いいから黙って甘やかさせてくれ





 クリスタリウムを染める夕焼けが夜の帳へと変わりきった頃、起き抜けのままだった身支度を整えてカムイルとリーンは彷徨う階段亭へと向かうことにした。部屋を出てから手を繋いで歩いていると、居住館の管理人には微笑まし気な眼差しで「いってらっしゃいませ」と送り出され、店につけばカウンターの内側から目敏く気付いたグリナードに口笛を吹かれて歓迎された。
「おう、やっと二人揃って顔出してくれたな!」
「やだなぁ、ランチとかはちょくちょく食べに来てるじゃん」
「生憎、ここはグラスを傾けながら語らってもらう酒場が本業なんでな。せっかくなら、奥の方のゆっくりできるテーブルに座りな」
 そう言ってグリナードが顎で奥の席を指すと、やりとりを聞いていたホール係がすぐに二人を案内してくれた。水路を見下ろせる柵際のテーブルは確かにカウンターから少し離れていて、ペンダント居住館の各部屋の灯りがちょっとした夜景にもなっていて雰囲気がよかった。店員に渡されたメニュー表をテーブルの上に開くと、確かに日中のメニューとはがらりと変わって酒のつまみになりそうなものが多く並んでいる。
「ラケティカをイメージしたアヒージョなんてのもあるんだ…おもしろいね」
「それおいしかったです。ブロッコリーがたくさん入ってるから、きっとキャメさんは好きだと思いますよ」
「へえ。じゃあアヒージョは頼むとして、飲み物はどうしようかな…」
 ドリンクだけがまとめられたメニュー表を二人で覗き込む。一杯目はとりあえずエールで…なんて文化もあるものの、まだまだ酒を飲み始めて日が浅いカムイルにはまだその喉越しのおいしさはよくわからない。蒸留酒を使ったカクテルがないかとメニュー表を指でなぞりながら見ていると、リーンがそれに気付いて肩を寄せてきた。
「テキーラに、ウォッカ…強いお酒だったと思うんですけど、好きなんですか?」
「うん。とはいえ、ショットでそのまま飲むようなことはしないけど…お酒飲んだことないと意外かもしれないけど、果汁ジュースで割るとソフトドリンクに近い感覚で飲みやすいんだよ」
「あ、本当だ…オレンジジュースやパインジュースで割るんですね」
 カクテル名の横に書いてある組み合わせを見てリーンが感心したように声を漏らす。
「俺は、食事も兼ねてるときはさっぱりした飲み口の方が好きだから、グレープフルーツジュースで割ったものを飲むことが多いんだ。とはいえ、飲むようになったのは終末の騒動が落ちついてからだったし、まだ食べ物とお酒の相性とかはよくわかってないけど」
「逆に、食事をあまりとらないお酒の席と言うと…バーとか、そういう感じの…?」
「そうそう。でも友達と飲むときはここみたいな酒場だし、それ以外だとパーティとか宴会って感じになるから、あんまり行ったことはないけどね」
 話をしている間にタイミングを見計らったホール係が注文を取りに来てくれたので、ドリンクと少量のおつまみを何種類かオーダーする。リーンは前回頼んで気に入ったという紅茶ベースのサングリアを注文した。

 オーダー前にお通しとして提供されたチーズのバジルソース和えに手をつけながら、カムイルは「そういえば」と思い出してリーンに話を続ける。
「俺、初めてバーに連れて行ってもらったのってサンクレッドだったんだよね」
「えっ、」
 まさかそこでサンクレッドの名前が出てくるとは思わなかったのか、チーズを食べようとしていたリーンが手を止めて思わずカムイルの顔を見る。カムイルにとっては少し気恥しい思い出だったが、隠すものでもないので事の経緯を話す。
「いや…リーンとちゃんとお付き合いすることになったときに、さ。サンクレッドはもう暗黙の了解みたいに認めてくれていたけど、それでもちゃんと挨拶したいと思って。ウルダハにいるときに捕まえてそのことを話したら、詳しく聞かせろってそのままバーに連れて行ってもらってね」
「そんなことがあったんですね」
「うん。あの頃の俺はまだ、変な遠慮をしてリーンに淋しい思いをさせちゃってたから……サンクレッドにさ、それもばっちり見抜かれてたんだよね。俺が何を言わなくても、奥手になり過ぎてもリーンを不安にさせるだけだぞ、って釘刺されたんだ」
「サンクレッド…、」
 父のように慕う人が自分の恋路を見守ってくれているとわかって嬉しいのか、リーンの顔が少し恥ずかしそうに、だがふんわりと和らいだ表情になった。
 原初世界へ戻った暁の面々――特にサンクレッドとウリエンジェの近況報告は小まめにしているつもりだったが、リーンのプライベートを按じて前向きに応援してくれていることがわかる具体的な話が聞けたことは格別だったのだろう。「えへへ」と嬉しそうに笑いを溢す。
「ウォッカベースのカクテルを初めて飲んだのも、そこでサンクレッドが勧めてくれたからだったなぁ…って思い出したわ。今以上にお酒の種類がわからなかった頃だし。俺も最初はウォッカって聞いて漠然と度数が高くて強いお酒ってイメージしかなかったんだけど、カクテルの種類によって飲み口はいくらでも変わるって教えてもらって」
「へえ…サンクレッドって、お酒に詳しいんでしょうか?私が一緒にいたときは、あまりそういう話はできなかったから」
「元々が諜報活動のエキスパートだし、人に隙が生まれやすい酒場で仕事をする機会も多いだろうから、そういう関係で自然と詳しくなっていったのかもね」
 女性を口説くためのテクニックとしての知識もあったのだろうな――ともカムイルは考えたものの、まだリーンに聞かせるには早い話なので胸の中だけに留めておくことにした。


