だいじにさせてよ!



 もっと恋人らしい距離感で触れ合いたいとリーンから頑張って言ってくれたことがきっかけになり、カムイルからも、ゆっくり過ごせるタイミングでリーンに声をかける機会が増えた。抱きしめていいかと確認するたびに嬉しそうに頷いてくれるリーンは可愛いし、カムイル自身も予想していた通り、意識的に触れ合う時間を増やしたことで、リーンが以前のように変に緊張したり要らぬ遠慮をすることもなくなった。肯定的に考えれば二人の関係が深まったわけだが、穿った見方をするなら、リーンもカムイルも、互いに触れことに慣れてきたわけである。
 慣れるということはあれこれと考えをめぐらす余裕も出てくるわけで、そうなるとやはり、男の不自由な機能と向き合わなければならないわけで――――


「――…勃ちそうで怖い」
 処、紅玉海。
 絶好の釣り日和に漕ぎ出した小舟の上、せっかくの非番をのんびり過ごそうと釣り糸を垂らすタンスイのすぐ横で、彼に無断で舟に上がり込んできたカムイルが溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこちらの方だ、とタンスイがカムイルに睨みを利かせる。
「……わざわざ他人の舟に上がり込んで来てまで聞かせる土産話がそれか?」
「だってぇ~!」
「デカい声を出すな。舟を揺らすな。魚が逃げちまうだろうが」
 耳にタコができるほど聞かされているカムイルの愚痴がまた始まりそうで、そうなる前にタンスイは容赦なく中指でカムイルの額を思い切り弾いてやった。聞いてくれよ、と身を乗り出しかけていたカムイルは「痛ッ」と額を手で押さえながら仰向けに倒れる。
 そう、今日に限った話ではないのだ。タンスイはいつの間にやら、カムイルの中で男女の情について相談する拠り所になってしまっていて、カムイルが原初世界へと戻ってくるたびに、ああでもないこうでもない、とろくに進展していない彼と彼の恋人――リーンの近況報告を一方的に聞かされている。
「だって、めちゃくちゃ好みというか、大好きな女の子と触れ合うんだよ?そんなん意識するなって言われても意識しちゃうし、意識したらもう絶対に反応しちゃうじゃん!さすがのタンスイだってタイプの女の人に言い寄られたらまだ全然勃つでしょ!?……あ、それとももうそんな元気もない?枯れちゃってる?」
「舟から落とされたいのかお前」
「はあ……俺もタンスイみたいに、場数踏んでて余裕があって、もっとスマートにリーンのことリードできたらいいのに…」
 カムイルがタンスイに聞かせる愚痴は、大体いつもこんな感じだ。リーンの方は恋人らしい触れ合いを求めてくれているが、それに応えているとカムイルの気持ちに反して体の方が急いた反応をしてしまいそうで、それが怖くてなかなか応えてあげられない。
 本当に耳にタコができるのではないかと思うくらい何度も聞かされている悩みなので、突っぱねて追い返せるものなら追い返してしまいたい。だがタンスイとしても、カムイルがここまで逃げ腰になってしまっている事情には心当たりがあるので、それを考えると邪険に扱う気にもなれないのだ。
 タンスイは、カムイルの過去のトラウマを知っている。
「…そこまで日和って及び腰なら、お嬢ちゃんを泣かせる心配もないだろうが」
「…………」
 知っているどころか、そのせいで自暴自棄になりかけていたカムイルから根気強く話を聞き出して、きちんと想い合っている相手同士なら間違いを犯すことはない、と繰り返し説き伏せてカウンセリングまがいのことをしたのがタンスイだ。デリケートな話だけにカムイルも他に相談相手はおらず、当時の事の詳細やカムイル自身が何を感じて傷ついて苦しんでいたのか、それらを深く把握できているのもタンスイだけだろう。そういう経緯もあって相談役に選ばれてしまっている自覚もあるので、タンスイは糸を垂らしていた釣竿を引き上げると、倒れたままいじけ顔になっているカムイルの様子を覗き込んでやった。
 今はこうして冗談半分に愚痴を聞かせているカムイルが、本音のところでは、大切な恋人に対して自分も性的加害者になってしまうのではないかという恐れを捨てきれていないこともわかっている。だから、繰り返し説き伏せるしかないのだ。カムイルがやっとの思いで前向きに恋をできるようになった時と同じように。今度は、前向きに恋人との仲を深められるようになるまで。
