暁の声





 ――俺の部屋で待っていてほしいんだ。
 そう言ったカムイルから部屋の鍵を預かって、程なくしてリーンが感じていた終末の気配がなくなって、それから数週間。あちらの世界では事後処理なども大変だろうということは想像に難くないので、終末が収束してすぐ連絡が届くものでもないとは思っているが、それでも愛しい人からの便りというものは待ち遠しいものだ。
「アイツ、まだ何も連絡して来ないの?」
「…うん、」
 この頃のリーンといえば、終末が訪れかけた影響が出ていないかと第一世界の各地を飛び回って確認することが主な活動になっていた。相棒はもちろんガイアで、彼女のホバー船に乗せてもらい、無理のない日程で少しずつ視察をしている。そんな小さな旅も今日で一通り巡り終わってしまい、カムイルが来ないことには原初世界の様子もわからないので、明日からは彼の訪れをじっと待ち続ける日々になる。
「一応ね、終末を謳うものを打ち破って、それからみんな無事だっていう簡単な連絡だけはもらったの。だから心配する必要はないって、わかっているんだけど…」
「それとこれとは話が別よ。無事な便りが届いたところで顔を見せないんじゃ、リーンに寂しい思いをさせてるだけじゃない」
 ガイアの運転するホバー船が水晶公の門からクリスタリウムのすぐ目の前まで乗りつけてくれて、リーンは彼女に礼を言ってホバー船から降りる。ガイアはモルド・スークに用事があるそうなので、今夜はここでお別れだ。
「ありがとう、ガイア。何かあったら連絡するね」
「ええ。それじゃあ、おやすみなさい」

 ホバー船が見えなくなるまで見送ってから、リーンは夜のクリスタリウムへと門を潜る。終末の訪れを気取られないまま営みが続く街の中は変わらず活気で溢れていて、この世界の人々の暮らしが無事に守られて本当によかった、と。リーンは胸を撫で下ろす。
 軽い買い出しをしてから自分の部屋へ戻るつもりだったリーンは、エーテライト・プラザを右へ折れてマーケットへそのまま進んでいく。今夜と明日は何を食べようか、カムイルに教えてもらったレシピの中でまだ挑戦できていないものはあっただろうか、と。そんなことを考えながら歩くリーンが目の前に気配を感じて足を止めると、ふわっ、とその場に淡い光の粒子が現れた。
 それこそが待ちわびていた便りだと気付いたリーンは、咄嗟に光の下へと手を伸ばして受け止める準備をする。やがて淡い光の中から見覚えのある便箋が現れると、嗚呼、とリーンの唇から感嘆がこぼれた。
「おかえりなさい…カムイル……っ」
 掌の上へ優しく落とされた便箋をしっかり受け止め、待ちきれずに折りたたまれたそれを広げる。見覚えのある筆跡に、連絡が遅れてしまったことへの謝罪と、明日にはクリスタリウムを訪れて数日は滞在できるという嬉しい知らせ。リーンは抑えきれず駆け出し、ペンダント居住館にある彼の部屋へと一目散に向かった。
 あの日預けてもらった鍵は、いつでも使えるようにと肌身離さず大事に身につけている。それをいよいよ使う日が来たことが嬉しくて、鍵穴に差し込んだそれをゆっくりと回して部屋の扉を開けると、感極まって目から溢れそうなものさえある。
 埃こそかぶっていないが、カムイルが最後に旅立ってから随分と日が空いてしまった部屋の空気は少し籠っていて、それを入れ替えるためにリーンは部屋の窓を大きく開け放つ。部屋の中に残っていたカムイルのエーテルの残滓がふわりと外へ出ていってしまうのが名残惜しかったが、明日はようやく彼本人が来てくれて、そしてきっと、リーンとたくさんの時間を過ごしてくれる。それを思えば、残り一夜をこの部屋で待つことの寂しさもどうということはない。
「……よしっ!」
 逸る気持ちを抑えるためにも、リーンは早速、カムイルを迎え入れるための準備に取り掛かった。


   ◆◇◆


「――じゃあ俺、しばらくあっちにいるから」
 キャメロンの怪我が無事に快癒し、今まで二人で一つだったあれやこれやの手続きも済ませ、実家に関わる面倒事も落ちついた。第一世界に長く滞在するための荷物をまとめて朝早く出立するカムイルを、根っから夜型で朝が苦手なキャメロンが、欠伸交じりで半分寝ながらも玄関まで見送ってくれる。
 せっかく二人で暮らせるように配置替えしたゴブレットビュートのこの家も、しばらくはまた、姉が一人で悠々自適に暮らす根城になるだろう。帰ってきたら散らかり放題であろうことは想像に難くないので、あえて小言は挟まずに大きな鞄を肩にかける。
「行ってらっしゃい、リーンによろしくね」
「うん。そっちも、ワイモンドが戻ってきたらよろしくね」
 手を振る姉に見送られ、カムイルはクリスタリウムへと直接飛んだ。

