶が流れて、私はパニックになって泣いた。
緑川唯だからスルー出来ていたいろいろが、諸伏先輩だととてもじゃないけどスルーできない。この人すっごい甘い顔で人前で頬とか撫でるしおでここつんとかするし、そういえばよく分からなかったあの抱きしめられた件はなんだったんだ。まさか抱きしめたかっただけとかそういうことなのかもうやめて脳味噌が限界です……。
「そのまさかで抱きしめたかっただけだけど」
「もうっ! 勝手に脳内読まないで!」
「ごめん、あんまり可愛いからつい」
「可愛いとか禁止で!」
「……環が混乱してる間に押し切って恋人になる了承を得たい、そのお願いは無視してもいい?」
「そう言われてはいって言うと思います?!」
「だめか。まあ、いいよ。お前がオレと付き合うのが怖いって言うなら、怖くなくなるまで傍にいるだけだから」
別れたくない。そう願っても叶ったことなんてない。いくら相手が諸伏先輩だって、すぐにはい分かりましたとはならなくて、付き合った後必ず訪れる別れが怖い。だってこんなにも素敵な人を、失ったら…想像だけで涙が出る。
だから恋人にしたいタイプじゃないって言ってるのに。
「だからこれからもよろしく、環」
そう言って笑った諸伏先輩が、ちょっと様子を窺いながら私の頬に触れて涙を拭ってくれる。今更すぎるけど、嫌がってないかどうかを確認されている。
好きだと告げられた私が怯えていないか、確認されている。慎重なこの人らしいなと思った。
明日も続く予定の恋人偽装が、ひどく気が重い。こんな心乱されることが任務だなんて、やっていける自信がない。
……でも、ちょっと楽しみでもある。緑川唯に会えるのが楽しみだなんて、初めてだ。
続く
第九話
ヘアセットよし、アクセよし、化粧よし、ドレスよし、靴にも汚れ無し。頭のてっぺんから足のつま先までを確認してホテルの部屋を出た。
今日参加するパーティは本命ではない。今日と同じ会場で開催される次のパーティこそが本命であり、そのための下見である。フィッシュテールの黒いパーティドレスの胸元に思わず触れて、だめだ変な癖がついちゃったぞ、と慌てて手を体の横に戻した。
スマホしか入らない小さいミニバッグから中身を取り出して降谷さんに連絡を入れる。
会場である大ホールのある階にエレベーターで移動して、私は表情をとりつくろうのに精一杯になってしまった。だって、ここにいる筈のない人がいる。
「せんぱ、」
びっくりして思わず先輩、と呼びかけそうになって名前ではないもののさすがにまずいだろうと途中で口を閉じた。
諸伏先輩はスーツ姿で、緑川唯の時とはまた違う細身のフレームの眼鏡をかけてはいるものの、髪は彼本来の黒髪そのままだ。何故ここに。
我慢していたのに困惑が顔に出てしまった。怒られるかと思ったが、諸伏先輩は近づいてきたかと思うと私の腰に手を回してぐい、と引いて壁際へと歩いていく。降谷さんは、と頭の片隅でそう思ったが、多分諸伏先輩が下見を務めるのだろう、何故かは分からないが。
「あの、なんで、」
「相手がオレじゃ不満か?」
「いえあの、そうじゃなくて」
「……あいつがちょっと怪我をした。代理だ」
降谷さんが、怪我。ぞっとするような言葉に息をのんだ私に、諸伏先輩が宥めるように背を撫でてくれる。
顔に怪我をして、今日のようなパーティには出れないのだと教えてもらった。そうひどい怪我ではないとも教えてもらって、ほっと安堵の息を吐く。
「その眼鏡だけで大丈夫なんですか?」
「正直心もとない。でもあのウィッグだと浮く」
「……それは、そうですね」
「下見が終わり次第部屋で変装予定だ。手早く済ますぞ」
正直に言わせてほしい。なぜこのタイミングで、こんなことになってしまったんだと喚きたい気持ちでいっぱいだ。
私はまだ、完全には冷静になれていないのに。脳味噌が勝手に作り出した諸伏先輩の幻に翻弄され、恋人偽装もやっとの思いでしている、そういう状況で。緑川唯ではなく諸伏先輩の姿のままでこんな、あの幻に似た状況下に置かれてしまうなんて……もしかして厄日か?
