いいから黙って甘やかさせてくれ





 一方、さらに数日が経過した第一世界。
 戻りが遅くなりそうだという手紙は、カムイルが原初世界へ戻った翌朝にはフェオからリーンの元へ届けられていた。簡単な任務内容と、それから、とんでもなく厄介なモンスターを相手にしているのだという愚痴混じりの所感。手紙の最後に「マジでヤバそうだから終わるまで連絡できないかも。ごめんなさい。」と綴られているのを見ると淋しい気持ちもあったが、難しい調査任務であるならそちらへ集中してほしいと考え、リーンからも返事の手紙を一通送っただけでカムイルとのやりとりはそれきりになっていた。
「……一ヶ月くらい、経っちゃったかな」
 日付は意識的に数えないようにしていたリーンだったが、彼の部屋で一人で過ごす淋しさにさえ馴れてしまうと、さすがに過ぎた時間の長さを意識せざるを得ない。部屋に残っていたカムイルのエーテルの名残も日々の暮らしでどんどん薄らいでしまって、今はもう、彼がそのままにしていった錬金術の作業机の付近でわずかに感じられるくらいだ。今日もそこへ吸い寄せられるように近づいてしまい、椅子に腰かけて行儀悪く机に片頬を乗せると、リーンは誤魔化さずに深く溜息を吐いた。

 本当は意識せずにいようとしただけで、カムイルの調査任務がもう一ヶ月半以上かかっていることをリーンは把握していた。
 せめて予定を詰め込んで淋しさを紛らわせようとあちこちで雑用や手伝いを引き受けていたものの、それらも最近では落ちついてしまって暇を持て余しがちになっていた。ならばせめて何か新しいことを始めようかと考えてみたものの、どうせならカムイルに相談したり教えてもらったりしたいと思うと食指があまり動かなかった。興味があった本も読みつくしてしまったし、何より、カムイルが傍にいないという日々があまりにも味気ない。何をするにしても無味乾燥に感じられて、自分はこんなに孤独に耐え難い性分だっただろうか、といっそ自虐的になる。
 エデン調査を終えたカムイルが第一世界を去って、原初世界で終末の騒動が起きてしまい、それらを解決してまた第一世界へ戻ってきてくれるまで。その月日の方がはるかに長かったはずなのに、想いを通じ合えた前と後ではこんなにも違うものなのか。
「はあ…、」
 よくないとわかっていても溜息を吐いてしまう。こんな気持ちになってしまうなら今夜は自分の部屋へ戻って寝た方がいいかもしれない、と。気持ちに引きずられるように重い体を起こしたリーンは、馴染みある気配を遠くに感じてぴくりと無意識に指を動かした。
(このエーテルの気配…――)
 今はまだ遠く――位置的には、ペンダント居住館の受付を通り過ぎた辺り。都市内エーテライトで移動してきたのか、突如リーンにも感じられるようになったエーテルの持ち主がずんずんと居住館の階段を駆け上がってくるのがわかる。
 任務完了の手紙はまだ届いていない。だが、リーンがエーテルの主を間違えるはずもない。弾かれたように椅子から腰を上げたリーンが部屋の玄関へ駆け出す足音とエーテルの主がフロアへ上がりきって玄関扉へ走ってくる足音が、完全にシンクロした。扉の向こうで鍵穴に差し込まれるよりも早く内鍵を回して開け、ドアノブを掴んで勢いよく扉を開く。
「カムイ…――」
「ただいま…ッ!」
 扉を開けた瞬間、耳を劈くほどの声と同時に視界が真っ暗になった。痛いくらいに鼓膜へ届いた声の主にがばりと真正面から抱き込まれたのだと半歩遅れて理解し、リーンも飛び上がるようにその背中へ勢いよく抱きついた。
「おかえりなさい…っ、お疲れ様でした…!」
 扉が開け放たれたままの玄関口で、飛び上がったリーンをそのまま抱え上げるようにカムイルがぎゅうぎゅうと強く抱きしめ返す。両足が完全に床から離れてしまったリーンが大人しく身を任せるとカムイルはリーンを抱えたままもぞもぞと玄関を奥まで入り、一度リーンを床へ降ろしてからゆっくりと玄関の扉を閉めた。
 振り返り改めてリーンを見下ろしてくるカムイルの表情がふにゃり、といつものように緩むのが見えると、リーンも嬉しくなって「えへへ」とはにかんだ笑みを浮かべてしまう。
「カムイルの大きな声、久々に聞いたからびっくりしちゃいました」
「ああ、ごめんね。やっと帰ってこられたから思わず…」
 言いながら、今度は優しくカムイルの腕の中へ抱き寄せられた。すっかり慣れ親しんでしまった腕の中の体温と、衣服越しにふんわりと香る香水。カムイルが帰ってきてくれたのだと五感のすべてで感じられて、リーンはつい先程まで机に乗せていた頬をカムイルの服へと擦り寄せた。

