エタバンをとめないで



 古城アムダプールの前でアルジクを、キャンプ・トランキルのすぐ下でビエルゴを、東ザナラーンへ出てすぐのところにあるザルの祠に少しだけ寄り道して、バーニングウォールの壮大な景色に圧倒されながらアーゼマに祈り、さらに南へ抜けてリトルアラミゴへ。付近にはアマルジャ族もいるので、アマロを飼育するズン族に馴染みがあるリーンは、彼らがコボルド族のように都市から離れた場所に暮らしている姿を物珍しそうに見ていた。二人がリトルアラミゴへ到着する頃には陽が沈みかけていたので、暗くて狭い内部を案内するためにカムイルはリーンへ手を差し出す。
「岩場を登るから、気を付けて」
「はい、」
 狭い坂道をゆっくりと登り、岩場の隙間から外の光が差し込む場所に建てられたラールガーの秘石へ向かう。暗い岩場の中でそこだけ常に光差すラールガーの秘石は遠目でもわかりやすく、リーンもすぐに気づいた。
 祖国の守護神を象徴するそれが、リトルアラミゴに暮らす人々にとってどれだけ大切に扱われているのかが一目でわかった。アラミゴという国の歴史も、リトルアラミゴという集落の成り立ちも、リーンはカムイルから話を聞いている。今は無事に祖国を奪還できているが、それまでの間にこの秘石がリトルアラミゴの難民達の心をどれだけ支えてきたのかと思うと、リーンは少しだけ目元に涙が滲んだ。各都市、各地の秘石がそれぞれ人々に大切に祀られてきたこともわかっている。それでもリトルアラミゴにあるこのラールガーの秘石には、他の神々へ向けられた祈りとは少し異なる想いが込められていると感じた。
 二人がラールガーへ祈りを込めて顔を上げると、岩場の隙間からは早くも夜空の星々が輝き始めていた。その光を受けるラールガーの秘石は、不思議と淡く輝いて見える。
「…それじゃ、ウルダハに行こうか」
 リーンは黙して頷くと、またカムイルの手をとってリトルアラミゴを後にした。


