<CASE2:ウルダハ編>





 当日、会場はケイロン達が滞在しているホテル内にあるパーティホール。ランディング経由でウルダハへ訪れたラザハン商人達が続々とホテルへ向かうので、大通りはちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。ガレアン・コミュニティとの通商条約が締結されたラザハンからの来訪ともなれば、今日のパーティに呼ばれていない市場の商人達でもどうしても浮足立つものだ。ウルダハ全体に、商人の都市としての活気が満ちつつある。

「――さて、我々も会場に向かおうか」
 賑わうウルダハの街並みを窓から見下ろしていたケイロンが振り返れば、パーティ用の仕度をそれぞれ整えたキャメロン、カメリア、そして社長秘書ベラージオに扮したワイモンドが頷く。ワイモンドはカラーレンズとオアシス風装束に加え、以前に別の潜入取材のために自前で用意したロングヘアのウィッグを被っていた。ワンレンの長い前髪をカーテンのように少しだけ顔のサイドに流し、残りは束ねて三つ編みにして肩にかけている。前髪の奥で見え隠れする瞳の明るさも相俟って、別人としての変装は完璧だった。
「準備はいいか?ベラージオ」
「ええ、生まれつきオーケーです」
 最終確認をするケイロンに、ワイモンドは柔和な微笑で答える。声色も平時のワイモンドのものよりワントーン高くて刺々しさや粗っぽさがない。その仕上がりにカメリアは隣で口笛を吹き、キャメロンも「はぁ…」とうっとり溜息を吐く。
「ベラージオくん、超イケメン…本人こんなに爽やか好青年なのに、これで海賊団での下積み経験あったり、陸に戻ってきたらウチみたいなカタギすれすれの会社にラッキーボーイとして拾われたり……カタギなのにカタギじゃない絶妙なバランスがたまらない」
「あははっ!男の趣味が悪いですよ、お嬢様」
 言いたい放題言ってくれるキャメロンに、ワイモンドはベラージオとしての外面を崩さないまま釘を刺す。声色をつくろったままでのコミュニケーションにも問題がなさそうなので、一行はいざ、と部屋からエレベーターへ乗り込んで会場へと向かった。

 銅刃団が警備する中、招待状を持った来賓達が次々とホールへ入場していく。入場案内待ちの列に並んでいると、ケイロンやキャメロンに気付いた者が会釈をしたり声をかけて挨拶をしてきたりした。中にはワイモンドが何度か取引をしたことがあるウルダハの商人も混ざっていたが、ベラージオの正体にはまったく気付かない様子で握手を求めてくる。ホール内に入って人混みに紛れてしまえばそれは尚更で、四人がウエルカムドリンクを受け取るとキャメロンがドレスをなびかせながらくるりとワイモンドを振り返った。
「お兄様のことはベラージオくんに任せて大丈夫そうだね!私は私でラザハンでお世話になった人が何人かいそうだから、挨拶回りしてくるよ」
「ええ、畏まりました。カメリア殿は如何なさいますか?」
「俺も、ちょっくら遺烈郷の人達と技術方面の交流してくるよ。目は離さないつもりだけど、旦那のこと頼んだよ」
 自然な流れでキャメロンとカメリアがその場を離れ、ケイロンとワイモンドのペア行動になる。商家として競合相手の懐を探ることが主目的の今夜、二人の勝負はここからが本番だった。
「…ではご挨拶回りと行きましょうか、社長」
「ああ、」


   ◆◇◆


 一方、兄達と別れたキャメロンは会場内を歩いて人とすれ違うたびに好意的な挨拶を受けていた。ウルダハ富裕層の間ではすっかり過激王党派の厄介者として札付きになってしまったキャメロンだが、ラザハンの人々にとっては、終末の最中で手を差し伸べ、今は太守ヴリトラの姉を連れ戻すために協力を惜しまない冒険者としての側面の方が印象強い。キャメロンが直接手を貸した者も、暁の血盟という大きな枠組みでの取り組みに感謝してくれている者も、述べられた感謝の言葉は多岐にわたる。
 不特定多数の人間との交流をあまり好まないキャメロンだが、それはそれとして、冒険者として愛嬌を振り撒いておく大切さはわかっている。簡単なファンサービスは欠かさないし、例え身に覚えがない相手でも「貴方に救われた」と言われればどういたしましてと答えて返す。身勝手に進んできただけという自覚がある自分の旅路が誰かのためになっていたのなら、それは思いがけず喜ばしいことであると受け取れるだけの素直さは持っているのだ。

