NOCバレした先輩と信頼関係?を築く話
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
※諸伏先輩の偽名を緑川唯としています。
第十一話
息を吐く。吸う。もう目と鼻の先にある喫茶ポアロに私はぐっと気を引き締めた。
新しいウィッグが届いたからバイト先においでと、そう連絡が入った。恋人偽装に毎日毎日通っているわけじゃない。ウィッグの用意が整う間通わなくても、別段不自然には思われてはいない。そう連絡も受けている。
ドアに手をかける。ガラスの向こうに、唯さんが見えた。
――唯さん、素直に心の中でもそう呼べたことに自分でも驚いて、やっぱり諸伏先輩はすごいなと思った。カラン、音を立ててドアを開ける。唯さんは接客中だったので一瞬だけこちらに「いらっしゃいませ」と甘く微笑んで、でもすぐにそのお客に向き直ってしまう。
……タイミングが悪かったかな。
そう思ったことに、また驚く。梓さんがお好きな席へどうぞって言ってくれたのにはっと我に返って、カウンターの端の席に腰を落ち着けた。
店内には私と後二組の客がいるだけだ。もう少ししたら学生たちが押し寄せるだろうけど。水とおしぼりをくれた梓さんにコーヒーを注文した。
「かしこまりました。多分緑川さんが淹れるって言うと思うんで、少々お時間いただけますか?」
唯さんが。そうだ、前からそんなことを言っていた。私のためにブレンドしたというそれを、自分がいる時ならば絶対に自分が淹れるのだと言っていたことを思い出す。
その時は、また緑川唯がなんか言ってる、と流した発言だ。なぜかここ最近時限爆弾のように今になって我が身を襲う衝撃に一瞬眩暈がした。とりあえず梓さんには構いませんよと返事をしておいたけれど。
接客をしていた唯さんが、カウンターに戻ってきた。梓さんに目をやって軽く頷いているのは、多分私たちの会話を把握していると彼女に伝えるためだろう。それがなんとなく面白くない。……面白くないって何?
なにを目で通じ合っちゃってんの。そう思ったのが、こちらに視線もくれない唯さんに伝わったらしい。ぷっと小さく噴き出すのが見える。口元に手を当てて少し身をよじって、私に顔を隠している。
唯さんの、アッシュブルーのウィッグがその動きに合わせて揺れる。ウィッグの髪色を変えた、それだけだ。眼鏡は過去の男を想起させないと判断したらしくそのままで。
それだけなのにこうも違う。この人は、諸伏先輩の仮の姿で、緑川唯さん。私の心と体を傷つけてぽいっとゴミみたいに捨てたあの男と重ねていたなんて、なんて愚かしいことを。
笑いの衝動が落ち着いたらしい唯さんが梓さんに先ほどとった注文を伝えるのが見える。二人が阿吽の呼吸で何も言わずにどちらがどのメニューを担当するのか把握したかのように動き始めるのに、口がへの字になった。私よりよほど相棒のように動けている梓さんに、羨望のまなざしを送る。
ちょっと感情が顔に出やすいけど、細かい気配りができるところも忙しい時間帯でもくるくると動いて丁寧に客を捌くのも、私よりよほど適正があるかもしれない。
ただ一つ難点をあげるとすれば。この彼女を、天使のように清らかな彼女を、公安に招くのは気が引けるという点だけだろう。
「環しか見えないよ」
唯さんが私にだけ聞こえるような声量で呟く。他の客にはそりゃ聞こえないだろうけど、カウンター内で一緒に動いている梓さんには聞こえたらしくてうわって顔をしている。環しか見えない。ここ数年、何回も言われている言葉だ。でも…こんなにも甘かっただろうか。
「……うん」
梓さんが、びっくりしたように私を見たのが見える。私だって私の声がどこか拗ねて、甘く響いてしまったことに心底驚いているので、ちょっとだけ放っておいてほしい…。
唯さんは少しだけ動揺したのか、かちゃりと食器がぶつかる音を立てている。珍しい、この人が動揺をあらわにするのを初めて見た……初めてか? 本当に?
