ただのありふれた恋
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天気の良い日だった。なまえは縁側に腰掛け、朝餉のあと使用人から受け取った手紙を読んでいた。
差出人は隣町にある呉服屋の子息からで、内容は「次はいつ会えるか」といったものだった。
このような内容の手紙が来るのはこれで何度目だろうか。
彼と出会ったきっかけは、数ヶ月前なまえが街に買い物に出たときだった。
その日は朝から晴れていた。しかし、買い物を終え、家に帰ろうとした丁度その時、急に雨が降ってきた。傘を持っていなかったなまえは、近くの店の軒下で雨宿りをしていた。そこに通りかかったのが手紙の差出人である青年だった。
あの角を曲がってすぐのところに自分の家がある。家から傘をもう1本持ってくるから、ここで待っていなさいと言われた。
しばらくすると傘を手に青年が戻ってきた。なまえは青年から傘を受け取り、必ず返しに来ますと約束し家に帰った。
数日後、傘を返しに彼の家を訪れた。なまえは傘を返してすぐに帰るつもりだったが、少し話をしないかと言われた。随分と話し込んだ。いや、話し込んだと言うよりは、青年の一人語りをなまえが延々と聞いていたと言ったほうが正しいだろうか。
日も暮れかかり帰ろうとしたところ、もっと話したいと文通を申し込まれた。なまえは、傘を借りた恩もあるし、手紙くらいならいいかと、承諾した。
手紙は、最初こそとりとめもない話ばかりであったが、次第に「また会いたい」「会いに行ってもいいか」と好意を寄せられているような言葉が増えていった。
この青年、見目も家柄も申し分ない。なまえと同じ年頃の少女ならば、もう一度会って話をしてみたいと思うかもしれない。けれどなまえには、「会いたい」という感情が一切わかないてこないのだ。
とはいえ、雨の日に助けてもらったこともあり、返事をしないわけにもいかない。
なまえは返事を遅らせたり、「体調を崩した」「親戚の子の面倒を見なければならない」など嘘をついたり、どうにかこうにかはぐらかしていた。だが、はぐらかすにしても流石にもう限界がある。
次はなんと返事をしようか悩んでいると、塀の上から視線感じた。
そこにあったのは見覚えのある猪頭だった。一度見たらなかなか忘れられないであろうその猪頭に、なまえは伊之助が来たのだと、読んでいた手紙を懐に乱雑に仕舞い塀に駆け寄った。
「い、伊之助様ですか…?来てくださったのですか?」
「おう」
そう返事した伊之助は器用に塀をよじ登り、庭に飛び降りた。
「お前、難しい顔して何読んでたんだ?」
伊之助はなまえが自分に気づくまで塀の上から彼女の様子を伺っていた。
いつも優しく微笑んでいるなまえがしかめっ面で紙上に目を向けていたからであろうか。初めて見るなまえの表情に、伊之助は声をかけるタイミングがわからなかった。
「手紙を読んでいました」
「それ面白いのか」
「内容にもよりますね…」
「手紙って何すんだ」
「直接会って話すのではなく、家族や友人、恋人と紙の中でいろんな話をするんです。手紙と言うより、文通とも言えますね。話しづらいことも、相手の顔が見えない手紙だったら伝えやすいですし、遠方に住んでる方やなかなか会えない方ともお話できます」
「さっき読んでたのは誰が書いたやつなんだ?」
「友人です…友人…いや、友人と言えるほどの関係でしょうか…」
「なんだそりゃ。結局どっちなんだよ」
「友人というより、恩人かも………あ!そうだ、そんなことより、伊之助様!わ、私と文通しませんか…?」
「文通?……あー、それは無理だ」
伊之助の「無理だ」という言葉になまえの胸はズキリと痛んだ。
恋人とは言うまでもなく、友人ともいえない関係なのに、文通だなんて厚かましい。そう思われたのか。
しかし、伊之助が続けた言葉はなまえにとって意外なものだった。
「俺は読み書きができねえからな」
「伊之助様は読み書きができないのですか…?」
