いいから黙って甘やかさせてくれ





 翌日のカムイルの目覚めは、自身が想像していた以上にすっきりとしたものだった。
 体の倦怠感はもちろん、回復までに少し時間がかかりそうだった体内エーテルの疲労もすっかりなくなっている。昨夜はわりとアルコールを飲んでしまった方だったのでそちらの影響も残りそうだと思っていたのだが、いっそ拍子抜けしてしまうくらい体の軽い起床になった。
「…リーンのおかげ、だよね」
 ぼんやりと見つめた先の壁掛け時計は、二人が自然と目覚めているいつもの時間よりも一時間以上早い時刻を指していた。そっと寝返りを打って様子を見たリーンも、まだすやすやと穏やかな寝息を立てていて起きる気配がない。いつもなら起き抜けでリーンに身を寄せて額や旋毛にキスをしているカムイルだったが、今日はまだ起こすに忍びなく、頬を手の甲でそっとひと撫でしただけでそろりとベッドを抜け出した。
 カーテン越しの朝陽もまだ弱い光で、大きく伸びをして吸い込んだ空気にも夜の気配が濃い。キッチンに立っても物音や匂いでリーンが起きてくることもないだろうこのタイミング、カムイルには前からやってみたかったことがあった。
「つくるか、ひんがしの国風の朝ごはん」

 炊き立ての白米、程よい濃さの味噌汁、ご飯がすすむ焼き魚、小鉢で用意された副菜たち――望海楼などのクガネの宿に泊まったときに出てくるあの朝食を、一度でいいから自分の手でつくってリーンに食べさせてみたかったのだ。
 料理が好きなカムイルだが、たくさんの調味料を使う繊細な味つけのひんがし風料理はまだまだ経験が少なく、つくるのにも時間がかかってしまう。いざ用意しようと思ってもリーンを待たせてしまうと思うと結局、朝はいつも通りの手早く用意できるメニューになりがちだった。
 だから実行に移せるとしたら、たまたまカムイルがいつもより早く目が覚めて、リーンはぐっすり寝付いてくれている今朝のようなタイミングしかない。いつかその時が来たら決行したいと思い描いてきたチャンスが巡ってきて、カムイルは気合を入れるように洗い立ての両頬を自分で軽く叩いた。
「よし、やるぞ」


 着替えてエプロンを締め、まずは常温保存の食材の中から目当てのものをテーブルの上へ並べていく。メインはもちろん、うるち米だ。土鍋に二食分計り入れ、そこへ地下天然水を注いで火にかける。こればかりは蓋をした土鍋でじっくりと炊き上げてこそなので、まずは沸騰するまで中火で放置。その間に根菜類を洗って皮をむき、味噌汁用ときんぴら用にそれぞれ包丁で切っていく。
 大根は味噌汁に、蓮根はきんぴらに、そして鮮やかなギラバニアカロットはその両方に。隣で手鍋に湯を沸かすころには土鍋の中の水も沸騰しているので弱火にしてさらに放置。火の通りにくい大根とギラバニアカロットを先に水から下茹でするので、その間に副菜づくりへ。
「火にかけっぱなしのものが多いと、やっぱ手際悪くなるなぁ」
 ぼやきつつ、キッチンストーブの上をうまいこと整頓してきんぴらをつくるためのフライパンのスペースを確保する。すでに手鍋を置いてあるので手狭だ。
 切っておいた蓮根とギラバニアカロットの残りをしんなりするまで炒め、一度火を止めて醤油、みりん、砂糖を加えて和えながらさらに炒める。ひんがしの調味料独特の味つけのバランスがなかなか覚えられないカムイルだが、今回のレシピは海賊衆の台所番に教えてもらったのでばっちりのはずだ。味つけが全体によく絡んだら適当な皿に移して粗熱をとってからアイスボックスへ。その間に味噌汁の具材の下茹でが終わるので、息吐く間もなくそれをざるに上げて再び手鍋に湯を沸かす。
「疑似ラムウ戦のサブタンクくらいやることが多い…」
 またしてもぼやきながら、でも慣れない忙しさが楽しくて、カムイルは無意識に口元を綻ばせながら沸騰した湯の中に鰹節を削り入れていく。うま味と香りが移ってから中の鰹節を掬い上げ、入れ替わるようにざるの中の具材を戻して味噌を溶き入れる。ここまで来れば味噌汁も一旦は手を離して大丈夫だ。
 土鍋からもいい匂いが立ってきたので、火から下ろして余熱で蒸らす。残るメニューは焼いたキングサーモンとひんがし風だし巻き卵。キングサーモンは焼き上がり時間を逆算してグリルの中に入れておき、今度は出し巻き卵へ取り掛かることにした。