過去を振り返るときっとまた冷静ではいられなくなるような気がして慌てて思考を中止する。
唯さんがトレーに用意の整った飲み物を乗せて持っていく。その姿を横目で追う私に、梓さんがこそっとたずねてきた。
「なんか、パワーアップしてません? お二人」
「パワー、アップ……?」
「あれですか。少し前緑川さんが嫉妬してちょっと喧嘩した件で、より仲が深まったとか!?」
「……唯さんが、嫉妬?」
そんな演技したっけ? 思わず素で首を傾げてしまった。どちらかと言うと顔の良い唯さんが女子高生達や他の女性客に人気なのを、恋人役の私が浮気はしていないかと嫉妬する素振りの方が多いと思うけど。
「職場の同僚さんと仲良くしてたから、嫉妬して困らせたって」
「職場の同僚」
そう言われて思い浮かべたのは降谷さんである。ここ最近例の組織が日本にぞくぞくと集結していて活動が激化し、探り屋としての一面を持つ彼のサポートとして何かと連れまわしやすく年回りも近い女性である私が選ばれることが多い。
その降谷さんと私が仲良く? 仲、良く……?? 割と本気で疑問を感じる。
うーん、と考えながら最近直そうと思ってもなかなか直らない、胸元に触る癖ではっとした。そうだ、この癖は元々降谷さんが演技でここに唇を寄せたことに起因するのではなかったか。そうそう、それで飼い主がとられたって拗ねた先輩がここに指先で触れて、それからここが気になって触るようになっちゃって……ん?
……拗ねたんじゃなくて、嫉妬だったのか!!
時限爆弾がまた一つ解除できずに起動してしまった。爆発物処理班のエースの二人を早急にここへ来るよう要請してほしい、そう心から望んだ。
そうだそういえばホテルの部屋で肌に触れることを許されたいってそう言われた時も、彼の視線はここに向けられていた。
待って? 『環の肌に触れることを許されたい』……!?
爆処! 爆処の直通の番号は何番ですか!! 降谷さんにエースの二人を紹介しちゃってくれないか頼んでみようかな!? そうふざけないと、顔に集まる熱が引かない。
「仲直りしてもっとラブラブになれたみたいで、ほっとしちゃいました」
「……心配かけたみたいで、ごめんなさい」
そう答えるのが、やっとだった。タイミングが悪いのが続いて、唯さんがカウンターに戻ってくる。多分潜めた声で交わした私たちの会話を、きちんと聞いていたと思う。
にこやかにお客と今日はいい天気ですねとか言ってたけど、そうしながらこちらに注意を向けるぐらい、この人なら余裕だ。実際私にだってできてるのだし。
唯さんが私の頼んだコーヒーを淹れるのを視界の端で見ながら、お冷の入ったグラスを持ち上げてぺたりと頬に当てる。冷たくて気持ちいい。
「ちょっと顔伏せてて」
「え?」
「自分が今どんな凶悪な顔してるのか、自覚ないだろ?」
「きょうあ……凶悪って言った?」
「緑川さん、そこはいつもみたいに素直に可愛いって言わないと!」
「梓さん。でもこれ、無自覚なんだよ。無自覚にこっちを煽ってるの。凶悪だろ?」
「可愛いじゃないですか。前よりももっと緑川さんに夢中です! みたいな感じで」
「やめてぇええええ」
唯さんの言葉もあるし、素直に顔を少し伏せた。グラスがより冷たく感じるのは、また一層顔に熱が集まったからだ。
漂ってきた嗅ぎなれたコーヒーの香りに、ちょっとだけ気持ちが落ち着く。セーフハウスでも飲んでるそれは、すっかり日常の一部になった。しばらく待って目の前に置かれたコーヒーに、ゆっくりと顔を上げる。
唯さんが、ちょっと照れくさそうに笑っている。アッシュ系の髪色は、本来の彼を思えば十分チャラい。彼が私をじっと見つめる。私の目に嫌悪感や恐怖が浮かんでいないか、確認された。確認……する必要ある? 相変わらず慎重だなこの人。
「熱いから、気をつけて」
「…うん」
店内には唯さんのファンがいないから、頬を撫でられるようなことはなかった。助かった。そう思いながらコーヒーを口に運ぶ。
熱いそれを火傷しないように慎重に口に運んで、いつも通り美味しいそれに自然と口が緩む。美味しい、そう呟いた私にカウンターの向こうで唯さんがちょっと誇らしげにだろ、って応えるのが見えた。
