だいじにさせてよ!



 時を数日遡って、カムイルが原初世界へ戻っていたある日のこと。
 リーンがカムイルに関わる情報を嬉しそうに報告してくれるおかげで彼のスケジュールまですっかり把握できるようになってしまっているガイアは、カムイルが帰ってしまったことでリーンが抜け殻になっているのでは、と少し心配になってリーンの部屋を訪ねていた。以前に食べたがっていた菓子店の新作を土産に携えてきてくれたガイアに、リーンも顔色を明るくしてガイアを部屋の中へと招き入れた。
「アイツが戻ったから暇してるんじゃないかと思ったのよ。せっかくだし、一緒に食べましょう」
「ありがとう…!私、お茶の用意するね」
 リーンがケトルを火にかけて湯を沸かす間、ガイアはガイアである程度はリーンの部屋の勝手を知っているので、食器棚から適当な皿を取り出して土産の焼き菓子をその上へと広げる。一息ついて椅子に腰を落ちつけ、ふと目に入った寝室のベッドが新調されていることに気が付いて、ガイアは思わず口をあんぐりを開けてしまった。
「ねえ、ちょっと……アイツ、まさか今度はベッドまでつくったの…?」
「うん!」
 ちょうど用意が整った茶器をトレーに乗せて運んできたリーンが、嬉しそうな声色でガイアの問いに答える。
「ほら…キャメさんの部屋で一緒にディナーをご馳走になると、ガイアはいつも泊まってくれるでしょう?その話になったら、備え付けのベッドだと狭いんじゃないか、って心配してくれて。大きめのサイズのものをつくってくれたの」
「そう……近くに行って見ても、いい?」
「もちろん!替えてもらったばかりだから、マットレスもふかふかだよっ」
 リーンにぐいぐいと先導されるままガイアが寝室へ入って確認すると、話に聞いた通り、リーンとガイアが二人で一緒に使っても十分に余裕があるサイズのベッドに代わっていた。華美な装飾はなくどんな部屋にも合うシンプルなデザインで、その代わり、ベッドと一緒に贈られたであろう枕カバーや毛布がリーン好みのデザインのものになっている。手を滑り込ませて押してみたマットレスも程よいふかふか加減だ。「よくやるわ」と、ガイアは呆れと感嘆が入り混じった声で思わず呟いた。
「もうすっかりリーン専属の家具職人ね」
「えへへ…キャメさんから言ってくれるから、私もつい、甘えちゃって」
「いいんじゃない?あっちもリーンのこと甘やかしたくて仕方ないって感じだし、これからもどんどん甘えてあげるといいわ」
「そうかな…」
 言いながらあれこれ思い当たることがあって恥ずかしくなったのか、リーンの頬が少しだけ赤らむ。それに目敏く気付いて、ガイアは「ふうん、」と艶っぽい笑みを浮かべた。
「その様子だと、いろいろとお願いしたいことはありそうね…?」
「も、もう…!変な言い方しないでよ!」
「恥ずかしがることないわ。せっかく恋人になれたんだから、それらしいことをしたいって思うのは普通のことよ」
 話しながら居室へと戻り、飲み頃になった紅茶がいい匂いを立たせているテーブルへと腰を落ちつける。
「前にも言ったけど、アイツは奥手なんだからリーンが少し強引に押すくらいじゃなきゃ駄目よ。間違いを犯そうとしているわけじゃないんだから、してほしいことはお願いしないと…」
「うう…でも、なんて言えばいいかわからないよ……」
 ティーカップを口元へ運びながら、しゅん、とリーンの眉が下がる。
「今だって、いろいろよくしてもらってるのに……我儘とか、はしたないって、思われないかな…?」
「その心配はないと思うけど」
「それに…私のことを考えて、ゆっくり段階を踏もうとしてくれていることもわかるから。その優しさを拒絶しているみたいな気がして、なんだか、そう思うとやっぱりお願いしづらくて」
「……でも、告白する前のリーンも、そう言って諦めようとしていたでしょ?」
 ガイアに痛いところを指摘されて、リーンはカップを持った姿勢のまま両肩が思わず跳ねた。
 まったくもって、ガイアの言う通りだ。リーンはカムイルへ想いを告げるかどうかで悩んでいたときも、カムイルの負担や迷惑になるのではないかと考えて逃げ腰になって、そのまま想いを伝えずにいようとしていた。だが告げないと決めた想いはカムイルと会えない時間が経てば経つほど大きくなってしまって、苦しくて、強い後悔になってリーンの胸の中でくすぶり続けることになった。そのときとまた同じことになりかけていると、ガイアはそれを心配してくれている。