 早朝のクリスタリウムの空気を胸いっぱいに吸い込んで、ようやくまたここへ戻ってこられた、と大きく深呼吸する。時刻はまだ朝の八時過ぎで、さすがにこの時間に押しかけてはリーンにも迷惑なので、カムイルは荷物だけを管理人に預けて街の中を散歩することにした。彷徨う階段亭からいい匂いが漂ってきたので吸い寄せられるように近付くと、早朝から働きに出る職人達向けのモーニングサービスを始めたのだと新顔の店員が教えてくれた。
「へえー…じゃあこの、バケットとヨーグルトのセットお願いします」
「かしこまりました。席までお持ちしますよ」
 最後に来たときはエルピスへの手掛かりを探すのに必死でそれどころではなかったが、こうしてゆっくりと眺めるクリスタリウムの様子はやはり、カムイルがエデン調査のために足繁く通っていた頃からまた新しく変わりつつある。リーンが日々暮らす街の現状が少しだけ垣間見えたような気がして、この優しくて穏やかな時間の中で彼女が過ごせているのだということがわかっただけでも、早起きしてこちらへやってきてよかったと思う。
 朝の澄んだ空気の中でゆっくりとモーニングセットを消化し、陽も少しずつ高くなり始めた頃合い。ふと目に留まった時計が九時半過ぎを指しているのを見て、そろそろ大丈夫だろうか、とカムイルは席を立つ。歩いてすぐのペンダント居住館へ戻って荷物を受け取るために管理人へ声をかけると、預けていた鞄と一緒に新しい鍵が渡された。
「お節介だったかもしれませんが…合鍵を用意させていただきました。二人それぞれでお持ちの方が、不便なことも少ないでしょうから」
「すみません、ありがとうございます」
 心遣いをありがたく受け取って、長い階段をリーンが待つ部屋へと登っていく。鍵は受け取ったものの黙っていきなり部屋へ入るのもなんだか気が引けて、カムイルは予定通りに扉をノックして中のリーンへ合図を送った。
 だが、少し待ってみても返事がない。聞こえなかったのだろうかと先程より少し強めにノックをしてみるが、部屋の中で彼女が動いている気配もなく、しんと静まり返ったままだった。
「……リーン…?」
 もしかして、まだ眠っているのだろうか。この時間なら起きてしばらく経っている頃合いだと思ったのだが、目算を誤ったらしい。とはいえここまで来てまた管理人に荷物を預けるわけにも行かず、幸いなことに合鍵も渡されたばかりだったので、少し気は引けたが、カムイルは鍵を使って部屋へ入ることにした。
 眠っているかもしれないと思うと、鍵を回して扉を開ける動作も自然とゆっくりになる。顔だけ覗かせて見た室内はまだカーテンが閉じたままで、明かりもついていない。
「リーン、入るよー…?」
 聞こえていないかもしれないが念のために断って、滑り込むように部屋の中へと入る。大きな荷物はダイニングテーブルの上に置いてそのままベッドがある方へ視線を向けると、案の定、盛り上がっている毛布が目に留まった。
 部屋で待っていてほしいとは言ったものの、まさか本当に、自分のベッドを使って寝泊まりしてくれていたなんて。起こさないように静かに近づいたベッドの上、壁を背にして横向きに眠っているリーンの寝顔がよく見える。毛布を抱き寄せるようにして小さく包まっている姿が、素直にかわいいと思う。起こしてしまうのは忍びなかったが、その寝顔を見ていたらたまらなくなって、カムイルはベッドサイドにしゃがみ込んでリーンの髪に手を伸ばした。
「リーン、」
「ん……」
 撫でるように髪を梳くと、少しだけリーンが顔を顰める。そのまま飽きずに柔らかな髪を撫でていると、うっすらと瞼が開き、おぼろげに彷徨うアイスブルーの瞳がぼんやりとカムイルの姿を捉えた。
「…カムイル……?」
「おはよ、リーン」
「…………、」
 しばし呆けた様子で沈黙し、意識がはっきりするとはっとなって勢いよく体を起こす。そんなに慌てなくてもいいのに、と。微笑ましく寝起きの慌てっぷりを見守るカムイルの前で、リーンはおろおろと起き抜けの髪や衣服を整えた。
「えっ…あのっ……ご、ごめんなさい…ッ!い、今って何時ですか…!?」
「九時半過ぎ、ってところかな。朝早く押しかけちゃってごめんね」
「いっ、いえ…!私が寝過ごしてしまっただけです!本当は早く起きて、それで……っ、ベッドもきちんと、整えようと思って…いたの、に……」
 そこまで言葉に出して、かぁ…とリーンの顔が真っ赤に沸騰する。こっそりカムイルのベッドを借りて何事もなかったように元に戻すつもりだったのだと思いがけず自白してしまい、恥ずかしさと申し訳なさで俯いた顔を両手で覆った。
「ごめんなさい……ベッド、勝手にお借りしてしまって…」
「いいよ、別に。好きに使ってって言って鍵渡したのは、俺なんだから」
「うぅ…、」
 耳どころか首と肩まで真っ赤になって固まってしまったリーンは、このままではなかなか立ち直ってくれそうにない。年頃の女の子の寝起き姿をいつまでも見ているのも悪いので、カムイルは腰を上げるとキッチンへと向かうことにした。
「朝ごはんつくろうと思うから、その間に着替えておいで。脱衣所の方には近づかないからゆっくりでいいよ」
「はい……それじゃあ、お言葉に甘えて」
 カムイルが材料を並べている背中で、着替えを持ったリーンがそそくさとシャワールームへ続く部屋へと飛び込んでいく。あまり時間をかけずに火が通るように細かく刻んだ野菜で薄味のスープを拵え、煮込む間にスクランブルエッグとソーセージを焼く。軽めの量で盛り付けてテーブルの上へ用意していると、着替え終わったリーンがちょうどダイニングへと戻ってきた。
「ごめんなさい、朝食まで用意してもらって」
「俺が食べてほしいからいいの、気にしないで」
「……カムイルの手料理、久しぶりだから嬉しいです」
 こうして部屋に招いたリーンに料理をふるまうのは、エデンの調査作戦が終わった後の束の間の滞在期間ぶりのことだった。あれから程なくしてファダニエルの手による一連の騒動が幕を開けてしまって、そこからはあっという間に歳月が過ぎていったが、思えば随分と時間が空いてしまったものだ。