チャラそうな緑川唯ではない。優しくて料理ができて、私が仕事でミスをしたら次はどうしたらいいと思う? って導いてくれる諸伏先輩が、まるで恋人にするみたいに私の腰を抱いている。下見がメインだからだろう、甘く微笑むようなことはないけれど。
……あれっ、なんか私集中できないんですけど。
「あの……ごめんなさい。ちょっとだけ離れてもらってもいいですか」
「は?」
ふざけてるのか、そう音なき声が聞こえた気がする。
訝しく思ったのだろう諸伏先輩が、会場を見まわしていたのを一旦やめて顔ごとこちらを振り返る。そうして目を大きく見開いた。
「これぐらい、いつもやってるだろ……?」
「そう、ですね……?」
緑川唯とはもう3年も恋人のフリをしている。バイト先でもその行き来でも手をつなぐし体を寄せ合うし、なんかよく分からないけど抱きしめられたこともある。
いつもやってる、そうだその筈なんだけど、どうにも落ち着かないのはこの前の幻のせい?
「――ああ、なるほど」
「はい?」
「お前、緑川が嫌いなのか。なんだろ、髪型? 全体的な雰囲気が嫌い?」
「はい?」
「うん……ようやく取っ掛かりが見えた」
「え? あの、離れてもらわないと頭が回らないかも……!」
はいはい、って呆れたような、どこか嬉しそうな声が聞こえて、諸伏先輩が少しだけ体を離してくれる。ん、て差し出された左腕の肘の内側に手を回して、ようやく息ができた心地になった。
不自然にならないように深呼吸をして冷静さを取り戻そうとしている私に、諸伏先輩が囁いてくる。
「可愛いな、今日も」
「へっ」
「環しか見えない」
「っ!?」
「……ううん、ここまで劇的になるもんか? 言っておいてくれよ、緑川の外見が嫌いだって」
「からかってますね?」
「……口説いてる、っていうんだよ。こういうのは」
「くどっ……!?」
「でもまあ、優先事項は職務だ。――切り替えろ、できるな?」
諸伏先輩が乱しておいて、何を。反抗的な気持ちとは裏腹に、信頼する人からの声に一瞬で頭は冷静になった。
頬が熱いのはすぐには引かないが、思考はクリアだ。頷いた私の目を見て、諸伏先輩も軽く頷いている。
会場にいくつかの盗聴器を事前の取り決め通りに設置して、あとは不自然にならないようパーティを楽しむふりをしながら機器に問題がないかを確認し、会場を後にして部屋に向かった。
「ちょっと、なんでついてくるんです」
「部屋で変装予定だって言っただろ」
「ご自分の部屋でどうぞ」
「急な代理でとってない」
そりゃそうでしょうけど。
仕事が終わった今いろいろ落とされた爆弾が気になってとりあえず諸伏先輩から離れたい。一人にしてほしい。
でも突き放すわけにもいかない、この人を早く部屋に入れて変装させなければ。それが今の優先事項である。私個人の事情など二の次三の次で当然だ。
への字になっている口を自覚しながら部屋の鍵を開けて諸伏先輩を先に中に押し込んだ。もういい、とっとと変装してもらってお引き取り願おう。そう思った私の手を先輩がとって、ぐいっと引いた。手にしていたカードキーが床に落ちて、背後で扉が閉まる。
「なあ」
「なんです? 手を離してもらっていいですか?」
「これは命令じゃないんだけど」
「はい?」
「オレも環の肌に触れることを許されたいって言ったら、お前どうする?」
掴まれていない方の手で、またしてもこの前先輩が触れた胸元に触れていたらしい。
諸伏先輩の視線がその私の手の甲に向けられている。たぶん、触れたいのはその向こうって意味で。
幻がまたしても脳内に浮かんだ。忘れよう忘れようって、そうしないとこの人に迷惑がかかるって、そればっかり考えてるのに、努力をあざ笑うかのように鮮明に何度も繰り返される幻。視界が歪むのを止められない。
「泣くほど嫌……って顔じゃ、ないな」
「諸伏先輩に、そんな風に思ってもらえるような女じゃありません!」
「は?」
「私は、歴代彼氏に話してると疲れるって言われるような女だし、浮気もされたことあるし、暴力……は前話しましたね。それに、……その、濡れにくいから、面白くないって、捨てられたこともあるし!」
「まさか最後のやつが緑川に似てるとか言わないでくれよ……?」
「……あっ。そうですね、似てるかも。顔は断然緑川唯の方がいいですけど」
「そことかぶってるなら最初に教えて欲しかった……」
疲れ切ったような顔になった先輩が、私を掴んでいた手を離した。ほらほらほら! 私と話してると疲れるんでしょ!