「そこまで場数を踏みたいって言うなら、クガネで心当たりの店でも紹介してやろうか?世界を救った暁の冒険者様ともなりゃ、女も選びたい放題だろうよ。ウチの女衆の中にも、お前のことを可愛いって話してる奴がいくらかいるぞ」
「そういうのは……ちょっと、」
「ふん…ハナから他の女と遊ぶつもりもないなら、滅多なこと言わずに、手前で腹ァ括るしかないだろうが」
 自分でもわかっている図星を指されて、カムイルの尻尾がいじいじとした様子で揺れる。
「だって……」
「うん?」
「だって…怖いじゃん。自分より体が大きくて力も強い相手が、自分に対して興奮して欲情してる、って……怖いと思うよ。どんなに好きな相手でも、きっと、本能的に」
 ぽつぽつと語り出したカムイルの表情は、いじけた子供っぽいものから、自身のつらい記憶を反芻して恋人を憂うものへと変わっている。それがわかるタンスイも、茶化さずに真剣な眼差しでカムイルの話に耳を傾ける。
「タンスイはよく知ってると思うけど、俺…本当に、受け入れてもらえたってわかった瞬間に、呆れるくらい相手に甘えちゃうから。自分の中で大丈夫だと思ったら、リーンのこと愛したいって気持ちが止められなくなって、俺がしてあげたいって考えてること、全部やっちゃうと思う」
「でもお嬢ちゃんは、お前のことを信頼して、身も心も預けてくれているんだろう?」
「…だから怖いんだよ。リーンはきっと、俺のことを拒まないから」
 きゅっ、と。カムイルが何かに怯えるように小さく唇を引き結ぶのを、タンスイは見逃さなかった。
「きっとリーンは、自分がされて嫌なことがわからないまま、俺のことを受け入れちゃう。それでもし、リーンの中でのボーダーラインを俺が踏み越えちゃって、傷つけたり、怖い思いをさせちゃったりしたら…俺は、それが怖い」
「……そうか、」
 何度も、何度も。タンスイは、カムイルが語る「怖い」という言葉を聞いてきた。
 幸運なことに、タンスイは初めての経験から現在に至るまで、他人と肌を重ねる中で加害者にも被害者にもなったことはない。同意の上ならそれも当たり前のことだと思って生きてきたが、今目の前で物憂げな眼差しをしている青年の凄惨な体験を聞いてからは、その当たり前がいつ脅かされてもおかしくない均衡の上に成り立っていることを知った。
 自身が脅かされた立場を経験したからこそ、怖いのだ。大切な恋人に対して同じ振る舞いをしてしまうのではないか、本能に身を任せる中では正常な判断ができないのではないか、と。その負の思考のループに入り始めたカムイルが大きな体躯をぎゅっと丸め始めたのを見て、タンスイはそれ以上考えさせまいと、わざと足癖悪くカムイルの尻を蹴った。
「痛ッ!?」
「まあ、まだ腹括れないなら仕方ねえわな。続きは陸で酒でも飲みながら聞いてやるから、砦まではお前が漕げよ。ほら、起きろ」
 蹴った尻を間髪入れずに掌で叩いてやって、むくれながら上体を起こしたカムイルに櫂を持つように差し出す。カムイルはカムイルでタンスイがわざと湿っぽい空気を断ち切ってくれているとわかっているので、再びいじけた表情になりつつ、素直に櫂の柄を握って立ち上がると、船頭のように舟の先へ立って櫂を漕ぎ始めた。
「はあ…でもさぁ、リーンってマジで可愛いんだよ。いい匂いもするし、タンスイはあんまり感覚わかんないかもしれないけど、エーテルもすごい心地よくてさ。リーンが魔力を込めてくれたクリスタルとかって、持ってるだけで頭ほわほわしそうになるんだよね」
 筋違砦へ漕ぎ出しながら、湿っぽい雰囲気を振り払ったカムイルは、リーンがどれだけ魅力的な恋人なのかとタンスイに語って聞かせ始めた。これももう飽きるほど聞かされている惚気話だが、先程までのうじうじとした愚痴よりは余程聞いていて気分がいいので、タンスイも「ほう、」と口角を上げて先を促す。
「エーテル操作に馴染みがない人だと、そうだな……匂いとかが、近い感覚かも」
「匂い…?」
