だいじにさせてよ!



 フェアじゃないとリーンに言われたとき、カムイルは手痛い指摘に胸がぐさりと痛んだ。リーンの言うことは尤もで、いつも「リーンのため」という建前で自分の醜い欲求を彼女に見られることから逃げていたのだと、カムイルは彼女の言葉で気付かされたのだ。
 指で、唇で、触れたい場所がたくさんある。リーンが想像すらしないような体の隅々まですべて触れたいし、体の一番奥まで受け入れてもらいたいとも思っている。でもそこまではっきりと伝えたらリーンを怖がらせてしまいそうで、自分のせいで傷つき怖がるリーンの姿なんて見たくなくて。だから、リーンが望んでくれたことなら大丈夫だろうと、覚悟も責任も彼女に押し付けようとしていた。


「――――お前は、自分の愛を貫くために相手を傷つける勇気もないからな」
 サンクレッドに初めて酒を奢ってもらった席で、そんなことを言われたことがあった。
 リーンと真剣に交際することを決めて、その報告とリーンからの言葉も伝えたくて、珍しく古巣のウルダハに滞在していたサンクレッドを捕まえたときのことだ。以前から二人の想いが周囲にほぼ筒抜け状態だったこともあって交際はあっさりと認められて、むしろ「やっと腹を括ったか」と背中を強く叩かれたりもした。
「せっかくだ。俺が奢ってやるから、酒でも飲みながら詳しく話を聞かせてくれ」
「ええー…そんな、あっさり……本当に俺が相手でいいの…?」
「お前くらいヘタレで慎重な奴なら、俺も安心だ」
 クイックサンドではお互い顔がよく知られているので、「落ちついた雰囲気のいい店がある」とサンクレッドが紹介してくれたのは、少々単価が高い分客層のグレードも高そうな店だった。一見・・でも大丈夫なのかと不安になるカムイルを他所に、顔馴染みらしいサンクレッドは店員と軽く挨拶を交わしただけで空いているカウンター席へと向かう。さてはヤンチャしていた頃に女の子を連れてきたことがあるな、とカムイルは胸の中だけでぼやいた。向かい合って座り心地のいい椅子に腰を下ろすと、サンクレッドは嬉しそうな表情を隠さずにカムイルへとカクテルのメニュー表を差し出してくる。
「それで?どこまで進んだんだ?」
「いきなりそれ聞く!?別に…リーンまだ成人前だから、手は出してないし出すつもりもないから安心して」
「なんだ、予想以上のヘタレっぷりだな」
 まだカクテルの種類に馴染みがないカムイルはサンクレッドに勧められるまま一杯目を注文して、目の前でシェイカーを振ってもらうのもそれをグラスに注がれるのも初めての体験だったカムイルは、バーテンダーの一連の動きにほう、と溜息を吐いた。
 リーンと一緒にいる時間が長くなると自然と、年長者である自分がしっかりと線引きして彼女を守ってあげなければならないと思って気を張ってしまっているせいか、こうして初体験のムーディな空間に連れて来てもらったことで、肩の力が抜けてリラックスできている。もしかしたら勘の鋭いサンクレッドのことだから、そこまで計算してあえてこの店を選んでくれたのかもしれない。
 カムイルのカクテルに続いてサンクレッドのグラスもコースターの上に乗せられたところで、二人は静かにグラスを重ねて乾杯する。暁の他のメンバーがいる場で飲み交わしたことはあったが、こうしてサシで静かに飲むのは初めてのことだった。
「リーンを大切にしてくれるのは安心できるが、それであんまり奥手になり過ぎても、逆に不安にさせるだけだぞ?ましてやあの年頃なんだから、恋愛への憧れだってある」
「…うん、」
「ははっ、歯切れが悪い返事だな」
 カムイルの性格も重々承知してくれているサンクレッドは、それ以上お節介に発破をかけるようなことはしなかった。ただ、自分の甘く苦い経験を反芻するかのように、静かで穏やかな眼差しでカウンターに視線を落としている。
「不思議なものだよな……あの年頃になると、少女と大人の境が急に曖昧になるんだ。彼女達の中ではグラデーションになっているんだろうが、男の俺達の目には、それが見えないものさ」
