だいじにさせてよ!



 日が沈んだ頃には帰ってくるという言葉の通り、夕食の支度をほとんど終えたリーンの耳に、扉をノックする音が聞こえてきた。とろ火で温めていた鍋の火を止めてから駆け足で出迎えに向かい、扉を開ければ、数日ぶりのカムイルが変わらぬ姿で立っている。
「おかえりなさい、カムイル」
「ただいま、リーン。これお土産」
 お土産と言ってカムイルが持っていた手紙を差し出され、リーンは首を傾げながらそれを受け取る。特有の紙の質感と、インクとは異なる墨の匂い。それで手紙の差出人に気付いて「あっ」と声を上げるリーンを横目に、カムイルは居室の奥へと入って荷物を下ろすと、またすぐリーンのすぐ傍まで戻ってきてくれた。
「タンスイさんのところに行っていたんですね」
「うん。それで、先に謝っておきたいこともあって…」
「謝る…?」
 思い当たる節のないリーンは、また少し首を傾げて隣のカムイルを見上げる。上目遣いで心配そうに顔を覗き込まれたカムイルは、「深刻な話じゃないよ」と前置きしてから小さく溜息を吐き出した。
「タンスイに付き合わされて、昼から夕方までだらだらお酒飲んでたんだよね…だから俺、今ちょっとアルコール入っちゃってる状態なんだ」
「私は別に大丈夫ですけど…カムイルも、いつも通りな気がしますよ?」
「そりゃあ、リーンの手料理食べられるのに、べろべろに酔っぱらって帰ってくるわけにはいかないでしょ。だからキープしながら飲んだしほろ酔い程度で止まってるとは思うけど、それでもお酒が入ってることには変わりないから、様子が変なところとかあったらごめんね」
 そう話すカムイルの視線が髪型に向けられていることに気付いて、リーンは少しだけ緊張してロングワンピースをぎゅっと握りしめる。あえて自分から話題には出さずどきどきしたまま待っていると、視線が合ったままのカムイルがふにゃりと表情を緩ませて微笑んだ。
「あと…その髪型、めっちゃ可愛い。ワンピースの雰囲気に合ってるね」
「あ、ありがとうございます…っ」
「自分でアレンジしたの?」
 カムイルの問いに、リーンは赤らみ始めている顔を横に振って答える。
「ガイアに、手伝ってもらって……似合ってますか…?」
「すっごく似合ってる。俺、リーンが髪をアップにしてるの初めて見たかも」
「私も、こんなにしっかりセットするのは初めてで…似合っているなら、よかった」
 ガイアの見立てに間違いはないとわかっていても、実際にカムイルに褒められると一段と嬉しい気持ちになる。よかったと胸を撫で下ろすリーンの前髪へカムイルの手が伸びてきて、そのまま指の背で前髪を撫でてくれる。いつもなら頭を撫でてもらえるところだが、せっかくセットした髪型が崩れないようにと気遣ってくれていることもわかって、リーンはさらに嬉しくなった。
「お腹の具合はいかがですか?温め直しができるメニューだから、あまり空いていないなら一息ついてからでも大丈夫ですよ」
「ううん。ちゃんと調整してお腹空かせてきたから、シャワーだけ先に済ませたら食べ始めたいな」
「わかりました!では、テーブルの準備をしておきますね」
「ねえ、リーン」
 呼び止められるように名前を呼ばれ、キッチンへ向かおうと踵を返したリーンはカムイルを振り返った。どうしたのかとリーンが続きを待っていると、いつもと少し雰囲気の違う眼差しを向けているカムイルは、濁すことなくストレートな言葉をリーンに投げかけた。
「……シャワー浴びて体綺麗にしてきたら、抱きしめてもいい…?」
 確かにいつものカムイルとは少し様子が違うかもしれない、と。
 そんなことを感じながら、リーンはカムイルの申し出に頷いて答えた。

 カムイルから触れてきてくれる機会は増えたが、あんなふうに真っ直ぐな言葉で聞かれたのは初めてだった。いつもはもう少し照れ臭そうにしていたり、リーンの様子を窺いながら慎重に言葉とタイミングを選んでくれているので、もう少しぎこちないやりとりになるのである。
 それに、カムイルがリーンを見つめる瞳も、なんだか様子が違って見えた。どこか甘えるような印象で、あのふにゃりと微笑むときの、まどろむような温かさが感じられる視線。そんな目で見つめられたことは少なくて、思い返すとリーンの頬と体は少しだけ熱を帯びた。
「カムイル…酔ってるの、かな…?」
 鍋とフライパンから料理を盛りつけながら、そんな独り言がこぼれる。