「ほら、その人自身が持つ匂いが好みだと相性がいいとか、そういう話があるじゃない?エーテルって人がそれぞれ肉体に宿しているものだし、たぶんタンスイも、意識してないだけで感じたことはあると思うよ」
 馴染みのないタンスイにカムイルが語って聞かせながら、小舟は筋違砦の正面から少し離れた船着き場へ戻った。表に比べるとくたびれて杭を打ちつけただけのようなそこに小舟を寄せ、しっかりと縄で留めてから砦近くのタンスイの部屋へと向かう。酒をとってくるというタンスイと途中で別れて先に部屋の中に入ると、カムイルは預かった魚を捌いて酒のアテにしようと籠の中を覗き込む。小ぶりの魚と海老が多いのでまとめて素揚げにしてしまおうかと調理師に着替えて支度を進めていると、思っていたよりも大ぶりの酒瓶をいくつか抱えてタンスイが戻ってきた。
「お前、今日は飲める日か?」
 そう言ってタンスイが片手で持ち上げてみせたのは、カムイルが以前に奢ってもらって飲み口を気に入った清酒のラベルだった。思わず尻尾を跳ね上げて機嫌のいい反応をしてしまったカムイルに、タンスイも「大丈夫そうだな」と苦笑しながら対面へ腰を下ろす。
「いいの…?それ高い銘柄で、ハンコックが押しつけてきたときくらいしか滅多に飲めないって言ってたのに…」
「そのハンコックが押しつけてきたんだよ。醴泉神社の他にも、紅玉海一帯で散り散りになっていた神器やらアメノミハシラから出てきた遺物やらの回収を手伝った礼だとよ」
「へえ…じゃあ、お言葉に甘えて」

 手早くつくった素揚げと少々の刺身を拵えたカムイルが卓につくとタンスイが清酒の酒瓶を持ち上げるので、それが酌の合図だとわかってきたカムイルもすっとグラスを差し出してありがたく酌を受ける。すでに手酌で始めていたタンスイのグラスにも減っていた分だけ酌を返して、人生の先輩と仰ぐ男と日の高い時間から飲む酒ののど越しは、友人達と飲む席のものとは一味違った熱さで胃へと流れていった。
「あー……」
「随分と酒飲みらしい声が出るようになったじゃないか」
 小腹が空いた状態で流し込んだ清酒は胃に入ったところから心地よい熱さで全身に沁みる。思わず声を出して唸ってしまったカムイルに、酒の飲み方を教えた側のタンスイは嬉しそうに目を細めた。
「お前、そこそこ飲むようになったのか?」
「んー…友達に呼ばれれば、って感じかな。最近はリーンのところで過ごすことの方が多いから、こっちに戻ってきたときくらいしか飲まないよ」
「……なんだ、お嬢ちゃんの前では飲んでないのか」
 意外だ、と。タンスイが細めていた目を今度は大きく見開く。そんなタンスイに、カムイルは肩を竦めて見せてから二口目を呷った。
「リーン、まだお酒飲める歳じゃないからね。俺だけが飲んでても仕方ないし、まあ悪酔いはしないと思うけど、それでも、変な飲み方して酔ったり潰れたりしたら迷惑だし…」
「酔った勢いでうっかり手を出したら怖いし、ってか?」
「うっ……わかってるなら聞かないでよ」
 口には出したくなかった本音を見事に言い当てられ、するすると三口目も飲みかけていたカムイルはばつが悪そうな顔になった。
「陽気なお酒だと楽しくなって気持ちが大きくなるってやつ、最近ちょっとわかってきたから…男友達と飲んでそのまま外に泊まるならいいけど、今日は夜までに戻ってリーンと一緒にご飯食べる約束してるし、こっちで酔い覚ましてから帰るつもりだよ」
「面白くねえ奴だなあ…自制できなくなるまで飲めとは言わないが、少しくらい酒の力を借りた方が、お前もお嬢ちゃんに素直に甘えられるだろうに」
「酔った勢いで間違い犯したくないって話、今さっきしたよね?聞いてた?」
「聞いていたさ。だからこそ、酒の力を借りた方がいいんだ」
 年長者のタンスイから見て、カムイルは酒に弱い方ではない。海賊衆で囲んであれこれ教えた甲斐もあってセーブした飲み方が身についているし、性格的にも、多少酔ったくらいで他人を――ましてや大切な恋人の制止を聞かずに乱暴をするようなこともないだろう。
 だからこそ、酒の力で普段から自分自身にかけてしまっているブレーキが少し緩むくらいがちょうどいいのではないか、とタンスイは思うのだ。