「リーンが一番よくわかってると思うけど……彼、貴方にお願いされて嫌なことなんて、きっとないわよ。すぐに応えることはできなかったとしても、どうしたらリーンの気持ちに寄り添えるかを真剣に考えてくれるはず」
 自信がなさそうにテーブルの上で脱力しているリーンの両手を、ガイアが包み込むように優しく握ってくれる。ちらりとリーンが視線を上げると、そこには、友人の恋を優しく見守り、応援してくれる穏やかな微笑みがたたえられていた。
「だからね、アイツのことは少し困らせるくらいがちょうどいいと思って、まずは甘えてみたらどうかしら…?」
「……ありがとう、ガイア。いつもごめんね」
「いいのよ。リーンには幸せになってほしいから、私が乗れる相談事ならなんでも話して」
 本当はガイアだって、ミトロンの魂の転生を待つ淋しさを抱えているだろうに。でも、だからこそ、やっと巡り会えてまたすぐ別れることになってしまったガイアとミトロンのことを考えれば、リーンはカムイルが世界を越えて会いに来てくれるのだから、彼と過ごせる時間を悔いなく過ごすべきなのだとも気付かされる。
「ガイアが傍にいてくれて、本当によかった」
 同じ年頃の同性の親友として、そして時には、アシエンの魂と記憶を持つ人生の先輩として。ガイアのような頼れる存在が傍にいて相談に乗ってくれることは、とても心強い。心からそう実感して感謝を伝えるリーンに、ガイアは少し困った顔になりながらリーンの頭を優しく撫でた。
「まったく…私じゃなくて、恋人にもっと甘えてやりなさいよ」


   ◆◇◆


「――――…カムイルに、甘えてもいいですか…?」
 部屋に戻って開口一番にリーンから放たれた強烈すぎる右ストレートに、カムイルはそのままノックダウンできるものならしたい心地だった。
 リクエストがあれば応えたいとカムイルが提案して、詳細は部屋に戻ってから相談したいとリーンに言われて、おいしいランチを食べているうちにそのやりとりを頭の隅に追いやってしまっていて、部屋に戻って扉を施錠した途端にこれである。相談したいと言っていた時のリーンの反応から内容は薄々察してはいたが、まさかここまでストレートな言葉で告げられるとは。
「あー……うん。俺としても大歓迎だけど、その…具体的には……?」
 何が大歓迎だ、馬鹿野郎。もっと気の利いた言葉でリードしてあげられないのかと自分で自分の頬を殴りたい気持ちと、それができたら苦労していないと開き直ってしまっている自分とで、カムイルの頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。そんな状態で余裕ある受け答えができるはずもなく、ちらりと見下ろしたリーンもまた、具体的にと聞かれて肩まで真っ赤になってしまっている。これではリーンが恥ずかしい思いをするだけだ。
 腹を括れ、男カムイル。察せないほど鈍いわけではないのだから、お前が覚悟を決めてリーンの勇気に応えないでどうするんだ。
 カムイルはリーンの正面へ回り込んで片膝を折ると、真っ赤になっている顔を下から見上げて、安心してもらえるように微笑みかける。
「…ごめん、恥ずかしかったよね。言ってくれてありがとう」
 声をかければ、それまで居たたまれなさで逸らされていたリーンの視線が、ゆっくりとカムイルへと向けられる。恥ずかしさで潤んだ目元を直視するといろいろと来るものがあるが、カムイルは沸き上がりそうになる邪念を胸の内で無理矢理ねじ伏せ、リーンの目をしっかりと見て優しく言葉を続ける。
「甘やかし方は俺のおまかせ、ってことでいいのかな?」
「…………はい、よろしくお願いします…」
「ん。じゃあ、とりあえずソファに座ろうか」