 夢中になっている間に時計の針はどんどん進んでいて、そろそろ物音や匂いでリーンが起きてきてもおかしくない時刻だ。そんなことを考えながらカムイルが卵を溶いていると、案の定、背後のベッドルームから近づいてくる気配を感じた。
「おはよう、リーン」
「おはようございます…何をつくっているんですか…?」
 半分寝ぼけた状態でベッドを抜け出してきたのか、どこか抜けた声のリーンがふらふらとカムイルに吸い寄せられるように近づいてくる。カムイルはボウルを一度置いてリーンを出迎えると、腰をかがめて寝起きの額にいつものキスを贈った。
「顔洗って着替えておいで。今日の朝ごはんは、ちょっぴり豪華だよ」
 優しくリーンの背中を押して送り出す先――洗面所にも、カムイルはちょっとした仕掛けを用意していた。顔を洗って目が覚めたリーンなら、きっとそれに気付いてくれるはず。


 原初世界の土産話なら何でも喜んで聞いてくれるリーンだったが、ひんがしの国にまつわる話は殊更興味を惹かれるらしい。本人に自覚があるかは定かではないが、少なくともカムイルの目から見れば、クガネやヤンサ、ドマについての憧れが強いようだ。
 第一世界ではひんがしに相当する地域の存在が見受けられず、きっと文献や歴史にも載っていないのだろう。アルデナード小大陸に暮らすカムイル達でさえ、東方の文化は珍しくて心惹かれることが多いのだ。それが異なる世界に暮らすリーンともなれば、彼女の好奇心は大いに刺激されているに違いない。
 今日の朝食も、以前リーンに話して聞かせた望海楼の朝食をイメージして用意したものだった。東方風の室内で、宿泊着の簡易浴衣を着て、カムイルやリーンの生活圏では珍しい座卓について食べるひんがしの国風の朝食――その異文化体験を羨ましそうに聞いていたリーンに、いつかとびっきりの朝食を用意してあげたかった。

「……よし、完成」
 思いの外器用につくれただし巻き卵を包丁でひと口大に切って小皿へ盛りつける。その他のメニューも用意しておいた膳の上に乗せれば、カムイル念願の立派な朝食御膳の完成だ。達成感で小さく息を吐くと、ちょうどタイミングを見計らったようにリーンが居室へと戻ってきた。振り向いてその姿を確認し、カムイルは満足して目を細める。
「かわいい、超似合ってる」
 洗面所に用意しておいた仕掛け――それは、ひんがしの旅館定番の簡易浴衣だった。バスローブに近い要領で着られるそれならリーン一人でも大丈夫だろうと用意しておいたのだが、東方の服飾文化についてカムイルがいろいろと教えていた成果もあり、しっかりと着こなしてくれている。しかも長い髪をまとめ上げるというサービス付きだ。そこまで頼んだわけではなかったのだが、思いがけず『恋人の旅館浴衣姿』を拝むことができたカムイルはうっとりと溜息を吐いた。
「あの…ちゃんと着れていますか?」
「ばっちりだよ。はあ…朝からマジで眼福」
 リーンにテーブルへつくように促し御膳を彼女の席へと運ぶと、初めての本格的なひんがし風料理に「わあ!」とリーンが嬉しそうな声を上げてくれた。
「もしかして、クガネの宿を再現するために浴衣も…?」
「もちろん。というわけで、俺もちょっと着替えてくるね」
 エプロンを外し、自分用の浴衣を持って着替えるために一度洗面所へと向かう。着慣れているカムイルがあまり時間をかけずに姿を見せると、テーブルに座ったままのリーンが眩い笑顔で迎えてくれた。
「すごい…!本当に、カムイルと宿に泊まったみたいです!」
「そう言ってくれるなら嬉しいよ。それじゃ、食べよっか」
「はい、いただきます!」
 ヤンサの餃子は比較的よくつくって食べるので箸の扱いに慣れているリーンは、戸惑うことなくまずはだし巻き卵を口へ運ぶ。白だしの風味は初めて口にするだろうリーンの反応が気になってしまいカムイルが手を止めてじっと様子を見守っていると、咀嚼を始めたリーンが不思議そうな顔になって卵を飲み込んだ。
「不思議な風味です…甘いという表現が合っているかわからないけど、でも、おいしい」
「よかった。ひんがしではね、おかずの味で白米を食べるんだよ」
 そう言って、土鍋から白米を盛った茶碗をリーンへ差し出す。土鍋の保温効果のおかげで白米は炊き立てのようにつやつやとして湯気を立てていて、それを見てまたリーンが目を輝かせてくれた。
「白米自体にも甘みはあるけど…不思議なものでさ、おかずと一緒に食べると違ったおいしさを感じられるんだよねぇ」
「カムイル、前に話してくれたときもそう言ってましたね」
「うん。だから今日は頑張って品数多くしてみたから、いろいろ食べてみて。ご飯が足りなくなったら、少しだけおかわりもあるからね」
「はいっ!」