「できねえよ。でも、手紙なんて必要ねえだろ。お前ん家なんていつでも来れんだから」
「そ、そういうことでしたか…よかった。私、てっきり…」
拒絶されたのかと思った。伊之助が文字の読み書きができないことを初めて知った。思えば、伊之助について知らないことだらけだ。もっといろんな話をして伊之助のことを知りたい。
それと同時に、いつでも来れると言ってくれて、また伊之助が自分に会いに来てくれるのだと思うと、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
「あ、あの、伊之助様さえよければ、このなまえと文字の読み書きの練習をしませんか?」
真剣な顔でなまえが伊之助に提案した。箸の持ち方だって教えられたのだから、文字の読み書きもどのくらい時間がかかるかはわからないが、きっと伊之助に教えられるはず。
それに文字の読み書きができて損はない。自分ご教えたことが、伊之助にとって役に立つことになるのなら、本望だとなまえは思った。
「そんなのすぐにできんのか?」
「大丈夫です。伊之助様ならきっとできます」
「ダイジョウブ…」
まただ。
なまえに「大丈夫」「伊之助様なら…」と言われる度、伊之助は胸のあたりがあたたかくなるような気がする。箸の使い方を教えてもらったときもそうだった。「大丈夫」「伊之助様ならできます」と言われると、安心する。自信がわく。不思議となんだってできそうな気がする。
「なまえがそう言うんだったら、仕方ねえ。やってやるか…!まあ俺様にできねえことなんかねえしな」
自信満々に鼻を鳴らす伊之助が可愛くて、なまえの顔は綻んだ。
なまえは早速紙と筆を用意して手習いをはじめた。最初に書いたのは「はしびらいのすけ」の8文字だった。
「何だこれは」
「はしびらいのすけと読みます」
「俺様の名前だ。ひらがなってやつだとこう書くのか…なまえは?なまえってどう書くんだ?」
「なまえはこう書くのですよ」
それから伊之助は、時間が空けばなまえの家に行き、ひらがなを教えてもらった。
手習いだけでなく、2人はいろんな話をした。
伊之助は天ぷらが好き。なまえはカステラが好き。カステラを知らず、頭にはてなを浮かべる伊之助になまえは「甘くてふわふわした食べ物と言えばいいでしょうか…今度作ってみますね」と答えた。
他の生き物との力比べが伊之助の楽しみ。なまえは小振りな花が好きで、家中に飾られている花を生け直すのがなまえの楽しみ。伊之助は花の名前もいくつか教わった。
伊之助には紋逸という仲間もいて、泣き虫で騒がしくてて女好き。なまえは蜘蛛が苦手。伊之助が那田蜘蛛山で戦った鬼の話をしたときも、なまえは酷く怯えていた。
手習いに励んでいたある日、伊之助はずっと気になっていたことを聞いた。
「お前ん家、母ちゃんいねえの?」
「え?」
「父ちゃんには会ったけど、母ちゃん見てねえから。この家、お前以外にも何人か女はいるけど、あいつら母ちゃんじゃねえだろ」
「母は…母は鬼に殺されました。兄も1人いましたが、同じ鬼に…」
なまえは、彼女がまだ生まれて間もない頃、この家に鬼が入ったことを話した。なまえの母親も兄も髪の毛1本も残らず鬼に喰われ、十数名いた使用人も片手で数えられるくらいしか生き残らなかった。任務で近くまで来ていた鬼殺隊員がその鬼の首を狩ってくれたのだと語った。
「そうだったのか…」
「父はちょうど仕事で家を空けていました。私は赤子にしては珍しくあまり泣かない子だったようで…鬼に襲われているのも知らず、静かに寝ていたそうです」
「ずっと寝てたのか…逆にすげえな…」
「おかしいですよね?まわりで人が殺されているのに私は寝ていたんですよ?」
「んなこと言ったってしょうがねえだろ、赤ん坊なんだから」
「たしかに、そうですが…でもどうして、私もあのとき、鬼に喰われていなかったのだろうかと…私ではなく兄が生きていたら、きっと父も安心して家を継がせられたのに…女の私がいたってどうしようもありませんのに」