 リトルアラミゴから中央ザナラーン方面は近く、やがてウルダハの夜景が見えてくると、リーンはその美しさに思わず身を乗り出した。すっかりカムイルに抱えられてホエールの背に乗ることに慣れてくれたのは嬉しいが、危ないのでカムイルはそっと腕の力を込めてリーンが前へ出過ぎないように抱き寄せる。
「すごい…!おとぎ話の世界の景色みたいです!」
「わかるよ。俺も、外から見るウルダハの夜景は大好きだから」
 すぐに街へ入ってしまうのも野暮なので、カムイルはそのままホエールに任せてウルダハの周りをぐるりと回ることにした。ここ数日ですっかり二人の空気を読めるようになったホイールは、ゆったりとした速度でウルダハの城壁に沿って旋回していく。よしよし、と利口なホエールをカムイルは絨毯の上から撫でてやった。
 夜の砂漠は冷えるので、カムイルはブランケットを広げて自分ごとリーンの体を包み込んだ。ブランケットの内側は二人分の体温で柔らかなぬくもりになり、リーンはまどろむようにカムイルの胸へ頭を預ける。
「綺麗…本当に、夢の中にいるみたい」
「リーンが気に入ってくれて嬉しいよ」
 ブランケットの中でリーンをさらに抱き寄せ、カムイルも夜景に目を細める。
「ウルダハって、良くも悪くもお金と縁が切れない国だから…それがいやらしいって感じる人もいるし、王宮の中から市場までいろんな思惑が渦巻いている場所だから、それが怖いって思う人もいるけど……でも、見た目が美しいだけじゃないんだよ」
 夜景を見下ろすカムイルが柔らかく微笑むのを吐息で感じて、リーンはそっとカムイルを振り返った。レンズの奥の瞳は、愛おしそうにウルダハの街を見つめている。
「この国を治める女王陛下は、国と民のために心を砕ける御方で…そんな陛下にかつて仕えていたラウバーンって人は、今でも俺とキャメの憧れの人なんだ。ウルダハの美しさは富の輝きだけじゃなくて、国を想う陛下やラウバーン殿の御心の美しさの輝きだと思ってる。だから、リーンがウルダハを見て綺麗って言ってくれて…俺は、嬉しい」
「…なんだか、わかる気がします」
 カムイルに応えるように、リーンはブランケットの内側でカムイルの手を握った。
「だって…キャメさんやカムイルが守りたいと思う、大切な国だから。それに、ここは…サンクレッドが、ミンフィリアと出会った街だとも聞いています」
「…うん、」
「私の大切な人達の想いが詰まった場所…だから、こうして連れてきてもらえて、本当に嬉しいんです」
 カムイルが視線を下ろすと、自然とリーンの視線とそのまま交差する。リーンはブランケットの中で体の向きを変えて、カムイルと向かい合うように座り直した。そうしてじっと見上げられて、リーンの思惑がわからないカムイルではない。こちらももう遠慮はしないと決めたので、微笑んでリーンを見つめ返す。
「眼鏡、外してくれる…?」
「え…っ」
「外した方がしやすいんだけど…俺、今は手が離せないから」
 言って、ブランケットを掴んだままの両手でぐっとリーンの腰を抱き寄せる。リーンの頬が寒さとは違った赤みを帯びて、それを見たカムイルは小さく笑った。
「カムイル…なんだか、巡礼が始まってから急に格好良くて……ずるい」
「どうだろ。余裕あるのは今の内だけだと思うよ」
 少し拗ねながら眼鏡を外したリーンが、こつん、と額を合わせた。睫毛が触れ合う距離にいると、互いの吐息の温かさまでわかる。
「そういえば、今更だけど…リーンは顔が小さいから、俺の角があっても全然邪魔にならないね」
「あ…確かに…」
「でも目に当たると危ないから、なるべく逃げないでね…」
 そっと、二人の顔の影が重なる。まだ慣れずに肩まで力が入っているリーンにカムイルが思わず苦笑を漏らして、その吐息で唇を撫でられたリーンはさらに体に力が入った。目をぎゅっと閉じているので、カムイルがどんな顔をしているのかもわからない。すぐ触れ合うと思った唇の感触はなかなか訪れず、触れるか触れないかの距離で何度も撫でられて、もう限界だと音を上げそうになったタイミングを見計らったように唇が重なった。無意識に歯を食いしばっていたリーンの口元の力を抜くように優しく触れられて、その感触が心地いいと感じ始めると、自然に体からも余分な力が抜ける。そうしてカムイルに身を預けたところで顔が離されて、頭がぼうっとし始めていたリーンはくったりとカムイルに寄りかかった。抱き止めたカムイルが嬉しそうに笑っているのが、少しだけ悔しい。
「…………この前のキスと、全然違う…」
「たまには俺にも攻めさせてよ」
 拗ねるリーンがぎゅっと抱きついてきたので、カムイルも応えて抱きしめ返した。