「…でも、安心しました」
「うん?」
 リーンの言葉の意図がわからずカムイルが首を傾げていると、ちょうどそのタイミングでドリンクと早出しのメニューが運ばれてきた。二人でグラスを鳴らして乾杯し、ひと口目で喉を潤してからリーンが話を続ける。
「だって…バーってやっぱり、薄暗くて、大人の社交場ってイメージがあるから。キャメさんに似合うシチュエーションだと思うけど、もしそんなところで一人で飲んでいたら、きっと声をかけられたりするだろうと思って」
 カムイルが自分の過去について洗いざらい話していることもあって、リーンはこういう場面で必ずカムイルのことを心配してくれている。もちろんカムイルもそれをわかっているので、リーンを不安にさせるようなシチュエーションは可能な限り避けながら生活しているつもりだ。
「そうだね。リーンがきっと心配するだろうなって俺も思うから、そういう雰囲気がよさそうな場所で飲みたいときは、おきゃめ誘って一緒に行ってもらってるよ」
「ふふっ…お姉さんが一緒なら、確かに安心かもしれません」
 カムイルが冗談めかして言うと、キャメロンの人柄もよく知っているリーンはおかしそうに笑ってくれた。

 実際、ウルダハで飲んでいる限りは姉が隣にいるだけで妙な連中に声をかけられる機会はぐっと減る。中にはキャメロンカムイル姉弟が揃っているとわかった上で絡んでくる酔っ払いもいるが、そういう連中は逆に正当防衛で殴って黙らせることができるので、ナンパや体の売り買い目的で声をかけられるより面倒が少なくていい。
「リーンがお酒を飲めるようになったら、二人でカウンターバーに行くのもいいかもね」
 普段ならあまり口にしないであろう話題が自らの口から飛び出して、存外に気分よく酔い始めているのかもしれない、とカムイルは自覚する。
 向こうでは毎晩のようにモードゥナの酒場で反省会兼作戦会議と称して酒を口にしていたので弱くなっていないはずだが、恋人が隣にいるとどうやら事情が変わるらしい。コースターの上に置いたグラスの中身も気付けば終わりかけで、参ったな、とカムイルは頬の鱗を掻いた。グラスの減りが早いことにリーンも気付いたようで「あっ、」と小さく声に出す。
「キャメさん、もう一杯目が終わりそう」
「うーん…あんまりペース上げるつもりはなかったんだけどなぁ」
「次は何を飲みますか?」
 カムイルが二杯目以降を飲んでくれるなんて珍しい、とリーンはわくわくした様子でカムイルへメニュー表を渡してくれる。本人の自覚がないのが恐ろしいところだが、なんとも飲ませ上手なものだ。そんなに嬉しそうな顔をされると、再びグラスを手にとって残っていた中身を一気に飲み干してしまう。
「また同じものにしようかな……でもこれ、さっぱりしてて飲みやすいから危ないな」
「じゃあ、違うカクテルを…?」
「いや、いろんな種類のお酒飲むと悪酔いしやすいから同じのでいいよ。海賊衆のところでお酒の飲み方仕込まれたときに教えてもらったんだけど、ちゃんぽんって向こうの人達は呼んでいて、酔いが回りやすくなるんだって」