「…………」
「だから、いつまでも何も知らない子供だと思って接していると、俺達の想像よりもずっと深く真剣に物事を捉えて考えていることがある。逆に、精神的にも肉体的にも成熟が始まっているように見えても、無垢な少女の心が残っていることもある。それはきっと、男が見極めようと思ってできるものじゃない。相手と真摯に向き合って、その都度で見つめ直していかなきゃならないんだ」
「……それ、サンクレッドの失敗談?」
 語るサンクレッドの空気が重くなり始めたのを感じて、カムイルは敢えて茶化すように声をかけた。サンクレッドもそれで気が付いたのか、重苦しい雰囲気を振り払うように悪戯っぽい笑顔を返してくれる。
「さて、な。まあ、我らが暁の魔女殿のことを見ていれば、女性の扱いが一筋縄ではいかないことはわかるだろ?」
「うーん…そこはノーコメントにしておく」
「いずれにせよ、お前なら軽率なことも軽薄なこともしないと信頼している。だがさっきも言った通り、あんまり慎重すぎるのも禁物だぞ」
 からん、とサンクレッドのグラスの中で氷が音を立てる。
「自分がリーンへ向けた愛情でリーンを傷つけるかもしれない、なんて…きっとお前はそこまで考えてしまうだろうから、言っておく。一人でうだうだ悩んで動けないでいるくらいなら、リーンに洗いざらい隠さず打ち明けて、丸ごと全部受け止めてもらえよ」
「サンクレッド…」
「お前は、自分の愛を貫くために相手を傷つける勇気もないからな。それくらいで考えておいた方がちょうどいい」


   ◆◇◆


 リーンと二人並んでソファに腰かけたときに、ふと、サンクレッドとそんな会話をしたことを思い出した。それができたら苦労しない、なんて思って当時はありがたいアドバイスを聞き流してしまっていたが、結局今になって、サンクレッドに言われた通りの状況になっている。
「…リーン、体こっちに向けられる?」
「あ、はい…っ」
 斜めに腰を掛けなおしたリーンから真っ直ぐに見上げられると、やはりいろいろと込み上げてくるものがある。一つ大きく深呼吸をしてから、カムイルはまずは優しくリーンを抱きしめた。胸の中に収まってしまうリーンがはっと息を飲んで、だがすぐに力を抜いて体を預けてくれているのを感じる。そのままカムイルは、リーンの体を軽く抑えるように腰と肩に回した腕に少しだけ力を込めた。
「こうやって捕まえられたら、リーンはもう、力じゃ抵抗したり逃げたりできないよ?それもちゃんと、わかってくれてるんだよね?」
「…はい、大丈夫です」
「うん。それじゃあ、上から順番に…」
 込めていた力を抜いて、少し体を離して改めてリーンと見つめ合う。期待と緊張の表情を隠せていないリーンに見上げられる中、カムイルは宣言通り、セットされた髪型を崩さないように旋毛の近くへ唇を寄せた。
「ん…っ、」
 吸いつくように軽いリップ音を立てると、少しだけリーンの体が強張る。だがそれは緊張であって拒絶ではないのだと伝えたいのか、リーンの細い腕が縋るようにカムイルの背中へ回された。
「平気そう…?」
「はい、」
「ありがとう。じゃあ、続けるね」
 揃えられた前髪に軽く触れて、鼻先でその前髪をかき分けて、額に直接キスをする。旋毛にキスしたときよりも鼻腔が近くなったせいか、リーンが使ってくれていたシャンプーとトリートメントの香りを濃く感じる。それがフェイスパウダーの甘い匂いと重なると堪らなくなって、カムイルは額に唇を当てたまま、そこで大きく息を吸い込んだ。
「俺のシャンプーの匂い、する…使い続けてくれたから、髪にちゃんと香りが馴染んでいて……これ、結構ヤバいな…」
「あ……そういえば、試供品がもうすぐ使い切りそうで…」
「…うん。後でまた、追加分も渡すね」