 ゆったりと夜空を泳いだホエールが、ナル大門の前で腹に地をつけ二人を降ろした。目の前にすぐクイックサンドがあるので、この辺りは陽が沈んでもそれなりに賑わっている。二人は手を繋いで大門をくぐり、そこでカムイルがアラガントームストーンのメッセージを確認するために通路脇に避けて立ち止まった。昨夜、宿を見繕ってもらうよう頼んだケイロンから案内が届いたのは午前中のことだったが、礼を述べる返事をしただけで詳細はまだ確認していなかったのだ。立地はエメラルドアベニュー沿いにある小道を奥に入ったところで、カムイルにはあまり馴染みのないエリアだった。立ち入ったことは何度かあるのだが、富裕層向けの店が多いので仕事以外では用事がないのである。不滅隊の本部から近くウルダハでも比較的治安がいい場所だったので、カムイルは「さすが兄上」と小さく呟いた。
「宿の場所、わかりそうですか?」
「うん。ここから少し歩くから、行こうか」
 夜のウルダハは日中ほど通りが混雑していないが、その代わりに酒場などから賑やかな声が聞こえてくる。かつてのサンクレッドや普段のカムイルもこの喧噪の中で過ごしているのだと思うと、やはりリーンは、話に聞く以上にウルダハの街が好ましく思えた。
「いつか…私も、夜のクイックサンドでお酒を飲んでみたいです」
「そう?今夜はもう遅いから入れなさそうだけど、明日、混む前に行ってみようか」
「いいんですか…っ?」
 てっきりカムイルに危ないからと止められると思っていたリーンは、思わぬ提案にカムイルの顔を見上げた。見下ろすカムイルが頷いてくれたので、思わず笑顔になってしまう。
「そんなに嬉しい?」
「もちろん…!」
「じゃあ、それで決まりだね。リーン、飲み慣れてるお酒とかある…?」
 そのまま、宿までの道を互いに好みの酒の話をしながら進んでいく。リーンはまだ甘くて度数も低いカクテルしか飲んだことがなく、飲み方を教えてもらっているサイエラがなかなか厳しいのだと少し愚痴ると、想像に難くなくカムイルはおかしそうに笑った。そんなに笑うカムイルはどうなのかとリーンが聞くと、うわばみとはいかないが弱くもない、と答えが返ってきた。飲酒を解禁して真っ先にタンスイに飲み方を教えてもらいに行ったところ、下戸のラショウが心配してくれたので、酒の上手な飲み方から酒の席でのふるまい方や断り方までその場で徹底的に教え込まれたという。おかげで自分の限界値もわかっているので、ペース配分や自分の中での許容量のサインはわかっていると言う。
「いいなぁ…私すぐに赤くなっちゃうし、ガイアにも止められちゃうんです」
「その方がいいよ。俺は出にくいから飲ませられちゃうし、それを考えると、人がいる席であんまり調子よく飲めないからね」
「そういえば、海賊衆の皆さんにもたくさん注がれていましたね」
「そう。もうあそこはいつもあんな感じだから、自分からあんまり飲まないようにしてる」
 やれやれ、と話しながらカムイルが溜息を吐く頃には、二人の足は宿のあるエリアに差し掛かっていた。
 小道を一本奥へ入るだけで街の喧騒が遠くなり、閑静な通りに変わる。夜でも灯りがついている店はどれも本物を扱う高級店で、店の入り口に立っている警備兵の物々しさや、レストランの窓から見える客層を見るだけで、リーンが今まで案内してもらっていたウルダハとは一線を画したエリアなのだと理解できた。
「あの、今夜泊るところって…」
「あー…知り合いに紹介してもらったんだけど、クガネのときみたいなすごいところじゃないと思うから、安心して」
 そうは言いつつも、カムイルも内心は不安になっていた。カムイルの要望を兄は承諾してくれたものの、その匙加減が如何ほどになるかは蓋を開けてみないとわからない。キャメロンも大丈夫と口で言いながら全然大丈夫じゃないことをしでかす性格をしているが、その性格が兄譲りで血が争えないことを知っているので、よかれと思った兄の手心がとんでもないことになっているかもしれない可能性は十分にあり得る。何よりケイロンには、クガネで一番高い部屋を何も言わずに用意したという前科もあった。

