エタバンをとめないで



 エデンの調査作戦が終わって最初に感じたのは「安堵」だった。
 その感情の中には様々な想いがあって、調査を無事に終えられたことも、無の大地が再生されたことも、ガイアが無事に戻ってきてくれたことにも安堵した。
 そして一番に、リーンが独りにならずに済んだことに安堵した自分がいた。
 サンクレッド達の魂を原初世界へ運んで以来、ずっと気がかりだったのは「リーンが独りぼっちになってしまったらどうしよう」という勝手な不安だった。
 あくまで代行者である自分が傍にいられる時間は限られているし、今回の調査の末にガイアと離れ離れになってしまう可能性も否定できなかった。サンクレッドが去って、そしてガイアとも一緒にいられなくなってしまったら――その不安が何より大きかったのだということを、キャメロンは自身の「安堵」によって実感した。
「…リーンが独りにならなくて、よかった」
 花々に囲まれて笑い合う二人の姿を見て、最初に溢れた言葉がそれだった。少し離れた場所で呟いた言葉は、無邪気に笑い合う二人の耳には届いていないだろう。
だが、それでいいのだ。
 リーンとガイアはこれからも変わらず傍にいて、互いに支え合って生きていく。その間に自分の存在は必要ない。そう思ってから、遅れてちくりと胸の痛みを感じた。
 ――これでいい。最初から、告げるつもりもない想いだった。
 とても幸せそうに笑うリーンの顔を見ていたら、どんな野暮もする気にはなれなかった。
ガイアには適わない。自分がそれ以上の存在になれるだなんて思えない。だからこのまま、彼女が憧れてくれた英雄の代行者として舞台から降りよう。
「…よし、」
 大きく深呼吸して、キャメロンは談笑を続ける二人の元へと駆け寄った。


   ◆◇◆


 ヤルフォートへの報告を終えてクリスタリウムへ戻り、その日はそのまま解散となった。さっそく報告書をまとめるのだとリーンとガイアが意気込んでいたので、インクと紙が足りなくなったらいつでも言ってくれ、とだけ伝えてペンダント居住館へ向かう。
足早に向かった自室へ入って扉を閉め、そのままずるずると床へへたり込んだ。
「……もう、さっさと帰ろう」
 無の大地ではきっちり答えを出したはずの自分の想いが、後からじわじわと揺らいでいるのがわかる。
これは未練というやつだ。そもそも競争意識の低い性格のキャメロンの人生とは無縁であったはずの感情を、このタイミングで初めて経験することになるとは思わなかった。
 それも、よりにもよって初恋と初失恋で味わうとは。
 自分が黙っていることが最適解なのだと頭では理解しているのに、でも、もしも、もしかしたら……と、考えてもどうしようもないことに悶々としてしまう。きっといつまでも第一世界にいるのがよくないのだと、そう考えて姉に連絡をとることにした。
 まったくもって原理は不明だが、リンクシェルが世界を跨いでも繋がることが本当にありがたいと思った。今の情けない表情で姉に直接会いに行っていたら、間違いなく今回のことを根掘り葉掘り聞かれた挙句に徹底的にいじられるに違いない。
「――もしもし、きゃめくん?お疲れ」
 ちょうど連絡が来る頃間と思っていたのか、姉はすぐにコールへ応答した。その声を聞くと、悔しいが心が落ちつく。
「ん、お疲れ。エデンの調査作戦、無事に終わったよ」
「おぉ!やったじゃん、きゃめくん!これでもう私の代打でどこにでも行けるね」
「んなわけないでしょ。あと明日にはそっち戻るから、お前も準備しておけよ」
「えー、早くない?もうちょっとそっちでゆっくりしなよ」
 そう言いながら原初世界での仕事の支度は進めているらしく、通話越しにあれこれ鞄に詰め込んでいるような物音がする。
「さっきアルフィノから連絡もらってね、再招集は五日後くらいになりそうなんだって。なんなら石の家でバトンタッチしてもいいし、ギリギリまでそっちにいなよ」
「いいよ、こっちでやることないし」
「なんで?もうしばらくリーンと会えないかもしれないじゃん」