 それにしても、気合を入れて製作したドレス姿を褒められながらの挨拶回りで少々浮かれてしまったせいもあってか、喉が渇いて酒の進みがはやい。ウエルカムドリンクだったラザハン蒸留酒のスパークリングを早くも飲み干したキャメロンは、二杯目のついでに何か摘まめるものもほしいと思って会場内に視線を巡らせる。そんなキャメロンの低い目の高さへ、不意に新たなグラスとカナッペが盛り合わせられた皿が差し出された。
「?」
 振り向けば、いつの間にか一人の青年がキャメロンのすぐ隣に跪いてそれらを差し出してくれていた。歳の頃はキャメロンより少し上の二十代半ばだろうか、顎髭を整えた精悍な顔つきのミッドランダーで、要するに、とてつもなくキャメロン好みの顔だった。
「こんばんは。二杯目のグラスをお求めなら、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
 素直にグラスを受け取り、空いた手でドレスの裾を持ちながらお辞儀をする。キャメロンがなんとなく察した雰囲気の通り、青年は立ち上がると顔の動きでキャメロンを誘った。
「ラザハンを救った冒険者殿と、ぜひお話がしたかったのです。もしよろしければ、あちらで腰を落ちつけてゆっくりしませんか?」
 視線の先、会場端に用意された二人掛けソファのうちの一つが空いていた。そこに座って話がしたいという青年にキャメロンも悪い気はしないので頷くと、青年は凛々しい表情を崩して嬉しそうに笑ってくれる。そのまま二人でソファへ移動し、隣合って座ると互いのグラスを傾けて乾杯を交わした。
「よかった…駄目元のお誘いだったので、てっきり断られるかと」
「そう?気難しい人も中にはいるけど、暁にいた冒険者達ってみんな、基本的には誘われれば悪い気はしないし話を聞いてくれる人が多いよ」
「ふふっ、貴方もそんな一人でよかった」
 少し言葉を交わし、大丈夫そうだな、とキャメロンは青年への警戒を少しだけ解いた。


 職業柄、悪意や下心をもって声をかけられる機会は少なくない。キャメロンに限らず、冒険者というものはみんながそうだ。こうして声をかけられる機会が多くなるにつれ、場数の多さと養われた危機察知の勘でそれらを自然と判断できるようになる。だから、冒険者というものが救いの手を差し伸べるのは本当に困っている相手にだけであって、何か思惑があって取り入ろうとしてくる相手のおつかいを引き受けることはない。それらを飲み込んで厄介ごとに巻き込まれることがあるとすれば、手ぐすねを引こうとしているならず者の向こう側にいるであろう人々を助けるためだ。
 だから、今こうして隣で嬉しそうに語りかけてくる青年が、本心から冒険者キャメロンに好意的に接してくれていることもわかる。顎鬚がよく似合う男らしい整った顔立ちだというのに、一生懸命こちらへ話をしてくれる様子はまるで少年だ。かわいいな、と。ミッドランダー男性に目がないことを普段から隠していないキャメロンは、青年に相槌を打つ瞳を細めて笑った。
「俺、アルキミヤ製薬堂で会計仕事をしているんです。製品の出荷管理を任されることもあるから、今日のパーティは勉強の機会だと思って行ってこい、と勧められて」
「へえ、」
「それで、貴方は覚えてないかもしれないんですけど、実は俺……ラザハンの人々が獣になってしまったあの日、製糸局の桑畑で貴方に助けてもらっていて」
 話題があの日の凄惨なラザハンに移ると青年の表情が少しだけ陰り、当時を思い出したキャメロンも少しだけ視線が下がる。
 アーテリスの各地で人々が終末を乗り越え、獣化の連鎖被害が落ちついたとしても、起きてしまった悲しみは簡単に癒えるものではない。青年が言う通りキャメロンは彼のことを覚えていなかったが、あのときがむしゃらになって走り回り声掛けをした中に彼もいたのなら、こうして命が繋ぎ止められてグラスを傾け合うことができているのは、本当に奇跡のようなことだと思う。
「俺は…目の前で、恋人が獣になってしまったんです。彼女の友人が狒々のような獣に殺されてしまって、その恐怖の連鎖で、彼女も。連鎖は俺にも伝わって、ついさっきまで手を繋いで励まし合っていた恋人が獣になって自分へ振り向いたとき、俺の体にも恐怖で黒い靄が出始めていました」
「…………」
「でもその時、貴方が遠くから炎を放って獣になった彼女を倒してくれて。そのまま靄に包まれそうな俺にまっすぐ走ってきて、びっくりするくらい大きな声で叫んでくれたんです――今は自分の事だけ考えろ、って」
 青年の話を聞き、そういえばそうだったな、と当時を思い出す。