「素面だと、まだ腹が括れないんだろう?本当はお前だって彼女の気持ちに応えて、これでもかってくらいに甘やかしたいくせに」
「それは、そうだけど……」
「だったら、いいじゃないか。今日はこのまま俺に付き合って、向こうに帰る頃合いまでゆっくり飲んでいけよ」
 そう言って、タンスイはカムイルの空いたグラスに容赦なく清酒の瓶の口を近づけた。度数の高い清酒を三口飲んで少し酔いが回り始めたのか、カムイルも意固地ないつもの態度が少し軟化して、素直にタンスイの酌を受けてすぐに注がれた酒を飲む。
「うー…帰れなくなるのは嫌だから、俺のこと潰さないでよ…?」
「その辺の塩梅も加減してやるよ。だから、お前は素直に俺の酌を受けとけ」
 時刻はまだ昼下がり。最近は原初世界と第一世界の時間の流れに大きな差はないので、夕食の支度に間に合うように戻るとしても、紅玉海が夕陽で染まり始める頃合いまでは休み休みで酒を飲むことになる。そんなに長い時間飲み続けた経験がないカムイルがまだ不安そうにしているのを察して、タンスイは「そういえば」と声をかけた。
「日暮れまで飲むには飯が足りないかもしれないな。客人をこき使って悪いが、もう少し腹にたまりそうなものをいくつかつくってくれるか?」
 言えば料理好きなカムイルの心持ちが上向きになることはわかっているし、タンスイの思った通り、追加注文の申し出にカムイルは眼鏡の奥の瞳をきらりと輝かせた。そのまましっかりした足腰で立ち上がり、嬉しそうに腕まくりしながら部屋の扉に手をかけてタンスイのことを振り返る。
「それじゃあ、砦の方に行って台所借りてくるよ。ついでに酔いも覚ましてくる」
「おう。そんな手が込んだものじゃなくていいからな」
「うん!適当に三品くらいつくってくるから、ちょっと待ってて」
 この短時間でよく三品も思いつくものだな、とタンスイが感心して舌を巻いている間に、カムイルは上機嫌でタンスイの部屋を後にした。きっとリーンにも普段からあの調子で手料理をふるまっているのだろう姿が想像に難くなく、思わず吹き出してしまったタンスイはそのまま、くつくつと一人きりになった部屋の中で笑いを溢した。
「まったく……料理だ何だと手のかかることはあんなにすんなりやってみせるくせに、淋しがっている恋人を腕に抱くなんて簡単なことが、どうしてできないんだろうな」
 できない理由はわかっているが、わかっているからこそ、早くカムイルの自縛を解いてやりたいとも思う。とはいえ、今日のところはタンスイからカムイルに対してできる働きかけは酒を飲ませるところまでが限界のようなので、次の一手は別の場所から攻めるしかない。
「さて、と…」
 カムイルが砦へ行っている隙に、とタンスイは腰を上げて、少し離れた場所にある文机へ上半身と腕を伸ばした。そう、一筆したためるのだ。魔法やら魔術やらに疎いタンスイには詳細がわからないが、ひんがしの言葉で綴った文章でもリーンに読める内容で翻訳してくれる魔道士があちらにはいるらしいので、遠慮なく筆を進めていく。
 別に、若人同士の恋路に要らぬお節介をしようというわけではない。ただ、自分はカウンセリングまがいのことをしたおかげでカムイルの懐柔手段に心当たりがあるので、それらをリーンに伝授しようと思っただけだ。それを活かしてカムイルに迫るのか、それとも見なかったことにするのかはリーン次第だが…――
「……まあ、お嬢ちゃんの性格なら、きっと役立ててくれるだろう」
 役立ててくれるなら、それはきっと彼女のためにもなる。
 大事に扱うことは結構だが、年頃の乙女にあまり淋しい想いをさせるものでもない。この手紙を読んだリーンに上手をとられたカムイルはきっと慌てふためくだろうが、自分のためにも彼女のためにもせいぜい醜態を晒すがいい、とタンスイは思う。
 タンスイの助言が吉と出るか凶と出るか――否、吉に転ぶ確信もある。そう考えるとまた少しだけ機嫌がよくなったタンスイは、手酌で注いだ焼酎を景気よく一思いに呷った。


   ◆◇◆


 一方、第一世界。
「リーン、シャンプーとトリートメント変えたの?」
「うぇっ…!?」