 胸に刺さる一言に、思わず「うっ」と声を漏らしてしまう。
「そういえば、リーンとガイアは元気?」
「元気だよ。今も二人で頑張って報告書仕上げてる」
「…ははーん。さてはきゃめくん、二人の邪魔ができないから淋しいんでしょ?」
「淋しくないし!」
 思わず荒げてしまった声が、開けっ放しの窓からクリスタリウム中に響いた気がする。
 姉は通話の向こうで愉快そうに大笑いした。
「よーし、わかった。じゃあきゃめくんは、私が合図出すまでそっちで過ごすこと!」
「は?」
「引き継ぎは未明の間でやればいいし、それならサンクレッド達にもエデンのことを直接報告できるでしょ?じゃあそういうことだから、よろしくね!」
「あっ、おい待て…!」
 無情にもリンクシェルは一方的に切られ、かけ直したところで出ないことはわかっているので状況を受け入れるしかない。やれやれ、と大きく息を吐かずにはいられなかった。
 遅れてアラガントームストーンが振動し、見れば姉からのメッセージで「ついでにユールモアでおつかいよろしくね」と戦闘用マテリアのリストが送られてきていた。
「人の気も知らないで、こいつは…」
 否、弟の失恋に勘付いたからこそ、気が紛れるように用事をつくってくれたのだろう。
「そういや、新しい素材の取引も始まったし…行くか、ユールモア」
 せっかくの姉からの好意に甘えることにしよう。夜のユールモアへ繰り出すため、キャメロンは上着を脱ぎながらバスルームへ向かった。


   ◆◇◆


 交換した数百個単位のマテリアを抱えてフェオを呼び出すと「また荷物を重くする気なの?」としかめた顔をされた。
「勘弁してよフェオちゃん。これがないと次の戦いの準備すらできないんだって」
 マテリアを詰め込んだ箱を渡して、代わりに原初世界から運んできてもらった素材を受け取る。中身は主に木材と、加工用の鉱物や粗皮も少々。どれも原初世界でしか採れない素材だ。中身を確認して「よし」と頷くと、フェオに首を傾げられた。
「お願いされたから持ってきたけど、大きい若木ったら、これで一体なにをつくるつもりなの?どれも装備向けの加工素材には見えないのだけれど」
「うん、ちょっとね。これはプレゼント用」
 部屋でシャワーを浴びながら考えて、思いついたアイディアだった。
 暇に任せてこちらで過ごしてしまっていたら、きっといつまでもリーンのことを考えてしまって、また悶々とした気持ちになってしまうだろう。とはいえ自分の趣味らしい趣味といえば物を作ることで、どうせ何かをつくるなら、リーンとガイアの新しい生活の門出に贈り物をしたいと思った。鏡像世界とはいえ第一世界と原初世界では採れる素材も違うから、せっかくなら原初世界で採れるもので制作したものを渡したい。そう考えてフェオに運んできてもらったラインナップだったのだが、当のフェオはそれらの素材から製作するものの検討がつかないのか、まだしかめっ面をしている。
「プレゼントって、あの子達に贈るものでしょう?綿花はないからドレスではなさそうだし、かと言って、アクセサリー向きの鉱物も少ないわ」
「別にドレスとアクセだけがプレゼントじゃないでしょ。それに、二人の趣味と俺のセンスが合うとも限らないし」
「じゃあ一体、何を?」
「ナイショ」
「あら、つれない」
 ふーんだ、と拗ねた様子でフェオはそのままどこかへ飛んでいってしまった。深く詮索してこなかった気遣いに感謝し、ふと辺りを見渡す。
 パーラーの奥から見える夜空の色はより深くなっていて、夜が次第に更けていっていることを物語っている。カウンターでは酒のグラスを傾ける客が多く、周囲のテーブルも軽食ではなくアルコールを楽しんでいるグループが増えた。もうそんな時間なのだと思うとなんだか小腹が空いてきたので、キャメロンもクリスタリウムへ戻る前に腹ごしらえをすることにした。

 サンドイッチとカフェオレを中央のバーカウンターで注文し、空いているエリアのテーブル席を探して視線を巡らす。目星をつけた席へ向かって歩き出すと、こちらの後を追うようにカウンターからヒューラン族(こちらの世界ではヒュム族だが)の男が席を立った。