「声だけじゃなくて…こっちに戻ってくるって連絡もなかったから、それも驚きました」
「うん、それもごめん。でもフェオちゃんにお願いする時間も惜しくて、シャワーだけ浴びてすぐに戻ってきたんだ。一緒にパーティ組んでた友達が、報告書は任されたから早くリーンに会いに行ってあげなよ、って言ってくれて」
「えっ…じゃあ、依頼されてたお仕事は、今日終わったばかりなんですか?」
 さすがに原初世界で体を休めてから戻ってくるだろうと思っていたリーンは、三度驚かされてぱちくりと目を瞬かせながらカムイルを見上げてしまう。見上げられたカムイルと言えば報告書を放り出して戻ってきたことを咎められたと勘違いしたのか、少し拗ねた顔になって「だって…」と唇を尖らせる。
「一刻も早く、リーンの顔が見たかったんだもん。声も聞きたかったし、エーテルだって直に感じたかった」
「カムイル…、」
「リーンは?急に長いこと会えなくなって淋しかったのは俺だけ…?」
 わかってるくせに、と言うのは野暮だ。リーンが首を横に振ると、カムイルが片膝をついてリーンと目線を合わせてくれる。
「私も、淋しかったです。カムイルと想いを通じてからこんなに長い期間会えなかったのは、今回が初めてで…」
「うん、」
「お仕事なのはわかっているけど、早く帰ってきてほしかった」
 素直に思いを口にして、今度はリーンからカムイルの首に腕を回して抱きつく。カムイルがしゃがんでくれると彼の頭をちょうどリーンの胸元へ抱き寄せるようにできるので、リーンは抱きかかえたカムイルの角へそっと唇を寄せる。角へのスキンシップが原初世界のドラン族にとっての愛情表現なのだということは、ずっと前に教えてもらっていた。
「本当は、すぐに食べられるように食事を用意して待っていたかったんですけど…ごめんなさい、これからつくりますね」
 時刻は夕暮れを過ぎ夜が始まった頃合いで、何事もない日にいつも二人で夕食を摂っている時間に比べてやや遅い。カムイルに抱きついていた腕を放してリーンがキッチンへ向かおうとすると、それをわかっていたかのようにカムイルに優しく腰を抱き寄せられた。
「うわっ…⁉」
「ごめん、それも予定変更しよ」
 そう言ったカムイルにひょいと姫抱きにされてしまい、リーンは再びの浮遊感に慌ててカムイルへしがみ付く。どうしたものかとカムイルの顔を見上げている内にいつも二人でくっついて過ごしているソファに優しく降ろされ、そのリーンの前にカムイルが跪くので、なんだか畏まって尽くされているようでリーンの胸がドキドキと高鳴った。
「カ…カムイル…?」
 一体なにが始まるのだろうとリーンが首を傾げると、跪いたままのカムイルがリーンの手を取ってぎゅっと握りしめた。本当に、ロマンス小説で読んだことがある姫君と王子のような状況だ。握られた手から体温が上がって茹で上がってしまいそうなリーンに、カムイルは眼鏡の奥のエメラルドの瞳をきらりと光らせると、すう…と息を吸い込んでから思いの丈をぶつけるようにこう宣った。