 リーンをイメージして自分の手で調合した香りを、こうしてリーンが纏ってくれている。そのことに目の前の男がどれ程興奮しているのか、きっとリーンはまだ想像もつかないだろう。いずれその意味がわかったときには、また赤くなって照れてくれるだろうか。
 昂りそうな気持ちを少しでも分散させようと繰り返し額や前髪の生え際に吸い付いて、それから眉間に唇が降りると、リーンはまた硬くなって瞳をぎゅっと閉じた。
「今から、顔の周りにするけど…角が当たると危ないから、もし嫌だったら、顔は動かさずに手で背中とか叩いて?」
「わかりました、」
 背中に回っていた手が、応えるようにカムイルの服を握りしめる。カムイルはもう一度眉間に唇を寄せて吸い付き、それから、強張ってしまっている体の力が抜けるように、ソフトタッチと吐息で瞼や鼻筋を優しく撫でる。時々腰に回した手でも優しく撫でれば、心地よさを感じ始めたリーンの唇から小さく吐息がこぼれた。性感を思わせるようなものではなく、リラックスしてほっと息を吐いてくれている反応。いい兆候が見られたことが嬉しくて、カムイルはそのまま口角のすぐ近くに口づけを落とした。
「ん……、」
「…大丈夫?」
 鼻先が触れ合う距離で囁く。ゆっくりと目を開いたリーンと視線が合って、それから、恥ずかしそうに頷き返してくれた。それを了承の合図ととってカムイルがリーンの後頭部にそっと手を添えると、次のステップを期待して無意識にか、リーンの唇がうっすらと脱力して開かれる。それを見逃さず、カムイルはあえて避けるように上唇にだけキスをしてまたすぐに顔の距離を離した。
「こらっ、まだ深いキスは早いでしょ?」
「う……でも、」
 期待していたことは否定できないのか、見下ろすカムイルの腕の中でリーンが恥ずかしそうに体を小さく丸める。
「ごめんなさい…私、はしたないですよね」
「いや、可愛いと思うし嬉しいけど……まあ、お互いまだお預けだね」
「ん、む……っ」
 淋しそうに閉ざされた唇に、今度こそしっかりと自分のものを重ねる。本音を言えばカムイルだって、この柔らかな唇に割って入って奥まで受け入れてもらいたいと思っている。でもそこまで踏み込んでしまったら、ただのキスでは留まれないから。応えられない気持ちを伝えるために、カムイルは何度も触れるだけのキスをリーンへと贈る。大事に、大事に愛してあげたい恋人だから。
「ごめん……せっかくセットしてもらった髪だけど、崩してもいい…?」
 もっとしっかりと手を添えたくて、綺麗に編み上げられたリーンの髪へ軽く指先を差し入れる。唇を閉じたままのキスが続いたリーンは酸欠で少し頬が高揚していて、ぽーっとした表情のまま小さく頷いてくれた。要になっているヘアピンを探り当ててそっと引き抜き、崩れないようにしっかり編み込まれているそこへ指先を差して、一思いに解していく。さらさらの髪は引っかかることなくカムイルの指先でするりと解かれ、少し癖のついたロングヘアがリーンの背中へふわりと下りると、あのシャンプーの香りがカムイルを包み込むように優しく広がっていく。
「あー……やっぱり、ヤバいなぁ…」
「……?」
「俺のモノ、って感じがする」
 そんなつもりはなかったのに、キスでつけるマーキングより余程執着が強く思えてきた。堪らない気持ちになって強く抱き寄せてこめかみ近くの髪に鼻先を埋めると、吐息がくすぐったいのかリーンが少しだけ身をよじる。その身じろぎでまた香りが重なって、心地よい匂いに包まれたカムイルの瞳は、うっとりと蕩けた色になった。
「駄目だよ、リーン……俺もう、我慢できなくなっちゃう…」
「え…?」
「お願い、したでしょ…?俺がリーンに触っていい場所、リーンに決めてもらうって」
 ぎゅっと抱き寄せていた体を離して、リーンの額へ自分のそれを寄せて、蕩けた瞳を隠さずそのまま至近距離でリーンのアイスブルーの瞳を覗き込む。少し熱が乗り始めた視線を直視したせいか、リーンはつぶらな瞳を驚いた様子で見開いた。
「やっぱり俺、キスしたらこうなっちゃうよ。このまま首と、肩と…その下も全部、触りたくなっちゃう」