「…………」
 見るからに生活に余裕がありそうな、元自由市民だったであろう男。キャメロンが席についても気にしない様子ですぐ隣に立ってくるので、品定めするように爪先から頭の天辺まで見つめてやった。
 おそらく三十歳前後の、比較的整った顔立ちで、雰囲気も爽やかそうだ。これなら相手には困っていないしある程度は選び放題だろうな、と他人事の感想を抱く。
 男の意図に気付かぬほど鈍感ではないし、不本意ながら、この手のシチュエーションも初めてのことではない。自分はどうしてこちらの方面でばかり目をつけられがちなのかと自暴自棄になりかけるが、ぐっと堪えて男に微笑みかけてやる。少し、からかってやって憂さを晴らしたいとも思った。
「こんばんは、お兄さん。俺に何か用?」
「一人なら一緒にどうかな、と思ってね。一杯おごるよ」
「ふーん……それで、いくら出してくれんの?」
 もちろん、誘われてやるつもりは毛頭ないが。
 頬杖をついて、眼鏡越しに少し濡れた眼で見上げてやると、それだけで男が生唾を飲み込むのがわかった。
 なんだ、そこまでナンパ慣れしているわけでもないのか。それとも、ここまであからさまに釣られてくれる相手が今までいなかったのか。どちらでもいいのだが、その男の反応があまりにも滑稽に思えて、キャメロンは思わず頬杖をつく手で口元を隠しながら吹き出してしまった。
「ふっ…ふふ……ごめん、冗談だよ。俺、彼氏いるんだ」
「なーんだ、人が悪いなぁ」
「ごめんって。アンタ、俺みたいなのよりもっと素直で可愛い子見つけたほうがいいよ」
 肩をすくめた男の向こう側から、注文したメニューをウエイターが運んでくるのが見えた。キャメロンの視線で男もそれに気づいたようで、ぽんぽん、とキャメロンの肩を掴んで顔を寄せてくる。
「残念。でも彼氏に飽きたら声かけてよ。私、ドラン族がタイプなんだ」
「……そりゃ、どうも」
 男が顔を上げ、ひらひらと手を振りながらカウンター席へと戻っていった。肩に触れた指の感触が気持ち悪くて、思わず顔をしかめてそこを払ってしまう。
「触るなら金置いてけ、っつうの」
 入れ替わるようにやってきたウエイターは一部始終を見ていたようで、「大丈夫ですか」と心配そうに顔色をうかがってくる。
「しつこいようでしたら、自警団に報告して退席させますが…」
「いいよ、ああいうの慣れてるし」
 やれやれ、と長く溜息を吐きながら目を閉じる。ウエイターがメニューを読み上げながら食器を並べていく小さな音が、なんだか心地いいと感じた。
 テーブルに触れる瞬間、ソーサーとその上に乗ったマグカップが小さく立てる金属音と、その向こう側でコツコツと大理石を踏み鳴らす規則的な足音と――
「…………ん?」
 何故、食器の音に混ざってピンヒールの足音が聞こえてくるのか。メニューを並べ終えたウエイターが「ごゆっくり」と一礼したのと、コツコツ、という聞き覚えのあるヒールの足音がすぐ近くで止まったのはほぼ同時だった。
「…呆れた。アンタ、いつもあんなことしてるの?」
「げっ、ガイア」
 溜息で閉じていた瞼を開ければ、随分と不愉快そうな表情のガイアがすぐ目の前に立っていた。どうやら一連の会話を見聞きしていたらしく、先程ナンパしてきた男を遠目に見ながら肩をすくめられた。
「彼氏いるんだ?」
「いないよ。ああいうナンパ断るための嘘だから」
「そのわりには、随分と男慣れしているみたいだったけど…ねえ、みんなには黙っていてあげるから、口止め料に何かご馳走してよ」
 そう言いつつ向かいの席の椅子を引いて足を組むガイアに何を言い返すこともできず、メニューを差し出すと「やった!」と小さく喜びの声をあげてくれた。お目当てのものは最初から決まっていたようで、カウンターに戻りかけていたウエイターを呼び止めてケーキと紅茶のセットを注文する。それが済むと深い色の瞳でじっと見つめてくるので、その目力に思わずたじろいだ。
「な、何…?」
