いいから黙って甘やかさせてくれ



 翌朝。早くも遅くもなくいつも通りの時間に自然と目を覚ましたカムイルは、うっすらと開けた瞼の先に見える景色がここ最近ずっと詰めていたモードゥナの宿ではなく慣れ親しんだペンダント居住館のものであることをぼんやりと認識し、嗚呼、と調査任務を終えた実感を唇から溢した。
 いつもの癖でサイドテーブルに置いてある伊達眼鏡に手を伸ばしかけ、そういえば今朝はこのままベッドでごろごろする予定だった、と思い出して髪をくしゃりとかき上げる。ゆっくりと体を動かして仰向けになろうとすると寝返りをうったリーンの体がカムイルの方へ向いていることに気が付いて、カムイルもそのままリーンと向かい合うように姿勢を変えて緩くリーンの腰を抱く。
「はあ……しあわせぇ……」
 第一世界でリーンと同じベッドで起きるたび、毎回のように飽きず言葉に出してしまう。そっと鼻先をリーンの髪へ埋めて息を吸い込むのもいつものことで、そこからカムイルが彼女のために調合したシャンプーとトリートメントの香りがすることを確かめるたびに、何とも言葉にし難い多幸感が胸を満たしてくれる。
 そのまま瞳を閉じるとリーンのエーテルまで感じることができて、慣れない賢具の扱いで多少の無茶を強いていた体内のエーテル循環がじんわりと癒されていくのを感じる。それだけで彼女に惹かれたわけではないが、結果として、カムイルはリーン自身が持つエーテルに強烈に惹かれやすい体質だった。

 いつもならリーンを起こさないようにそのままじっとしているカムイルだが、久々に手の届く範囲に恋人がいる嬉しさに耐えきれず、リーンの前髪を鼻先でかき分けてそのまま生え際近くに唇を落とす。頬に添えた手ですりすりと撫でながら繰り返しキスをしているとさすがのリーンももぞもぞと身じろぎ始め、瞼は開かないものの意識は半分起きているのか、カムイルの背中に腕を回して咎めるように鱗と肌の境を撫でてくる。
「ッ…ごめん、そこくすぐったいからやめて」
「んー…っ」
 鼻先が触れ合う距離で見つめていたリーンの瞼がようやく開き、ぱちり、とつぶらなアイスブルーの瞳と目が合う。こんなふうに寝起きのリーンの顔を拝めるのは本当に久しぶりのことで、カムイルはたまらなくなってリーンとそのまま唇を重ねた。
「……おはよ、リーン」
「はい。おはようございます、カムイル」
 見つめ合い、互いにふにゃりと柔らかく微笑む。意識が完全に目覚めてしまえば、何者にも邪魔されずに二人きりで過ごせることへの喜びが胸の内から溢れ出して顔にまで表れてしまう。遠慮のなくなったカムイルがリーンの額、頬、こめかみへと何度もキスをすると、閉じ込められた腕の中でリーンが「もう、」と少し困ったように笑う。
「昨日はよく眠れましたか?」
「おかげさまでぐっすりだよ。ご覧の通り、元気いっぱい」
「ふふっ、本当に元気」
 カムイルがキスをやめてリーンを見つめると、リーンの手が布団の中から伸びてきてカムイルの長い前髪を撫でる。普段セットしていても長いカムイルの前髪はスタイリングしていない状態では殊更で、リーンにしか見せないそのままの髪型だと幼く見えて嬉しいと言われたことがある。よしよしと繰り返し前髪を撫でられるのはカムイルも大好きで、心地よさにうっとりと瞳を閉じた。