「別れたくないって思っても、そうしてもらえるような女じゃないんです。だから、」
「こら」
先輩と別れたくない、だから、そんな熱っぽい目で見られても困る。
そう答えようとしたのに鋭く尖った声が飛んできて、初めてのことに驚いて身を固くする。仕事のミスを怒られた時だって聞いたことのないような声色だ。
「環の選んできた男たちがクズなだけであって、お前自身に価値がないわけじゃない。そこは履き違えるな」
「な、なんでそんな怒るんですか…!」
「信頼する相棒で、好きな女を貶されたら誰だって怒るだろ」
はっきりそう言われて、口説いてるとか言ってたしそうなんだろうなとは思ってたけど、やっぱり直接言葉にされた衝撃はすごかった。
金魚みたいに口をぱくぱくさせることしかできない。
「環には一ミリも届いてなかったことを今日知ったけど。……緑川の時のあれは、ほとんど演技じゃない」
「え?」
「心からの本音と、環に堂々と触れられるという下心でやってる」
「……ちょっと引きました」
「引くなよ」
いや無理ですよ。だって、それが本当なら全部……全部。
緑川唯じゃなくて諸伏先輩の姿に置き換わった過去の記憶が流れて、私はパニックになって泣いた。
緑川唯だからスルー出来ていたいろいろが、諸伏先輩だととてもじゃないけどスルーできない。この人すっごい甘い顔で人前で頬とか撫でるしおでここつんとかするし、そういえばよく分からなかったあの抱きしめられた件はなんだったんだ。まさか抱きしめたかっただけとかそういうことなのかもうやめて脳味噌が限界です……。
「そのまさかで抱きしめたかっただけだけど」
「もうっ! 勝手に脳内読まないで!」
「ごめん、あんまり可愛いからつい」
「可愛いとか禁止で!」
「……環が混乱してる間に押し切って恋人になる了承を得たい、そのお願いは無視してもいい?」
「そう言われてはいって言うと思います?!」
「だめか。まあ、いいよ。お前がオレと付き合うのが怖いって言うなら、怖くなくなるまで傍にいるだけだから」
別れたくない。そう願っても叶ったことなんてない。いくら相手が諸伏先輩だって、すぐにはい分かりましたとはならなくて、付き合った後必ず訪れる別れが怖い。だってこんなにも素敵な人を、失ったら…想像だけで涙が出る。
だから恋人にしたいタイプじゃないって言ってるのに。
「だからこれからもよろしく、環」
そう言って笑った諸伏先輩が、ちょっと様子を窺いながら私の頬に触れて涙を拭ってくれる。今更すぎるけど、嫌がってないかどうかを確認されている。
好きだと告げられた私が怯えていないか、確認されている。慎重なこの人らしいなと思った。
明日も続く予定の恋人偽装が、ひどく気が重い。こんな心乱されることが任務だなんて、やっていける自信がない。
……でも、ちょっと楽しみでもある。緑川唯に会えるのが楽しみだなんて、初めてだ。
続く