 まだ飲酒できる年齢ではないリーンには、アルコールで酔うという感覚はわからない。だがサンクレッド達が祝杯と称して食事の席で飲んでいたり、サイエラが話して聞かせてくれたり、時には彷徨う階段亭で見かけた客の様子を思い出してみるに、気分がよくなって気持ちが大きくなるらしいということはわかる。判断能力が鈍り、普段なら自制している言動が表出したり、中には人格が変わったようになってしまう人もいるという。
 リーンの前でカムイルがアルコールを口にするような素振りすらなかったので今まで思いもしなかったが、もしかしたらカムイルは、酔った状態だとリーンに対する態度が変わるかもしれないと思って飲酒を控えていたのかもしれない。リーンとしては別にカムイルに何をされても構わないし、例えアルコールが入っても手荒な真似をされるとも思えないので、むしろ少し酔っぱらって隙を見せてくれる方が嬉しいのだが。
 そんなことを考えながらテーブルの上に一通りの料理を並べ終えて、ふと、タンスイからの手紙のことを思い出した。カムイルはまだシャワールームから戻ってきそうにないので、今のうちにとベーク=ラグにつくってもらった魔法の翻訳機を探し、カムイルがいつも通りの棚に置いてくれているのが目に入って、正多面体のクリスタルであるそれを手にとって手紙にかざす。原初世界でもカムイル達とはまた異なる文化圏で暮らしているというタンスイが使う文字はリーンにはまだ読めないのだが、手紙のやりとりは大いにすべきだと相談に乗ってくれたベーク=ラグが魔法で編み出したこのクリスタルを手紙にかざすと、書き手の思念を読み取ってリーンが読める文字がその上に浮かび上がってくる。次第に色濃くなる文字がはっきり読めるようになると、リーンはダイニングテーブルの近くへ戻りながら手紙に目を通し始めた。

 書き出しは、酒を飲ませた状態でカムイルを帰したことへの詫びだった。それからカムイルとの関係の進展を焦れったく感じているであろうリーンを気遣う言葉が続き、奥手すぎるカムイルに呆れて詰る内容へと変わっていく。手紙の中でまでタンスイに説教されているカムイルがおかしくて、リーンはそこで思わず笑いを溢した。
 手紙は二枚目に移り、アルコールが入ったときのカムイルの様子について綴られている。それによればカムイルは、ある程度は飲めるタイプだからわかりやすい酔い方はしないものの、心を許している相手にはいつもよりも甘ったれた態度をとるらしい。酒のせいで元来の甘えたがりの性格が表出しやすく、ましてやそれが恋人であるリーンを前にすれば尚更出やすいだろう、というのがタンスイの見立てだった。
 ――――だから、あいつを攻め落としたいなら今日が絶好の機会である。
 そんなような内容が締めの言葉に綴られていて、そこまで読んだリーンは、恥ずかしさでほんのりと頬が赤くなった。一度も会ったことがないタンスイにまで、カムイルを通して自分の胸の内が見透かされてしまっている。それだけタンスイがカムイルのことをよく知っていて、カムイル伝手にリーンの話を聞くだけで、その先にいるリーンが何を思っているのかを想像できるだけの観察眼があるということだ。とんでもない相手にまで背中を押してもらっているのだとわかり、嬉しいやら恥ずかしいやらで、リーンはそそくさと手紙を折りたたんで自分の荷物の中にしまった。
「攻め落とすなら、今日……」
 思わず、手紙に綴られていたタンスイの言葉を反芻して口に出す。ちょうどそのタイミングでシャワーを済ませたカムイルがバスルームから戻ってきたので、リーンは小さく肩を竦ませた。振り返った先にいるカムイルはゆったりとして過ごしやすいダルマスカン・ドレープの上下に着替え、いつもセットしてある髪が下ろしてあるので、いつもと違った印象に見える。だが、しっかりとした足取りで部屋へ戻ってくる姿はいつも通りだ。一見すると酔っているようには見えないのだが、ふとリーンと視線が合うとまた、眼鏡のレンズ越しに見えるエメラルドグリーンの瞳がどこか蕩けたような印象を与えてくる。あまり見慣れないカムイルの視線にドキドキしながらリーンが待っていると、入浴前に宣言した通り、カムイルは片膝をついてそのままリーンを優しく抱きしめた。
「はわっ…!」
 酔っている。
 これは、間違いなく酔っている。
「か…カムイ、ル…っ」
「今日のリーン…本当に可愛い。俺がつくったワンピースを着てくれているのも、嬉しい」