▽▽▽▽▽
「なんか……前にも増して甘くねぇか? あの人たち」
「あら。鈍感なあなたにもそういうの分かるのね」
緑川さんと、彼の恋人でおそらく公安所属の環さんがカウンターで話すのを見ながら俺は窓際の席に座ってコーヒーを口に運ぶ。
砂糖は入れていない筈だが、やけに甘ったるい気がする。向かいに座って同じように飲み物を口に運ぶ灰原がそう言うので、どういう意味だよとジト目を返す。
「そのままの意味よ。それにしても、緑川さんって、本当に……?」
「ああ。間違いない筈だ」
どれだけ潜めようと、声にするわけにはいかない。灰原の方に顔を向けて口だけを動かして「スコッチ」と伝える。灰原の肩がほんのわずか緊張に強張って、でもふうと息を吐いてすぐにそれを逃がすのが見えた。
「信じられないわ。どう見たって普通の――いえちょっとチャラいかしら。……でも彼女に一途な人にしか見えないわね」
「へえ、『匂い』はしなかったのか?」
「ええ。でもあんまり関わったことはないし、それでかもしれないけど」
安室さんのことはめちゃくちゃ警戒するのにか。でもスコッチは数年前に組織を抜けて…というよりNOCだとバレて始末されたということになっているから、組織の気配が安室さんよりも薄いのかもしれねえな。
恋人に何を言われたのか、緑川さんが思い切り動揺して手を滑らせているのが見えた。少し離れた席にいる女子高生達がきゃあと小さく歓声を上げているのが聞こえる。
最初は緑川さんを目当てにしていた彼女たちは、今はあの名物カップルになった二人を見るために来店しているのだ。なんでも年上の男が彼の年下の恋人である環さんに翻弄されているのが可愛いと、そういうことらしい。
「多分、本当はもっと」
「ん?」
「私の勝手な想像だけど。本当はもっとまじめで誠実な人なんじゃないかしら」
「……ああ、きっとな」
長野県警にいる知り合いの刑事を脳裏に思い返す。あの人の弟であれば、それはもう。
でも、とすぐに口がひくつく。
「結構厄介な人なんじゃねぇかな……?」
「それは否定できないわね」
動揺させられたお返しに、と環さんの頬を指先でそっと撫でて何やら小さく囁く緑川さんに、灰原も呆れたような声をこぼしていた。
家でやんなさいよという彼女の言葉に、俺は深く同意した。
続く
第十一話
息を吐く。吸う。もう目と鼻の先にある喫茶ポアロに私はぐっと気を引き締めた。
新しいウィッグが届いたからバイト先においでと、そう連絡が入った。恋人偽装に毎日毎日通っているわけじゃない。ウィッグの用意が整う間通わなくても、別段不自然には思われてはいない。そう連絡も受けている。
ドアに手をかける。ガラスの向こうに、唯さんが見えた。
――唯さん、素直に心の中でもそう呼べたことに自分でも驚いて、やっぱり諸伏先輩はすごいなと思った。カラン、音を立ててドアを開ける。唯さんは接客中だったので一瞬だけこちらに「いらっしゃいませ」と甘く微笑んで、でもすぐにそのお客に向き直ってしまう。
……タイミングが悪かったかな。
そう思ったことに、また驚く。梓さんがお好きな席へどうぞって言ってくれたのにはっと我に返って、カウンターの端の席に腰を落ち着けた。
店内には私と後二組の客がいるだけだ。もう少ししたら学生たちが押し寄せるだろうけど。水とおしぼりをくれた梓さんにコーヒーを注文した。
「かしこまりました。多分緑川さんが淹れるって言うと思うんで、少々お時間いただけますか?」
唯さんが。そうだ、前からそんなことを言っていた。私のためにブレンドしたというそれを、自分がいる時ならば絶対に自分が淹れるのだと言っていたことを思い出す。
その時は、また緑川唯がなんか言ってる、と流した発言だ。なぜかここ最近時限爆弾のように今になって我が身を襲う衝撃に一瞬眩暈がした。とりあえず梓さんには構いませんよと返事をしておいたけれど。
接客をしていた唯さんが、カウンターに戻ってきた。梓さんに目をやって軽く頷いているのは、多分私たちの会話を把握していると彼女に伝えるためだろう。それがなんとなく面白くない。……面白くないって何?
