エタバンをとめないで



 大仕事を終えた翌日だからか、キャメロンは珍しく寝過ごした。時計を見ずとも昼を過ぎているとわかる陽の高さに、「あーあ」と感嘆を吐く。寝すぎたせいでどうにもしゃっきりしないので、目を覚ますためにも浴室へ重い体を引きずった。少し低めの温度に調整したシャワーを頭からかぶると次第に脳が覚醒して、そうすると自然と思考がリーンへと向かう。
 昨夜、眠りにつく前に思い至ったアイディアはしっかりと覚えている。もうそれしか手段はないとわかっているものの、その内容が内容なので、どうにも晴れ晴れとした気分とはならなかった。
「…マジで、なんで思いついちまったかな」
 こつん、とタイルに額を打ち付ける。そのまま目を瞑ってシャワーがタイルや肌に跳ねる音に耳を傾けていると、コンコン、とその合間に来訪者を告げるノックが混じった。一体、誰だろうか。
「はーい、ちょっと待ってね」
 目は十分に冴えたので、シャワーを止めて扉の向こうへ声を張り上げる。誰もいない部屋なのでタオルで体を拭きながら居室へと戻り、下着といつものレザーパンツを掴んで応対する。面倒だから上は肩からタオルをかけたままでいいか、と濡れた髪をかきあげてドアノブに手をかけ、
「あ、あの…突然お邪魔してしまって、すみません…!」
 ――扉の向こうからリーンの声が聞こえてきて、開きかけた扉を勢いよく閉めた。

 ばたん、と居住館中に響いたかもしれない勢いで閉ざされた扉に、その向こう側にいるリーンが狼狽していることが閉ざした扉を突き抜けて伝わってくる。
「ご、ごめんなさい!私、また後で出直しますね…!」
「違っ…ごめん!その…シャワー浴びててちゃんと服着てなくて、リーンだと思わなくて、そのまま出るところだったから…!だから!ちょっと待ってて!」
 中を見ずにアーマリーチェストに手を突っ込んで、引っ張り出したのはスカイワーカー・タンクトップだったが、半裸よりはマシなので急いで頭から被る。跳ねっぱなしの心臓を宥める余裕もなく改めて扉を開けると、キャメロンを見たリーンは驚いた様子で、つぶらな瞳を見開いてそこに立ち尽くしてしまった。
「あ……ごめんね。慌てて着替えたから、こんな格好で…」
「い、いえ。私こそ…タイミングが悪くて、すみません」
「大丈夫だよ、どうぞ入って」
「…お邪魔、します」
 小さく頭を下げてから、リーンが居室へと入る。椅子へ座るように案内して、そのままキャメロンはキッチンへ立った。
「お湯沸かすけど、コーヒーか紅茶か、それとも別のものが飲みたい?」
「えっと…じゃあ、お任せで」
「了解。それなら、こっちだと珍しいものでも淹れようかな」
 ケトルを火にかけ、沸くまで手持ち無沙汰なので、濡れっぱなしの髪を軽くタオルドライで乾かす。背中を向けていてもリーンの視線が自分に向いていることがわかるので、髪を乾かすふりをして顔を隠したいという気持ちもあった。

 昨日の今日で、どんな顔でリーンと話せばいいのかわからない。
 今までもリーンのことを意識せずにはいられなかったが、昨日までと今日とでは、意識の仕方がまるで違うのだ。自分の胸の中だけに留めておこうと思っていた叶わぬ恋の相手が、ほぼ確実に間違いなく自分に好意を寄せているであろう状況で、個室に二人きり。変な気なんて起こそうにも起こせないが、緊張で頭がおかしくなりそうだ。今は、丁重にもてなすことで気を紛らわせるしかない。
 汽笛を鳴らしたケトルの火を止め、ティーポットに第一世界では珍しいであろう茶葉を入れ、蒸らしながらゆっくりと湯を注いでいく。頃合いを見計らってから空のマグカップとポットを持ってテーブルへつくと、ふんわりと漂う香りで察したのか、リーンが物珍しそうな視線をポットへ向けた。
「なんだか、珍しい香り…」
「たぶん、色を見たらもっと驚くよ」