「何言ってんだよ。お前も死んでたら、父ちゃんもっと悲しんでただろ?それとも赤ん坊のまま何も知らねえで、鬼に喰われたほうがマシだったとでも言いてえのか?」
「いえ、そういうわけでは」
「母ちゃんも兄貴も死んじまったけど、お前の父ちゃんはきっとお前が生きてて嬉しかったと思うぞ。今こうして生きてんのは、父ちゃんのためでもあるんじゃねえのか」
何故自分は助かったのか。 顔も声も覚えていない、2人の身内の墓前で手を合わす父親の姿を見る度に、なまえはそう思った。この家に一生懸命尽くしてくれていた人たちの命も奪われた。それなのに自分は生きている。
伊之助の言葉を聞いて、自分があのとき死ななかったことが誰かのためになっているのだと思うと、生きていることを嘆いてしまう気持ちが、なんだか救われたような気がした。
「そう、でしょうか……でも、もしそうなら、嬉しいです…そうですね…あのとき生かされた理由が私以外の誰かのためでもあるのなら、ちゃんと生きなければなりませんね」
「そうだな。まあ、俺には親なんていねえからよくわかんねえけど」
「伊之助様、ご両親は…」
「知らねえ。俺はきっと捨てられたんだ」
「そんな…」
「お前、母ちゃんいなくて寂しくねえのか?」
「えっ……そうですね…物心ついたころからいませんからね…寂しいとは思いません。父も使用人の方々も私を大切にしてくれていますし…でも、母と兄が生きていたら、どんな生活をしていたのかなあと、思うときがあります」
「ふーん…」
「でも、もし私の家が鬼に襲われていなかったら、藤の花の家紋を掲げることも、こうして伊之助様とお話することもなかったかもしれませんね」
なまえは困ったように笑っていた。
鬼がいない世界だったら、なまえには会えていなかったかもしれない。
そう思うと伊之助は不思議な感覚に陥った。
「見ろ、伝七郎!ひらがなとやらが書けるようになったぜ!」
伊之助は「はしびらいのすけ」と殴り書かれた紙を炭治郎に向かって広げた。見た目こそ綺麗ではないが、一つ一つの特徴を捉え、文字として成り立っている。
「いつの間に…!?伊之助、凄いじゃないか!自分で練習したのか?」
「なまえが教えてくれた」
「なまえ…?ああ、この前お世話になった藤の家紋の家の娘さんか!最近よく出かけているなあと思ってたけど、なまえさんの所に行ってたのか」
「ちっちゃくて弱っちそうなくせに色んなことを知ってやがる。そうだな、そろそろ俺様の子分にしてやってもいいかもな」
「そうか、よかったな!伊之助!」
「ああ゛!?なんだよ!ニヤニヤすんな!きもちわりぃな!!」
「ん~?別にニヤニヤなんかしてないぞ~?」
「だからその顔がニヤついてるって言ってんだよ!やめろ!!」
そう悪態をつきながらも、伊之助は紙に書かれた自分の名前を誇らしい気持ちで見つめていた。
差出人は隣町にある呉服屋の子息からで、内容は「次はいつ会えるか」といったものだった。
このような内容の手紙が来るのはこれで何度目だろうか。
彼と出会ったきっかけは、数ヶ月前なまえが街に買い物に出たときだった。
その日は朝から晴れていた。しかし、買い物を終え、家に帰ろうとした丁度その時、急に雨が降ってきた。傘を持っていなかったなまえは、近くの店の軒下で雨宿りをしていた。そこに通りかかったのが手紙の差出人である青年だった。
あの角を曲がってすぐのところに自分の家がある。家から傘をもう1本持ってくるから、ここで待っていなさいと言われた。
しばらくすると傘を手に青年が戻ってきた。なまえは青年から傘を受け取り、必ず返しに来ますと約束し家に帰った。
数日後、傘を返しに彼の家を訪れた。なまえは傘を返してすぐに帰るつもりだったが、少し話をしないかと言われた。随分と話し込んだ。いや、話し込んだと言うよりは、青年の一人語りをなまえが延々と聞いていたと言ったほうが正しいだろうか。