「昨日も言ってくれてたけど……俺も、リーンに髪触ってもらうの好きだよ」
「私も…カムイルに髪を触ってもらえるのも、こうしてカムイルの髪に触るのも、大好きです」
 目を瞑って大人しく撫でられていると、もぞもぞと身を寄せてきたリーンが、まるで仕返しするように鼻先でカムイルの前髪を割って額に口づけてくる。何度も同じようにキスをしているせいか真似してリーンが覚えてしまったことにちょっぴり罪悪感があるが、こうして同じようにしてくれるのはリーンがされて嬉しかったことの裏返しでもあるのだと思うと、罪悪感が霞んでしまうくらいに嬉しさもある。
「カムイルは背が高いから、こうして横になったり座ったときじゃないと頭を撫でたり髪に触ったりできなくて……でも、カムイルがこんなふうに無防備でいてくれるのは、私の前だけだから」
「えー、それってもしかして独占欲?」
「そうですよ、知らなかったんですか?」
 カムイルが喜んでいるのをわかっていて、リーンも悪びれずに額へのキスを繰り返す。本当に、リーンの言う通りだ。こんなふうに脱力して、起き抜けの無防備な姿のままで、レンズで直視を遮らずに対面できる相手なんて、リーンしかいない。他の人の前では気弱な心を閉ざすカーテンのように伸ばしている前髪も、リーンの細い指でかき上げられるのは嫌じゃない。そしてリーン自身がそのことを喜んでくれていることが、一番嬉しい。
「だから、ベッドの上でこうして過ごしたかったんです。いつもみたいに格好よく身だしなみを整えているカムイルも好きだけど、そうじゃないカムイルは今しか見れないから」
「ふふっ…じゃあリーンの気が済むまで、このままだらだらしちゃおうね」
 何はともあれ軽く腹に何か入れようと上体を起こし、昨日のうちにサイドテーブルへ用意しておいた蓋つきマグカップをカムイルが手に取る。ファイアシャードの熱を利用して温め直したその中身は、昨日の夜にも飲んだジンジャースープだった。
「元々、朝にも飲もうと思ってとっておいたやつなんだ」
 具材はみじん切りで細かくしてあるのでスプーン要らず、味つけもカムイルの好みで薄めにしてあるので、寝起きの胃にも優しく内側から温まる。他愛のない話をしながらゆっくりとスープを飲み終わった後は、カムイルがリーンを抱き込むようにしてまたベッドへと二人で沈んだ。

 寝起きのままのカムイルを堪能したい、という言葉の通りリーンが髪を撫でたり角を食むようにキスしたりしてくれるので、カムイルは仰向けで瞳を閉じてなされるがままになる。愛情故に遠慮し合ってしまっていた時期を乗り越えてからのリーンは愛情表現に積極的で、だが思い返してみれば、いつだって強い意志で未来へ進もうとしてきたリーンなのだから、何事にも意欲的で臆さず行動で示すのは彼女らしいことだとも思った。
 それに、すぐ近くで感じられるリーンのエーテルは、やはり心地いい。彼女の隣で一晩眠っただけでも十分に回復できた体内エーテルの循環路だが、リーンの身の内から発せられるエーテルの名残を意識的に拾って身の内へと取り込むと、思わず溜息が漏れてしまうほど心地よかった。
「カムイル、気持ちよさそう」
「恋人にキスされて気分よくない男なんていないよ」
 ましてや、彼女の希望で寝起きのままベッドの上に閉じ込められているようなものだ。会えなかった時間の埋め合わせの最初をこんなかたちで求めてもらえて、嬉しくないはずがない。しばしされるがままになっていたカムイルだったが、ゆったりと瞼を開けると両手をリーンの頬に添え、そこを慈しむように撫でる。
「満たされるなぁ…って、思うんだ。リーンが大切に想っている人はたくさんいるけど、その中で、こんなふうに甘えてきてくれる相手は俺だけだから」
「ふふっ。カムイルにだってあるじゃないですか、独占欲」
「知ってたくせに」
 そのまま互いの唇を重ねて、言葉で伝えきれない想いを示すように何度もキスを交わした。