 リーンのすぐ手前へカップを置き、ゆっくりとポットの中へ注いでいく。白地の陶器の内側が淡く色づいていくにつれて、リーンのアイスブルーの瞳が爛々と輝いた。
「これ、色が…」
「そう。グリーンだから、緑茶」
 ひんがし方面で飲まれている緑茶。第一世界の歴史や風土には詳しくないが、原初世界でのクガネやドマに当たる地域は光の氾濫で滅んでしまっているし、それらしい食文化も見当たらないので、きっと東方風の食べ物や飲み物はこちらでは珍しいだろうと思ったのだ。予想通りの反応を返してくれたリーンに、自然と表情が緩んでしまう。
「こんな見た目だし砂糖も入ってないけど、甘みがあっておいしいよ」
「すごい…緑色の飲み物なんて薬品のイメージしかなかったけど、確かに甘い香りがします」
 おそるおそるカップを手に取ったリーンが、口元へ運んだ緑茶の香りにまた驚く。息を吹きかけながら一口含んで、おそらく口の中でまた茶葉の甘みを感じたのであろう、目を見開いて驚く表情に「よかった」とキャメロンは笑いをこぼす。
「原初世界でのノルヴラントに当たる場所から東の方にね、文化がまるで違う地域があるんだ。そのお茶はそこでよく飲まれているものなんだけど、製造の過程が違うだけで、元々の茶葉は紅茶とほとんど変わらないんだよ」
「この香り、私は好きです。紅茶とはまた違った感じで、なんだか落ちついて」
 気に入ってくれたのか、リーンは少しずつ緑茶を口に含んで、そのたびにほう、と小さく息を吐く。最初はその様子が嬉しくて微笑ましく見ていたキャメロンだったが、段々と、息を吐く唇の動きやカップに視線を注ぐ伏し目の長い睫毛などに視線が向くようになってしまい、慌てて明後日の方向へ視線を逸した。
 駄目だ。話題が尽きるとまた、リーンのことを変に意識してしまう。
 リーンは緑茶を飲むと落ちつくと言っていたしキャメロンとしてもいつもならそうなのだが、今この場に限っては、ゆっくりと緑茶を舐めても心は全然落ちついてくれなかった。次は何の話題をふってこの場を保とうかと考えて、そういえばそもそもリーンが訪ねてきた理由を聞いていなかったことを思い出すと、また、そのタイミングでリーンの視線が自分の顔へと注がれていることを感じた。扉を開けたときに何だか驚いていたが、もしかして、シャワーを浴びっぱなしの顔に何か貼りついているのだろうか。
「…もしかして、顔に何かついてる?」
「え…?あっ…!」
 思いきって聞いてみると、リーンは何かに気づいた様子で声を上げた。そのまま色白の顔がじわじわと赤く染まっていき、その自覚があるようで、赤面を隠すように両手で持ったマグカップを顔の前へと持ち上げる。
 おいおいおいおい、何だその反応は。もうわかってはいることだが、これでは本当に、リーンがこちらを意識してくれているみたいじゃないか。
「じろじろと見てしまって、ごめんなさい…珍しかったから、つい」
「珍しい…?」
「あ、えっと…その…眼鏡を、外しているから…」
 顔は赤いまま、リーンがちらりと視線をキャメロンへ向ける。言われて初めて裸眼であることに気づいたキャメロンは、「あ、」と自分の目元へ手をやった。
「いつも、眼鏡をかけたり、眼帯をしたりしているから…だから、両目がはっきりと見えるのが、珍しいな…って」
「あー…そうだね。シャワー浴びたままで忘れてた」
「…視力が悪いわけではないんですか?」
 赤面もだいぶ落ちついて、リーンが持ち上げていたマグカップをテーブルへ下ろして訊ねてくる。そういえば目が悪いとも伊達眼鏡とも言っていなかったな、と思い返しながらキャメロンは置きっぱなしだった眼鏡へ手を伸ばした。
「目は悪くないよ。むしろ結構自信がある。これ、伊達眼鏡なんだ」
 ほら、とリーンへ差し出す。受け取ったリーンはレンズを覗き込んで、度が入っていないことを確認して「本当だ」と呟いた。
「でも、どうして…」