「…なかなか会いに来られなくて、ごめんね」
 思わせぶりな置き土産だけ残して――ましてや想い合ってくれていたリーンに対して、はっきりとした言葉で気持ちを伝えられないまま、ずっと待たせてしまっていた。半端なことをしたせいでかえって寂しい想いをさせてしまっていたのだと今更気付いて、申し訳なさで胸が痛む。真摯にそのことを謝るカムイルに、ちょうど食事を終えてカトラリーを皿の上に置いたリーンは、瞳を閉じて首を横に振った。
「大丈夫です。貴方が私をどんなふうに想ってくれているのかは、名前を教えてもらえただけで、痛いくらいに伝わってきたから……私にとって一番都合がいい解釈で受け取れるように、はっきりとした言葉にはしなかったその心遣いも、全部、わかっています。そのあたたかな想いが自分へ向けられているのだとわかっただけで、寂しい夜も越えられた」
 リーンが胸に手を当て、会えなかった日々の長さを反芻するように大きく深呼吸する。
「……でも、それと同時に、この胸の中には後悔も残った」
 カムイル達ならばきっと終末を退けてくれると信じている一方で、もしも二度と彼に会えなくなってしまったらという不安がなかったと言えば、それは嘘になる。
 その不安が胸を過ぎるたび、口に出して伝えられなかった言葉が後悔となって、リーンの胸の中に深く沈んでいった。想いをはっきりと言葉にできなかったのは、リーンとて同じだったのだ。
「私はまだ、カムイルに比べたら子供で…ガイアやクリスタリウムの人達に支えてもらいながらなんとか頑張って生きているけれど、まだまだ、大人には程遠くて……そんな私が想いを告げたら、迷惑になってしまうんじゃないかと思って。貴方の迷惑になるのが怖くて、自分の気持ちを伝えられなかった」
「…うん、」
「でも、今は……もう諦めたくないし、後悔もしたくないんです。貴方がこの部屋に戻って来てくれたら、私が思っている気持ちを全部、伝えたいって思った」
 年齢のこと。生きる世界が違うこと。他にも自分達の間には様々な壁があって、手放しで愛を誓い合うことは難しい。それでも、想いを確かめ合った後に待ち受けている困難よりも、本当の気持ちを伝えられないままで終わってしまう後悔の方が嫌だった。
 だって自分達の気持ちは互いへ真っ直ぐに向いていて、ほんの少し手を伸ばしただけで触れ合える距離にあるのに。それをなかったことにしてしまうなんて、そんなのは嫌だ。