「ぅ、え……っ…」
 その下、と言われて真っ先に頭に浮かんだのか、リーンは咄嗟に自分の胸元を隠すように両腕をクロスさせた。その反応を見るにやはり、どんなに気持ちが急いていても、本能的な部分では性的な触れ合いへの抵抗と恐れがあるのだろう。それがわかったことに心のどこかでほっとして、カムイルは上体を起こすとリーンの隣で真っ直ぐにソファにかけ直した。
「…なーんて、ね。やっぱりまだ、そういうことするのは早いと思ったでしょ?」
 ついつい出してしまっていた艶っぽい雰囲気をかき消してカムイルが明るく訊ねると、ぱっと雰囲気が変わったカムイルについていけないのか、まだ艶っぽい熱にあてられたままのリーンは、どこか呆然とした様子のままなんとか頷き返す。なかなか動悸が治まらない様子の胸元で両手をぎゅっと握りしめ、何度か深呼吸をして落ちついてから、カムイルに倣ってその隣に正面から腰を掛けなおした。
「……ごめん、なさい」
 視線を床に落としたまま、リーンが小さな消え入りそうな声で謝る。
 いつか、リーンの「甘えたい」というリクエストに応えて抱きしめたときと同じ言葉だ。カムイルの答えもそのときと変わっていないので、優しく「いいんだよ」と返して横から優しくリーンを抱き寄せた。
「俺がずっと淋しい想いをさせてたから、ついつい、リーンも気持ちが焦っちゃってたんだと思う。でもああいうことは、本当に…いざその時にならないと、自分の心と体の準備が本当にできているのか、わからないから。怖くなるのは当然だし、それで謝ったり、自分を責めないで」
「カムイル…、」
「俺も今の反応で、どれくらいのスキンシップだったら大丈夫そうか、なんとなく感覚が掴めたから。これからはリーンが淋しくて不安にならないように、たくさんさせて?」
 お詫びの気持ちもこめてもう一度だけ唇同士で触れ合うキスを贈って顔を覗き込むと、リーンは恥ずかしさと物足りなさの間で揺れ動くような表情をしていた。おそらく、彼女の中でもまだ気持ちの整理が追いついていないのだろう。急かすようなことでもないので、カムイルは温かい飲み物を用意しようと腰を上げる。
「何か淹れてくるけど、紅茶でいいかな?もしよかったら、ラザハン土産の茶葉があるからチャイにしようと思うけど」
「はい。あ、でも…」
 カムイルにつられるように腰を上げたリーンが、何か言いかけて一度口をつぐむ。どうしたのかとカムイルがそのまま続きを待っていると、リーンは少し悩んで、それでもすぐに心が決まった様子でまた顔を上げた。
「あの……もしご迷惑じゃなければ、今夜は、ここに泊まっていってもいいですか?」
「え……」
 思ってもみなかった申し出にカムイルは少々面を喰らったが、今日のリーンの様子だと最初からそのつもりだったのかもしれない、と思い返せば腑に落ちた。いつもなら自分が部屋を明け渡して適当な場所で外泊する流れだが、せっかくリーンとの関係が少し動き始めた今夜であれば、同じ部屋で一晩過ごしてみるのもいいかもしれない。念のためにベッドとソファどちらでも眠れることを確認して、それからカムイルは快く頷いた。
「うん、いいよ。じゃあどうせなら、寝る前に飲んで体をあっためようか」
 快諾したカムイルに、リーンの顔がわかりやすくぱぁ…っと明るくなる。
「ありがとうございます…!あの、シャワーを借りてもいいですか…?」
「もちろん。というかリーン、泊まる準備してきたの?」
「はい、準備万端ですっ!タオルも着替えも持ってきてあるので!」
 そう話しながら、リーンがソファの影に置いておいたレザーバッグを持ち上げて見せてくれる。そのまま軽い足取りでシャワールームへ向かうリーンを見送ったカムイルは、脱衣所へ続いている扉が閉まって鍵の回る音が聞こえたのを確認してから、そこでようやく長い一息を吐いた。
「はあぁー……」