「別に。こうして私達と話しているときはそんなことないのに、黙って一人でいるときのアンタって、確かに艶っぽい表情しているなぁ…と思って。顔のパーツのせいかしら」
 思いがけず褒め言葉を投げかけられ――そもそも褒め言葉として受け取っていいのかも分からず、困惑して表情が情けなくゆがむのが自分でもわかる。その変化を見ているガイアは尚更のようで、呆れたような溜息を吐かれた。
「その顔よ、その顔。さっきの男の相手をしていたときみたいな大人っぽい表情を、リーンと一緒にいるときにももう少し…」
「今、リーンは関係ないじゃん!」
「馬鹿ね、関係大アリよ」
 ぴしゃりと一刀両断され、口を塞ぐしかなかった。目力があるガイアの瞳に真正面から射抜かれると、どうにも居心地が悪くて視線を逸らしてしまう。
 今まで言及されたことはなかったが、自分の態度が隠しきれていないことは重々承知しているので、きっと、リーンへの気持ちはガイアにも筒抜けだったであろう。顔を逸しても尚痛いガイアの視線を受けながら、次に聞かれるであろう言葉を察してぐっと下唇を噛む。
「ねえ…どうして、リーンに告白しないの?」
 ほら、やっぱりそうだ。
 簡単に言ってくれるな、と胸の内でだけ言い返してみる。尤も、アシエンとしての記憶を取り戻したガイアにはそれさえも見透かされてしまっているかも知れないが。
「…別に、いいでしょ。俺が勝手に想ってるだけなんだから」
「あら、否定しないのね」
 意外だったのか、ガイアは目を丸くして驚いた。そのタイミングでちょうど、ガイアが注文したケーキと紅茶のセットが運ばれてくる。ガイアは紅茶を一口含んで、その温かさにほうっと息を吐いてから言葉を続けた。
「勝手に想ってるだけ、なんて。淋しいことだと思わない?」
 ガイアの長い睫毛が、伏せた目元に影を落としている。美しい宵闇色の瞳が陰ったように見えて、キャメロンは逸していた視線をガイアに戻した。憂い気な少女の表情だけではない、おそらく、記憶を取り戻したアログリフとしての思いも滲んだガイアの顔は、どこか大人びて見えた。
「この広い世界の中で…それも、十三にも分かたれてしまった世界の中で。想いを通じ合える人に出会えることって、とっても素敵なことだと思うのよ」
「……それは、ミトロンのことを…?」
 遠慮がちに問うキャメロンに、ガイアは少しだけ口角を上げて頷く。
「なんだか、戻ってきてからずっと、彼のことを考えてしまうの。きっとまた会えると信じているし、今の私なら、彼の魂に気づいて見つけてあげられるとも思う。でも…」
「…………」
「もし、今度は私が彼に気づいたとしても、私の声が届かなかったら。あるいは、私が今の魂で人生を終えるまでに彼の魂に出会えなかったら。そんなことをね、少しだけ考えてしまって」
 百年の孤独の中でガイアの名前を呼び続けたミトロン。もしもこの世界の闇が取り戻されず、そして、リーンがエデンの存在に気づいて無の大地を再生させなければ――ミトロンの声がガイアに届いていたとしても、彼女の魂にまつわる真相にまで辿りつくことはなかっただろう。原初世界を救う手立ての中で偶発したいくつもの要因が重なって初めて、ミトロンとガイアは二人で言葉を交わすことができた。記憶を呼び起こして、ミトロンが大切な存在であったのだということを思い出した。
 それは、いくつもの偶然が重なったことで起こった奇跡と言っても過言ではない。
「だから、こうして面と向かって話すことができる相手に気持ちを伝えることは、とても大事なことだと思うのよ。アナタは今こうして元の世界とこの世界を行き来できているけど、それだって、いつまたできなくなってしまうかわからない。サンクレッドやウリエンジェのように、元の世界に帰ったきりになってしまうかもしれないのよ」
「…わかってるよ」
 ガイアの言いたいことはわかる。
 だけど、だからこそ、この気持ちは伝えられない。
