マリーと眠る城
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「なまえ」
青年がその名前を呼ぶと、天蓋つきのベッドから真っ白なネグリジェを纏った少女が姿を現した。
青年の名は杏寿郎といった。
「なまえ、おいで」
杏寿郎が手招きすると、なまえと呼ばれた少女が歩き出した。
なまえには親がいなかった。
母親はなまえを産んですぐに、父親はなまえが物心着く前に、彼女を残して死んでしまった。両親を亡くしたなまえは親戚の家に預けられることになった。
親戚になまえを育てる気はなく、直ぐに彼女を金に変えた。なまえは売られたのだ。
なまえを買った主人は彼女を奴隷のように扱った。主人だけでない、その妻も子供も彼女を人として見はしなかった。物心着いたころから、朝から夜まで働かされ、屋根裏部屋で寝る生活が続いていた。
なまえと杏寿郎が出会ったのは、とある冬の夜だった。
なまえはその日、主人が大事にしていた皿を落として割ってしまった。そのことに怒った主人は、雪が降る中、なまえを裸足のまま家から締め出した。
普段から睡眠も食事もろくに与えられていなかったなまえは心も身体も弱りきっていた。
このまま寒空の下、誰にも気づかれず雪に埋もれて死ぬのだ。
どうせ死ぬならもっと綺麗な場所で死にたい。
そう思ったなまえは死に場所を求めて歩きはじめた。
なまえが辿り着いたのは町外れにぽつんと佇む廃城だった。人の気配が一切ないその廃城になまえは足を踏み入れた。
城には小さな庭園があった。不思議と庭園に咲く花たちは枯れてはおらず、まだ生き生きとしていた。
ここなら誰にも見つかることがない。
死ぬならここにしよう。
睡魔と空腹に耐えかねたなまえはそこで意識を失った。
なまえが次に目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
身につけていた粗末な服は肌触りのいい寝間着に変えられており、身体は綺麗に拭かれていた。なまえが身体を起こすと見知らぬ青年が机に向かって何かを書いていた。
シーツの擦れる音が耳に入ったのか青年がなまえのほうに振り返ると、ばちりと2人の目があった。
「ん?……目が覚めたか!?」
青年はペンを持ったまま立ち上がりなまえに近づいた。
自分の置かれている状況がまだ読み込めていなかったなまえはベッドの上で身を縮こまらせた。
「身体は?大丈夫か?」
この男は一体誰だ。
ここはどこだ。
自分は死んだんじゃないのか。
いろんなことがなまえの頭の中を駆け巡った。
そうこうしているうちに青年はなまえの目の前まで来ていた。ベッドに腰掛け、体調を伺うかのようになまえの顔を覗き込んだ。
「君の名前はなまえというのだな?」
その日初めて会った青年に突然名前を呼ばれなまえは目を見開き、後ずさった。
「あっ…すまない、着替えさせるとき服の裏地に刺繍が入っているのを見たものだから」
困惑した表情のなまえに青年は優しく声をかけた。
「俺の名前は杏寿郎という。ここは俺の部屋だ。帰ってきたら君が庭で倒れていたから連れてきたんだ」
自分が足を踏み入れた廃城に人が住んでいるとは思わなかったなまえは、驚きを隠せなかった。
同時に、死ねなかったのだと思った。
「幽霊屋敷だの荒城だのと言って、ここに近づくものはあまりいないからな…驚いたぞ!一瞬、本当に幽霊が出たのかと思った!」
そう言って杏寿郎は大きな声で笑った。
その間もなまえは黙ったままだった。
なまえが口を開かないことを不思議に思った杏寿郎は「話せないのか?」と訊ねたが、彼女の口は閉ざされたままだった。
しかし、杏寿郎は言葉を発さないなまえにそれ以上何も聞こうとすることはなかった。なまえをしばらく見つめたあと、「少し待っていろ」と言い残して杏寿郎は部屋を出ていった。
部屋に戻ってきた杏寿郎の手にはマグカップと少し大きめの籠が握られていた。
「あんなところで倒れていたのだから、何か少しでも腹に入れておかないと」
杏寿郎はマグカップをなまえに手渡し、ベッドサイドに籠を置いた。マグカップの中には温められたミルクが入っていた。