 息を吐き出すに合わせて脱力して、勢いよくソファに腰を下ろし直してそのまま体を横に倒す。カムイルの体では少々小さいその上で仰向けに体勢を変え、長い脚をひじ掛けの向こう側へ放り出してから、天井と目が合って瞼を閉じる。
 ――リーンがあの場で流されずにきちんと身構えてくれて、本当によかった。
 彼女がどんな反応をしようが唇で触れるのは首から上までで止めるつもりではあったが、それでも、実際にリーンに受け入れられてしまったどうなっていたかわからない。食事を終える頃には完全に酒が抜けきって正真正銘素面に戻っていたが、素面の状態であそこまで無防備なリーンを腕の中に迎え入れるというのも、それはそれで、しっかり気を張っていなけれそのままあの柔肌に吸い寄せられてしまいそうだった。
「ベッド…どうしようかな……」
 カムイルはソファで寝るのでも構わないのだが、十中八九、リーンはベッドで一緒に寝たがるだろう。カムイルは緩慢な動きでソファの上に体を起こし、まずはチャイを淹れるための湯を沸かそうとキッチンへと向かった。馴染みのケトルを火にかけ、沸騰を待つ間にベッドの確認をする。原初世界へ戻っている間にリーンが洗って変えておいてくれたのか、シーツもカバーも取り換えたばかりの綺麗なものになっている。一体、彼女がどんな気持ちでベッドメイクをしてくれていたのかと思うと、カムイルはまたそこで堪らない気持ちになって、溜息を吐きながら脱力してベッドに突っ伏した。
「マジでかわいー……というか…なんでそんなに、俺のこと好きなの…?」
 ベッドメイクだけじゃない。ディナーはカムイルの好物ばかりで、味つけやメニューの組み合わせもカムイルが教えた通りだった。ワンピースは以前に勝手につくって押しつけたものなのに大切に着てくれているし、髪型やメイクだって、きっと今日の雰囲気づくりのためにガイアにお願いして整えてくれたのだ。
 どうしてそこまで…――そう考えると何故か、頭の中のサンクレッドとタンスイが声を揃えて「お前が甲斐性なしだからだろ」とツッコミを入れてくる。まったくもってその通りのため、イマジナリーの存在を相手にぐうの音も出ない。
「でも、まあ…これからは俺も、もっと素直にリーンを求めてみるよ」
 まだシャワールームの方から水音が聞こえてきているので、今のこの独り言をリーンに聞かれている心配はない。それでも誰かの気配を感じて突っ伏していた顔を上げると、カムイルが思っていた通り、整えられたベッドの上に小さな来客が座っていた。
「大きい若木ったら、ようやくあの子の気持ちに応える気になれたのね」
「フェオちゃん…」
 分身の姿で現れた妖精王は、悪戯っぽい微笑みを浮かべながらひらりと舞い上がる。その姿を追うように立ち上がったカムイルの目の高さまで舞い戻ると、そこで腕組みをして「まったく」と不満そうな声を漏らした。フェオには原初世界からリーンへ便りを送る際にいつも世話になっているので、リーンとの関係を彼女に詰られるのは仕方ないか、とカムイルも半ば諦めて頬をかいた。
「本当に、優しくてひどいヒト。あなたがこうして触れてあげるまでの間に一体、あの光の巫女がどれほど涙を流して胸を痛めたのかしら」
「う…それは、なんというか……」
「でも…それがわかっているのなら、あなたが今まで抑えに抑え込んでいたその分まで、あの子にたくさんの愛を注いであげるといいわ」
 夢の中にまで訪れることができる妖精王を前に何を誤魔化しようもないので、観念して素直に頷く。抑えに抑え込んでいた、なんて言われてしまうと随分と大きな反動を期待されているようで気が引けるのだが、リーンの気持ちに応えきれていなかった分の埋め合わせをしなければならないのも、また事実である。
「まあ、マジで俺があれこれ抑えている気持ちは、リーンが大人になってからたっぷり時間をかけてわかってもらうとして…」
「あら、情熱的」
「おかげ様で吹っ切れたし、今のリーンにしてあげられる愛情表現は、もう変な我慢しないで全力でしていくつもりだよ」