「うーん…なんか、他人と目と目が直接合うのが苦手、というか…リーンはもう知ってくれているけど、キャメの方と違って俺自身はわりと人見知りだからさ、裸眼のままだと、ちょっと落ちつかないんだ。前髪が長めなのも、少し顔の角度変えるだけで目元が隠れるからいいな、って」
 一通り物珍しげに眼鏡を確認したリーンが、またキャメロンの手へと戻した。それを受け取ってかけて見せる。
「人見知りだなんて…全然、そんなふうに見えませんよ」
「まあ、いつもは素の自分じゃなくてあいつのふりしてるし、そういうときは変なスイッチ入るから平気なんだ。それでも眼鏡があった方が安心できるくらいには小心者だよ」
「髪も……そういえば、まだ濡れたままで大丈夫ですか?」
 滴こそ垂れていないが、キャメロンの髪はまだ十分に水分を含んで濡れている。いつもセットしている髪型とは違って前髪をかき上げて撫でつけているので、確かにこれで眼鏡を外していたらいつもと別人に見えたかもしれない。リーンはそれで驚いた反応だったのか、と今更に思い至った。
「髪は放っとけば乾くし大丈夫だよ。それより、先にリーンの話を聞こうと思って」
「話…?」
「俺に、何か用事があったんでしょ?」
 まあ、部屋に通してすぐに用件を伝えなかったので、きっと何か用事があるというより単純に会いに来てくれただけの可能性が高いことはわかるのだが。それを察することはできてもリードできるほどの経験はないので、どうかすっとぼけることを許してほしい。
 聞かれたリーンは答えを用意していなかったのか、視線を落として耳を赤くした。嗚呼、別に恥ずかしい思いをさせたいわけじゃないのに。意地の悪いことをしてしまったのだと後から気づいて、罪悪感で少し胸が痛んだ。
「ごめんなさい。別に、何か用事があったわけじゃないんです」
「ん、それならそれで別に平気だよ」
「ガイアから、まだしばらくはクリスタリウムにいるみたい、って聞いて…次はまたいつ会えるかわからないから、ゆっくりお話できたらいいな、と思って」
 きゅっ、とリーンがテーブルの下でワンピースを握りしめていることがわかる。
 今すぐ席を立って抱きしめて「ありがとう」「嬉しいよ」と言ってあげたい。それができたら苦労していない。
「私…他の人がいるときにキャメさんと会話したことはあっても、こうして、二人だけでお話したことってあまりなかったと思って」
「そう、だね…」
 それは二人きりになるようなタイミングができないようにこっちが避け続けていたからだ、とは口が裂けても言えない。
 リーンが自分を想ってくれているとわかった今、これまでの自分の行いがリーンに対してそこそこ酷かったのだと突きつけられてまた胸が痛む。嗚呼、どうか許してほしい。それでも俺は、自分から君に手を伸ばすことができない。
「だから、もしよかったら、このままここにお邪魔していたくて…駄目、ですか…?」
 おそるおそる、といった様子で上目遣いに顔色を伺われる。あまりにも可愛くてこちらがどうにかなりそうだ。
「ッ……いいよ、もちろん」
「本当ですか…!ありがとうございます!」
 力んで変な返事になった気がしないでもないが、返答に喜んでくれているリーンには気付かれていないようでほっと胸を撫で下ろす。とはいえ状況が打開されたどころかますます追い詰められることになったので、一先ず時間を稼ごう、とキャメロンは席を立った。
「じゃ…じゃあ俺、髪乾かしてくるからちょっとだけ待ってて。あ、緑茶に合うお菓子とか、食べる?」
「あの、えっと…それなら…」
 リーンも席を立ち、何故かこちらへと駆け寄ってくる。
 え?なんで?どうして?このタイミングで?とキャメロンが頭に疑問符を浮かべている間にもすぐ正面に立たれて、リーンは軽く爪先立ちになるとキャメロンの肩にかけたままだったタオルへ手を伸ばして掴んだ。
「それなら…キャメさんの髪を、私が乾かしてもいいですか…っ?」