「今から何か作るには時間がかかるし、明日買い物に行こうと思っていたからな…こんなものしかなかった」
「すまない」と言いながら、杏寿郎はベッドの近くに椅子を置きそこに再び腰を下ろした。
マグカップに口をつけようとしないなまえを見て、杏寿郎が小さくため息を吐いた。
「大丈夫だ、毒など入っていない。ひと口でもいいから飲め」
杏寿郎に促されなまえが恐る恐る口をつけると、口の中に独特な味が広がった。
「こっちも、好きなものを選ぶといい」
杏寿郎が籠の中を指さすとそこにさまざまな種類の洋菓子が入っていた。
それでもなまえは籠の中を見つめるだけだった。
見かねた杏寿郎がフルーツの入ったパウンドケーキをひと切れ手に取りなまえの口に運んだ。
「ほら、口を開けて」
言われるままなまえが薄く口を開けると、パウンドケーキがゆっくりと口の中に押し込まれた。杏寿郎に食べさせてもらうようなかたちで、なまえはそれを胃の中に入れた。
「好きなだけ食べるといい。俺は隣の部屋で寝るから、何かあったら声をかけてくれ」
杏寿郎はそう言って再び部屋を出ていった。
ひとり部屋に残されたなまえは、籠の中にあったマドレーヌとフィナンシェを1個ずつ食べ、ミルクを飲み干しベッドに潜った。
翌朝、なまえが目を覚ますと杏寿郎は昨日と同じく机に向かって何かを書いていた。彼女の気配に気づいたのか、杏寿郎がベッドのほうに顔を向けた。
目が合うとすぐ杏寿郎は微笑んだ。
「おはよう。ちゃんと眠れたか?」
なまえは言葉を発する代わりに静かに頷いた。杏寿郎は一瞬驚いた顔をしたが、また直ぐに元の表情に戻った。
「俺は今日街に買い物に行くつもりだが、なまえはどうする?」
どうすると言われても。
なまえは困惑した。
何も答えないなまえに杏寿郎が何か気づいたように「あっ」と声を上げた。
「すまない!君の服をまだ洗っていなかった!着るものがなければ出かけることもできないな…そういえば、靴も履いていなかったし…」
「まずはそれからか」と杏寿郎が呟いた。
その身ひとつで飛び出してきたなまえには自分のものなど何もなかった。
あるとすればまだ洗われていない粗末な服が1着だけ。それも、人によっては服というより、継ぎ接ぎだらけのぼろ切れにしか見えないだろう。
「君の服と靴を買ってこよう」
「もしくは…」と杏寿郎が続ける。
「家があるのなら帰りなさい。でも、帰れない事情があるのなら無理にとは言わないし、本当に家がないのなら、ここに居てもらっても構わない。なまえの好きにするといい」
杏寿郎はそう言って再び机に向かって何かを書き始めた。
なまえはその様子を黙って見つめていた。
帰れる家などどこにもない。
今更帰ったところで、また人として扱われることない生活に戻るだけだ。
好きにしろと言うなら、それが許されるのなら、ここにいたい。
もし出ていけと言われたら、その先のことはそのときに考えればいい。
なまえはこの廃城で暮らすことを決めた。
廃城と言ってもそれは見た目だけで、中は人が住める程度には整えられていた。杏寿郎以外の住人はおらず、彼ひとりで住んでいるようだった。
夜になると杏寿郎はどこかに出かけた。仕事に行っているのか、はたまた遊び歩いているのか、なまえにはわからなかったが、数日帰ってこないこともあった。
タダで住まわせてもらうわけにはいかないと、なまえは廃城の家事全般を全てこなそうとした。杏寿郎は「何もしなくていいのに」と言ってくれたが、なまえは強く首を横に振った。
杏寿郎はなまえにいろんなものを買い与えた。
服や靴だけではない、本やお菓子、人形、宝石など、すぐ手にはいるものから高価なものまで、「土産だ」と言ってなまえに手渡した。
中でも1番大きなものはなまえだけの部屋だった。
天蓋付きのベッドに大きなドレッサー、猫脚のついたソファなど、屋根裏部屋で生活していたなまえには有り余るものだった。
ひと月経ってもなまえは口を開かなかった。物事を決めるときには、首を縦横に振るか、杏寿郎がなまえの表情を見て判断した。
それでも杏寿郎は、めげることなくなまえに話しかけた。
おはよう。
おやすみ。
元気か?
寒くないか?
美味いか?