 絶望のかたちは人それぞれだ。どんな言葉をかければ獣化を止められるかなんてわからないし、正解を探している内に手遅れになってしまう。だからキャメロンはあの日、声が届く限りの人に「自分のことだけ考えろ」「身勝手になれ」とひたすら叫んで回った。明日のことすら考える余裕もなく、今ここで生き延びられている自分自身のことだけに集中しろと叫んだ。それが正解だったかどうかはやはりわからないものだが、少なくとも、隣にいる青年にとっては正しい言葉だったようだ。
「貴方の言葉は、俺にとっては雷を撃たれたような衝撃で。それまではずっと恋人のためを思って生きてきたから、自分勝手になるなんて想像もつかなかった。身勝手に生き延びることをあの日肯定してもらえていなかったら…きっと俺は彼女への未練で獣になるか、そうでなくても自ら命を絶っていたかもしれない」
「…うん、」
「一人だけ生き延びてしまったことへの罪悪感を、貴方が許してくれたんです。だから今夜は、どうしても直接お礼が言いたくて」
 そこまでで話を区切ると、青年は手に持っていたグラスをテーブルにおいて体ごとキャメロンへと向き直った。改まった姿勢で真っ直ぐに見つめられると、キャメロンもさすがに「おや?」と風向きが変わったことを察する。
 けして、悪意や下心をもって声をかけられたわけではない。青年がキャメロンへ向ける好意は偽りのないもので、キャメロンを害するような意図はない――が、命の恩人への感謝や憧憬以上の何かが急に感じられるようになり、キャメロンはほんの少しだけ身構える。
「冒険者殿…いいえ、キャメロン殿」
「…………、」
「俺は、命の恩人である貴方のことが…――――」
 嗚呼、まずったなぁ……と。
青年に小さな手を握られながら、キャメロンは顔には出さず胸の中だけでぼやいた。


   ◆◇◆


 一方、ケイロンとワイモンドは順調にサベネアからのゲスト達と懇親を深めていた。社長秘書ベラージオの存在に違和感を覚える者はなく、皆一様に、ケイロンの隣でにこやかに控えているワイモンドの所作やその受け答えの卒のなさに感心しきりだった。
 ただ一人、ワイモンドと旧知の仲である悪友を除いては――

「おや、珍しい方を連れていらっしゃいますネ」
「!」
 一通りの挨拶の波が落ちついた頃、会場端の壁際で一息吐いたケイロンとワイモンドにふらりと近づいてきた一人の男――いつもの青い着物ではなくオアシス風の装いに身を包んだハンコックが親し気に挨拶してきたので、ワイモンドはベラージオとしての外面はなんとか保ったまま、すっとぼけて隣のケイロンを見下ろした。
「社長、この方は…?」
「東アルデナード商会クガネ支店番頭のハンコック殿だ。ウチはかねてから懇意にしていただいているから、お前も名前くらいは知っているだろう」
 さすがに観察眼も鋭いハンコックには勘付かれるとわかっていたのか、それとも最初から事情をすべて話しているのか。ケイロンはハンコックの不意打ちにも動じず、秘蔵の社長秘書を初めて紹介する体で冷静にハンコックへ向き直る。
「ハンコック殿、こちらは私の秘書のベラージオだ。表には顔も名前も出していないが、いろいろとウチの面倒事を引き受けて支えてくれている」
「それはそれは…初めまして、ベラージオさん」
 何を言わなくてもすべて察するハンコックは、こんなときでも外していない赤いサングラス越しににっこりとワイモンドに微笑んで握手を求めてくる。正体を明かすような言動ができないワイモンドへのちょっとした嫌がらせだ。そうとわかっても差し出された手を拒むわけにはいかないので、ワイモンドも嫌味なくらいに爽やかな笑顔でハンコックの握手へ応じる。
「貴方がハンコック殿でしたか。お名前はかねがね、社長がお世話になっております」
「いえいえ。こちらとしても、ガルシア錬金商には大変お世話になっておりマス。それにしてもよい男ぶりデスネ!こんなに素敵な秘書殿が御当主の側近にいらっしゃるとなれば、ミッドランダーに目がない妹君からの覚えもさぞよいでしょう!」
(コイツ絶対に後でぶん殴る)
 今夜の状況が面白くて仕方がないハンコックがわかりやすく煽ってきたので、ワイモンドも表情は崩さないまま握手を交わす手にありったけの力を込めて返してやった。痛みで肩を竦めたハンコックが手を引いたのでワイモンドもすぐに解放してやる。
 ハンコックは痛む手をさすりながらまた一歩ワイモンドへ近づくと、今度は耳打ちをするように体を寄せてワイモンドの背を壁にぴたりと縫い付けにした。ベラージオの体裁を保ったままでは手荒く抵抗するわけにもいかないワイモンドが雰囲気だけで不愉快さを露わにすると、耳元に近くなっていたハンコックの唇から小さく笑いがこぼれる。
「ところで、秘書殿……妹君の動向には、目を光らせていなくてもよろしいので…?」
「は…?」
「仕事熱心も結構ですが…何やら、あちらで随分とよい雰囲気になっているようデス」