 やってきた宿は外装だけならウルダハの街並みに自然と溶け込む石造りのシンプルなものだったが、エントランスの扉の造りやその前に立って待ち構えているドアマンの身なりだけでも相当なランクのものだろうとカムイルにはわかった。格好つけたいとは言ったが、ここまでやれとも言わなかったはずなのに。ロビーに入れば内装は尚更で、カムイルは吹き抜けの天井を見上げて思わず「うわ…」と声に出してしまった。この宿なら、一番ランクが低い部屋でも十分な気がする。案内された部屋の扉を恐るおそる開けてみると広さはしっかりジュニアスイートで、カムイルはすべてを諦めてリーンを部屋へ招き入れた。
「ごめんね、また仰々しいところになっちゃって」
「いえ、そんな…!こんなお部屋に泊まれる機会なんてないから、とっても楽しいです」
 まあリーンが喜んでくれたならいいか、と気持ちを切り替えて部屋を見渡す。テーブルの上に宿の案内があったので拾い上げて目を通したところ、ここはギルを持て余した冒険者向けに、気軽にウルダハの富裕層の気分が味わえるようにとのコンセプトで建てられたものらしい。だからこんなにわかりやすく高級そうな造りになっているのか、とカムイルは納得して案内をテーブルの上に戻した。
 とはいえ、部屋の内装は華美なものではない。落ちついたダークトーンの調度品でまとめられ、上品な華やかさがある。室内に焚きしめられている香もほんのりと香る程度で気にならず、とても居心地がいい空間だ。最初はまた兄にとんでもない部屋を用意されたものだと警戒してしまっていたが、こうしてゆっくりと内装を確認すると、リーンが最後に過ごす宿としては申し分のないものだった。
 こちら側の日程はグ・ラハに連絡済みで、ガイアの散策もちょうど同じ頃合いで切り上げられそうとのことだったので、明々後日には合流してリーンとガイアは第一世界へ帰ることになった。そして今夜から三泊、リーンはウルダハに宿をとってゆっくり過ごしたいと言ってくれた。明日はアルダネス聖櫃堂へ行って早めにクイックサンドに入り、明後日は丸一日フリーで予定を開けて、明後日の朝にはモードゥナへと向かう。実質、リーンと過ごせる時間は残り二日間だ。それきりでもう会えなくなるかもしれないという可能性はなくなったものの、別れの時間が迫っていると思うと妙に淋しくなる。
「…………」
 本当に、現金な性格だ。ほんの少し前までは自分が傷つかないようにリーンへの想いをはぐらかしていたくせに、何の問題も心配もないのだとわかった今、リーンとの別れがこんなにも惜しい。自分でも嫌になるくらい、自分勝手で我儘でどうしようもなく甘ったれた性格だと思う。
 でもリーンは、そんなカムイルのことを「優しい」と言ってくれた。少し前までの自分なら卑屈になって否定していたところだが、今は、彼女がそう言ってくれるのなら前向きに受け止めてみようと思い始めている。
「リーン、」
 名前を呼んで、リーンが振り向く前に後ろから抱きしめる。不意打ちにリーンは肩を跳ねさせたが、カムイルが少し体重をかけながら抱きついているのだとわかると、ふっと表情を柔らかくしてカムイルが回した腕を撫でた。
「…本当に、タンスイさんが言ってた通り」
「え…?」
 聞き捨てならない名前が聞こえて、カムイルが思わず腕の力を緩めた。その隙にカムイルを振り返ったリーンは、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
「淋しくて甘えたいときは名前だけ呼んで何も言わずに後ろから抱きついてくる、って…タンスイさんから教えてもらったんです」
「あの野郎…」
「他にもたくさん、カムイルの可愛いところを教えてもらいました」
「ねえ、だからマジで何を教わったの?本当に変なことじゃない?」
 カムイルの問いに、やはりリーンは笑って答えをはぐらかす。この問答に関しては、おそらく今後も今のような調子で都度に種明かしをされていくのだろう、と諦めて。カムイルはリーンをホールドし直すと、すぐ傍にあったベッドへそのまま倒れ込んだ。二人分の勢いで寝具が沈み込み、その反発が心地いい。向かい合って横になったリーンは、カムイルの眼鏡をそっと外してからその手で頭を撫でる。髪に差し入れた指先が角の付け根を掠めて、カムイルは小さく息を漏らした。
「教えてください、どうやってカムイルを甘やかしたらいいか」
「…じゃあ、このまましばらく抱きしめさせて」
 リーンが第一世界へ帰るまで、残り三夜。一夜目はそうしてしばらくリーンを抱きしめて、軽食を挟んでそれぞれシャワーを浴びて、また眠りに就いてから翌朝目覚めるまで、カムイルはリーンを腕の中に抱いて放さなかった。


   ◆◇◆


 連日の早起きと前日の長距離移動が重なって、翌朝のカムイルとリーンは揃って少しだけ寝過ごした。もう大きな移動はなく巡礼する秘石も残り一つになったので慌てることもないが、エメラルドアベニューを行き交う人々を見下ろしながらテラスで食べるブランチは優雅なもので、何とはなく、二人の間にはのんびりとした空気が漂っていた。
「呪術士ギルドは、ここから近いんですね」
 部屋に置いてあった都市内マップを見ながらリーンが言う。そうだね、とカムイルはのんびりとした口調で返した。
「あそこの通りは不滅隊本部と呪術士ギルドに面してるから、俺もおきゃめもよく通るんだ。職場が両方近いと便利だよね」
「呪術士ギルドでもお仕事があるんですか…?」
「うん。ギルドも併設されてるけど、そもそもがナルザル教団における葬送を取り仕切る場所だからね。俺のときは呼ばれたことないけど、おきゃめはたまに、お布施をたくさん包んだ人の葬列に立ち会うんだって」
 曰く、名の知れた呪術士や黒魔道士による葬送を指名で希望する者は少なくないらしい。キャメロンはいい意味でも悪い意味でもウルダハでは名が知られた黒魔道士なので、生前から彼女を指名して教団に相応のお布施を包む者や、遺族の希望で呼ばれることもあるようだ。当然、冒険者が本業なので断る術士はたくさんいるようだが、その中でキャメロンは珍しく聖櫃堂での活動に積極的であり、連絡がつく限りは対応を受け付けているので、それならばとじわじわ指名が増えているようである。
「…まあ信心深いというよりも、恩義ある所属団体にお金が入るなら喜んで、って感じなんだろうけど。教団のトップが砂蠍衆の中立派だし、教団の先にいるナナモ様のことを考えてやってるのかもしれないね」
「なるほど、キャメさんらしいですね」
「ということで、ちょっと食休みしたらナルザルの秘石を拝みに行こうか」
「はい!」