 リーンを大きめのソファへと案内する。部屋を簡易錬金術工房へと模様替えするタイミングで、二人でゆっくり過ごせるようにと思い持ち込んでいたものだ。部屋の奥へ入っても薬品や香料の匂いは目立たなくなっていたので、リーンにはそのままソファへ座ってもらって、カムイルは窓を閉めるついでに、いくつか心当たりの品を鞄から取り出してからリーンの隣に腰を下ろす。自分から言い出してしまった手前、引くに引けない状況に緊張しているのか、リーンは肩に力が入ってワンピースの裾をきゅっと握りしめている。そんな様子では甘やかそうにも甘えられないだろうと、まずは緊張をほぐす話題づくりのために、カムイルは手に持っていた小瓶をソファ近くのローテーブルの上に置いた。
「さっき、香水に興味あるって言ってたでしょ?これ、俺がいつもつけてるやつだよ」
「!」
 思った通り、少し俯き気味だったリーンがぱっと顔を上げてくれた。それに一先ず安心して、カムイルは香水のキャップを外す。それだけでも仄かに香る匂いに気付いたリーンが「あ…っ」と小さく声を上げた。
「本当だ…カムイルがつけている匂いに似てる…」
「これ、リラックス効果もある調合の香りなんだよ。せっかくだから使ってみようか」
 折よく作業用にムエット用の紙もあったので、リーンの隣でワンプッシュだけ振りかけた。トップノートが香り始めたくらいでリーンに渡すと、随分と不思議そうな顔になって首を傾げながらムエット紙を見つめている。
「確かに似ている匂いだけど…なんだか、爽やかな香りですね。カムイルがつけてるときは、もう少し甘い印象があるのに」
「時間が経つと変化するのと、肌につけると体温で香りが変わるからね。あと、腰につけてるからそんなに強く香らないと思うし」
「そっか、つける場所によっても変わるんですね」
 やはり初めての物事を見聞きするとリーンは夢中になってくれるようで、香りを確かめながらカムイルの話を聞いているうちに、すっかり緊張した様子はなくなっていった。今ならちょうどいい頃合いだろうか、と少しだけリーンとの距離を詰める。さすがにリーンもそれに気付いて少し驚いた顔になってカムイルを見つめてくるので、「大丈夫だよ」と安心してもらえるように声をかける。
「絶対に、リーンに断りなく触ったりしないから……だから、抱きしめてもいい…?」
 おそらく、リーンの本命はこちらだろう。求めてくれていたのは、恋人同士の距離感でなければできない触れ合い――具体的に言葉にするのは恥ずかしいのに、勇気を出して甘えたいと言ってくれた。カムイルが少し不安になりながらもじっと答えを待っていると、ムエット紙をそっとテーブルの上に置いてから、リーンが黙って小さく頷いてくれた。自分の読みが合っていたことにほっと胸を撫で下ろして、カムイルはリーンの肩を優しく抱き寄せた。
 背中に回した腕と肩に触れている掌から、リーンの体温を感じる。それだけで信じられないくらいに鼓動が早鐘を打っている。種族差も年齢差もあるリーンの体はカムイルと比べると本当に小さくて、リーンの方から胸元へと寄りかかってもらうと、すっぽりと胸の中に収まってしまうほどだ。愛する人が自分の腕の中にいるという感覚はやはり馴れないもので、それでも自分を信頼して身を寄せてくれているのだとわかると、恥ずかしさや緊張よりも愛おしさの方が勝って込み上げてくる。
「……ごめんなさい、」
 胸の中から、申し訳なさそうな声が聞こえてくる。その後に続く言葉にも察しはつくので、カムイルは遮るように「いいんだよ」と口を挟んだ。
「俺の方こそ、リーンに言わせちゃってごめんね…俺がリーンにしてあげたいことばっかりさせてもらって、リーンが俺にしてほしいこと、ちゃんと応えられてなかったね」
 腕の中で、リーンが首を横に振って否定してくれる。
「私も、我儘言って、ごめんなさい…カムイルは、私のことを考えて慎重になってくれているのに」
「うん……でも、まあ…それでリーンを我慢させちゃってたら、意味ないから。また俺が日和ってたら、今日みたいに甘えてきてくれると、ちょっと助かるかも」
 逃げ腰の性格はなかなか変えられないので、そこだけはどうか容赦してほしい。そんなニュアンスで頼りなく言葉にするカムイルに、リーンも小さく笑って許してくれる。自分には勿体ないくらいの恋人だと思うし、そんな彼女が自分を選んでくれたのだから、やはり大事にしたいとも思う。