 あちら、と。身を引いたハンコックがサングラス越しの視線を彼の背後へ滑らせた。釣られるようにワイモンドも思わず視線で追ってしまった先、会場の反対側の壁際には座って休憩できるようにソファとテーブルがいくつか用意されていて、その内の一つにキャメロンが座っていた。鮮やかなエメラルドグリーンのドレスは暗い照明の会場内でもそれなりに目立つ。問題は、その隣だ。
「あれは……、」
 ミッドランダーの、それもキャメロンが非常に好みそうな精悍な顔つきの男が座っていた。一見すれば、ただの談笑風景。冒険者であるキャメロンが会場内で誰かに声をかけられないわけもなく、中には意気投合した結果、ゆっくりと腰を落ちつけて話し込むこともあるだろう。彼女が冒険者という身の上で、しかも好みの男性とあらば食いつきがいいということまで考えれば、特別気に留めるようなことではない。ワイモンドとキャメロンは、互いにそんなことで一々目くじらを立てるような恋人関係ではないのだから。
「――――」
 だが、ワイモンドは気付いてしまった。青年が熱心にキャメロンを見つめる眼差しが、彼女に対して本気だと口ほどに物語っていることを。情報屋として培ってきた観察眼がそれに気付かせたのか、それとも、曲がりなりにも彼女の恋人であるという矜持がそう思わせたのか。だがもう、ワイモンドの目にはそうとしか映らなかったのだ。


 キャメロンは、自分に向けられている好意に疎い。
 自分で自分のことを「ウルダハの美少女黒魔道士」だ何だと大それた評判で語るくせに、その言葉を本気で捉えている人間がいることに気付かないのだ。他人からの好意や善意に鈍いわけではない。それを察することができるが、その想いの深さを見縊っていることがままある。
 何しろ、ワイモンドが彼女へ絶えず向けていた執着にさえ、自分の感情の大きさで視野が狭くなって気付かなかったのだ。自己肯定感の塊のような自我の強さで果ての宙の絶望でさえ退けたのに、そんな自分を魅力的に想う人間が自分以外にいることを想定できていない。我儘で身勝手な自分の生き方を愛しているくせに、そんな生き方しかできない自分は誰からも愛してもらえないのだと勝手に決めつけている。その生き方ごとすべて手中に収めたいと思っている男が、常に彼女の隣にはいるというのに。

「……私が割って入ろうかとも思ったのデスガ、貴方が会場にいるのなら、その御役目はお譲りしようかと」
「…………」
「あの男、随分と熱心な彼女のファンのようデス。こんな素敵な夜に、憧れの冒険者殿も綺麗に着飾っているとなれば…もしかしたら、少々大胆な行動に出るかもしれませんネ?」
 隣で静かにハンコックの言葉に耳を傾けて、視線の高さで様子は見えずとも状況は察したのであろう。ワイモンドのすぐ足元にいるケイロンが腕組みし、ひとつ息を吐いてからワイモンドを見上げてくる。
「ベラージオ」
「はい、」
「堅苦しい挨拶回りは、もう十分だろう。私はこの後はハンコック殿に付き添ってもらうから、お前はお前で、好きなように今夜のパーティを楽しみなさい」
 行ってこい、と暗に背中を押された。ケイロンの言葉を聞いたハンコックも嬉しそうに頷いてくれる。何だか一から十までお膳立てされていて癪に障るが、据え膳食わぬは男の恥、という言葉がひんがしにはあるらしい。最早この二人の前だけでなら取り繕う必要もないだろうと、ワイモンドはその場の二人にだけ聞こえる声量で答えた。
「…これで貸しをつくったつもりはないからな」
「もちろんだとも。むしろ報酬の上乗せだ」
「チッ…」
 壁際を離れてパーティ会場の人波を真っ直ぐ進んでいくワイモンドを見送る二人の表情は、振り返らずともわかる。どいつもこいつも、二人の交際関係に口を出すつもりはないと言っておきながら余計なお節介を焼くのはどういうつもりなのか。その口車にまんまと乗せられてしまっている自分にも腹が立つ。