「――俺の気が済むまで、俺にリーンを甘やかさせて下さいッ!」
「……え…?」
 ぱちくり、とリーンはまた目を瞬いてしまう。だが見つめ合っているカムイルの目は本気も本気で、「してほしいことは何でも言ってくれ」と口ほどにリーンへ訴えてくる。
「あ、の…待って下さい…!戻ってきたら甘やかしてほしいと言っていたのは、カムイルじゃないですか。ずっと危険地帯で調査任務にあたっていてお疲れなんですから、まずは私がカムイルを…――」
「ありがとう、リーン……でももう、俺が限界なんだよ…ッ」
 くぅ、と身の内から溢れるものを抑えるかのように、カムイルが悩まし気に唸る。カムイルに休んでほしい気持ちは山々だが、こうなってしまった彼を説得することもまた難しいとわかっているリーンは、まずは事情を聞こうと大人しくカムイルに頷いた。だがさすがにいつまでも床へ跪いたままいられるのも申し訳ないので、ぽんぽん、とソファを叩いて横に座るように促す。
「限界、と言うと……」
「いや、ほら…俺っていつも、リーンの身の回りのことやらせてもらってるでしょ?俺がリーンを甘やかすというより、リーンを甘やかしたい俺の我儘をリーンが受け入れて甘やかしてくれてるって感じだけど」

 なんだかややこしい言葉になってしまうが、実際、リーンとカムイルの関係はその通りなのだから仕方ない。
 毎日の食事は言わずもがな、ガイアと少しオシャレをして出かけたいとうっかり口にすればガイアの分まで流行の服やアクセサリーをつくってくれるし、髪や体を洗うソープもリーンに合わせて調合されたもので、風呂上りには定期的に洗い流さないヘアトリートメントやボディクリームでマッサージもしてくれる。ガンブレードを使えるようになりたいと言えば一緒に修練してくれて、彼の本業である黒魔法についても少しずつ教えてもらう機会が増えたし、リーンが興味のある原初世界の物事についてもたくさん話を聞かせてくれる。
 何をするにもリーンファーストで、最近はやっとカムイル自身の考えや希望も教えてくれるようになったものの、それらも結局は「リーンのため」という結論に辿りつく。
 リーンは当初、カムイルから一方的に尽くされて与えられてばかりの状況が申し訳なくて歯がゆい思いもしていたのだが、カムイル本人から「俺を甘やかすと思って受け入れてほしい」と言われてからは、確かに彼に甘えられている証なのかもしれないと考え方が変わってそれらを素直に受け取れるようになっていった――とはいえ、リーンも一方的に与えられてばかりでは嫌な性分なので、隙を見てはカムイルにお返しをしているのだが。


「ずっとあっちに行きっぱなしでさ、そしたらもう、なんというか…リーンにしてあげたいことが、山のように積み重なって…」
「それで、もう限界を迎えそうだと…?」
「そういうこと」
 素直に隣に座ってくれたカムイルは、論より証拠と言わんばかりにリーンの片腕をとると肘から下を程よい指圧でマッサージしながら事情を説明してくれた。そうやってカムイルにマッサージしてもらえるのもいつものことで、普通に生活しているだけでも前腕には疲れが溜まっているものなのだと語ってくれていたことを思い出す。
「夕食は?もう済ませちゃった?」
「はい。カムイルが戻ってくる、少し前に」
「そっかぁ…」
「あっ、でも…!」
 わかりやすくしゅんとするカムイルに、リーンが慌てて思いついた提案を口にする。
「でも…カムイルと一緒に食事ができるのも、久々だから。お言葉に甘えていいなら、軽めのものを一緒に食べたいです。スープとか、副菜とか」
「……ありがとう。じゃあ、一緒に食べよ」
 別に、カムイルに気を遣ったわけではない。せっかくなら一緒に何か食べたいというのもまた、リーンが素直に心に浮かべた我儘の一つだった。カムイルもそれをわかってくれるので、リーンの旋毛にキスをしてから腰を上げてキッチンへと向かった。調理師の仕度へ着替えながらアイスボックスの中身や常温保存が聞く食材のストックを確認し、それからソファに座ったままのリーンを振り返る。
「夕食は何を食べたの?」
「工芸館でオヴィムの肉をわけてもらったので、それでブラウンシチューを」
「えー、何それおいしそう。じゃあ、さっぱり系の味つけのものにしよっか」
 なんだかんだと言いながら、こうしてカムイルがキッチンに立つ姿を見るのも久しぶりのリーンは、機嫌よく調理を始めたカムイルの姿を眺める目元を綻ばせた。苦手な傭兵仕事で働き詰めだったカムイルを労わりたいという気持ちは、もちろん胸の内に残っている。だが今は、ようやく依頼から解放されたのだから伸び伸びと好きなことをさせてあげたいという気持ちにもなっていた。