 いつか鏡像世界を渡る方法が確立されて、そして、リーンを原初世界へ招くことができたら――そう考えることはよくあって、もしも本当に叶う日が来たら、カムイルは最初にクガネへリーンを連れて行きたいと思っている。
 サンクレッドとミンフィリア、そしてカムイルにとっても縁のあるウルダハにももちろん連れて行きたいが、まずは何よりも、クガネのあの鮮やかな街並みを見てほしいと思うのだ。ハンコックの好意で用意してもらえたクガネの風景画を持ち帰ってきたときもとても喜んでくれたが、クガネをはじめとする東方の風景を実際に初めて見たときの感動は、やはり現地に足を運ばなければわからないものだ。きっとその衝撃は、三都市やイシュガルドなどを訪れるときよりも大きいはず。
 だからまずはクガネへ飛び、途中でラザハンの極彩色にも触れ、ゆっくりと原初世界の各地を二人で見て回りたい、と。いつか来るかもしれないその時を思い描いて、カムイルはもう何度も頭の中で旅程をあれこれと組んでしまっている。


(――これじゃあまるで、ハネムーンの行先を考えているみたいだな)
 世界が隔たれている今、無責任に婚姻を結ぶことも難しいと考えているのに。
 逆に言えば、世界の隔たりさえなくなってしまえば、もうカムイルとリーンを遮るものは何もない。
「……ねえ、リーン」
 味噌汁の器を口元に運ぼうとして、ふと思い出す。声をかけられたリーンは、焼き魚の骨を器用に取り除いていた手を止めてカムイルに首を傾げた。
「聞いたことがあるんだけど……ひんがしでは一時期、俺のために毎日お味噌汁をつくってください、なんてプロポーズの言葉が流行ったこともあるらしいよ」
「毎日…?」
「うん、今はどうか知らないけど。でも…お味噌汁ってそれくらい親しみのあるメニューで、それを毎日つくってもらうってことは、つまり一緒に暮らしている――結婚してほしいという意味に繋がったんだろうな、って。食文化がプロポーズの言葉に反映されるなんて、なんだか面白いね」
 そう言って、カムイルはまだ少し熱い味噌汁を啜る。クガネの店で飲むものの中にはたまに味が濃いと感じるものが多かったので、カムイルの好みで塩分が控えめのあっさりとした薄味にしてみた。その分鰹節で香りとうま味をしっかりとったので、味も香りもぼけずにいい塩梅で仕上がったと我ながら思う。
「家庭の味の代表格なんだと思う。だからきっと、単純に毎日お味噌汁をつくってほしいだけじゃなくて、一緒に自分達の家のお味噌汁の味つけを決めてそれを毎日飲もう、って意味もあったんじゃないかな。少なくとも、俺はそう思うね」
「なるほど、」
 もう何度も一緒に料理をつくって、そして一緒に食べてきたから、リーンの舌の好みはわかっている。だから今日の味噌汁もきっと気に入ってくれているはずだ。実際、だいぶカムイル好みの味つけに寄せてリーンの舌をそちらに慣らしてしまったことも否めないが、彼女がそれを受け入れて気に入ってくれたこともまた、嬉しく思う。

