<CASE1:第一世界編>





 乾杯、と会場中にそれぞれがグラスを鳴らす音が響いた。その音を合図に生演奏も始まり、会場は一気に賑やかになる。パーティ特有の喧騒の中、カムイルとリーンとガイアも三人で小さくグラスを鳴らし合った。
「私達のドレスを用意してくれた最高の職人に、」
「乾杯っ!」
「もう…褒めても何も出ないよ?」
 カムイルは苦笑交じりにグラスへ口づけ、その中身が酔いやすいカクテルだとわかっているので舌で舐めるように小さくひと口味わう。華やかな会場の雰囲気も相まってか、アルコールの舌触りと喉越しはいつもより強く感じた。いつも以上に用心して飲まないとすぐに酔ってしまいそうだ。
「今回のケータリングは、ミーン工芸館の提供だったんですね。最近ずっと忙しそうにしていたけど、全然気づかなかった…」
「どれもおいしそうだったよ。いくつか適当にとってこようか?」
 ドレス姿で往復するのは大変だろうとカムイルが提案するが、リーンは「大丈夫です」と首を横に振る。それでもせっかくだから…とカムイルが口を開こうとすると、それよりも早く、控えめにカムイルの袖口が引っ張られた。
 視線を降ろせば、いつもよりも見えやすいリーンの首筋がほんのりと色付いている。さらに視線を下げれば、リーンの指先が小さくカムイルのジャケットの袖を掴んでいた。
「……今日は、ずっと一緒にいてほしいから」
 小さく、会場の喧騒にかき消されてしまいそうな声。それでもカムイルにはしっかりと届いて、たまらない気持ちが込み上げてきて、袖口を掴んでくれているリーンの指先を優しく握り返す。
「…わかった。今日はずっと、リーンの傍を離れないよ」
「うん…、」
 手を握ったことが合図になって、カムイルとリーンが自然と体を寄せ合う。ようやく恋人らしい距離感になった二人を隣でずっと見守っていたガイアは、空になったグラスを持つと二人から一歩距離をとった。
「それじゃ、あとは二人でゆっくり楽しんで」
「えっ…ちょっと待って!」
 そのまま会場の人混みに紛れてしまいかねないガイアをカムイルが慌てて引き留める。今日ばかりはさすがにガイアを一人にするわけにはいかないので思わず声を荒げてしまったが、ちょうどそのタイミングで男女の二人組がガイアに声をかけてきた。四十代中頃といったところか、顔見知りのようでガイアも親しげに挨拶を交わしている。
「紹介するわ。この間話した絵本の件で、私に声をかけてくれたご夫婦よ。今夜はこの二人が一緒に回って下さるから、私のことは心配しないで」
「まあ。貴方達がガイアさんの話していた戦士様と、ご友人のリーンさんね」
 上品なドレスを纏った奥方がたおやかに挨拶をしてくれたので、カムイルも小さく頭を下げる。人当たりはよさそうだが素性がわからずどうしたものかと戸惑う表情をカムイルが隠さずにいると、今度は夫の方が名刺を差し出しながら挨拶をしてくれた。
「私は元自由市民だが、それよりさらに前は製本工房の跡取り息子でね……お恥ずかしい話ながら、元首代行殿の就任演説を聞いてようやく目が覚めて、本づくりを通して社会貢献ができないかと活動中なんだ」
 受け取った名刺のクオリティの高さは、彼が言葉で語る以上にものづくりへの熱意と誠意が感じられる出来栄えだ。信用に値する人だとわかり、カムイルは態度を改めて夫妻へ深く頭を下げた。
「それは…存じ上げておらず失礼しました。この名刺の印字も、そちらの工房で?」
「おお…!さすがは工芸館の職人殿、わかってもらえるかい」
 紙の質感や印字の精密さに思わず関心が向いてしまうカムイルに、夫妻が顔を見合わせて嬉しそうに笑い合う。
「貴方達が我々の世界へ闇を取り戻してくれたことは、歴史書として、寓話として、様々なかたちで後世へと語り継がれるべきだと思っている。そのためにできることがあるなら惜しまず力になりたいと、そう考えているのさ」
 立派な志を持った、ガイアが共に仕事をしていけるパートナーだ。安心して彼女を任せられることがわかって、カムイルとリーンも互いに顔を見合わせて小さく笑い合う。
「今夜、ご挨拶ができてよかったです。これからもガイアをよろしくお願いします」
「こちらこそ。若いお二人も、どうぞ素敵な夜を過ごされますよう」