次はいつ会えるか、それとももう二度と会えなくなってしまうのか。傍にいられる保証がないからこそ、リーンの人生に強く介入するようなことはしたくなかった。結果はどうあれ、自分が遺した言葉はきっとリーンの中に強く残ってしまう。そのことで彼女に少なからず迷惑をかけてしまうのが耐えられないのだ。そんなかたちで彼女の中に残るくらいなら、今のままの関係で終わりたい。
言葉にせずともこちらの決意は伝わったようで、ガイアにはまた随分と渋い顔をされた。
「頑固ね。そんなに意地が強い性格だと思わなかった」
「ごめんね。やらないって決めたことは絶対にやりたくない性分なんだ」
「…それなら、言い方を変えましょうか」
「?」
 さく、とケーキを割ったガイアの雰囲気がなんだか変わったので、キャメロンは首を傾げながらカフェオレを口元に運ぶ。今までの、アログリフとしての一面も滲ませながらミトロンについて想いを馳せているときとは違う雰囲気。少し影がある大人の女性ではなく年頃の少女のそれに戻ったガイアの口から飛び出したのは、思っても見なかった内容で。
「――リーンもアンタのことが好きみたいなんだけど、それでも告白する気にならない?」
 カフェオレが気管に入って、思い切りむせた。
 吹き出さなくてよかった。違う、そうじゃない。
「は……はあ…!?」
 とんでもないことを言い出したガイアに、キャメロンは周囲を気にする余裕もなく大声を出してしまった。だが目の前のガイアにからかっているような様子はなく、むしろ「気づいてなかったの?」とまた呆れたような反応を返された。
「アンタもどうかと思うくらいわかりやすいけど、リーンも相当じゃない。どうして、当人同士で気付かないのかしら」
「ばっ…ば、ばば馬鹿なこと言うなってマジでないそれだけはないありえないだろ!」
「うわ、すごい早口」
 嘘だろ、嘘だと言ってくれ。
 ガイアの言葉の意味を理解できないほど鈍感で耳が遠かったらどんなによかったか。言われた言葉がぐるぐるといつまでも頭の中を駆け巡って、ぐるぐる回るそのたびに自分の顔が熱くなっていくのを感じる。きっと、褐色肌でもわかってしまうくらい赤くなっている。理解が追いつかない脳は「あ」だとか「う」だとか「え」だとか言葉にならない声ばかり発して、角の内側で響く自分の心音に酔って目眩を起こしそうになる。状況を理解してしまいたい頭と理解したくない心が正面衝突を起こして肉体の機能がフリーズしている。まさにそんな感じだった。
「ちょ…ちょっと、大丈夫…?」
 あまりの動揺に、ガイアが思わず腰を上げて心配そうに身を乗り出してくる。それを反射的に手で制して、キャメロンは消え入りそうな声で「大丈夫じゃない」と喉から絞り出した。
「どうして…?だって、気持ちが通じ合っているのよ?嬉しくないの?」
「そういう問題じゃないんだってば!」
「じゃあ一体、どういう問題なのよ」
 心配していたガイアの表情がまた、みるみる呆れたものへと変わっていく。腰を上げたそのまま両手を腰に当て、じっ……と高くなった目線でキャメロンを見下ろした。その目力はやはり強いもので、見下されたキャメロンは「うっ」と声をつまらせて視線を逸らす。
「だ……だ、って…ありえない、というか…俺みたいなのが、リーンに好きになってもらえるわけない、というか…釣り合わないというか…」
「リーンのことが信じられないの?それとも、私の言葉じゃ信用できないかしら」
「ち、違うよ…!二人のこと、そんなふうに思ってない!……でも、だからこそ…受け止めきれなくて」
 勘弁してくれ、というのが率直な今の気持ちだった。
 だって、受け止めるにはあまりにも大きくて重すぎる話だ。共に戦ってきた仲間として信頼してもらえていることは感じていたが、そこに個人的な好意が含まれているだなんて思っていなかったし、そもそも自分の体たらくのどこを見て好きになってもらえたというのか。嫌われる覚えはないが、好きになってもらえる覚えもない。自分より格好良くて頼りがいがあって逞しい男は第一世界にもたくさんいるだろうし、男でなくても、ガイアのように互いに支え合い補い合って寄り添えるパートナーもいるじゃないか。自分が出る幕なんてこれっぽっちもない。