 実際、ちゃんぽんせずともリーンにうまいこと飲まされてしまいそうで危険だ。ただ傍にいるだけでつまみになるとはこういうことなのかもしれない、とカムイルは思う。手を振ってカウンターの中にいた店員を呼び、チェイサーも加えて追加のオーダーをしてからふう、と一息吐くと、リーンがカムイルをじーっと見つめている視線に気が付いた。
「…どうしたの、そんな可愛い顔で見つめちゃって」
「キャメさん、やっぱり酔ってるのが顔に出ないなぁ…と思って」
「ああ、そういうこと。でも、今日はすでにほろ酔い気味だよ」
 これまでにカムイルが酒の席を共にしてきた諸先輩方曰く、カムイルは酒に弱い方ではないらしい。最初に飲み方を教えてもらった海賊衆――中でも下戸のラショウが熱心に教えてくれたおかげで、酔いはするものの、酒に飲まれず長い時間上手に飲むのがうまいと言われることがある。
カムイルの体感としても、強いわけではないが弱くもないのだろうな、といったところだ。顔に出にくいと言われるのは、そもそもの地肌が褐色で赤らみがわかりにくいというのもありそうだが。
「それにね、俺だってリーンの前では格好つけたいんだよ。そりゃ、いつか二人で飲むようになったらべろべろに酔っぱらう姿を見せることもあるかもしれないけど…今はまだ、スマートにお酒を嗜んでいる俺でいさせてよ」
「でも…酔っているときの方が、たくさん甘えてくれるから」
「えー?最近はお酒入れなくてもめちゃくちゃ甘えてると思うけど?」
 そう言って、まだ少し残念そうにしているリーンの頬を指の背で撫でる。そこへ応えるように頬を擦りつけて甘えてきてくれるリーンの姿を見ていると、いつかお酒を飲んで酔いが回ったときにはどんな姿を見せてくれるのだろうか、と楽しみでもある。

 きっと豹変するようなことはないだろうし、そんな悪い飲み方を覚えさせるつもりもない。ただ、カムイル自身がそうであるように、アルコールというものはその人が普段抑えたり我慢している一面を表出させてくれるものだ。互いに遠慮はなしになったとはいえ、お酒の力でいつもより気持ちが緩んで大きくなったリーンが自分にどんな姿を見せてくれるのか。少しどころか、とても楽しみだ。
「……リーンの初めてのお酒の席は、絶対に俺に譲ってね」
 こればっかりはガイアには譲れないな、と言葉に出す。こんなことを言葉に出してしまう時点で酔っているようなものなのだが、やはりリーンにはまだそれが伝わらないらしい。それでも初めての飲みの機会を約束されたことが嬉しいのか、頬を擦り寄せる姿勢になっていた上体を起こすと笑顔で頷いてくれた。
「もちろんです。私も、初めてのお酒はキャメさんに飲み方を教えてほしいから」


   ◆◇◆


 ラケティカイメージのアヒージョはリーンに教えてもらった通りブロッコリーがごろごろとふんだんに入っていて、温野菜が好きなカムイルには大満足の食べ応えだった。他にはエディブルオイスターのワイン蒸し、オヴィムの肉と乳でつくったジャーキーとチーズの乾きものセット、胡椒がきいたペッパーポポトにシンプルなソーセージなど、酒のつまみにもってこいのメニューが並んだことも手伝って、カムイルは原初世界で友人達と飲むときと同じくらいのグラスを空にした。
 一杯目のときはなんとなく酔い始めていると感じる程度だったが、今は明確にほろ酔い状態になっていると自覚がある。このまま飲み進めると完全に酔っぱらってしまう、という瀬戸際だ。
「お腹もだいぶふくれたし、そろそろシメに入ろっか」
 それとなくリーンを促して、メニュー表のデザートが載っているページを開いて見せる。
「お酒の席ってどうしてもしょっぱいものが多いせいか、俺、いつも飲みの最後はデザートとか甘いもの食べるんだよね。リーンも、ずっと味が濃いものばっかりで飽きたでしょ?」
「いえ、そんな…!でも確かに、食べてるときはどれもおいしかったけど、言われてみれば甘いものがほしくなりますね」
「でしょ?だから何か頼もーよ」
 ほら、とリーンの肩を抱き寄せて一緒にメニュー表を覗き込む。出先だというのに自室にいるときのようにリーンにくっついてしまっている自分を「酔ってるなぁ」と俯瞰的に見つめることはできるが、それに気付いた上でやってしまうのが酔いが回り始めたときのカムイルだ。
「デザートの数も前より増えたよねぇ…俺はリトルレモンのシャーベットにしよっかな」
「さっぱりしてておいしそうですね」
「リーンは何にする?」
「私はベリーチーズケーキにします。ここのチーズケーキは、キャメさんがつくってくれるものに負けないくらいおいしいんですよ」
 夜も更けたこの時間は、家族連れの客層が減って本格的に飲みに来た市民達が多くなり、酒場としての雰囲気がより濃くなってきていた。カウンターからも他のテーブルからも酒の席特有の大声での賑やかな会話が聞こえてきて、こういった空気の中でリーンと食事をするのも存外に悪くなかったな、と火照った頬を夜風に撫でられながら思う。
「リーン、」
「はい?」
「今夜は楽しんでもらえた…?」
 お酒にまつわる話も、それ以外の話も、たくさんできた。たくさんの言葉を交わして二人で食卓を囲むのはいつもと同じだったけれど、シチュエーションが違うことをリーンも楽しんでくれただろうか。
 自制しようと思っていた以上にグラスを空けてしまったカムイルは言わずもがなである。頬杖をついて、ほろ酔い特有のとろんとした眼差しでカムイルが返答を待っていると、見つめる先のリーンの顔が夜闇の中で今夜一番に輝いた。
「はい…!とっても楽しかったです!」




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