 ガイアは最後にカムイルとリーンへ手を振って、そのまま夫妻と談笑しながらまた別の要人の元へと挨拶に向かっていったようだ。三人の姿が見えなくなるまで見送ると、カムイルは握っていたリーンの手を小さく引いた。
「俺達も、ちょっと会場を歩いてみる?」
「!」
 思い付きの提案に、リーンがはっと目を輝かせてカムイルを見上げてくる。パーティ会場でのエスコートに憧れていたであろうことがこれでもかと伝わってきて、カムイルがそれとなく体と腕の間に隙間をつくると、リーンも遠慮なくそこへ腕を回してくれた。
「ふふっ…」
「めちゃくちゃ喜んでくれるじゃん」
「だって、本当に嬉しくて」
 ヒールで歩くリーンの歩幅に合わせ、ゆっくりとパーティ会場を歩く。その先々でやはりリーンのドレス姿は目を引き、声をかけられるたびにカムイルがつくってくれたのだと嬉しそうに話すので、最初は鼻が高かったカムイルもじわじわと気恥ずかしさの方が勝るようになってきた。
 リーンとガイアのガード役だと思えば苦にならなかったパーティだが、元来カムイルは人見知りだ。立て続けに不特定多数の人間と話すことに疲れてきたので少しだけ休憩を申し出ようかとリーンへ視線を落とそうとすると、そのタイミングで先にリーンが腕を引くので、カムイルも腰をかがめて角をリーンの顔の傍へと寄せる。リーンは少しだけ背伸びすると、カムイルの角にだけ響くようにこっそりと耳打ちをしてくれた。
「お化粧直しをしたいので、パウダールームに行ってもいいですか…?」
「えっ…?」
 まさかと思い視線を合わせれば、すべて承知でにっこりと微笑んでいるリーンがいる。カムイルの気疲れを察して、一息吐けるように会場を抜け出す理由をつくってくれたのだ。本当に、自分には勿体ないくらいの恋人だと思う。もちろん誰にも渡す気はないが。
「…ありがとう。じゃあ、行こっか」
「はいっ」
 これではどっちがエスコートしているかわからないな、と自分で自分に苦笑してしまう。


 パウダールームはエーテライトプラザ外周の通路沿いにあるので、その入口までリーンを送り届けると、カムイルは入口横の通路で待ちながら夜風に当たることにした。人混み特有の熱気とアルコールで火照り始めていた頬にコルシアの海風は程よく涼しく、ほっとして長く息を吐き出してしまう。
 ふと通路を見れば、他にも夜風に当たりに来たらしい招待客やカップルの姿が見えた。会場内の華々しさから離れてゆったりと過ごせるこの場所は落ちつくのだろう、穏やかな表情で過ごす人々の姿にカムイルも少し気持ちが安らぐ。
リーンの心遣いに甘えてしばらくはこっちでゆっくり過ごそうか、と。そんなことを考えていたカムイルの元へ、気配を隠さず一人の男が近づいてきた。
「ああ、姿が見えなくなったと思ったらこんなところに」
「…?」
 知り合い、というわけではなかった。見るからに元自由市民であったらしい、仕立てのよさそうなジャケットを着たエルフ族の男。歳はカムイルより年上の二十代後半から三十代前半といったところか。
 冒険者という職業柄、こちらが知らずとも他の人間に認知されていることは珍しくない。それにしても馴れ馴れしい言葉と態度にその手の気配を敏感に感じ取り、カムイルはいつもの人当たりのよい表情ではなく、警戒心を隠さない冷ややかな態度と眼差しで男を見た。
「悪いけど、連れがいるんだ」
「知ってるよ。あの、ミンフィリアだった女の子だろ?」
 思っていた通りのナンパ――それ以上に、カムイルの地雷を踏む発言。想定よりもよほどタチの悪い男への怒りで閉口してしまうカムイルに、男が構わずすり寄ってきて腰に手を回そうとしてくるので、カムイルも遠慮なく強い力で男の手を跳ね退けた。
「……わかってるならさっさと帰れよ。あんまりしつこいと衛兵呼ぶよ」
「まあまあ、そう怖い顔しないでよ」
 男は跳ね退けられた手の甲をさすりながらも悪びれる様子がなく、肩を竦めながらカムイルのすぐ隣に立って夜風を浴びる。こんなろくでもない男をリーンと鉢合わせさせたくないが、彼女がパウダールームから出てくるまではここを離れるわけにも行かない。さっさと消えてくれ、と男を睨んでもどこ吹く風で流された。
「今日だけじゃなくて、いつもあの子と一緒にいるだろ?大変だよねぇ…世界に闇を取り戻したその後も光の巫女に付きっきりで、まるで護衛のナイトじゃないか」
「だったら…――」
 何なんだ、お前には関係ない、と。そう突っぱねるために男へ詰め寄ろうとして、カムイルの言葉はそこまで続かなかった。
 ぞわり、と触覚よりも先に重くまとわりつくような恐怖が胸を鷲掴みにする。頭が真っ白になって、そこまで来てようやく、男の手が腰に回されそのまま抱き寄せられたのだと気が付いた。詰め寄ろうとしていたカムイルの自重の動きを利用されたのだとわかったところで、身長の近い男の吐息が角の付け根を掠めて鳥肌が立つ。
(まずい…――――)
 克服したはずのトラウマ感情が一気に去来して、カムイルはぴくりとも動けなくなった。
「…可哀想なナイト様だね。ちょっと人肌が触れ合っただけで大人しくなっちゃって、もしかしなくても、欲求不満だったんじゃない?」
 また腰を引かれ、パウダールームの入口から少し離れた壁際へ追い詰められる。入れ違うように若い女性の二人組が外へ出てきたが、恋人同士の逢瀬と思われたのか一瞥されただけでそのままパーティ会場へと戻っていった。