日も暮れかかり帰ろうとしたところ、もっと話したいと文通を申し込まれた。なまえは、傘を借りた恩もあるし、手紙くらいならいいかと、承諾した。
手紙は、最初こそとりとめもない話ばかりであったが、次第に「また会いたい」「会いに行ってもいいか」と好意を寄せられているような言葉が増えていった。
この青年、見目も家柄も申し分ない。なまえと同じ年頃の少女ならば、もう一度会って話をしてみたいと思うかもしれない。けれどなまえには、「会いたい」という感情が一切わかないてこないのだ。
とはいえ、雨の日に助けてもらったこともあり、返事をしないわけにもいかない。
なまえは返事を遅らせたり、「体調を崩した」「親戚の子の面倒を見なければならない」など嘘をついたり、どうにかこうにかはぐらかしていた。だが、はぐらかすにしても流石にもう限界がある。
次はなんと返事をしようか悩んでいると、塀の上から視線感じた。
そこにあったのは見覚えのある猪頭だった。一度見たらなかなか忘れられないであろうその猪頭に、なまえは伊之助が来たのだと、読んでいた手紙を懐に乱雑に仕舞い塀に駆け寄った。
「い、伊之助様ですか…?来てくださったのですか?」
「おう」
そう返事した伊之助は器用に塀をよじ登り、庭に飛び降りた。
「お前、難しい顔して何読んでたんだ?」
伊之助はなまえが自分に気づくまで塀の上から彼女の様子を伺っていた。
いつも優しく微笑んでいるなまえがしかめっ面で紙上に目を向けていたからであろうか。初めて見るなまえの表情に、伊之助は声をかけるタイミングがわからなかった。
「手紙を読んでいました」
「それ面白いのか」
「内容にもよりますね…」
「手紙って何すんだ」
「直接会って話すのではなく、家族や友人、恋人と紙の中でいろんな話をするんです。手紙と言うより、文通とも言えますね。話しづらいことも、相手の顔が見えない手紙だったら伝えやすいですし、遠方に住んでる方やなかなか会えない方ともお話できます」
「さっき読んでたのは誰が書いたやつなんだ?」
「友人です…友人…いや、友人と言えるほどの関係でしょうか…」
「なんだそりゃ。結局どっちなんだよ」
「友人というより、恩人かも………あ!そうだ、そんなことより、伊之助様!わ、私と文通しませんか…?」
「文通?……あー、それは無理だ」
伊之助の「無理だ」という言葉になまえの胸はズキリと痛んだ。
恋人とは言うまでもなく、友人ともいえない関係なのに、文通だなんて厚かましい。そう思われたのか。
しかし、伊之助が続けた言葉はなまえにとって意外なものだった。
「俺は読み書きができねえからな」
「伊之助様は読み書きができないのですか…?」
「できねえよ。でも、手紙なんて必要ねえだろ。お前ん家なんていつでも来れんだから」
「そ、そういうことでしたか…よかった。私、てっきり…」
拒絶されたのかと思った。伊之助が文字の読み書きができないことを初めて知った。思えば、伊之助について知らないことだらけだ。もっといろんな話をして伊之助のことを知りたい。
それと同時に、いつでも来れると言ってくれて、また伊之助が自分に会いに来てくれるのだと思うと、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
「あ、あの、伊之助様さえよければ、このなまえと文字の読み書きの練習をしませんか?」
真剣な顔でなまえが伊之助に提案した。箸の持ち方だって教えられたのだから、文字の読み書きもどのくらい時間がかかるかはわからないが、きっと伊之助に教えられるはず。
それに文字の読み書きができて損はない。自分ご教えたことが、伊之助にとって役に立つことになるのなら、本望だとなまえは思った。
「そんなのすぐにできんのか?」
「大丈夫です。伊之助様ならきっとできます」
「ダイジョウブ…」
まただ。
なまえに「大丈夫」「伊之助様なら…」と言われる度、伊之助は胸のあたりがあたたかくなるような気がする。箸の使い方を教えてもらったときもそうだった。「大丈夫」「伊之助様ならできます」と言われると、安心する。自信がわく。不思議となんだってできそうな気がする。