 片膝をついた状態だと、カムイルの額がちょうどリーンの肩の高さになる。いつもなら見上げてばかりのカムイルの顔が目線のすぐ下にあることにリーンがどぎまぎしている中、こつん、とカムイルがリーンの肩に額を寄せてくる。洗い立ての髪からカムイルが使っているシャンプーとトリートメントの香りをいつも以上に濃く感じて、リーン自身の髪と肌から香るそれとは違う匂いにくらりと頭が揺れそうになった。
「ごめん……ごめんね…」
 押し付けるようにすり寄る額の下から、ぽつぽつと謝罪の声が聞こえてくる。
「絶対にこうなるってわかってたから、リーンの前でお酒入れないようにしてたのに……今日、俺…いろいろ迷惑かけちゃうかもしれない…」
 やっぱり、とリーンは胸の中でだけ呟いた。
 酔うと自制心が緩くなって、いつもはなかなか出てこない本音や本性が現れると言う。タンスイの手紙にも書いてあった通り、カムイルにとってのそれは、リーンに甘えたくてもなかなか甘えられないという気持ちらしい。今のカムイルの言葉からしても、普段から気兼ねなくリーンに触れたいと思ってくれている反面、リーンのことを気遣ってその気持ちを抑えているのだろう。抑え込んでいる気持ちが強い分、何かの拍子で自制できなくなったときが怖い――そう考えるほどにカムイルから強く求められていたのだとこの場に来て思い知らされて、リーンは大人しく抱きつかれたままの腕の中でいよいよ全身に熱が回った。それに気付かれたのか、すり寄ったままのカムイルの肩がぴくりと跳ねた。
「リーン、もしかして照れてる…?」
「だ…だって…!」
「ホントにかわいー……けど、これ以上はさすがにヤバいかな」
 小さく「よいしょ」と声に出しながら、カムイルがしっかりした所作で立ち上がって再びリーンを見下ろす。その動きにはやはり酔ったような素振りは見受けられなくて、赤みが引かないリーンの頬を優しく撫でると、そのままテーブルを回り込んでリーンの対面になる椅子を引いてそこへ腰を下ろした。
「変な絡み方して、ごめんね…料理冷めちゃうから、食べよっか」
「あ…はい、」
 触れ合っていた体温が離れてしまったことに淋しさを感じて、リーンはその気持ちを顔に出して隠せないまま席につく。リーンが顔を上げるとちょうど、ケースにまとめて入れておいたカトラリーをカムイルが差し出してくれているところだった。リーンがそれを受け取ると、カムイルがいつも通りの、どこか申し訳なさそうな照れ隠しの表情になって謝罪の言葉を重ねる。
「シャワー浴びたらもう少し酔いが覚めると思ったんだけど…駄目だったみたい。なんか、リーンの顔見たら……部屋に戻ってきて最初にリーンを見たときから、ずっと、思いっきり抱きしめたいなあ…って。そしたら我慢できなかった」
「あ、謝らないでください…!私は全然、嫌じゃなかったから…」
 嫌なことも、怖いこともなかった。カムイルの体温に包まれると心地よくて、いつも以上に濃く感じる匂いにくらくらしそうで、その二つが重なると、幸せな気持ちで思考が端から蕩けてしまうんじゃないかと思うくらいで。カムイルから求められて触れてもらえることが嬉しくて、もっと、もっと長い時間、あのままぬくもりを感じていたかった。
「あの…、」
「ん?」
 スプーンに掬ったスープを口元へ運びかけていたカムイルに、思い切って声をかける。食事のタイミングを遮ってしまうのは申し訳ないが、今のこの流れで伝えておかなければ、酔いが覚めて素面に戻ったカムイルにまた距離を置かれてしまいそうで。リーンは一度だけぎゅっと瞳を閉じて、それから瞼を開いてカムイルの目を真っ直ぐに見つめて、胸の内で思っているままをそのまま言葉にした。
「本当に…本当に、カムイルにされて嫌なことなんて、私…ないです。もしかしたら、その…心の準備ができていなくて、驚いてしまって、それで咄嗟に逃げちゃうことがあるかもしれないけど…でも…っ、」
「…………」
「もし、カムイルも私に触れたいと思っていてくれて…それで、いつもはその気持ちを我慢しちゃっているなら、我慢してほしくないです。まだ大人になりきれない私が応えられることは、限りがあるかもしれないけど……私だって、カムイルがしたいと思ってくれていること、受け止めて応えてあげたいから」
 背伸びしなくても、大人になりきれていなくても、今のリーンをカムイルが求めてくれているなら――今の自分のままでも応えてあげられることなら、何でもしてあげたい。