 ◆◇◆


 飽きずベッドの上でくっついて過ごしていたものの、さすがに陽が最も高くなる頃合いになれば、スープとフルーツだけでは誤魔化せない腹の具合になってくる。残念ながら時間切れか、と二人はどちらからともなくベッドを抜け出すことにした。
 とはいえ午前の間はずっと寝転がって過ごしただけだったので、空腹ではあるもののいつものようにしっかりしたランチを食べるような気分でもない。どうしたものかとしばし考えていたカムイルは、寝る前に確認したアイスボックスの中に卵が残っていたことを思い出して「あ、」と声を上げた。
「ねえリーン、パンって余ってる?」
「はい、昨日ブラウンシチューと一緒に食べるために買ってきてあるので」
「よし。じゃあ、久々にトーストにして食べてみない?」
 カムイルが柔らかいパンの方が好みということもあり、二人の食卓でパンを食べるときは焼かずにそのままのことが多い。トーストにしたところで大抵の場合はちぎってスープに浸しながら食べてしまうカムイルにしては珍しい提案だ、と見上げてくるリーンの顔には素直にそのままの心情が現れていた。
「トーストでもいいですけど…珍しいですね、」
「うん。向こうにいる間に食べたもので、気に入ったやつがあってね」
 クリスタリウムでも見かけたことはなかったので、きっとリーンもあまり食べたことのないメニューのはずだ。そうと決まったカムイルは洗面所に向かって顔と手を洗うと、ゆるい寝間着姿はそのままに裾を捲ってエプロンだけをつける。リーンにはソファで座って待っていてもらうつもりだったが、せっかくなら近くで見たいと言ってくれたので一緒にキッチンに立つことにした。
「じゃあ、パンをスライスしておいてくれるかな。パンが切り終わったら、四辺にベーコンを乗せるからそれの準備もお願いしていい?」
「わかりました!」
 久しぶりに一緒にキッチンに立てることも嬉しいのか、カムイルに続いて洗面所から出てきたリーンは長い髪もまとめてやる気十分だ。
 リーンに包丁仕事を任せている間に、カムイルは溶かしたバターと小麦粉、牛乳で簡単にホワイトソースをつくっていく。リーンには耐熱皿の上にパンを二切、その上にそれぞれ四辺を囲うようにベーコンを乗せてもらい、カムイルがつくりたての少し粘度の高いホワイトソースで土手をつくるように乗せていくと、一体なにができあがるのだろうかと隣のリーンがわくわくし始めているのを気配で感じられる。
「ピザパンをつくっているみたいです」
「確かに、チーズも乗せるからちょっとそれに近いかもね」
 アイスボックスからチーズと卵を取り出して、ホワイトソースの土手の上にチーズをまぶしてから最後にその中心へ卵を割り入れる。生卵がこぼれてしまわないように慎重に窯の中へと移して焼き始めると、覗き窓から窯の中身を確認したリーンが「わぁ!」と嬉しそうな声を上げた。
「トーストとフライドエッグを後乗せで一緒に食べることはあるけど、これは先に一緒にして焼いちゃうんですね」
「そうそう。俺もあっちに戻ってるときにモーニングで似たようなやつを食べたんだけど、おいしかったって友達に話したら、クロックマダムってやつが近いんじゃないかって教えてもらったんだ」