「……それなら、私はもう、カムイルにプロポーズしてもらえていることになりますね」
 味噌汁の器を両手で持って飲みながら、嬉恥ずかしい、とはにかんだ表情になってリーンが言う。
「お味噌汁は、今日が初めてだったけど…いつも二人でつくる、ごろごろ野菜がたくさん入った塩味のスープ。カムイルが最初に教えてくれた、カムイルが大好きな食べ物」
「うん、」
「こっちの世界にいられるときは、これからも毎日、一緒につくって一緒に飲みたいです。これって、私からのプロポーズの言葉になりますか?」
 そう言って、リーンが心底嬉しそうに顔を綻ばせる。そんな言葉を返してもらえたことが嬉しくて、リーンの笑顔も眩しくて、カムイルも目を細めて小さく笑った。
「本当は一昨日だって、連絡をもらえたならスープをつくって待っていようと思っていたんですよ」
「ごめんごめん。リーンに早く会いたいと思ったらつい、ね」
「私達にとってのお味噌汁はきっと、カムイルの大好きな野菜スープだと思うから。あの優しい味を、いつだってカムイルにつくってあげたい」
 食事はまだ、互いに半ば。それでも我慢できず、カムイルは箸を置いて席を立ち、リーンの座る椅子の後ろへと回ってぎゅっと彼女を抱きしめる。
腰をかがめて角を優しく頭へ擦りつけると、腕の中のリーンがくすぐったそうに笑いを溢した。
「うれしー…マジでプロポーズみたいじゃん…」
「そうですよ?カムイルとこうして一緒にいられる限りはずっと私の傍にいてほしいし、カムイルが喜んでくれることは何でもしてあげたいんです」
「はあ…本当に、俺のこと甘やかすのが上手」
 見上げたリーンと見下ろしたカムイルで、少し不格好なキスを交わす。いつもと違って慣れない味噌汁の味がするそれに、顔を離した二人は見つめ合うとおかしそうに笑った。


 リーンとの日々は、嬉しいことのキャッチボールの連続だ、とカムイルは思う。
 リーンのために何かをせずにはいられないカムイルのことをリーンが受け入れてくれて、それだけでも嬉しくて満たされるのに、リーンは必ずおかえしをカムイルにしてくれる。それが嬉しかったからまたカムイルがリーンの喜んでくれることをして、リーンもそのおかえしをしてくれて――第一世界での二人の生活は、もうずっとその繰り返しだ。
「昨日と、一昨日の夜も…俺の我儘、聞いてくれてありがとう」
「ううん、いいの。だって私も、頑張ったカムイルのことを甘やかしてあげたかったから」
「ふふっ…いつものことだけど、どっちが甘えてるのかわからないね、俺達」
 見上げたままのリーンが顎と喉仏の鱗を撫でてくれて、その心地よさで思わず鼻から抜けるような声が出そうになる。昨日の夜に頭を撫でられたときもそうだったが、カムイルはどうにも、まるでリーンに子供や犬をあやすような手つきで撫でられるのに弱い。夢中になってリーンに尽くしている様をよしよしと褒められているようで、そんな趣向は持ち合わせていないはずだったのだが、元来の甘ったれた性格が刺激されて変な扉が開きそうになる――ともすれば、さんざん甘やかされた結果としてもう取り戻しがつかないところまで来てしまっているかも知れない。

 改まったプロポーズの言葉なんて必要なかった。そう思うほどに、互いに甘やかし甘やかされる日々が当たり前になっていて、もう抜け出すことなんてできないのだ。
「ねえ、リーン」
「はい」
「これからもさぁ…俺のこと甘やかすと思って、俺にたくさんリーンを甘やかさせてね」




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