「カムイルも前に、私にリクエストを聞いて、それに応えてくれたことがありましたよね?それなら今日は、私がカムイルのリクエストに応えたいです」
「リーン…、」
「お酒のせいにしても、いいから…今日はカムイルをおもてなしする日って、決めているんです」
 言いきってしまってから恥ずかしさが込み上げてきて、リーンは熱が引いたはずの頬がまた熱くなっているのを自覚した。それをどうにかやり過ごしたくて、カムイルと同じようにスプーンを手にとると、誤魔化すようにスープをひと口飲み込んで喉を潤す。カムイルがじっと見つめてきている視線を痛いほど感じていたが、さすがにすぐ目を合わせることはできなかった。
「……じゃあ、食べながらでいいから、俺の話を聞いてくれる?」
 しばしの沈黙の後。いつも通りの優しい声色が聞こえてきて、ようやくリーンも視線を上げることができた。対面のカムイルはリーンが思っていたよりも早いペースで食事を進めていて、やっと顔を上げられたリーンと視線が合うと、柔らかい微笑みを返してくれる。
「さすがに、もう酒のせいにできるほど酔ってないんだけど……醜態晒したついでだから、観念して白状するよ」
「醜態だなんて、そんな…」
「俺、リーンのことちゃんと、一人の女性として意識しているよ」
 最も懸念していたことをストレートに言い当てられ、リーンはどきりと心臓が跳ねるのを感じた。驚きと動揺で視線が揺らいだリーンを見て、カムイルは小さく笑いを溢しながら話を続ける。
「子供だと思っているから手を出せないわけじゃないんだよ。むしろ、その逆」
「逆…?」
「大人にならなくても…今のままのリーンでも、俺は、そういうことの対象として見てる。リーンにしてあげたいことも、触れたい場所もたくさんあって、体だって反応するよ。それで俺、たぶん性欲も強い方だから……普通に抱きしめてるだけで体の方が勝手に反応しそうになるし、キスまでしちゃったら、本当に我慢できなくなる」
 そこまでで話を一度区切って、さすがにストレートな物言いが続いて心配になったのか、カムイルは食事の手を止めると様子を窺うようにリーンの顔を覗き込んできた。リーンも応えるように手を止めて、大丈夫、とカムイルに頷き返す。リーンには経験も馴染みもない話題で少しドキドキしてはいるが、今まではぐらかされていたカムイルの本音を聞かせてもらえることは、リーンにとっても嬉しかった。その気持ちを表情から読み取ってくれたのか、カムイルは一度グラスの水を飲んでから話を続けた。
「リーンはさ、俺からキスしたいって言われたら、どんなキスを想像する?」
「え…?えっ、と……」
 まさか問いかけが飛んでくるとは思っていなかったリーンは、咀嚼しようとしていたパンを飲み込みながら考えを巡らせる。手の甲や頬などキスされるであろう場所にいくつか思い当たるものはあったが、恋人同士のそれというのなら、真っ先に想像したのはやはり唇同士で交わすキスだ。
「キスと言われたら、やっぱり…唇と唇を重ねるやつ、だと、思います」
 まさにキスしてもらいたいと思っている恋人を前に言葉に出して、恥ずかしさでいたたまれない気持ちになりそうだ。また伏し目になってしまうリーンに、カムイルがテーブルの向こうから「ごめんね」「ありがとう」と優しく言葉をかけてくれる。
「そっかぁ…やっぱり、それを想像するよね」
「カムイルは違うんですか…?」
 不安になってリーンが伏し目にしていた視線を上げると、対面で視線が合ったカムイルは「うーん」と悩まし気な声をあげながら、思案するように瞳を閉じる。
「俺だってもちろん、リーンの唇にキスしたいと思ってる。それこそ、うっかり雰囲気にのまれたら流れでキスしちゃいそうで…バレてるかもしれないけど、かなり我慢してるよ」
「別に、我慢しなくてもいいのに」
「うん。そう言ってくれるのも嬉しいけど、でも……俺がキスしたいって思ってるのは、唇だけじゃないから」
「…………あ、」
 言葉の意味を理解して、リーンは思わず手に持っていたパンを皿の上に落としてしまった。遅れてやってきた熱は顔と言わず体の芯から全身に一気に発火して、もう食事で誤魔化しようがないほどに、リーンは頭の天辺から足の爪先まで真っ赤に茹で上がってしまう。どうリアクションしたらいいかわからずそのまま狼狽え始めたリーンに、カムイルは苦笑を浮かべながら「だから言ったのに」と話を続ける。