杏寿郎はたくさんの言葉をなまえにかけた。
なまえが杏寿郎の前で最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。
それは杏寿郎がなまえのためにとオルゴールを買ってきた日のことだった。
杏寿郎の目の前でうっかり手を滑らせ落としてしまった。落ちた衝撃でオルゴールを包んでいた硝子は割れ、床に散らばった。
なまえは何度も謝りながら、青ざめた顔で床に這いつくばり、硝子を素手で拾おうとした。それはまるで、前の主人の皿を割ってしまったときのようだった。
杏寿郎はなまえの手を掴んで「話せるのか?」と訊ねた。
ハッと我に返ったなまえが杏寿郎に掴まれていないほうの手で自分の口を抑えた。
しばらく間を開けてから、なまえが観念した様子で口を開いた。
彼女が何も話さなかったのは、前の主人に口を開くなと言われたからだった。
口を開けば水をかけられる。
髪を引っ張られる。
背中を蹴られる。
寒空の下、薄着のまま家から締め出される。
ただ、気に入らないからという理由で。
なまえが受けてきた暴力は杏寿郎を怒らせるには十分なものだった。
会ったこともない、前の主人に対して怒り狂う杏寿郎を見てなまえは驚いた。
自分に対して怒る人はいても、自分のために怒ってくれている人など、今までいなかった。
それが嬉しくて、なまえは子供のようにわんわんと大声を上げて泣いた。
君が言葉を口にしても俺は何もしない。
むしろ君の声が聴けて嬉しい。
杏寿郎がそう言うとなまえは涙でぐしゃぐしゃになった顔で遠慮がちに微笑んだ。
なまえが言葉を発した日は、それまでずっと杏寿郎が話しかけても、何を与えても、暗い顔をのままだったなまえが、初めて彼に笑った顔を見せた日でもあった。
なまえの口数は決して多くはなかったが、杏寿郎が話しかければ必ず返事をし、なまえのほうから杏寿郎に声をかけることもだんだんと増えていった。
杏寿郎と話すようになってから、なまえの表情は豊かになった。
杏寿郎がお菓子や宝石を渡すと、顔を綻ばせ喜び、怪談話をしようとすると、耳を塞ぎ泣きそうな顔で怯えた。
杏寿郎はなまえに1つのことを禁じた。
自分のことを「ご主人様」と呼ばないこと。
「俺たちは別に主従関係というわけではないのだから、俺のことは名前で呼んでほしい」
杏寿郎はそう言ったが、このたった1つの禁止事項をなまえは何度も破った。しかし、杏寿郎はその度に謝るなまえを撫でながら「次から気をつけなさい」と言うだけだった。
「杏寿郎」
名前を呼びながらなまえが彼に近づく。
「おいで、なまえ」
杏寿郎が腕を広げて小さな身体を受け止める。
なまえが杏寿郎の胸元にぐりぐりと顔を押しつけ、眠そうな声で唸った。
「寝ていたのに起こしてしまったようだな…すまない」
そう言って杏寿郎はなまえを抱き上げベッドの縁に座らせると、自身も隣に腰掛けた。
「今日は何をしていた?」
なまえの手を握りながら杏寿郎が訊ねと、欠伸をひとつしてなまえが口を開いた。
「本、読んでた…前に、杏寿郎が買ってきてくれた本」
「おもしろかったか?」
「おもしろかったけど…悲しくて泣いちゃった」
「何故だ?」
「だって、本に出てくるお姫様が…好きな人と結ばれないまま泡になって消えちゃうの」
「かわいそう」と呟きながらなまえが悲しげな顔をした。
「そんな話だったのか」
自分の買い与えた本の内容をまるで知らなかったかのように杏寿郎が返事をする。
「うん…」
「では、明日一緒に街に行って別の本を買ってあげよう」
「いいの?」
眠そうな目をしていたなまえの表情がぱっと明るくなった。
杏寿郎は月に数回なまえを街に連れ出した。これまでずっと仕えていた家の中に閉じ込められていたなまえにとって、杏寿郎と一緒に歩く街は何もかもが新鮮だった。
杏寿郎と街に出かけることは、なまえの楽しみのひとつでもあった。
「ああ。なまえが悲しくならないように、みんなが幸せになれる本を選ぶといい」
「ありがとう…!」
「そうと決まれば明日は早起きだ。俺はもう自分の部屋に戻るから、なまえもすぐに寝なさい」
「お部屋に戻っちゃうの?」
なまえが杏寿郎の手をぎゅっと握り返した。
「まだやらなくてはならないことが残っているからな」
「さあベッドに入って」と杏寿郎がなまえの手を優しく解き、ベッドに寝かせた。
「わかった…おやすみなさい」
少し前拗ねた様子のなまえに「おやすみ」と言い残して、杏寿郎は部屋をあとにした。
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