「リーンなら許してくれるって、わかってる。でも…自分より体が大きい人に迫られるのが怖いのも、わかるから。怖がらせたくないって思ったら、どこまで距離をつめていいのかわからなくて」
「私、カムイルにしてもらって嫌なことなんて、ないですよ…?ドキドキしたり、びっくりしちゃうことは、あるかもしれないけど…カムイルなら、怖くないから」
「……うん。ありがとね」
 何をされても嫌じゃない、だなんて…――リーンが本心から言ってくれているのだとわかるから、嗚呼、やはり自分がしっかりとボーダーラインを見極めなければならないな、とカムイルは思うのだ。

 きちんと好き合っていた相手のはずなのにいざ触れ合ってみたら怖かった、そういう気持ちになれなかった、というのは珍しくない話だ。そういう話題になると人々は往々にして「本当に好きな相手じゃなかったんだよ」なんて無責任に言うものだが、必ずしもそうとは限らない、とカムイルは考えている。
 心から信頼し合って愛を確かめ合えている相手でも、いざ肌と肌が触れ合うその時まで、自分の体がどんな反応をするかはわからないものだ。例えばそれが、デリケートな場所に触れない軽いスキンシップだったとしても。本能的な恐怖があれば体は強張るし、自分の心と反する肉体の反応を感じれば、それだけで頭の中は混乱する。好きな人に触れられているのにどうして怖いのだろう、と――――

「(――…逆に言えば、心は拒絶していても体が受け入れてしまうこともある)」
 肌の触れ合いについて考えると、どうしても、カムイルの胸の奥で未だ消えずに残っている傷がじくじくと痛む。肩に添えていた腕を腰に回してぎゅっと抱きしめるカムイルに、リーンはされるがまま体を預けてくれたが、明らかに様子が変わったカムイルを気遣うように背中を撫でてくれた。
「大丈夫ですよ、カムイル」
 リーンには、過去の自分の身に起きた出来事を話してある。そのせいで必要以上に慎重になってしまっていることも、理解してくれている。
 その上で、こうして「大丈夫」と体を預けてくれている。
「私はまだ子供だし、カムイルが初めてだから、ちゃんとわかっていないことも多いかもしれないけど……こんなに大切にしてくれる人がひどいことをするはずがないって、それだけはわかります。だから…今みたいに抱きしめてもらえるのも、たまに頭を撫でてもらえるのも、嬉しいんです。もっと、たくさんしてもらいたい」
「うん、わかった…じゃあ今日は、このままゆっくりしよっか」
 言いながら頭を撫でてみれば、リーンが嬉しそうな笑いを溢しながらさらに身を寄せてくれる。ほとんどカムイルに体重を預けるような姿勢で落ちついて、髪を梳くように指先で繰り返し頭を撫でていると、食後だったことも相まってか、カムイルが覗き込んだリーンの瞳が次第にとろんと蕩け始めた。
「……眠くなっちゃった…?」
「はい…少し、だけ…」
 瞬きがゆっくりした動きへ変わり、瞼を閉じている時間がじわじわと長くなっている。人肌の心地よさと寝落ちたくない気持ちの間で揺らいでいる様子で、だが抗えそうにないことを悟ると、完全に脱力してカムイルの胸の中で体を小さく丸めた。
「ごめんなさい…このまま少しだけ寝ても、いいですか…?」
「ベッドで横にならなくて平気?」
「……カムイルの隣がいい、」
 少しぐずるように頭を擦りつけてくるので、こんなにべったりと甘えてくれるのも珍しい、とカムイルはぽかんと口を開いてしまった。だが、自分が腹を括れなくて淋しい想いをさせてしまっていた反動なのかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちで自嘲の笑みを溢し、寝かしつけるようにゆっくりと、リーンの額を前髪の上から撫でる。
「日が暮れる前に起こしてあげるから…いいよ、このまま寝ちゃって」
「ん……、」
 いいよ、という言葉を聞いて、リーンの瞼が完全に閉じた。それから穏やかな寝息を胸元に感じるまでに時間はかからなくて。リーンがすっかり寝落ちたことを確認してから、カムイルはずっと堪えていた溜息を大きく吐き出した。
「はあぁー……マジで、可愛すぎて頭おかしくなる……」




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