「え、」


 どうしてこうなった。
「あの…私、膝立ちになりますから、やっぱりベッドに…」
「いいよ、大丈夫」
 善意を断るわけにもいかず、リーンに濡れたままの髪を乾かしてもらうことになってしまった。
 体格差があるのでリーンにはベッドに座ってもらって、キャメロンは床にクッションを置いて座る。例えそのつもりがなくてもリーンと一つのベッドの上に乗る勇気はなかったので何とか言いくるめてみたが、それでもリーンは部屋の主を床に座らせることが申し訳ないようで、随分と居心地が悪そうにしている。
「床に座って、痛くないですか?」
「クッションあるから平気。それに、たぶん膝立ちしても俺の座高と大差ないだろうし」
「それじゃあ…失礼します」
「ん、よろしくお願いします」
 眼鏡を外すと、ふわり、と頭の上にタオルをかけられる。
「えーっと…触ってほしくない場所とか、ありますか?角の周りとか…」
「あー…角と鱗はちょっとくすぐったいかも知れないけど、まあ大丈夫かな」
「わかりました。痛かったりくすぐったかったりしたら、すぐ言ってくださいね」
 頷くと、タオルの上から後頭部を包み込むように両手を添えられた。そのまま生え際の水気を取るように手が動き始めたので、動きに身を任せて目を瞑る。リーンに限ったことじゃないかも知れないが、安心して身を任せられる相手に髪を乾かしてもらえるのは気持ちがいい。まだ姉との体格差が今ほどじゃなかった頃はよく互いの髪を乾かし合っていて、二人揃って乾かし方が甘くてタッカーやカメリアに怒られながら仕上げをしてもらっていたな、と思い出す。
「ドラン族の人って、角と鱗も肌と同じように感じるんですか…?」
「うーん…そうだね。肌の延長って感じかな」
 項の生え際を乾かす指が、ちょうど地肌と鱗の境目を掠める。わかっていればどうということはない刺激なので、大きく呼吸をして気を紛らわせる。
「今、リーンが触ってるみたいな…肌と鱗の境目のところとか、俺はちょっと、くすぐったい」
「えっ…そうなんですか、ごめんなさい…!」
「ああ、全然平気だから気にしないで」
 くすぐったいと言ってしまったせいか、リーンの触り方がさらに優しくなって、かえってフェザータッチのようで余計にくすぐったくなった。とは言えないので、話を続けて誤魔化すことにした。
「どう例えたらいいかわからないんだけど…鱗がない種族だと、かさぶたみたいな感じかな」
「かさぶた…」
「リーンはあんまり、できたことないかな?治りかけの傷跡とか…正常な肌と患部の間に、少しだけ皮膚が薄いところがあると思うんだけど、俺達の肌と鱗の間もそんな感じなんだと思う」
「確かに、気になって触ると少しぞわぞわしますよね」
「そうそう、そういう感じ。でも痛いわけじゃないし、神経質になるほどじゃないよ」
 話す間に項の部分は乾いたようで、また後頭部から旋毛にかけて念入りに手が動き始めた。
「髪が短いと乾くのもあっという間なんですね」
「そうだね。リーンとか、髪が長い人とは全然違うかも」
「あと…実際に触ってみると、柔らかいかも」
 リーンが笑いをこぼす気配を吐息で感じて、思わずぐっと息を詰めた。
「いつもセットしている髪しか見ていなかったから…もっと、太くて硬い髪質だと思っていました」
「ああ、なるほど…」
「前髪が長いって言っていたのも、こうして乾かしているとわかります。旋毛から後ろは短めだけど、顔の周りは意外と長いんですね」
「うん。だからそっちは、頭の後ろより乾くのに時間かかるかも」
「ふふっ…それでも、私の髪を乾かすよりずっと早いです」
 重たくなったタオルが外されて、乾いている新しいタオルで生え際近くを丹念に乾かされる。目を瞑っている上に額の近くを撫でられているせいか、随分と心地いい。というか心地いいを通り越して幸せで死ねるかも知れない。なんだこれ。夢でも見ているのか?