なにを目で通じ合っちゃってんの。そう思ったのが、こちらに視線もくれない唯さんに伝わったらしい。ぷっと小さく噴き出すのが見える。口元に手を当てて少し身をよじって、私に顔を隠している。
唯さんの、アッシュブルーのウィッグがその動きに合わせて揺れる。ウィッグの髪色を変えた、それだけだ。眼鏡は過去の男を想起させないと判断したらしくそのままで。
それだけなのにこうも違う。この人は、諸伏先輩の仮の姿で、緑川唯さん。私の心と体を傷つけてぽいっとゴミみたいに捨てたあの男と重ねていたなんて、なんて愚かしいことを。
笑いの衝動が落ち着いたらしい唯さんが梓さんに先ほどとった注文を伝えるのが見える。二人が阿吽の呼吸で何も言わずにどちらがどのメニューを担当するのか把握したかのように動き始めるのに、口がへの字になった。私よりよほど相棒のように動けている梓さんに、羨望のまなざしを送る。
ちょっと感情が顔に出やすいけど、細かい気配りができるところも忙しい時間帯でもくるくると動いて丁寧に客を捌くのも、私よりよほど適正があるかもしれない。
ただ一つ難点をあげるとすれば。この彼女を、天使のように清らかな彼女を、公安に招くのは気が引けるという点だけだろう。
「環しか見えないよ」
唯さんが私にだけ聞こえるような声量で呟く。他の客にはそりゃ聞こえないだろうけど、カウンター内で一緒に動いている梓さんには聞こえたらしくてうわって顔をしている。環しか見えない。ここ数年、何回も言われている言葉だ。でも…こんなにも甘かっただろうか。
「……うん」
梓さんが、びっくりしたように私を見たのが見える。私だって私の声がどこか拗ねて、甘く響いてしまったことに心底驚いているので、ちょっとだけ放っておいてほしい…。
唯さんは少しだけ動揺したのか、かちゃりと食器がぶつかる音を立てている。珍しい、この人が動揺をあらわにするのを初めて見た……初めてか? 本当に?
過去を振り返るときっとまた冷静ではいられなくなるような気がして慌てて思考を中止する。
唯さんがトレーに用意の整った飲み物を乗せて持っていく。その姿を横目で追う私に、梓さんがこそっとたずねてきた。
「なんか、パワーアップしてません? お二人」
「パワー、アップ……?」
「あれですか。少し前緑川さんが嫉妬してちょっと喧嘩した件で、より仲が深まったとか!?」
「……唯さんが、嫉妬?」
そんな演技したっけ? 思わず素で首を傾げてしまった。どちらかと言うと顔の良い唯さんが女子高生達や他の女性客に人気なのを、恋人役の私が浮気はしていないかと嫉妬する素振りの方が多いと思うけど。
「職場の同僚さんと仲良くしてたから、嫉妬して困らせたって」
「職場の同僚」
そう言われて思い浮かべたのは降谷さんである。ここ最近例の組織が日本にぞくぞくと集結していて活動が激化し、探り屋としての一面を持つ彼のサポートとして何かと連れまわしやすく年回りも近い女性である私が選ばれることが多い。
その降谷さんと私が仲良く? 仲、良く……?? 割と本気で疑問を感じる。
うーん、と考えながら最近直そうと思ってもなかなか直らない、胸元に触る癖ではっとした。そうだ、この癖は元々降谷さんが演技でここに唇を寄せたことに起因するのではなかったか。そうそう、それで飼い主がとられたって拗ねた先輩がここに指先で触れて、それからここが気になって触るようになっちゃって……ん?
……拗ねたんじゃなくて、嫉妬だったのか!!
時限爆弾がまた一つ解除できずに起動してしまった。爆発物処理班のエースの二人を早急にここへ来るよう要請してほしい、そう心から望んだ。
そうだそういえばホテルの部屋で肌に触れることを許されたいってそう言われた時も、彼の視線はここに向けられていた。
待って? 『環の肌に触れることを許されたい』……!?