 そう言ってカムイルが穏やかな笑みを浮かべると、ちょうど脱衣所へ続く扉の鍵が回る音がした。カムイルがそちらを振り返り、フェオは妖精光を身に纏って姿を消す。程なくして扉が開いてパジャマワンピースに着替えたリーンが居室へ戻ってきたので、カムイルはチャイの準備を進めるためにキッチンへと向かう。ちょうど、ケトルが湯気を吹かし始めた頃合いだった。
「ごめんね。今お湯が沸いたところだから、もう少し時間かかっちゃうかも」
「お湯を茶葉に注ぐだけじゃないんですか…?」
 初めてのチャイに興味があるのか、リーンもソファには座らずにキッチンへやってくる。カムイルがすでに並べておいたスパイスに気付くと、物珍しそうにそれを覗き込んだ。
「お茶なのに、スパイス…?」
「チャイはシナモンや香辛料で風味付けするんだよ。でもミルクと砂糖をたっぷり入れるから、仕上がりは甘くておいしいんだ」
 沸騰したお湯を手鍋に移し、そこへ用意しておいたスパイスを加えて煮出していく。薄く色がつき始めた頃合いでさらに茶葉を加えて蒸らすように弱火にかけ、頃合いを見てミルクとたっぷりの砂糖を加えてさらに火にかけて温めたものを茶こしで漉しながらポットへと注ぐ。普通に紅茶やコーヒーを淹れるのとはまた一味違った工程が珍しいリーンは、カムイルの邪魔にならないように、だが今までよりも近い距離でぴったりと身を寄せて、チャイが最後にカップに注がれるまでの様子に目を輝かせてくれた。
 それぞれカップを手にとってソファまで移動し、並んで腰を下ろしてからチャイに口をつける。リーン好みになるようにといつもより多めに砂糖を入れたこともあってか、聞いていた通りの甘い味にリーンはうっとりと目を細めてくれた。
「これ…とっても、おいしいです。いつもの紅茶をミルクティにするのとは、また違った味がして」
「お口に合ったならよかった」
 両手でカップを抱えるように持つリーンは、そのまま黙々とチャイを飲み進める。夢中になって飲んでいるところを見るに、かなり気に入ってくれたらしい。次はシフォンケーキと一緒におやつに出してあげようか、なんてカムイルがまたリーンに食べさせてあげたいものの算段をしていると、ローテーブルにカップを置いたリーンが、寄りかかるようにカムイルの方へと体を傾けてきた。生憎と座高差もあるのでリーンの頭は肩よりも下の胸元へ寄りかかっていて、カムイルもカップを置いて抱きかかえながら頭を撫でてあげると、気持ちよさそうにリーンが瞳を閉じる。
「…どうしたの、眠くなっちゃった?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 ゆっくり瞬きするように、リーンが閉じていた瞼をうっすらと開く。
「幸せだな、と思って…今までもカムイルと一緒に過ごせるだけで幸せだったけど、こうして気兼ねなく体を寄せ合えたら、すぐ近くにカムイルの体温も匂いも感じられて、それがすごく幸せで」
「また、そういう可愛いこと言っちゃって……困った子だな、本当に」
 くったりと体を預けてくれているリーンを軽く抱え上げて、太腿の上に座るようにと手で支えて促す。カムイルの意図を察したリーンは少しだけ戸惑った様子を見せたが、素直に従って体を横向きにしてからカムイルの腿の上に座り直してくれた。リーンの目線が高くなった分だけ顔の距離も近くなり、カムイルは遠慮せず、リーンの額に唇を寄せた。鼻先近くの前髪から洗い立てのシャンプーとトリートメントの濃い香りがして、リーンがまた自分の色に染まり直してくれたような心地がして、やはりそれが、どうしようもなく堪らない気持ちにさせる。
「俺も、幸せだよ。俺が教えた料理をつくって食べて、俺が仕立てたワンピースを着てくれて、俺が調合したソープで髪と体を綺麗にして、俺が淹れたお茶をおいしそうに飲んでくれたリーンが、こうして俺の腕の中にいる…――ここまで受け入れてもらえたらもう、本当に、リーンのこと放してあげられなくなっちゃう」