「顔、少し上を向いてもらってもいいですか?」
「ん、」
 だいぶ馴れてきたのか、リーンが顎に指を添えて傾けてくれるので、それに素直に従って上を向く。前屈みになったらしいリーンの髪が揺れたせいか、そこからふんわりと石鹸の匂いがする。今うっかり瞼を開けてしまったら間違いなく心臓が止まる。キャメロンは無意識に揺らしてしまっていた尻尾を叱咤するように握りしめた。
「わっ…睫毛も、金色…」
「そりゃ、まあ…地毛が金だからね」
「部屋の照明に当たると、きらきらしてます…っ」
 まさかそんなところに注目されるとは思わなかったのだが、顔を覗き込んでいるであろうリーンの声が弾んでいるのがわかる。恥ずかしさで穴があったら入って逃げたい。
「キャメさん、とっても背が高いから…こうして近くで顔を見られて、嬉しいです」
「そ、そう…?」
「はい!あっ…すみません、変なことを言ってしまって」
 遅れて恥ずかしさがやってきたのか、リーンの声が尻つぼみになって、誤魔化すようにタオルドライが再開された。それ以上は何も言われなかったが、髪を乾かしながらでも視線が顔に注がれ続けていることがわかるので生唾を飲んでしまう。首をそらしているせいで、喉仏が動くのが目立ったかもしれない。
 会話は途絶えてしまったが、その後もリーンに丹念に乾かされてキャメロンの髪はすっかり湿り気がなくなった。「終わりました」と声をかけられて、顔の向きを正面に戻してからゆっくりと瞼を上げる。目を瞑っていたせいか、本当に夢でも見ていたような気分だった。
「湿っぽいところは残っていませんか…?」
「あとは自然に乾くから大丈夫だよ、ありがとう。リーンの方こそ、手が疲れたでしょ?」
体ごと振り返って訊ねると、リーンが首を横に振る。
「いいえ、これくらい何ともないです。おいしいお茶を出してもらったお礼だと思ってもらえたら…」
「別に、そんなつもりでお茶出したわけじゃないのに」
「いいんです。だって、私がやりたくてやらせてもらったことだから」
「…じゃあ、テーブルに戻ろうか」
 このままでもいいのだが、床に座ったままではリーンが気にしそうなので元の席へと戻る。湯を沸かし直して二杯目の緑茶を淹れると、リーンは嬉しそうにカップを受け取ってくれた。キャメロンも自分の分を継ぎ足して一口飲み、外したままだった眼鏡を改めてかけ直すと、「あ…」と小さく吐息交じりにリーンの声が聞こえた。
「眼鏡、やっぱりかけるんですね」
「うん。もうずっとかけてるから、逆に外していると落ちつかなくて…外した方がいい?」
「あ、いえ…」
 なんとなく、リーンが言いたいことはわかる。きっと裸眼の素顔が珍しいから、それがまたいつも通りの眼鏡に戻ってしまって残念なのだろう。そうとは言いづらくて、リーンはカップの中身に視線を落として言い淀んでいる。その気持ちを想像できなくはないが、やはりまだ、裸眼でリーンと対面するのは気恥ずかしい。
 真っ直ぐ下ろしたままの前髪越しに盗み見たリーンは、次の話題を考えているのか、俯き気味のままで視線を泳がせている。こういうときに助け舟を出してあげたらいいのかもしれないが、生憎、話題を探して思考が堂々巡りになっているのはキャメロンも同じだった。
 他の人が相手なら、いくらでもその場を取り繕えるのに。リーンの前でだけはいつもの外面のよさがどこかへ消えてしまって、取り繕えないまま素の自分を曝け出すことになるから、余計に何も言えなくなる。頭の中はパンク寸前で、許されるならこの場から逃げ出したいくらいだ。こんなふうに沈黙が続けばリーンに嫌われていると勘違いされてもおかしくないし、だからどうにか空気を和ませたいのに、一体どうしたらいいのかわからない。思いつくアイディアはすべて陳腐なものに思えて、じゃあどうしろというんだ、と駄目出しした自分に逆ギレしてしまう。せめてこの不毛な自問自答は悟られまいとカップを口元に運ぶと、そこでまた、リーンの方から遠慮がちに声をかけられた。
「あ、あの…っ」
「ん…?」
「せっかくの機会なので、いくつか質問しても、いいですか…?」
「…うん、いいよ」
 会話が始まったことで、また部屋の空気が少し柔らかくなった。顔を上げて向き直ると、正面のリーンが「えへへ」と嬉しそうにはにかむ。頼むからあんまり可愛いリアクションをしないでくれ。本当に心臓が止まるかと思った。