爆処! 爆処の直通の番号は何番ですか!! 降谷さんにエースの二人を紹介しちゃってくれないか頼んでみようかな!? そうふざけないと、顔に集まる熱が引かない。
「仲直りしてもっとラブラブになれたみたいで、ほっとしちゃいました」
「……心配かけたみたいで、ごめんなさい」
そう答えるのが、やっとだった。タイミングが悪いのが続いて、唯さんがカウンターに戻ってくる。多分潜めた声で交わした私たちの会話を、きちんと聞いていたと思う。
にこやかにお客と今日はいい天気ですねとか言ってたけど、そうしながらこちらに注意を向けるぐらい、この人なら余裕だ。実際私にだってできてるのだし。
唯さんが私の頼んだコーヒーを淹れるのを視界の端で見ながら、お冷の入ったグラスを持ち上げてぺたりと頬に当てる。冷たくて気持ちいい。
「ちょっと顔伏せてて」
「え?」
「自分が今どんな凶悪な顔してるのか、自覚ないだろ?」
「きょうあ……凶悪って言った?」
「緑川さん、そこはいつもみたいに素直に可愛いって言わないと!」
「梓さん。でもこれ、無自覚なんだよ。無自覚にこっちを煽ってるの。凶悪だろ?」
「可愛いじゃないですか。前よりももっと緑川さんに夢中です! みたいな感じで」
「やめてぇええええ」
唯さんの言葉もあるし、素直に顔を少し伏せた。グラスがより冷たく感じるのは、また一層顔に熱が集まったからだ。
漂ってきた嗅ぎなれたコーヒーの香りに、ちょっとだけ気持ちが落ち着く。セーフハウスでも飲んでるそれは、すっかり日常の一部になった。しばらく待って目の前に置かれたコーヒーに、ゆっくりと顔を上げる。
唯さんが、ちょっと照れくさそうに笑っている。アッシュ系の髪色は、本来の彼を思えば十分チャラい。彼が私をじっと見つめる。私の目に嫌悪感や恐怖が浮かんでいないか、確認された。確認……する必要ある? 相変わらず慎重だなこの人。
「熱いから、気をつけて」
「…うん」
店内には唯さんのファンがいないから、頬を撫でられるようなことはなかった。助かった。そう思いながらコーヒーを口に運ぶ。
熱いそれを火傷しないように慎重に口に運んで、いつも通り美味しいそれに自然と口が緩む。美味しい、そう呟いた私にカウンターの向こうで唯さんがちょっと誇らしげにだろ、って応えるのが見えた。
▽▽▽▽▽
「なんか……前にも増して甘くねぇか? あの人たち」
「あら。鈍感なあなたにもそういうの分かるのね」
緑川さんと、彼の恋人でおそらく公安所属の環さんがカウンターで話すのを見ながら俺は窓際の席に座ってコーヒーを口に運ぶ。
砂糖は入れていない筈だが、やけに甘ったるい気がする。向かいに座って同じように飲み物を口に運ぶ灰原がそう言うので、どういう意味だよとジト目を返す。
「そのままの意味よ。それにしても、緑川さんって、本当に……?」
「ああ。間違いない筈だ」
どれだけ潜めようと、声にするわけにはいかない。灰原の方に顔を向けて口だけを動かして「スコッチ」と伝える。灰原の肩がほんのわずか緊張に強張って、でもふうと息を吐いてすぐにそれを逃がすのが見えた。
「信じられないわ。どう見たって普通の――いえちょっとチャラいかしら。……でも彼女に一途な人にしか見えないわね」
「へえ、『匂い』はしなかったのか?」
「ええ。でもあんまり関わったことはないし、それでかもしれないけど」
安室さんのことはめちゃくちゃ警戒するのにか。でもスコッチは数年前に組織を抜けて…というよりNOCだとバレて始末されたということになっているから、組織の気配が安室さんよりも薄いのかもしれねえな。
恋人に何を言われたのか、緑川さんが思い切り動揺して手を滑らせているのが見えた。少し離れた席にいる女子高生達がきゃあと小さく歓声を上げているのが聞こえる。
最初は緑川さんを目当てにしていた彼女たちは、今はあの名物カップルになった二人を見るために来店しているのだ。なんでも年上の男が彼の年下の恋人である環さんに翻弄されているのが可愛いと、そういうことらしい。
「多分、本当はもっと」
「ん?」
「私の勝手な想像だけど。本当はもっとまじめで誠実な人なんじゃないかしら」
「……ああ、きっとな」
長野県警にいる知り合いの刑事を脳裏に思い返す。あの人の弟であれば、それはもう。
でも、とすぐに口がひくつく。
「結構厄介な人なんじゃねぇかな……?」
「それは否定できないわね」
動揺させられたお返しに、と環さんの頬を指先でそっと撫でて何やら小さく囁く緑川さんに、灰原も呆れたような声をこぼしていた。
家でやんなさいよという彼女の言葉に、俺は深く同意した。
続く