 そんなようなことを胸の内でうじうじと考えてしまい、その考えは表情と態度で雄弁に語ってしまったようで、腰に手を当てたままだったガイアも大きな溜息を一つ吐き出してから再び腰を下ろしてくれた。
「異性として意識しているって言いにくいなら、せめて、アンタにとってもリーンがとても大切な存在だってことくらい伝えてもいいと思うけど」
「そ…んなこと言ったら、なんかもう、告白してるようなものだし…」
「エデンで戦っているときは、あんなに頼りがいがあったじゃない。それに、私の口から言うのも変な話だけど、アンタは強さ一辺倒というよりも、性根は穏やかで優しいっていうのもわかる。…まあ、その性根のおかげでこうしてうじうじ悩んでいるのかもしれないけど」
「めっちゃズバズバ言うじゃん」
「とにかく、アンタが大好きなリーンがアンタのことを好きになっているのよ。それでもまだ、自分に自信が持てない?」
 そう言って、ガイアは喉を潤すようにティーカップを手にとった。キャメロンも存在を忘れていたマグカップを口元へ運ぶ。まだ半分残っているカフェオレはすっかり冷めきって、少々膜が張っていた。
「……俺、そんな優しい性格じゃないよ」
 一息ついて、自然と溢れた言葉。興味深そうに顔を上げたガイアの視線を感じながら、マグカップの中に残っている冷え切ったカフェオレを飲み干した。
「優しいんじゃなくて、自分勝手なだけだよ。自分の言葉や行動で人を傷つけたり、嫌な思いをされるのが嫌なんだ」
「…………」
「リーンを悲しませたり、嫌な気持ちにさせようなんて、そんなこと思っていないよ。でも、絶対に淋しい思いをさせないとか、そういう無責任なことを言える度胸は俺にはない。努力はするけど、ゼロにできるとも思えない。俺は、俺のせいで傷つくリーンなんて見たくないし、そんな身勝手な相手じゃリーンにはふさわしくないとも思ってる」
 だから、告白なんてしない。想いを通じ合える可能性があっても、明確な答えは出したくない。
 マグカップは空になり、ろくに手を付けなかったサンドイッチはテイクアウトするためにナプキンに包み込む。そうして皿の上を綺麗にしたキャメロンは、ガイアの反論を待たずに席を立った。これ以上ガイアと会話を続けたところで、お互いの意見は平行線のままだ。それはガイアもわかっていて、席を立ったキャメロンを引き止めはしなかった。
「本当に頑固なのね」
「そっちこそ。俺にここまで食い下がったのはガイアが久々だったよ」
「まあ確かに、これ以上は私が口を挟むことではないけれど…」
 踵を返そうとしたキャメロンは、ガイアの口ぶりが気になってその足を止めた。首を少し傾げて言葉を待つと、また、例の力強い宵闇色の瞳で真っ直ぐに見上げられる。
「……せっかく誰かを想えるようになったリーンの初めての気持ちなのに、このまま何もなかったことにしてしまうの?」
 ガイアの言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような心地がした。


   ◆◇◆


 リーンのことを考えないようにと思ってユールモアに行ったのに、結局ガイアと出くわしてしまって、リーンについて考えさせられることになった。
 ガイアのあの口ぶりからして、リーンが自分を憎からず思ってくれていることは間違いないのだろう。確証のないことを茶化して話すようなガイアではないし、ましてガイアがミトロンとの思い出を取り戻した今、そういう年頃の二人が恋愛について話をしているのは自然なことだと思った。
 きっと、その流れの中でリーンが自分のことを話してくれたのだろう。正直に言えばとても嬉しいし、内心は自分でも信じられないくらい舞い上がってしまった。部屋で一人になった今でも心臓がやたらと煩くて、顔が火照っている自覚もある。
 でも、だからと言って自分の想いを告げられるかといえば、やはり答えはノーだ。
 憎からず思ってくれているのなら尚更、想いを告げるわけにはいかなくなった。リーンとは本来住む世界が違っていて、いつ会えなくなるかもわからなくて、何より自分は冒険者代行で――さらに言えば、ジャヌバラーム家に仕える使用人という身の上だ。