 遅い朝食だったので、宿を出る頃にはすっかり昼時になっていた。ザナラーンの日差しが眩しいエメラルドアベニューを進み、ナル回廊の奥へと向かう。大きな戦いの直後ということもあってか、聖櫃堂にはいつもよりも多くの信徒が訪れていた。こんなに礼拝する者が多いところに遭遇するのは、カムイルも初めてのことである。いつもならすぐに拝めるザル神の足元も見えるまでに少々時間がかかった。予想外の混雑だったが、おかげでヤヤケからうまく隠れられたことは僥倖だった。ようやく前方へ進むことができ、カムイルはザル神の台座を見るようにリーンへ耳打ちする。そこにはナルザルの印が刻まれていて、二人は最後の祈りを捧げた。
 来世利益ではなく、今ここにある幸せが久遠に続くことを願って―祈りを終えた二人は、そのまま礼拝者達の流れに身を任せて蔵書群が並ぶ壁際まで進む。通路の中心に比べれば壁沿いはそこまで混雑していないので、人ごみから抜け出した二人は、そこでようやく一息吐くことができた。
「無事に終わったね、十二神秘石巡礼」
「…はい、」
 二人の手にはそれぞれ、相手へ送るための指輪が入ったリングケースが握られている。本来、エターナルバンドに向けて十二神秘石巡礼を行う際の指輪には、事前に彫金師ギルドで十二神の名前が彫られることになっている。その名が刻まれた指輪を持って秘石を巡礼することで指輪が輝きを増し、神々の祝福を受けたエターナルリングへ変化するという習わしだ。だが今、二人がそれぞれ持つ指輪に十二神の名は刻まれていない。当然、祈りによって指輪に変化が生じることもなかった――だが、それでいいのだ。
誰がなんと言おうとも、この指輪には二人の愛の軌跡が刻まれている。永遠に溶けることのない氷の輝きは、二人が苦難を乗り越えて絆を深めた証そのものなのだから。
「……っ…」
 じわり、とリーンの目に浮かぶものがあった。感極まってしまった気持ちが抑えきれず、咄嗟に手で目元を隠して俯く。カムイルもそれを察して、そっとリーンの肩を撫でた。
「一度、宿に戻ろうか」
 リーンは黙って頷き返して、そのまま肩を抱かれて再び宿へと戻った。


 部屋について尚、リーンの涙は止まらなかった。人目のつかない場所に来たことでますます抑えが利かなくなり、嗚咽まで漏れそうになる。カムイルは部屋の扉を閉めると、渇きを知らないリーンの両頬を手で包み込んでその顔を覗き込んだ。
「あー、もう…どうしてそんなに泣いてくれるの」
「だって…ッ」
「そんなふうに泣かれたら、俺が泣きそびれちゃうじゃん…」
 立ちっぱなしでいるわけにもいかないので、カムイルはリーンの背中を撫でてベッドへ座るように促した。リーンはまだ落ちつかないようで、ぽろぽろと涙をこぼしては拭いきれずにシーツへ染みをつくっている。
「ごめ……な、さ…い…っ…でも…、」
「うん、」
「今までのこと…思い出した、ら……私…っ」