 やがて手招きされて食事用のテーブルを覗き込むと、サーモンとオニオンのマリネ、ジンジャースープが控えめな量でリーンの席へと用意されていた。量こそ多いがカムイルもメニューは同じようで、さすがに小食のカムイルでも足りないのでは、と不安になる。そんなリーンの隠さない表情を見て、カムイルは苦笑しながら席に着くように促した。
「疲れすぎると逆に食欲がなくなる、ってことない?今がちょうどそんな感じなんだよね…それこそ、死ぬかと思いながら戦ってたはずなのに」
「でも、ジンジャースープはちょうどいいかもしれませんね。体が温まるから、今夜はよく眠れそうです」
「うん。俺も、そう思ってつくってみた。もちろん明日の朝はいつも通りのしっかりしたモーニングを用意するから安心して」
 それからカムイルは、食事をしながら今回の調査任務について愚痴混じりにリーンに聞かせてくれた。
第一世界では馴染みのない賢具を使うヒーラーとして参加したカムイルとしては、肉体的な疲労よりもエーテル操作やモンスターの動きを俯瞰的に把握して先手を打つための頭脳労働の方がメインだったようで、食事や睡眠はもちろんだが、どちらかといえば落ちついた環境で体内のエーテル循環を促進させてそちらの疲労回復をはかりたいらしい。
「…だから、できるだけ早くリーンのところに戻ってきたかったんだ。リーンにいろいろしてあげたいってのもあるけど、俺は、リーンのエーテルを感じられると落ちつくから」
 人のエーテルには誰しも属性の相性が大なり小なりあって、カムイルの場合は複雑な事情から霊極性――特に氷との相性がいい。加えて本業が黒魔道士であるカムイルはアンブラルブリザード状態でのエーテル吸収量や速度も多く、黒魔法を使っていない日常生活においても周囲のエーテルを敏感に感じ取りやすい。
 そんなカムイルにとって光、ひいては氷属性とも共鳴反応をしやすいリーン自身のエーテルはとても心地よいものらしく、傍にいられるだけでも癒される、とよく口にしていた。
「じゃあカムイル、明日はちょっと寝坊をして、ベッドでゆっくり過ごしませんか?」
「ベッドで…?」
 少しだらしなくて行儀も悪いかもしれないが、カムイルには体も休めてもらいたいし、明日はいつも通りの時間に起きててきぱきと朝食をつくって食べるよりも、サイドテーブルの上に必要最低限の飲み物とひと口で摘まみやすい食べ物を用意してベッドの上でゆっくり過ごしてみたいと思った。
「カムイルにいろいろしてもらえるのも嬉しいけど…その前に、二人でゆっくり過ごす時間もほしいです。ちょっとお行儀が悪いかもしれないけど、ベッドからあまり降りなくても過ごせるように簡単な食べ物や飲み物を用意して。そうしたら私はカムイルにたくさん甘えられるし、カムイルも、私の傍でゆっくりしていたら体内エーテルの流れが癒せるからと思って」
 どうだろうか、とリーンは少し不安に思いながらカムイルに提案してみる。正面のカムイルは食事を続けながら考え込むような表情をしていたが、咀嚼していたマリネをスープで飲み込むと穏やかな笑みを返してくれた。
「それ、いいね。飲み物は水と一緒にケトルにお茶でも用意しておけばいいし、食べ物も一晩くらいなら乾燥しないように常温で何かしら保存できると思うから、寝る前に準備するよ」
「…!」
 提案を受け入れてもらえたこと――何より明日の朝はカムイルと存分にのんびりできるのだという喜びで、リーンは顔を輝かせるのを抑えきれなかった。そんなリーンに苦笑を漏らし、カムイルがテーブルの向こうから腕を伸ばして頭を優しく撫でてくれる。
「ご飯食べ終わったら、シャワー浴びておいでよ。俺はその間に準備しちゃうから」
「えへへ、ありがとうございます」