 例え想いを通じ合えたとして、ずっと傍にいられるわけではないのだから、どうしたって淋しい思いをさせてしまう。仮に、他によき人が見つかれば自分のことは気にせず一緒になってほしいと言ったところで、意志の強い彼女は自分に操を立て続けてくれるだろう。
 それに、もし今までの推測が自分とガイアの勘違いでリーンには微塵もその気がなかったとして、それはそれで、リーンはこちらの想いを真剣に受け止めてくれることだろう。かえってリーンに気を使わせてしまうことになるだろうし、身勝手に伝えた想いをいつまでも大切にしてくれるような彼女だ。どの角度から考えても、リーンに想いを伝えた時点で彼女に大なり小なり迷惑をかけてしまう結果になる。
 やはり、自分がリーンに想いを伝えることはありえない。だがそう考えれば考えるほど、先程ガイアにかけられた言葉が引っかかる。
「――せっかく誰かを想えるようになったリーンの初めての気持ちなのに、このまま何もなかったことにしてしまうの?」

「……んなこと言われたって、どうしたらいいかわかんないよ」
 伝えられるなら伝えたい。それができないからどうにか自分の中で納得しようとしているのに、これ以上どうしたらいいというのだ。
 身を投げるようにベッドへ横になり、どこへ向けたらいいかもわからないため息が出る。
 贈り物に想いを乗せてみようかとも思ったが、形が残るものとして渡すのは気が引けた。ガイアの言う通り、自分にとってもリーンが特別な存在なのだということだけでも伝えた方がいいのかもしれないが、それで一体、どんな言葉をかければいいのか。
 シンプルに「好きだ」と言えたならどれだけ楽だったか。他にどんな言葉を紡げば、彼女が自分にとって唯一特別な存在なのだとわかってもらえるのだろう。目を閉じて、かつては愛を歌う吟遊詩人としてウルダハを歩いていたらしいサンクレッドに問いかけてみても、「そんなものは自分で考えろ」と一蹴されるだけだった。それはそうだ。
 第一世界にいろと言われてしまったのでタンスイに泣きつくこともできない。泣きついたところで「知るか」の一言で片付けられてしまうのだが。
「何か、特別な…」
 形が残らないもので、ストレートな言葉以外に、自分がリーンに贈れるもの。
 そんなものがこの世のどこにあるのだ、と目をつむったそのまま今夜はふて寝してしまおうと思ったキャメロンの脳裏に、不意に故郷の星空が過ぎった。
 どうして、こんなときに限って故郷のことなんて――だが、はっとして目を見開く。
「特別な…俺にしか、伝えられない言葉……」
 思い至った考えに、どうしてわざわざそれを選ぶんだと嫌になる自分と、でも思いついたらそれしかないと確信している自分がいる。
 故郷に捨て置いてきたはずのものを、こんなときに思い出すなんて――
「…俺ってほんと、いい性格してるわ」
 答えが定まったせいか、急に眠気がやってきた。リーンについてあれやこれやと考えていたおかげですっかり忘れていたが、思えば今日は大きな仕事を一つやり遂げたのだ。エデンの中にいたときはアドレナリンで何も感じなかったが、やはり立て続けに戦い続けた後の疲労感は半端じゃない。
 明日からは気持ちを切り替えてプレゼントの準備をしよう。頭の中で図面やデザインを考えながら、キャメロンは自然と眠りについていた。


   ◆◇◆


 クリスタリウムの私室に戻ったそのまま眠ってしまっていたリーンが目覚めたのは、夜がすっかり更けた後だった。はっとして体を起こすと部屋の照明は落とされていて、机の上のランタンだけが暖かな色合いで灯っている。その狭い灯りの中でガイアがペンを握っているのを見て、リーンは慌ててベッドから降りた。
「ガイア!もしかして、報告書を書いているの?」
「あら、起こしちゃったかしら」
 ペンを置いて振り返ったガイアに、リーンはすぐ傍に立って首を横に振る。