 互いが互いにとっての一番であればそれでいい。最終的に自分を選んで戻ってきてくれるのならば、どこで誰に愛嬌を振りまいていても構わない。アーテリスの誰もが英雄視している彼女の一番手の男が自分であるという自負で満たされている――その筈だったのに。
 温厚な社長秘書ベラージオとしての外面を少々崩し、足早にずんずんと会場内を横断してしまう。慣れない長髪のウィッグが揺れて邪魔だが、表情に滲み出そうで必死に抑え込んでいる感情を隠すにはよかったかもしれない。カラーレンズで偽った瞳はもう、あの青年を捉えたまま視線を外すことができなかった。
 そうやって男が一人真っ直ぐに自分達の元へ進んで来ればさすがに気付くのか、青年がようやくキャメロンから視線を外してワイモンドへと振り向く。キャメロンも釣られて視線を向け、彼女にはもうワイモンドの腹の内がすべてわかっているのだろう、声には出さず表情だけで「うわ、」と少し驚いたようなリアクションを返してきた。
「お嬢様、失礼致します」
 あくまで、この場ではまだベラージオを演じるしかない。だが声色がどうしても平素のものへと引っ張られる。男という生き物は、他の雄が放つ威嚇には、例えそれが僅かなものでも本能的に気が付くものだ。今、ワイモンドがどんなに抑え込んでも滲み出てしまうそれにも気付いただろう。青年は少し気まずそうな表情になって、ちらりと隣のキャメロンへ視線を送った。
「あの、彼は…?」
「あー……うん。お兄様の秘書をやってくれてるベラージオくん」
 一方のキャメロンは、ワイモンドに対して何かを取り繕うような態度はとらなかった。ただただ、ワイモンドが今のような行動に出たことが不思議で仕方ないのだろう。呆気にとられた様子でワイモンドを見上げている。二人の元へ辿りついて少しだけ気持ちが落ちついたワイモンドは、身に纏う雰囲気を再びベラージオのものへ戻してからにこやかに青年へと向き直った。
「ご歓談中に申し訳ございません。お嬢様は明朝早くからご予定がありますので、今夜はこの辺りで失礼させていただかないと」
「あ…ああ、そうだったんですね。すみません、俺も引き留めてしまって」
 ワイモンド本来の雰囲気にのまれかけていた青年は、口から出まかせの適当な理由でも言いくるめられて慌てて席を立つ。ソファから身を引いた青年の前へ割って入るようにワイモンドがキャメロンへ手を差し伸べると、まるで見せつけるようなワイモンドの行動にキャメロンが口元を緩ませながら素直に手を乗せてくる。表情に出すんじゃねえ、とワイモンドは胸の中だけでキャメロンに悪態を吐いた。
「…そういう訳だから、急だけど今夜はお暇しますね。ごめんなさい」
 すとん、とワイモンドに手を引かれつつソファから降りたキャメロンが青年を振り返る。キャメロンの謝罪に青年は首を横へ振ってくれたものの、その表情は名残惜しさを隠していなかった。
「いいえ。今夜は貴方とゆっくりお話ができて、本当によかったです」
「うん、」
「俺は明日以降も、変わらずアルキミヤ製薬堂で務めています。だから、もし貴方さえよかったら……」
 それ以上は言わせるか、とワイモンドがキャメロンの腕を引く。長い前髪のカーテン越しにもう一度青年をじっとりと見つめると、青年は言いかけた言葉を飲み込んでまたも首を横に振った。
「…いえ、何でもありません。どうか貴方の旅が、これからもよいものでありますように」
「行きましょうか、お嬢様」
 もう言葉も態度も必要ないだろう。ワイモンドがキャメロンの手を放して踵を返すと、キャメロンも青年に会釈しながらワイモンドに続いて会場を後にした。




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