   ◆◇◆


 シャワーを浴びて寝巻用のナイトドレスへ着替えたリーンが居室へ戻ると、予想していた通り、カムイルがヘアオイルとボディクリームを用意しながらソファで待ってくれていた。乾いたタオルを広げて「おいで」と招いてくれるので、軽いタオルドライをしたまままとめておいた髪を解きながらカムイルの両膝の間へ腰を下ろす。
「リーンの髪を乾かすのも久々だねぇ」
「はい、よろしくお願いします」
 新しいタオルを頭の上にふわりとかけられ、そのままカムイルの大きな手が残っている水気を吸わせるように優しく頭部全体を包み込む。次第に指で頭皮をマッサージするように髪の根元から丁寧に乾かされ始めると、心地よさでリーンは思わずほう、と息を吐いた。
「あ、そうだ。実はね、今日はリーンにおもしろいお土産を持ってきたんだよ」
「お土産…?」
「うん。ある程度髪が乾いたら見せてあげるから、お楽しみにね」
 頭頂部の水分をとったタオルが濡れて重くなると、また新しいタオルに変えて今度は首筋の生え際からその下の髪を挟み込むように優しく水気をとっていく。そうやって毛先まで一通りタオルで乾かし終えると、カムイルは自分の腰元とソファの背もたれの間に隠していたものを取り出してリーンに見せてくれた。
「…何ですか、これ?」
 手で持てるサイズの筒状のもので、筒の先端には何やら窄まった形状の蓋のようなものがついている。カムイルから渡してもらったリーンがその蓋を開けて筒の中身を覗き込むと、金網のような仕切りの奥に小さなファンが見えた。ぱっと見た印象は、何かクラフトするときに使う工具に近い。首を傾げながらリーンがカムイルへその器具を返すと、後背からリーンの顔を覗き込んでいたカムイルがふふん、と楽しそうに笑みを溢した。
「これはね、オルト・エウレカで拾ってきたアラガン扇風機……と、ガレマール帝国で使われていた魔導ドライヤーを掛け合わせてつくられた、エーテル操作でも動くドライヤーだよ。髪を痛めず手早く乾かすための温風が出せるんだ」
「温風…?」
「ま、とりあえずお試しあれってね」
「わ…っ⁉」
 駆動音がしたかと思うと突然耳裏に温風が吹きつけられ、リーンはカムイルの脚の間でびくりと飛び上がった。風を送り出すためかドライヤーと呼ばれた器具がごうごうと唸り続けていて最初は怖かったが、馴れてしまえば程よい温度で吹き付けてくる温風とカムイルの指先の動きが心地よくなんだか眠気を誘われるようで、リーンは瞳がとろんと蕩けそうになっていることを自覚した。
「熱くない?」
「はい、大丈夫です。むしろ、とっても気持ちよくて…」
「そう。それならよかった」
 ドライヤーは相変わらずごうごうと唸っているが、カムイルとの会話を妨げるほどではない。絶えず温風が当たる場所を変えながら念入りに根本を乾かされると、今度は片手に櫛を持ったカムイルが毛流れを整えながら毛先まで丁寧に温風を当てていく。人力のタオルドライだけで乾かすよりもずっと早く髪の毛の一本一本から水気が飛んでいくのがリーンにもわかって、うっとりと閉じてしまっていた瞼を開いて思わずカムイルに訊ねた。
「原初世界には、こんなに便利なものがあるんですね」
「いや、別に一般に普及してるものじゃないよ。ガレマルドではドライヤーを使っている家庭も珍しくなかったみたいだけど…」

 曰く、オルト・エウレカ調査の最中に古代アラグ時代の遺物である手持ち型の送風機を見つけたカムイル達は、その日の夜に食卓を囲みながら「このハンディ扇風機とガレマルドの魔導ドライヤーをうまいこと組み合わせたら、青燐水のエネルギーじゃなくてエーテル供給で使えるドライヤーがつくれるんじゃね?」というアイディアを思いついたらしい。
 とはいえ過酷な裏ルート攻略の合間でそれらを弄繰り回す余裕などなく、当時すでに作戦開始から数週間が経過してフラストレーションが溜まり始めていたカムイルが強引にグ・ラハを捕まえて、「ギル報酬はいらないからこれで何とかエーテル駆動するドライヤーをつくってくれ」と押しつけてうまれたものらしい。