「よかったぁ…あっ、でも、何から聞こうかな…」
「そんなに俺に聞きたいことがあるの…?」
「それは…えっと……はい…」
 そこでまた、リーンが耳を赤くして視線を逸らした。ああもう、本当に可愛い。こんなに可愛い子が俺を意識してくれているなんて嘘だろ。耐えきれずにキャメロンは目を瞑って下唇を噛みしめた。
「今まであまり話せていなかったから、知らないことがたくさんあるな、と思って…眼鏡をかけている理由も、全然知らなかったですし」
「うん、まあ…俺も、これはあまり人に言わないしね」
「その眼鏡って、例えば、お姉さんの方のキャメさんとか…とっても親しい人の前では外したりとか、するんですか…?」
 予想よりも鋭い角度でボールが飛んできて、危うく取りこぼしそうになった。同時に先程眼鏡をかけ直したときの吐息の理由も察してしまい、「なるほどそう来たか」と胸の中で頭を抱える。
 他人と直接目が合うことが苦手だと言ったせいで、おそらくリーンには、眼鏡をかけていることがそのまま心の壁だと勘違いされかけている。ある意味では正解なのだが、それではリーンとの間にも壁をつくっていることになってしまうので、はっきりと否定しなければならない。
「いや、これは…さっきも言ったけど、もうかけている方が普通になっているんだよ。相手は関係なくて、服を着るのと同じ感覚。裸で人前に出るわけにはいかないでしょ?」
「な、なるほど…」
「でも視力はいいし、眼帯とか付けるときは外しているし…リーンが外している方がいいと思うなら、この場では外すけど」
「いえ、そんなっ…服を脱ぐようなこと、お願いできません…!」
 しまった、逆に墓穴を掘ったかもしれない。
 このまま眼鏡の話を続けていると変な方向に進みそうなので、咳払いをして話題を逸らす。
「じゃあ、眼鏡はこのままで……他には、何か聞きたいことある?」
「そうですね……好きなものとか、趣味とか…?」
 質問の内容が一般的なものになったので、ほっと一息吐く。
 それと同時に、そんな些細なことさえリーンと会話できていなかったのか、と自分の行動を振り返ってまた胸が痛んだ。
「ものづくりは好きだよ。ほんと、戦うのが苦手で…何かをこつこつ製作したり、素材を集めている方が好きなんだ」
「すごい…職人さんとしての腕も素晴らしいと思っていましたが、元々お好きだったんですね」
「うん。キャメから聞いてるかもしれないけど、実家も錬金術の家系だしね。代行をしてないときは師匠みたいな人の手伝いをしているんだけど、その人が料理も得意だから、俺も錬金術と調理が特に好き」
「あっ、そういえば…!前にもコーヒークッキーをつくってもらって、ありがとうございました。本当なら、オカワリ亭で買って食べるものなのに…」
「あははっ!ハンジ・フェーに見つかったらやばいから、内緒だよ」
 尻尾の毛を逆立てて怒る店主の様子が思い浮かび、思わず笑ってしまった。リーンも同じことを想像したのか、釣られるようにして二人で笑い合う。それでようやく、お互いに余計な力が抜けたような気がした。
 リーンと向き合っていると胸の鼓動が早くなるのは変わらないが、眩暈を起こして吐いてしまいそうな激しさではなくなった。それはリーンも同じようで、頬の色はいつもの血色より少し赤いものの、随分とリラックスして質問を投げかけてくれる。そこからは自然と会話が弾んで、闇夜に星が輝き始めるまでの間、時間を忘れてお互いのことを話して聞かせ合った。
 ふと会話が途切れたタイミングで二人揃って夜空を見上げて、それでも、そこで慌てて席を立つということはなかった。ただ、こんな時間まで夢中で話し込んでしまった充実感で二人は満たされていて、どうしてこんな簡単なことさえ出来なかったんだろう、とキャメロンはやはり昨日までの自分を自嘲するしかなかった。
「……さて、すっかり夕飯時だね」
「そうですね、」
「ガイアも一日頑張ったことだろうし、三人でご飯にしようか。俺がつくるよ」
 キャメロンの提案に、リーンの顔が眩しいくらいに輝く。
「嬉しい…!私、ガイアのこと呼んできますね」
「ん。今からつくるから、あんまり急がなくてもいいよ」
「はいっ、行ってきます!」


   ◆◇◆