「言ったでしょ?ちゃんと一人の女性として意識してる、って。ちょっとお酒飲んで帰ってきただけでアレだったのに、我慢しなくていいってリーンに言ってもらって、馬鹿正直にそれを真に受けて調子に乗ったら、本当にどうなっちゃうかわからないから」
「あ……う……で、でも…っ」
「うん?」
 様々な考えが頭の中をぐちゃぐちゃになって渦巻いてうまく言葉にできないリーンを、食事を終えたカムイルが穏やかな眼差しで見守ってくれている。きっと、カムイルの告白をどのように受け止めて何を自分の言葉にして伝えたいかも、すべて見透かされている。それでもリーンが自分の口から言葉にできるまで待ってくれているカムイルは、やはり、優しい人だ。
「でも…カムイルは、きっと……私が本当に怖くなってしまったら、そこでちゃんと、止まってくれると思うから…」
「……俺のこと、信用し過ぎじゃない?」
 自嘲気味に笑うカムイルに、リーンは勢いよく何度も首を横に振った。
「そ、それに…ッ!いつかその時が来て、それまでまったく段階を踏んでいないというのも、その…私がまた、経験不足で緊張してしまうかもしれない、し……」
「あー……それは、一理あるかも」
 リーンが尻すぼみになりながらなんとか言葉に出した提案に、カムイルも口元に手を当てて「確かに」と考える表情になった。そのまま黙って何か考えを巡らせている様子のカムイルを、リーンも固唾を飲んでじっと見守る。
 しばしの沈黙に、時計の針が時を刻む音だけが室内で小さく聞こえる。リーンの喉は次第に緊張で乾き始めていたが、テーブルの上のグラスを手にとるのもなんだか憚られるような心地で、石のように固くなってカムイルの様子を伺うことしかできない。カムイルはカムイルで、リーンの気持ちに寄り添いながらも彼自身が守ろうとしているラインを越えない範疇を慎重に吟味してくれているせいか、真剣な表情になって押し黙ったまま、なかなか動く気配がない。待ち続けるリーンが次第に、自分の子供っぽい我儘に付き合わせてしまっているようで申し訳ないと思い始めた頃。「あ、」と何か思いついたような声を漏らしたカムイルの視線が、ゆっくりとリーンへ向けられた。
「じゃあさ、リーンが決めてよ」
「え…?」
「俺が触ったり、キスしていい場所。リーンが決めてくれたら絶対にそれ守るから」
「私は、別に…」
「どこを触られても大丈夫、はナシだよ」
「うっ、」
 言いかけた答えを先回りされて退路を断たれてしまい、リーンは言葉に詰まった。
 だってカムイルの提案ではまるで、自分から触れてほしいところを申し出るようで。カムイルに我慢させるのが嫌で彼のお願い事を何でも聞いてあげたいと思っていたのに、いつの間にかまた、リーンがカムイルにしてほしいことをお願いするかたちになってしまった。いつでもリーンの側に寄り添ってくれるカムイルは優しいけれど、その優しさが、こういう場面では少し意地悪くも感じてしまう。
「…そういうカムイルは、どうなんですか?」
「へっ…?」
 だから、リーンも少し仕返しをしたくなった。
「私はカムイルにならどこでも大丈夫だと思っていて、それで、カムイルも…キスしたいと思ってくれている場所が、たくさんあって。それなのに私だけ言うのは、フェアじゃないと思うんです」
「そ、れは……そう、だね…」
 そこを指摘されるとは思っていなかったのか、カムイルは痛いところを突かれた様子で頭を抱えた。その悩まし気な様子を見ていると少しだけ緊張がまたほぐれて、リーンはまだ少し残っていた食事を再開する。
「フェアじゃない、って言われても……うー……だって俺が考えてるキスとリーンが憧れてくれてるキスって、絶対に同じじゃないじゃん…」
「そう思うなら尚更、実際に確かめてみないとわからないじゃないですか」
「…リーンさあ、それちゃんと意味がわかって言ってる?」
 心配そうな声色で聞いてきたカムイルに、リーンは力強く頷いて返した。リーンには経験がまだなくても、カムイルが考えるキスがどのようなものかを想像することはできる。それも十分理解した上での合意なのだと真っ直ぐな視線で訴えれば、カムイルもこれ以上リーンの覚悟を無下にはするまいと腹を括ってくれたのか、姿勢を正してから「わかったよ」と観念して折れてくれた。
「…じゃあ、食事が終わって少し落ちついたら、確かめてみようか。俺達の今後の進展のためにも、ね」




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