「ラハも俺達への依頼が想像以上の重さだったのを気に病んでいたみたいでさぁ…これがあったらリーンの綺麗な髪をダメージ少なく乾かしてあげられるだろうし、リーンへのお土産に絶対欲しい、なんなら工芸館で生産できるようになればこっちの生活が豊かになるから――…って我ながらすげえ我儘言ったんだけど、忙しいのに快諾してくれて」
「ふふっ…水晶公が開発に関わったものとわかったら、工芸館の人達はお祭り騒ぎですね」
「だよね。まあ実際に頑張ってくれたのはラハからさらに依頼を受けた技術屋の人達なんだろうけど、俺達の調査作戦が長引いたおかげで戻ってくる前に受け取れたんだ」
 カムイルがドライヤーを止めて机の上に片付けるのでリーンがおそるおそる自分の髪を触ってみると、髪の内側までどこも湿っぽくなく完全に乾いてさらさらになっていた。
「すごい…こんなに早く乾くなんて」
「でしょ?はい、じゃあ次はヘアオイルね」
 カムイルが掌に出したオイルを体温で馴染ませ始めたので、つけてもらいやすいようにリーンは正面を向いて座り直す。軽く頭皮をマッサージしながら手櫛で優しく毛先まで整えられるとドライヤーのときとはまた違った心地よさや安心感があり、ふわ、とリーンは表情を緩ませてうっとりと溜息を吐き出した。
「カムイルに髪を触ってもらうの、好きです…気持ちよくて、安心できて」
「そう言ってもらえると俺も嬉しいよ。せっかくこんなに綺麗な髪なんだから、俺にできるお世話はこれからもさせてね」
 ちゅう、と最後の仕上げと言わんばかりに旋毛にキスが落ちてくる。それがくすぐったくて笑うリーンの視界の端でカムイルがオイルのついた手を念入りに拭くので、次を察してリーンも乾かしたての長い髪を緩く手でまとめ上げる。

 首筋から肩と背中、それから両腕と、膝から下の両脚。今の関係でカムイルの手で地肌に触れてもらうために二人で話し合って決めた場所だ。けしてやましい目的で触れられる訳ではないが、大人になるまでの期間がもどかしいと感じているリーンにとっては、カムイルの手で地肌に触れてもらえるこの時間にはちょっぴり特別なものを感じていた。
「ボディクリーム、減ってるね。俺がいない間も使ってくれたんだ?」
「はい、この匂いが好きなのでお風呂上りに」
「超うれしー…じゃあ次もこの調合でつくるね」
 カムイルの体温で薄く伸ばされたクリームが首筋から肩、手を差し入れずとも触れられる範囲の背中やデコルテのコリをほぐすようにつけられていく。
 カムイル曰く、首筋から鎖骨にかけてのラインは体内エーテルの大きな循環路の一つでもあり、心臓の近くのエーテル循環が一度濃くなる場所にも近いので、血流やリンパを流すのと同じように意識してマッサージをするとエーテル由来の疲労解消も促されるらしい。リーンも真似して一人のときにやっているのだが、やはり黒魔道士として体内外のエーテル循環に明るいカムイルにしてもらうと全然違う。無意識に溜まっていた疲労が解きほぐされていくようで、またドライヤーをしてもらっていたときのようにリーンの瞳が蕩け始めた。
「はい、じゃあ次は腕ね」
「ん…」
 心地よさで動きも受け答えも緩慢になってしまう。リーンがもぞりと右腕を差し出すと、緩いナイトドレスの袖をカムイルが丁寧に捲り上げてくれる。
「ふふっ、気持ちよさそうな顔してくれてるね」
「だって、本当に気持ちいいから…」
「あと、ちょっと疲れも溜まってたみたい。結構凝ってるから、また毎日少しずつ解していこうね」
 恋人に後ろから抱えてもらって、広い胸板にもたれかかりながら、慈しむような手つきで、眼差しで、声で、これ以上ないほどに甘やかされている。カムイルが第一世界に滞在してくれている間はほぼ毎日のことですっかり感覚が麻痺していたが、久しぶりにこうして丁寧にケアをされていると、どんなに幸せで贅沢なことなのかということを思い出す。
「カムイル、」
「うん?」
「…帰ってきてくれて、ありがとう」
 本当は原初世界の住人で、あちらの世界には大切な家族も仲がいい友達もいて、冒険者としての暮らしがあるのに。カムイルがこうしてリーンの傍で過ごすことを選んでくれていることが、とても嬉しい。すり…と甘えるように頭をカムイルの胸元へ押しつけると、両脚につけるためのクリームをとろうとしていたカムイルの手がぴたりと止まった。
「…甘えたさんだね。このままの方がいい?」
「うん、」
「じゃあ、ちょっとだけ体勢を変えよっか」
 よいしょ、と小さく声を上げながらカムイルがリーンをしっかりと抱え上げ、リーンごとソファの上で体勢を変えて横向きに座り直す。ソファの上にあげた二人の脚が伸ばしやすいようにもぞもぞとポジショニングを整えると、カムイルは改めてボディクリームの容器へと腕を伸ばした。
 いつもなら脚へボディクリームを塗ってもらうときは向かい合うように座り直すのだが、それでカムイルと離れてしまうのが嫌だと暗に訴えたリーンの心中をカムイルが察してくれたのだ。少し行儀が悪いがドレスの裾をたくし上げて膝下だけが見えるように片脚を持ち上げると、リーンが疲れないようにとカムイルが足首を持って支えてくれる。
「この体勢、塗りにくいですか…?」
「いや、そんなことないよ。リーンこそ疲れない?」
「大丈夫です」
 まるでカムイルに全身包み込まれているようで、リーンはうっとりと目を閉じると脱力してカムイルに身を任せる。ふくらはぎや脚の外側も日常生活を送っているだけで疲れやすい場所だと教えてもらっていた通りで、久々にカムイルの大きな指で指圧されると凝りが解れていくのがわかる。これだけしっかりと全身のケアをされた後だと、今夜はいつも以上にぐっすりと眠れそうだった。明日の予定を寝坊にしたのは正解だったかもしれない。