 何がきっかけだったのかは、もう思い出せない。
 ただ漠然と彼のことが気になって、そして、誰かを恋しく想うことに理由なんて要らないのだということを知った。
 小さい体の頼もしい英雄の代理人だと言ってやってきた彼は、彼女よりずっと大きな体だったけど、彼女の何倍も怖がりで面倒くさがりで戦うことが嫌いなのだと言った。まさか英雄の代行を名乗る人がそんなことを最初から打ち明けるとは思わず、隠し事をしない誠実な人柄なのだと解釈した。そんな彼が前線に立って勇ましく戦う姿を見て、その頃にはもう、彼に心惹かれていたのだと思う。
 争いごとが苦手だと言いながらも杖を握る理由は、きっと自分のためではなく、誰かのためを思ってのことであって。それは姉のためなのか、仲間のためなのか、世界のためなのか―誰かのために自分が「嫌だ」と思うことに身を投じられる彼は、なんて強くて優しい人なのだろうと。そう想い慕う自分の感情の中に特別な「色」があると気付くのに、時間は長くかからなかった。
 カムイル――その人の本当の名前を知って、愛しさがとめられなくなった。
 自分だけに名前を教えてくれたことの意味も、彼の気持ちも、すべて理解できた。そんな彼が自分を気遣って明確な答えを出さずにいてくれているとわかって、すごく嬉しくて、すごく淋しかった。あと少しで触れられそうな距離にいたのに、どうして自分から手を伸ばさなかったのだろうと後悔した。
 そして、伸ばした私の手を貴方は掴んでくれた。貴方は優しいから、私が間違った選択をしないようにと、たくさん言葉を尽くしてくれた。つらかったことも、悲しかったことも、包み隠さずすべてを打ち明けてくれた。
 そんな貴方だから、私は貴方のことがたまらなく愛おしい――

「――カムイル……私、貴方のことがすきです…」
 やっと涙が引き始めた目元を拭って、リーンが真っ直ぐにこちらを見据えて告げてくる。
 改めてストレートに告げられる想いはとても温かくて、そして心地いい。
「うん…俺も、リーンのことが好きだよ」
 ベッドの上に置きっぱなしにしていた箱を手に取って、蓋を開けてから中身をリーンへ向ける。リングに埋め込まれた永久氷晶が、ウルダハの日差しを浴びてきらきらと輝いた。
「何があっても守るとか、悲しい思いをさせないとか…そういう無責任で格好いいことは、誓ってあげられないけどさ」
 リーンの左手をとって、リングをゆっくりと薬指にはめていく。
「でも…例えこの氷晶が溶けることがあっても、それでも俺の気持ちは変わらない、って。それだけは誓えるよ」
 リングが第二関節を過ぎ、しっかりとリーンの指にはまる。カムイルはその手をとって薬指に口付け、そのまま視線だけをリーンに向けて艶っぽく微笑んだ。
「ねえ…俺のここにも、指輪つけてくれる…?」
 カムイルの言葉に、リーンは腫れた目元を細めて頷く。涙を堪えようと握りしめて少し潰れてしまったケースを開いて、自分のものよりも大きなサイズの指輪をそっと取り出す。カムイルの左手をとって、ゆっくりと第二関節の奥までリングを滑らせて。しっかり指にはまったことを確認してから、リングが輝くそこへとカムイルを真似するように口付けた。
「ありがとう…とっても、嬉しい…っ」
 お揃いの輝きを身にまとった嬉しさで、リーンはカムイルへ思い切り抱きついた。カムイルは勢いに逆らわずにそのままベッドへ倒れ込み、腫れてしまったリーンの目元を愛おしそうに指で撫でる。
「あーあ…こんなに腫らしちゃって、今夜のクイックサンドは延期だね」
「そんな…!もう泣き止んだから大丈夫ですよ!」
「駄目だよ。そんな顔で連れて行ったら、俺がモモディさんに怒られちゃう」
「でも…っ」
 不服そうに食い下がるリーンの前髪を掻き分けてカムイルが口付けると、それだけで面白いようにぴたりと抵抗が止んだ。カムイルはじんわり赤らんでいるリーンの頬を指の背で撫でながら、満足そうに微笑む。
「だから、さ…今日はこのまま二人でゆっくり過ごして、それで、明日になったらみんなに報告しようよ」
 今はまだ、この幸せの余韻を噛みしめたい。リーンの腫れた目元が心配なのも本音だが、カムイルはまだリーンと二人きりの時間を手放すのが惜しかった。そんなカムイルの気持ちを察したリーンははっとした表情になって、それから、頬を撫でるカムイルの手を掴んで嬉しそうにすり寄せる。
「泣かせたのはカムイルですよ…?」
「うーん…それは本当にごめんね」
 リーンが第一世界へ帰るまで、残り二夜。クイックサンドの約束を反故にしたお詫びをすると提案したカムイルに、久しぶりにお手製のコーヒークッキーが食べたい、とリーンはリクエストした。