 ウルダハでパンと言えばデューンフォーク族の伝統であるプレッツェルがほとんどで、そうでなくても長期保存がきくように硬くしっかり焼き上げたパンが多かったので、こんなふうに少し手間をかけてパンごと調理をするという発想がなかったのだ。
 だがカムイルの生活圏では珍しかったというだけで他の地域出身の冒険者達はよく知る食べ方だったようで、調査任務にあたってオールド・シャーレアンとモードゥナの連絡係をしてくれていたグリーナーに聞いてみたところ、その次に顔を合わせたタイミングでレシピが書かれたメモを持ってきてくれた。
 そうして経緯を話している間に窯の中で卵もチーズも程よい焼き加減になっているので、火を止めて一枚ずつ皿に盛りつけていく。サイドテーブルから引き上げてきた水出しの花茶をグラスに注げば簡単なランチの完成だ。チーズとホワイトソースを焼き上げたばかりの匂いに食欲をそそられているのか、テーブルについたリーンはうずうずとクロックマダムを見つめている。
「卵が半熟だから、ナイフとフォークを使うといいよ」
「ありがとうございます。それでは、いただきます」
 それぞれフォークとナイフを両手に持って、まずは卵の黄身にナイフを入れてみる。半熟どころかほぼ固まっていない状態の黄身が割った途端に溢れ出し、ホワイトソースと絡まりながらその下のベーコンやトーストにまでしっとりと染み込んでいく。思っていた通りの仕上がりに満足して、カムイルはほっと息を吐いた。
「すごい、卵がとろとろですっ!」
「これがつくりたかったんだよ…成功してよかったぁ」
 ナイフとフォークで切り分けたパンを、溢れてこぼれた黄身とホワイトソースに絡めてからぱくりと口に運ぶ。黄身をたっぷりと含んだトーストはしっとりとして卵の甘みも感じられ、味も思っていた通りに再現出来て大満足だ。半熟卵やホワイトソースの味が好きなリーンもきっと気に入ってくれただろうと正面を見れば、カムイルに負けないくらい幸せそうな顔で頬張ってくれているリーンがいる。よく味わうように咀嚼してからひと口花茶を含んで飲み込むと、にっこりとカムイルへ笑顔を返してくれた。
「おいしいです!これ、彷徨う階段亭のメニューになったら人気が出そう」
「今あるモーニングプレートにベーコンとフライドエッグがついてくるから、メニューさえ教えたら提供してくれると思うんだよね。今度グリナードさんに相談してみるよ」
「…あ、そうだ」
 グリナードの名前を出すと、それで何かを思い出したようにリーンが声を上げる。どうしたのかとカムイルが首を傾げて続きを促すと、パンを切り分けながらリーンが少し恥ずかしそうに続きを話した。
「カムイルが向こうへ戻っている間に、彷徨う階段亭で新しく、ノンアルコールカクテルの提供が始まったんです。ジオットさんがワッツハンマー・ガレージとの橋渡しになってくれて、レシピを色々持ち込んで…最近のクリスタリウムは、夜にあそこで食事をする家族連れも多くなったから。子供達が気分だけでも楽しめるようにって」
「へえ、」
「だから…もしカムイルがよかったら、今夜は彷徨う階段亭で飲みませんか?もちろん、私はまだノンアルコールになっちゃいますけど」
 つまるところ、夜のデートへのお誘いというわけだ。当分の間はリーンのおねだりなら何でも応えるつもりのカムイルだったので、もちろん断る理由はない。
「いいよ。じゃあ今夜は、久々にリーンの前で飲んじゃおっかなぁ」
「ほ、本当ですか…っ?」
 酔った勢いの間違いを起こすつもりはないものの、素面のリーンの前で自分だけが酔ってしまうというのも申し訳なく、普段のカムイルは第一世界では滅多にアルコールを口にしていない。飲んでも度数が低くて薄いものを一杯だけということがほとんどで、一方でリーンは酔ったカムイルの姿が見たいのか隙あらば「飲んでもいいんですよ」と飲酒を勧めてくる。ならば今夜は喜んでくれるリーンのためにもほろ酔い程度に飲んでしまおうか、とカムイルは腹を決めた。
「そういえば俺、彷徨う階段亭って朝か昼に行くことが多くて、夜の酒場としての本業をやってるときに飲みに行ったことなかったなぁ…ディナーって部屋でつくるか、食べに行くときはガイアも一緒にユールモアが多かったし」
「言われてみればそうですね」
「リーンは夜にも行ったことあるの?」
「はい、ガイアと二人のときに何度か。グリナードさんか気を遣ってカウンター席をいつも開けてくれるから、夜でも安心して食事ができるんです」
 直接的に訊ねたわけではなかったが、夜の酒場に女子二人で食事に行っても安全には気を付けている様子がわかってほっと胸を撫で下ろす。クリスタリウムの住民や治安を疑っているわけではないが、アルコールが入る席ではどうしたって心配になるものだ。

「……その警戒心を、俺にも少しは向けてもいいと思うんだけどなぁ」
 リーンには聞こえない声量で、言っても仕方のないことをぼやいてみる。
 恋人である以上、異性として意識されていないという訳ではない。カムイルが軽率な行為や乱暴なことをしないとリーンが信用してくれているのはそれだけ、リーンが大人になるまでの時間の過ごし方について二人で真剣に話をしてきたことの裏返しだ。その全幅の信頼に自分が足るのかとカムイル自身が不安に感じてしまっていた時期もあったが、その不安もまた二人で乗り越えた今、アルコールを入れる夜を二人で過ごすのはちょっとした節目にもなるかもしれないと思った。
「リーンは何か、ノンアルで気に入ったカクテルが見つかった?」
「えっと…基本的にはジュースと同じ感覚で飲めるものを頼むことが多いんですけど、この間グレープフルーツとレモンの果汁にトニックウォーターを合わせたものを飲んだ時は、甘さよりも爽やかな酸味や苦味の方が強くて、実際のお酒ってこんな感じかな…って」
「ああ、確かに。甘いサイダーで割るものよりは、苦味が強いトニックの方がお酒っぽさは感じるかもね」
「カムイルは?そういえば、あんまり好きなお酒の話は聞いたことがないかも」
「ふふっ、じゃあそれは夜のお楽しみだね」




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