 急がなくていいと言ったものの、リーンはほぼほぼとんぼ返りだったであろう時間ですぐにガイアを連れてきた。ガイアの表情を見るに、リーンがあんまり嬉しそうなので早めに戻ってきてくれたのだとわかる。馴れない執筆業で缶詰めになっていたガイアは、その疲労を隠さず早々に入口近くのソファへ座り込んだ。頭に糖分を回してあげようと思って一口サイズに切ったレモンカードザッハトルテを差し出すと、受け取るのも億劫なのか、デザートフォークを持つキャメロンの手を掴んでそのまま頬張ってくれた。まさかガイアがそこまで甘えてくれるとは思わず、これは相当参っているな、とキャメロンは苦笑した。
「はぁ…書いているときは夢中で気づかなかったけど、ここに来るまでの間にすっかりお腹がぺこぺこ…」
「そりゃ、よかった。すぐにつくるから、もう少しだけ待っててね」
「ねえ、リーン。悪いんだけど、料理屋が閉まる前にキャラメルを買ってきてくれるかしら。あれを舐めながらじゃないと集中力が切れそうなの」
「うん、任せて!」
 ガイアから財布を預かったリーンが、勢いよく部屋から飛び出していく。その足音が階段を下りて遠くなるのを待ってから、それまで気だるげに背もたれへ身を預けていたガイアが上体を起こした。それを見て「あっ」とキャメロンも勘づく。
「…わざとリーンにおつかい頼んだ?」
「キャラメルの補充がなくなってしまったのは本当よ。それより、」
 ガイアの目が随分と楽しそうに輝いているので、来るであろう話題をやり過ごすために、彼女へ背を向けてキッチンに立った。
「随分といい雰囲気になったみたいじゃない。昨日の今日で、一体どういう心境の変化?」
「別に、二人でお茶飲みながら話しただけ。期待するようなことは何もないよ」
「あら残念。でも、リーンはすごく嬉しそうだったわ」
 てきぱきと調理を進めるキャメロンに構わず、ガイアはそのまま話を続ける。
「私を迎えに来てからここに着くまで、ずーっとアンタの話をしてるのよ。よっぽど嬉しかったんでしょうね。あれはしばらく続きそうだし、おかげで私までアンタのプロフィールを覚えちゃいそう」
「それは、なんというか…」
「いいのよ、別に。リーンが楽しそうだと私も嬉しいから…それより、さっきのケーキをもう一口食べたいんだけど」
「それなら、アイスボックスにまだ入ってるからどうぞ。というか、夕飯食べられなくなるよ?」
 疲労が溜まっているのは嘘ではないようで、ガイアは随分と億劫そうにソファから腰を上げて、いつもより覇気のない足取りでふらふらとキッチンへ歩いてくる。そのままアイスボックスの扉を開けるのかと思ったが、そちらには見向きもせず、キャメロンのすぐ隣に立って切っている食材を覗き込んできた。
「ふーん…それ、リーンが話してたアンタの生まれ故郷の郷土料理?」
「げっ、もうそんなところまで聞いてるの?」
 ガイアに指摘された通り、キャメロンがつくろうとしているのはゼラスープだった。
 ケナガウシの肉と野菜を煮込んだこのスープはアジムステップでよく食べられているものではあるが、正直に言ってしまえば、肉と野菜を煮込んだ塩味ベースのスープというだけで、言うほど珍しい料理ではない。似たような食材と工程の料理は原初世界にも第一世界にも溢れているし、今からつくろうとしているものも、流通している調理師向けの製作手帳に乗っている食材とは少し違うものを使っている。ただ、リーンと話しているときに好物の話になって、野菜を煮込んだものは何でも好きだし生まれ故郷でもよく食べていたとうっかり口を滑らせたら、ぜひ食べてみたいと期待のまなざしを向けられてしまったのだ。幸いにも捨てずにとっておいたケナガウシの肉が腐らず残っていたので、地元の食材を使っているということで今夜のところは勘弁してもらうことにした。
 食材ごとに小さなボウルやトレーに分けて並べていると、ガイアは案の定、生肉に目を留めてまじまじと見つめる。
「これは一体、何のお肉…?」
「ケナガウシっていう、俺達の世界にいるウシで……そういえば、第一世界にウシっていたっけ…」
「ウシ…?私の物忘れが激しいだけかもしれないけど、食材として聞いたことはないわね」
「大型の草食動物だよ。俺が生まれた土地ではそこら中に生息していたし、家畜としても育てていたんだ」
「へえ…そういえば、生まれた場所は草原が広がる大自然ってリーンが言っていたわね」
「あー…それももう話してあるんだね」