   ◆◇◆


 リーンが過ごす最後の夜は、クイックサンドで大いに盛り上がった。夜と言っても翌朝が早いので飲みの席は日が高い内から始まり、夜空に星が輝く頃には最高潮の波は凪いでいた。
 始まりはカムイルとリーンが遅めの昼食をとりにクイックサンドを訪れたことで、例によってカウンター席で煙草を吹かせていたワイモンドが二人の左手に光るものに早々に目敏く気付いたので、カムイルも「そういうことだから」と特に隠さなかった。ワイモンドが得た情報はすぐにキャメロンに共有されることになり、キャメロンにまで伝われば、暁の賢人達に速報が入るまでに時間はかからなかった。一足先に事情を知っていたケイロンも素知らぬ顔で後からクイックサンドを訪れ、リーンに挨拶を済ませると「邪魔になるから」と足早に立ち去った。ちょうどウルダハでの仕事も終わったようで、また実家の屋敷に帰るらしい。ケイロンが店を立ち去ったのと、アリゼーがアルフィノを引っ張って飛び込んできたのはほとんど入れ違いだった。
 後はあれよあれよの大盛り上がりで、酒の席というものは往々にしてそうなのだが、当初の目的や主役の存在を忘れてクイックサンドの客達は各々楽しんで酒を酌み交わした。リーンはずっとカムイルの隣に座って宴の様子を楽しんで眺めていたが、ふと店の外に気配を感じて腰を上げる。
「すみません、少し夜風に当たってきますね」
「一人で平気?」
「大丈夫ですよ。今日は、お店の出入り口も開いたままですから」
 心配するカムイルに、リーンは開けっ放しになっている扉を指さした。開きっぱなしの扉から外の階段まで店内の光が差し込んでいるので、何かあれば気付く明るさである。それを見てカムイルも納得してくれたので、リーンはクイックサンドの正面入り口へと出た。店の明かりから漏れない位置に立って、感じた気配の主を探す。それが開きっぱなしの扉の影に潜んでいることに気付いて、リーンはそっと、扉の傍へ駆け寄った。
「サンクレッドも、こちらへ来ませんか?」
 リーンの声かけに、扉の向こう側でひらりと白いコートが揺れた。隠密行動が特技であるはずの自分の気配がよもや気付かれるとは思わず、言い当てられたサンクレッドは扉越しに深く溜息を吐き出す。
「俺が行ったら水を差してしまうだろう」
「そんなことありません。みんな、サンクレッドのことを気にしていましたよ」
「……お前は、それでいいんだな?」
 ちらりと、扉越しにリーンの左手を盗み見る。店内の明かりに照らされてそこに輝くものを見て、サンクレッドは自然と安堵の表情を浮かべていた。

 二人の態度が余りにも露骨すぎるので、娘の未来を憂う以前に、サンクレッドはリーンとカムイルが想い合っているのであろうことは察していた。その上で、最初から二人の関係に反対するつもりはなかった。
 サンクレッドは、カムイルがどういう性格でどのような物事の捉え方をするのかをよく知っていた。知っていたからこそ、リーンに対して哀れなほど奥手になっている理由もわかっていた。自分の愛情を貫くために相手を傷つける勇気すらない小心者だ。二人の想いがどのようなかたちで結実するにせよ、カムイルならば、リーンに対して半端なことをしたり無責任に放り出したりする選択はしないだろうと考えた。だからこそカムイルがリーンに想いを告げられるとは思わなかったし、様々な障害を度外視してでもリーンと寄り添える道が切り開けたなら、その覚悟と根性をもって合格点を出してやるしかないとも考えていた。
 故に、サンクレッドの心は凪いでいる。祝福ある明日を歩んでほしいと願った娘が今、こうして一つの幸せを手にしているのだから。
「もちろん…!私、今とっても幸せな気持ちなんです」
 サンクレッドの問いかけに、リーンは穏やかな笑顔で答える。
「ねえ、サンクレッド…エデンの調査が完了して、あの人がこちらの世界に帰ってしまってから、ずっと……淋しかったんです」
「…………」
「最初は、あの人のことを想っているだけでいいと思ってた。気持ちが通じ合えなくても、あの人が私の想いを知らなくても…私が自分の胸の中で、あの人との思い出を大切にして生きていけたら、それでいいと思ってたんです。でも、」
 勝手に想ってるだけ、なんて。あまりにも淋しいことだから。
「最後にミンフィリアと話す機会を奪ってしまった私が、サンクレッドにこんなことを言うのは、失礼なことかもしれないけど……でも、自分の気持ちを伝えられて…私、とても幸せです。だから…――」
 ぽん、と頭に掌の感触。
「いいんだよ、お前はそれで」
 扉の影から姿を現したサンクレッドが、いつかの日のようにリーンの頭を撫でる。あの頃よりも高い位置にあるつむじに、サンクレッドは過ぎた歳月を思って目を細めた。
「自分の幸せで、他人に負い目なんて感じるな。今あるその幸せは、お前が自分の手で掴みとったものなんだから」
「サンクレッド…」
「指輪、お前らしくて似合っているじゃないか。いつの間にか、そんなアクセサリーが似合うレディになってしまったんだな」
 ぽんぽん、とサンクレッドが押し付けるようにリーンの頭を撫でる。リーンが「うわっ」と小さく声を上げている間に、サンクレッドの白いコートはウルダハの宵闇の中で行方がわからなくなってしまった。
「…ありがとう、サンクレッド」
 まだ掌の感触が残っているつむじに手を当てて、リーンは柔らかく微笑んだ。