「……はい、おしまい」
 ぽん、と最後に両膝を優しく叩かれてマッサージの終わりを告げられる。解された凝りや疲れが程よい倦怠感になって全身を巡り始めた頃合いで、リーンは少し気怠さを感じながらもむくりとカムイルへ凭れていた上体を起こす。
「ありがとうございます。すっきりしました」
「どういたしまして。片付けと明日の準備するから、先にベッド入ってて」
 言われた通り素直にベッドへ向かったリーンは、いつもなら水が入ったケトルとグラスだけが置かれているサイドテーブルの上に他にも器が用意されていることに気付いた。ひとつは皮をむいてひと口大にカットされたピクシーアップルが入った深皿で、透明な蓋の内側は手を近づけるとひんやりしているので、瑞々しさを保ったまま保存できるようにカムイルが処理してくれたものらしい。ケトルの隣には透明な容器にたっぷりの水とほんのり色を滲ませているティーパックが沈められているので、二人がたまに飲む水出しの花茶を用意してくれたのだとわかる。
「お待たせ、」
 ベッドに腰を掛けてそれらを眺めながら待っていると、カムイルが蓋つきのマグカップを両手に持ってベッドまでやってきた。サイドテーブルの空いていたスペースにカップを置いて「よし」と小さく溢すと、リーンの肩を叩いて横になるように促してくれる。
 カムイルの部屋で過ごすのがほぼ毎日になってから二人でもゆったり寝られるようにと新調したベッドは、元々ペンダント居住館の各部屋に備え付けられていたものよりも大きい。先にリーンが奥側へ詰めて横になると、カムイルもそれに続いてすぐ隣に上がってきて毛布をかけてくれる。一つの毛布に包まって眠るようになったものの、夜寝るときは背中合わせで、というルールは相変わらずだ。最初は顔を見れない淋しさがあったリーンだったが、背中と背中をぴたりと合わせることで互いの体温を感じられるこの姿勢が、今ではすっかり気に入っていた。
「…明日の朝のこと、提案してくれてありがとう」
 背中合わせになって部屋の灯りも消して、薄暗くなったベッドの中で背中越しにカムイルの声が聞こえてくる。互いに寝付く前に少しだけ交わす会話も久しぶりのことで、思わず緩んでしまう口元をリーンは毛布の下に隠した。
「カムイルこそ、ありがとうございます。いろいろと準備してくれて」
「別に、大したことじゃないよ。朝起きてから朝食をつくるのに比べたらかなり手抜きで時間もかけてないし」
「ううん、それでも嬉しい」
 明日の朝は久しぶりに恋人との時間を独り占めできるのだというときめきと、その我儘を受け入れてくれたカムイルが準備まで整えてくれたという喜び。だがわくわくして眠れないということはなく、マッサージ後の程よい倦怠感と安心できるカムイルの体温にじわじわと眠気を促され、リーンは隠した毛布の下で小さく欠伸をした。
「おやすみなさい、カムイル」
「うん、おやすみ」
 毛布の下で共有している体温のぬくもりに包まれて、リーンは瞼を閉じるとすぐに眠りへと落ちた。




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