 ヘアセットを依頼したガイアが髪に触れてすぐ気づいて聞いてきたので、予想よりも早いリアクションにリーンは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「わ…わかる…?」
「ええ。指通りが前よりもよくなっているし、髪が動いたときにふんわり香る匂いも、前に使っていた石鹸っぽさが強いものじゃなくなってる」
「えへへ…そっかぁ、」
 言い当てられて嬉しそうにはにかむリーンに、薄々察しがついていたものの、ガイアは「またアイツなのね」とこぼしてからリーンの髪に櫛を通し始めた。
「ご実家のお手伝いで、シャンプーとかボディソープとか、その辺りの日用品を新しく考案しているんだって。それで、私が気になったやつの試供品を使わせてもらってるんだ」
「ふうん…でも、いい感じ。ロングヘアでも絡まず櫛通りもいいし、それに、このふんわり残る香りがリーンにぴったりね」
「本当にっ…?」
 肌や髪へのトラブルもなく、リーン自身も気に入って使い続けた試供品分は、ちょうど明日か明後日には使い切ってしまいそうな量になっている。香りもリーン好みだがそれが自分自身のイメージに合っているかわからずドキドキしていたところだったので、ガイアのお墨付きをもらえてほっと胸を撫で下ろせた心地だった。
「せっかくサラサラの髪になったのに、アップにしちゃっていいの?」
「うん!今日は私の手料理で日頃のお礼をするって決めてるから、髪型とか服装も、いつもと違う雰囲気にしたくて」
 カムイルが第一世界を発つときに、戻ってきた日のディナーをつくって労わせてほしいと約束をしていたのだ。いつもリーンが何か行動を起こす前にカムイルがあれもこれもともてなしの準備をしているのに甘えっぱなしになっていたので、せっかく教えてもらった料理を練習した成果を見せるためにも、今日のリーンは気合が入っているのである。
 ドレッサーの横のハンガーにかけてあるワンピースもいつものデザインとは違うもので、ガイアは敢えて聞かなかったが、それもきっとカムイルから贈ってもらったものなのだろうことは察しがつく。活発な印象があるいつもの短い丈のワンピースと真逆の、くるぶしまで丈があるロングワンピース。普段の服装より大人っぽい印象に仕上げたいというリーンのリクエストで、髪型は編み込みのアップで仕上げる予定だ。
「自分でヘアセットもできたらよかったんだけど、綺麗に仕上げるのが難しくて…」
「リーンの髪は柔らかくてサラサラしているから、慣れない内だと髪が逃げちゃうわよね。セットしながら教えてあげるから、また今度、時間があるときに一緒に練習しましょう?」
「うん、ありがとう!」
 トレードマークであるピンク色のリボンを一緒に編み込みながら、ガイアの手でリーンのストレートヘアがみるみる姿を変えていく。手は止めずに言葉でアレンジのポイントを教えながら、それでもガイアの手でリーンのヘアセットはあっという間に完成してしまい、いつもと違う印象で鏡に映る自分の姿に、リーンは目を輝かせて感嘆の息を吐いた。
「まだ時間に余裕があるなら、軽くメイクもしていく?」
「うん、お願い!」
「わかった。じゃあ私のメイク道具も持ってくるから、このまま少し待ってて」
 鏡越しにウインクで目配せして、ガイアが踵を返して別室へと姿を消した。鏡に映る姿が自分一人だけになったリーンは、顔や頭の角度を変えながら髪型の細部を確認する。簡単にリボンを編み込むだけのいつものストレートヘアとは違って、こうして首筋のラインがしっかり見えて顔周りがすっきりするだけでも、少し大人びた印象に思えた。これならいつもよりカムイルに意識してもらえるだろうか、と。そんなことをつい考えてしまって、何ともなかった心臓が急にとくとくと足早に鼓動を刻み始める。
「うう…っ、」
 どうしてもカムイルを求める気持ちが抑えられない自分がはしたなく思えて、リーンは顔を赤くすると耐え切れずにそのままドレッサーに突っ伏す。そのまま恥ずかしさともどかしさで小さく唸り声を上げるリーンの背中を、メイク道具をとって戻ってきたガイアが微笑みながらこっそりと見守っていた。




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