「カムイル……私、貴方のことがすきです」
 リーンが手を伸ばして、テーブルの上に置かれたカムイルの指先にそっと触れる。
「これから先、私達の世界がどうなってしまうかはわからないけど……それでも今は、こうして、手を伸ばせば届く場所に貴方は居てくれる。それを諦めてしまうなんて、私は、絶対に嫌…!」
「……うん、そうだね」
 伸びてきたリーンの指先にカムイルの指が優しく絡んで、そして離れてしまう。せっかく触れ合った体温が離れてしまった寂しさで縋るように見つめてくるリーンの視線を感じながら、カムイルは腰を上げると、リーンが座る椅子のすぐ隣に膝を折って跪いた。いつもとは逆転した目線のカムイルに見上げられて、リーンの胸が大きく跳ねる。
 彼の本当の名前を告げてもらったときも、こんなふうにカムイルは、椅子に座るリーンの隣に跪いてくれていた。リーンが膝の上へと戻した手の上へ、あのときと同じように、カムイルがそっと彼の手を重ねてくれる。再び触れ合った彼の体温は心地よいあたたかさで、堪らなくなったリーンは、カムイルの胸の中へと飛び込むように正面から抱きついた。跪いた体勢のままのカムイルはそれをしっかりと受け止めて、彼女の肩と腰にそれぞれ回した腕にぎゅっと力を込めて抱きしめる。
「本当に…今までずっと、待たせてごめん。俺も、ちゃんと言葉にするから……今まで伝えられなかった気持ち全部、伝えるから。だからリーンも、全部受け止めて」
 受け止めて、だなんて。そんな押しつけがましい願いを口にできる日が来るなんて、カムイルは思ってもみなかった。
 自分が向ける想いは彼女の未来を狭めてしまう足枷にしかならないと思っていたのに、そうではないのだとわかった途端に我慢できなくなって、溢れ出して、本当に、自分で自分が嫌になるほど現金な性格だ。
「お願い、リーン……俺の全部、受け止めて…もう自分の気持ちからも、リーンの気持ちからも逃げないから……」
 抱きしめたリーンの旋毛がすぐ口元にあって、泣いて震えてしまいそうな唇を誤魔化そうと押し付ける。鼻先を埋めるとリーンの気配が濃くて、それは匂いや肌に触れて感じる感触だけではなくて――彼女の魂を織り成して体内を巡っているエーテルまで、こんなにも愛おしい。そこに感じるのは行き止まりの停滞などではなく、心安らぐ平穏をもたらしてくれる優しい光だ。
「私も、もう諦めたりしないから……だから私の気持ち、全部、受け止めて下さい」
「うん……リーンの全部、俺が欲しい…」

 終末が訪れてよかったことなんてひとつもないけれど、でも、諦めないことの大切さを思い出させてくれたことだけは、メーティオン達に感謝したいと思える。
 カムイルが逃げたままだったら、リーンが諦めたままだったら、二人の想いが届いて交じり合うことはなかった。手放しで愛を誓い合うことが難しい二人だから、その壁さえ越えたいと願う想いの強さは揺るぎない。
 そうして互いに抱き合ったまま離れ難くなって、それでもいつまでも床に座り込んでいるわけにもいかず、重ねた体をゆっくりと離して見つめ合う。そのまま口づけを交わすには自分達の関係はまだ早いということは、互いにわかっている。カムイルは唇の代わりに掌をリーンの頬へ寄せて、涙で少しだけ湿っぽいそこを慈しむように撫でた。
「少しずつ、進んでいこう…?リーンを待たせちゃった分、俺も、リーンが大人になるまでちゃんと待つから…」
「……はい。私が貴方の想いに応えられるようになる、その日まで」
 本当は今すぐすべてを委ねてしまいたいけれど、それがカムイルの真摯な愛の証だということもわかるから。背伸びせずにその時を待とう、と。リーンも素直にそう思える。

 これから二人で進んでいく道は、じれったいくらいゆっくりで、馬鹿みたいに丁寧で、それでも立ち止まることはない。たくさん時間がかかる分、それまでに確かめ合いたい想いも、伝え合いたい言葉も、山ほどある。その小さな一歩を積み重ねた先に続いている未来はきっと、優しい光の中で輝いていると思えるから――

「一緒に歩いて、連れて行ってください。カムイルと私の想いが結ばれるその場所へ」

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