 身が竦んで、唇を開いても声を発するまでに時間がかかる。やっとの思いで喉を絞ってもタイミングを計ったように男の手がジャケットの下へ入り込んできて、またそれで閉口してしまうカムイルに男が小さく笑いを溢した。
「僕ね、前からずっと君のこと見ていたんだ。だからわかってるよ、君があの子とそういう仲ということもね。でも、いろいろと大変だろ?ずっと傍にいるのに、相手は手が出せない子供でさぁ…」
 次第に男の言わんとすることがわかり始めて、怒りで今すぐ横っ面を殴り飛ばしてやりたいのに、恐怖で竦みきった体が言うことを聞いてくれない。視線を逸らすのがやっとで、それさえ細やかすぎる抵抗だと鼻で笑われると、もうぎゅっと目を瞑って耐えるしかない。
「君みたいな若い盛りの子が、彼女が大人になるまでお預けなんて。だからさ、」
(やめろ…言うな…ッ!)
「いろいろ溜め込むのもよくないし、このパーティが終わったらでいいから僕と…――」
「――やめてください…っ!」
 どんっ、と目の前で何かが倒れる音。それと同時にすぐ傍まで迫っていた男の体温が消え去り、入れ替わるようにコルシア島の夜風が頬を撫でてくれた。閉ざした視界でもはっきりと聞こえた声に、まさか、と思いながらゆっくりと瞼を開ける。
「この人は……私のです…!」
「リーン……、」
 まるでカムイルを庇うように、リーンがカムイルの前に立ち塞がってくれていた。男は突き飛ばされたのか尻もちをついていて、だが驚いた様子もなく、リーンが戻ってきても変わらずにへらへらと笑っている。それを見てようやくカムイルの脳と体の信号が繋がるようになって、カムイルは反射的にリーンを庇うように抱きしめた。
「おお、怖い怖い…見つかっちゃうとは思ったけど、まさか突き飛ばされると思わなかったよ。こんな子供にたいそう気に入られちゃって、君も本当に可哀想に」
「テメェ…いい加減に――ッ」
「駄目…!抑えて!」
 呪杖を手に取り冷気を纏い始めたカムイルを抑え込むように、抱きしめられている腕の中でリーンがカムイルを強く抱き返す。アンブラルブリザード状態になりかけていたカムイルの周囲から冷気が治まり、また穏やかなコルシアの風が二人と男の間に吹き抜ける。その風が、遠くからこちらへ近づいてくる複数名の靴音を運んできた。
「そこ!何を騒いでいる!」
 騒ぎに気付いたのか、会場警備の衛兵達が慌ただしくカムイル達の元まで駆けつけてきた。互いに庇うように抱きしめ合っているカムイル達と尻もちをついたままの男とでは状況は一目瞭然で、衛兵達は迷うことなく男の身柄を拘束して連行するために立ち上がらせた。その姿を見て囚われの身だった頃のことを思い出したのか、リーンがカムイルの腕の中でぎゅっと身を小さくする。その身じろぎに目敏く気付いた衛兵の一人が足を止め、二人を気遣うように声をかけてくれた。
「お怪我はありませんか?せっかくの夜なのに、ご気分を悪くしてしまい申し訳ない」
「……いえ、大丈夫です」
 ぎゅっと身を寄せ合う二人に衛兵はそれ以上何も言わず、一礼してから男の移送へと合流していった。
 衛兵達の姿が見えなくなり、辺りに再び静かで穏やかな時間が流れ始める。だがそんな中で、抱き合ったままのカムイルとリーンの気持ちはなかなか凪いでくれなかった。