   ◆◇◆


 三度の夜を越えて、リーンとガイアが帰る朝がやって来た。
 早朝から「石の家」へ集まった顔ぶれの中に、サンクレッドの姿がない。そのことにアリゼーが不満そうにしているので、リーンがそれを宥めた。
「大丈夫です。昨日、少しだけ話もできたから」
「なによ。サンクレッドってば、一人だけ抜け駆けで挨拶済ませるなんて」
「ふふっ…また今度こちらへ来たときは、その時こそサンクレッドに送ってもらいますね」
 二人を見送る役目はカムイルと、そしてクリスタルタワーの管理者であるグ・ラハが務めることになった。そんなことになる気はしていたのでカムイルが四人乗りのホバー船でセブンスヘブンの前に乗り付けると、それを見たガイアが驚き目を丸くする。
「ちょっと、いつの間に買ったのよ…それも四人乗りじゃない」
「ナイショ」
 本当はキャメロンがアトラス山頂での死闘の末に拾ってきてくれたものなのだが、そうとは言いにくいので黙っておくことにする。一人掛け席にグ・ラハが、後部座席にリーンとガイアが並んで座って、暁の面々に見送られながら銀泪湖へと出発した。ホバーには二人の荷物も積んであるが、二人のそれぞれのお土産の他に持って帰る書籍の冊数は、ガイアが各地で収集してきたコレクションのほんの一部でしかない。ガイアの言い分はすでに聞いているが、カムイルは改めて彼女へ声を飛ばした。
「ねえ、あの本マジで置いて帰るの?」
「置いて帰るんじゃなくて、少しずつ持ち帰るのよ。アンタもどうせすぐリーンに会いに来るんだから、そのついでに何冊か持ってきてちょうだい」
「えー…それじゃあ、俺がリーンへのお土産を持っていけないじゃん」
 物臭そうな態度は相変わらずだが、リーンに会いに行く口実を否定はしなかった。その変化に気付いたグ・ラハが愉快そうに笑う。
「フェオに運ばせればいいじゃないか。鞄に詰め込んでしまえば結構いけるぞ」
「はあー?それでフェオちゃんに怒られるの俺なんですけど」
 軽口を叩き合いながらの道程はあっという間に過ぎ、湖畔でボートに乗り換えてシルクスの峡間へと向かう。キャンプのあるポイントまで辿りついたところでまずはグ・ラハが転送装置とクリスタルタワーの状態を確認し、次にガイアが転移装置の向こう側が第一世界に繋がっていることを確認する。ガイアは瞳を閉じてしばらく転送装置に手をかざすと、力強く頷いて見守る三人を振り返った。
「バッチリよ。むしろ、こちらへ来たときよりも道がはっきりとしているわ」
「おそらく、二人の縁がこちらの世界とも結びつけられたからだろうな。何はともあれ、これからも無事に行き来ができそうでよかったよ」
 リーンとガイアがしっかりと手を繋ぎ、ガイアが再び転送装置へ手をかざす。その様子を見守るカムイルを、リーンが顔だけで振り返った。
「キャメさん、」
「ん?」
 おそらく時間の猶予はないので、カムイルは首を傾げてリーンに先を促す。転送装置が光を帯びて次元転移が始まる最中、その光の粒子に包まれながら、リーンは満面の笑みで別れの言葉を残した。
「次にまたこちらへ来るときは、私を大聖堂に連れて行ってくださいね――」


「……だってよ、どうする?」
「とりあえず、この後すぐエターナルドレスの採寸に行くか」
 その前にまず会場予約だろ、とグ・ラハはカムイルに大聖堂のパンフレットを渡した。




11/14ページ