 放すつもりなどないのだと、腰を支えて抱く腕に力を込める。
「リーンの日々の暮らしの中に俺の気配を感じられるのが、たまらなく嬉しいんだ。俺がリーンにできること、何でもしてあげたくなる。それでリーンが喜んでくれるから、もっともっと、って…俺の我儘なのに、いつも受け止めてくれてありがとう」
「我儘だなんて……」
 リーンがカムイルの首に両腕を回して、そのまま角が当たらない角度でぎゅっと抱きついてきた。近くなった距離でリーンの匂いがまた濃くなって、カムイルは感じ入った表情になってゆっくりと瞼を閉ざす。
「私だって…カムイルに与えてもらってばかりだけど、でも、それがすごく嬉しいんです。カムイルが私のことを想ってくれているって、わかるから」
「うん、」
「だから、これからも…――」
 リーンが顔を上げた気配と、それからすぐに、唇にそっと押しつけられた柔らかな感触。カムイルが閉じていた瞼を開ければ、吐息が触れ合う距離でリーンがはにかんでいる。
 大事にする――その言葉の本当の意味を今日までは履き違えていたのだと、カムイルはここに至ってようやく気が付いた。リーンを大切に守っていたつもりで、自分の手で傷つけることを恐れて遠ざけてしまっていた。その淋しさもまたリーンを苛むことは、心のどこかでわかっていたはずなのに。
「これからも、カムイルの我儘、私にたくさん受け止めさせてください」
「……ありがとう。これからも、大事に大事に、リーンのこと愛させてね」
 だからもう、自分の愛情でリーンを傷つけることを恐れない。戸惑いも躊躇いもすべて捨て去って、リーンといつか身も心も結ばれるその日まで、この愛おしい気持ちを二人で確かめ合いながら、大切に育んでいきたいと思う。
「体冷えちゃうから、ベッド行こうか。このまま抱えて運んでもいい…?」
「はい、お願いしますっ」
 嬉しそうに抱きつき直すリーンをしっかり抱えてから、カムイルは静かな動きで腰を上げてさらさらなベッドシーツの上へとリーンを腰から下ろす。そのままリーンが壁際へと寄ってスペースを開けてくれるので、部屋の灯りを落としたカムイルも要らぬ遠慮はせず、持ち上げた毛布を自分とリーンの体どちらも包み込むように引き上げてベッドへ横になった。隙間のなくなった毛布の内側でリーンの風呂上りの体温がじんわりと広がり、心地よい温かさで肌に馴染んでいく。チャイで体の内側を温めたこともあり早くも眠気を感じ始めたカムイルは、うとうとし始める前にそそくさとリーンへ背中を向けた。
「カムイル…?」
 せっかく一緒に眠れると思ったカムイルに背中を向けられたリーンが、切なそうな声でカムイルを呼ぶ。その声を聞くと申し訳なさが胸を絞めつけるが、カムイルも事情が事情なので、リーンへ背中を向けたままで「ごめんね」と謝る。
「なんというか、言葉にしづらいんだけど……その、生理現象が……ね…?その気があるとかないとか関係なく、男の場合、寝ている間に自然と起きることもあるから…」
 できる限り言葉を濁して説明すれば、背中でリーンが「あっ」と小さく息を飲む気配を感じた。その表情を振り返って伺うことはできないが納得はしてくれたようで、もぞもぞと毛布の中で動いたかと思うと、背中合わせになったリーンとカムイルの体温が触れ合う。
「それじゃあ……この体勢なら、平気ですか…?」
「…うん、ありがとう」
「えへへ…よかった」
 二人分の体温が馴染んだ毛布の内側で、薄い布越しに触れ合う体温がさらに溶け合うような感覚を覚える。性的な刺激には繋がらないそれはまどろむように心地よくて、カムイルも、そしてリーンも、自然と言葉少なになりそれぞれ瞼を閉じる。
「おやすみ、リーン」
「はい、おやすみなさい」
 優しい暗闇の中、二人分の寝息は、互いに寄り添うようにゆるやかに重なっていった。




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