   ◆◇◆


「…………ごめん、」
 穏やかな静寂ではなく、重苦しい沈黙。それを破ってようやくカムイルが言葉を発すると、抱きしめられたままのリーンが何度も首を横に振った。
「私こそ、ごめんなさい…カムイルを一人にしてしまって」
「謝らないで。仕方ないよ、あんなにしつこい男がいるなんて思ってなかったし。それに、絡まれたのがリーンじゃなくてよかった…」
「よくない…ッ!」
 想像もしていなかったリーンの反論とその語気の強さに、カムイルは驚きでフリーズしてしまった。呆然としたままのカムイルの背にリーンが腕を回し、ドレスのかたちが崩れるのも気にせずぎゅっと力強く抱きついてくる。どうしたものか、とリーンの肩を抱き直そうとしたカムイルの腕が空を彷徨った。
「全然、よくないです…!大人だからとか、男の人だからとか、関係ない……っ」
「リーン…、」
「自分の大切な人が、あんなふうにされて…大丈夫じゃないです」
「…うん。ごめんね」
 リーンに嫌なものを見せてしまった上に助けられて、本当に情けない。リーンやガイアを悪い虫から守るのが自分の役目だったはずなのに、これでは立場が逆転している。相手にあそこまで許す隙を与えてしまったのも、自分の脇の甘さが原因だった。そのことを痛感して謝るしかないカムイルに、だが、ぎゅっと抱きついたままのリーンはまた首を何度も横に振った。
「カムイルは…わかってない…」
「え…?」
 カムイルでなければ聞き取れない小さな声が、震えている。まずいと思ってリーンの肩を掴み体を離そうとするが、リーンも頑なに抱きついたまま――顔をカムイルの腹に押し当てたままで、必死に隠そうとしている。
 焦りと、申し訳なさと、情けなさと。様々な感情で頭も胸もぐちゃぐちゃになりながら、それでもカムイルはリーンの表情を確かめようと肩を抱いた手に力を込めた。
「リーン、顔上げて…っ」
「嫌…っ…今は、駄目です…!」
「もうバレてるってば…!お願いだから…ッ」
 ぐい、と力強くリーンの体を引き剥がす。距離ができたことでようやく見れたリーンの表情に、カムイルは「嗚呼、」と感嘆の声を漏らすしかなかった。
「ごめん、なさい…っ…見ないで…」
 ぽろぽろと、隠し切れないほど大粒の涙がリーンのアイスブルーの瞳から次々と溢れて止まらない。カムイルから引き剥がされてしまった腕で慌てて顔を覆ったところで誤魔化せるものではなく、瞳と同じ淡い色のドレスに落ちてはそこに染みをつくっていく。カムイルはその顔を覗き込むように跪き、ジャケットの内ポケットからハンカチを取り出して高さの近くなったリーンの目元にそっと押し当てた。
(……本当に。何やってんだよ、俺は)
 リーンが泣く姿を見るのは、これが三度目だ。

 一度目は、エデンの調査が終わってカムイルがリーンにだけ本当の名前を告げたとき。二度目は、終末を乗り越えた先で互いの気持ちを確かめ合ったとき。どちらも嬉し泣きというやつだった。
だが、今夜はどうだ。せっかくリーンが楽しみにしていたパーティだというのに、己の脇の甘さで男に言い寄られてしまったばかりか、その場から助けてもらって。そして今度は泣かせてしまっている。
 どうか泣き止んで、なんて。そんな軽薄な言葉をかける気にはなれなかった。自分のせいで泣かせてしまっているのだから、リーンが落ちつくまでは黙って傍に寄り添って、その後で涙の理由を教えてもらえるように頭を下げて、自分の非を改めていくことを真摯に誓うしかない。
 そうしてしばらく、カムイルが優しく押し当てているハンカチがリーンの涙を吸って重くなり始めた頃。落ちつき始めたリーンが目元をハンカチからそっと離したので、カムイルも手を引いてハンカチを内ポケットへと収める。リーンの目元はまだ腫れてこそいないものの、両目がうるうるととして今にもまた溢れ出してしまいそうだった。
「…すみません、治まりました」
「うん、」
 どこか、落ちついて二人だけで話せる場所へ移った方がいい。言葉はなくとも二人共そう考えていて、カムイルが目についたビーハイヴの入口へとリーンの手をそれとなく引くと、リーンも小さく頷いてカムイルの後へと続いた。




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