「ううん、自然と目が覚めたの。ごめんなさい。私、帰ってきてすぐ眠ってしまって」
「いいのよ、だって疲れているでしょう?私は、今日のことをどんなふうにまとめようかと考え始めたら、眠気がどこかに行っちゃって」
「でも、もうすっかり遅い時間だよ。きりがいいところで寝ないと」
 リーンが卓上時計で確認した時刻は、すっかり日付を跨いでしまっている。ガイアは時間も忘れてしまっていたのか、リーンに言われて時計を見て驚いていた。
「何だか、時計を見たら急に眠くなってきたわ」
「それじゃあ、ちょうどいいから一緒にベッドに行こう?」
「そうね。寝る支度をしてくるわ」
 ガイアがリーンの部屋に泊まるのは初めてのことではないので、すっかり慣れた様子で着替えを持って別室へ向かう。リーンも普段着のままで寝てしまっていたので、ガイアが外している間に就寝用のワンピースへ着替えた。
 備え付けのベッドは最初からダブルサイズだったので、二人で寝ても狭くならない。向かい合うように横になると同じタイミングで欠伸が出て、そのことに二人で笑い合った。
「ガイアったら、帰ってからずっと机に向かっていたの?」
「いいえ。リーンが寝てしまってしばらくしてから、ユールモアの家に戻って荷物の確認をしてきたわ。そういえば偶然アイツにあったけど、まだしばらくこっちに残るって」
「キャメさんに?」
 ついさっき欠伸をしていたというのに、キャメロンの名が出て、暗い中でもわかるくらいリーンの目が輝いた。こんなにわかりやすい反応なのに、どうして当の本人が気づかないのか。ガイアは思わず苦笑を漏らした。
「ええ、基本的にはクリスタリウムでゆっくり過ごすみたい。明日、会いに行ってみたらどう?」
「うん。でも、その前に報告書を書かないと…」
「それは私が進めておくから大丈夫。リーンは、私が書いたものを確認したり、私が気を失っていた間のことを埋めてくれたらいいから…」
「……本当に、いいの?」
 ガイアに任せきりにしてしまう罪悪感とキャメロンと一緒に過ごせる時間への期待で、リーンの目が揺らいでいるのがわかる。ガイアが頷いてリーンの髪を撫でると、リーンは嬉しそうにガイアを抱きしめた。
「ありがとう…!でも、一人で大変なときはいつでも言ってね」
「いいのよ、これくらい。今回はリーンにたくさん迷惑かけちゃったし、そのお詫びだと思ってやらせて」
「お詫びだなんて、そんな…」
「いいから。早く寝ないと、寝不足で心配されるわよ」
 反論を封じるように、ガイアからも強く抱きしめ返された。その優しさと体温が心地よくて、リーンはうっとりと目を瞑る。
「ねえ、ガイア」
「何?」
「もし、あの人ともこうして触れ合えたら…こんなふうに、温かいのかな」
 もうガイアには随分と前から自分の気持ちを打ち明けて相談しているので、リーンは隠さず想い人への気持ちを言葉にした。
「一緒に戦ったときに、何度か庇ってもらったことがあるの。そのときは必死だったけど、後から思い出すと、掴んでもらった手の大きさとか、体温とか…」
「うん、」
「サンクレッド達にも…たくさん助けてもらったけど、やっぱり、そういうときとは違って…後からすごく、ドキドキして…」
 ガイアが一定のリズムで髪を梳きながら相槌を打っていると、そのリズムと体温でうとうとするリーンの言葉尻が次第に小さくなっていく。
「戦っているときは、ずっと傍にいられたけど…私、そうじゃないときのあの人と……あんまり、二人きりで話せたこと、なくて…」
「…それじゃあ、明日からたくさん構ってもらいましょう?」
「うん……たくさん、話せると…いいな…」
 ガイアの背中に回されていたリーンの腕が脱力した。そのまますうすうと寝息が聞こえてきて、リーンが完全に眠りについたのだとわかる。ガイアはリーンを抱き寄せて距離を詰めると、前髪の上から額に唇を寄せた。
「大丈夫よ、リーン…世界を越えて出会えた貴方達だもの。きっと、想いは通じ合えるわ」




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