 こちらから打ち明けたことなのでそれがガイアに伝わっていても問題はないのだが、まさかこの短時間で話して聞かせていたとは思わず、興奮しながらガイアに話したであろうリーンのことを想像すると少し恥ずかしかった。ガイアはガイアで「だから言ったじゃない」と肩を竦めてすぐ後ろにあった椅子を引いて座る。噂のリーンが部屋に戻ってきたのは、その少し後のことだった。
「ただいま、ガイア!」
「おかえりなさい。走って買いにいかなくてもよかったのに、ありがとう」
「だって、売り切れて買えないかもしれないと思って…キャメさんの方は、お料理が順調そうですね」
 ガイアにキャラメルの缶を渡したリーンが、先程のガイアと同じようにキャメロンの隣に立って調理台の上を覗き込む。ゼラスープは弱火でじっくり煮込みながら放置しているところで、今はバゲットにつけて食べるディップソースをいくつかつくっていた。
「わぁ…!こんなにたくさん種類があるなんて、初めてです」
「スープが塩味であっさりしてるから、こっちでいろいろと味を変えて楽しめればいいと思ってね。ちょっと多めにつくったから、二人共お土産に持って帰っていいよ」
「ありがとうございます!私、テーブルの準備しますね」
 スープもちょうどいい頃合いなので、火から下ろして盛り付けたものをリーンに運んでもらう。配膳のたびに皿の中身を嬉しそうにガイアに見せるリーンに、「そこまで手の込んだものじゃないから」と照れ隠しで付け加えてキャメロンも席についた。
 三人が揃った食事の席での話題は、自然とガイアがまとめている報告書の内容へと移っていった。ガイアとしても最初から食事とキャメロンへの取材を兼ねるのが目的だったようなので、快く質問に答えていく。テーブルの上のラインナップがデザートと食後のホットドリンクになる頃には気力も体力も十分に充電できたようで、ガイアは満足そうな顔で「ごちそう様」と礼を述べてくれた。
「ありがとう。これでまた、明日から頑張って続きが書けそう」
「どういたしまして。あと四日くらいはいると思うから、休憩したくなったらいつでもおいで」
「ふふっ…でも私があんまり入り浸ると二人の邪魔になっちゃいそうだから、また夕食だけ食べに来るわ」
 リーンの顔を見ながら冗談を言うガイアに、からかわれたリーンの顔が赤くなる。
「ちょっと、ガイア…!」
「じゃあ私、先に下に降りているわね」
 お土産のケーキを受け取ったガイアは、リーンの制止を聞かずに鼻歌交じりで階段を降りて行った。その背中が見えなくなってから、まだ顔の赤みが引かないリーンが「もう…」と拗ねたように唇を尖らせる。
「ごめんなさい、ガイアが変なことを言っちゃって…」
「あー…うん…大丈夫だよ。じゃあこれ、ディップソースの残りだけど、重いから気を付けて持って帰ってね」
「はい。本当に、ありがとうございます」
 小瓶を入れた布袋をリーンへ差し出し、しっかり握ったことを確認してから手を離す。改めて中身を確認したリーンは嬉しそうに微笑んで、それから、はっとした表情になってからまたキャメロンへ視線を向けた。
「あの…」
「ん?」
 キャメロンが開けっ放しの扉にもたれて首を傾げると、リーンが袋を持つ手にぎゅっと力を込める。なんとなく、言われることに察しはつく。
「あの…っ…明日もまた、遊びに来ても、いいですか…?」
 予想通りの言葉。勇気を出して言ってくれたとわかるから、嬉しくて口元が緩みそうになる。
「…いいよ、いつでもおいで」
 答えを聞いたリーンの瞳がきらきらと輝いて、それがすぐに満面の笑みに変わる。やばい。すごく可愛い。今この場で抱きしめたい。それができたらこんなに悩んでいない。
「はい…!それじゃあ、また明日!」
「うん。おやすみ、リーン」
 リーンの周りだけきらきらと輝いて明るくなっているんじゃないかと錯覚しそうなくらい嬉しそうな様子で、軽い足取りで階段を降りていく。姿が見えなくなっても軽快な足取りは居住館の吹き抜けに反響して、その音が小さくなってから、キャメロンは居室に戻って扉を閉めた。
 扉を閉めて、そこへ思い切り額を打ち付けて、そのまま脱力して床へ座り込む。
「…………何だよ、あれ……可愛すぎて無理…」




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