「なまえがそう言うんだったら、仕方ねえ。やってやるか…!まあ俺様にできねえことなんかねえしな」
自信満々に鼻を鳴らす伊之助が可愛くて、なまえの顔は綻んだ。
なまえは早速紙と筆を用意して手習いをはじめた。最初に書いたのは「はしびらいのすけ」の8文字だった。
「何だこれは」
「はしびらいのすけと読みます」
「俺様の名前だ。ひらがなってやつだとこう書くのか…なまえは?なまえってどう書くんだ?」
「なまえはこう書くのですよ」
それから伊之助は、時間が空けばなまえの家に行き、ひらがなを教えてもらった。
手習いだけでなく、2人はいろんな話をした。
伊之助は天ぷらが好き。なまえはカステラが好き。カステラを知らず、頭にはてなを浮かべる伊之助になまえは「甘くてふわふわした食べ物と言えばいいでしょうか…今度作ってみますね」と答えた。
他の生き物との力比べが伊之助の楽しみ。なまえは小振りな花が好きで、家中に飾られている花を生け直すのがなまえの楽しみ。伊之助は花の名前もいくつか教わった。
伊之助には紋逸という仲間もいて、泣き虫で騒がしくてて女好き。なまえは蜘蛛が苦手。伊之助が那田蜘蛛山で戦った鬼の話をしたときも、なまえは酷く怯えていた。
手習いに励んでいたある日、伊之助はずっと気になっていたことを聞いた。
「お前ん家、母ちゃんいねえの?」
「え?」
「父ちゃんには会ったけど、母ちゃん見てねえから。この家、お前以外にも何人か女はいるけど、あいつら母ちゃんじゃねえだろ」
「母は…母は鬼に殺されました。兄も1人いましたが、同じ鬼に…」
なまえは、彼女がまだ生まれて間もない頃、この家に鬼が入ったことを話した。なまえの母親も兄も髪の毛1本も残らず鬼に喰われ、十数名いた使用人も片手で数えられるくらいしか生き残らなかった。任務で近くまで来ていた鬼殺隊員がその鬼の首を狩ってくれたのだと語った。
「そうだったのか…」
「父はちょうど仕事で家を空けていました。私は赤子にしては珍しくあまり泣かない子だったようで…鬼に襲われているのも知らず、静かに寝ていたそうです」
「ずっと寝てたのか…逆にすげえな…」
「おかしいですよね?まわりで人が殺されているのに私は寝ていたんですよ?」
「んなこと言ったってしょうがねえだろ、赤ん坊なんだから」
「たしかに、そうですが…でもどうして、私もあのとき、鬼に喰われていなかったのだろうかと…私ではなく兄が生きていたら、きっと父も安心して家を継がせられたのに…女の私がいたってどうしようもありませんのに」
「何言ってんだよ。お前も死んでたら、父ちゃんもっと悲しんでただろ?それとも赤ん坊のまま何も知らねえで、鬼に喰われたほうがマシだったとでも言いてえのか?」
「いえ、そういうわけでは」
「母ちゃんも兄貴も死んじまったけど、お前の父ちゃんはきっとお前が生きてて嬉しかったと思うぞ。今こうして生きてんのは、父ちゃんのためでもあるんじゃねえのか」
何故自分は助かったのか。 顔も声も覚えていない、2人の身内の墓前で手を合わす父親の姿を見る度に、なまえはそう思った。この家に一生懸命尽くしてくれていた人たちの命も奪われた。それなのに自分は生きている。
伊之助の言葉を聞いて、自分があのとき死ななかったことが誰かのためになっているのだと思うと、生きていることを嘆いてしまう気持ちが、なんだか救われたような気がした。
「そう、でしょうか……でも、もしそうなら、嬉しいです…そうですね…あのとき生かされた理由が私以外の誰かのためでもあるのなら、ちゃんと生きなければなりませんね」
「そうだな。まあ、俺には親なんていねえからよくわかんねえけど」
「伊之助様、ご両親は…」
「知らねえ。俺はきっと捨てられたんだ」
「そんな…」
「お前、母ちゃんいなくて寂しくねえのか?」
「えっ……そうですね…物心ついたころからいませんからね…寂しいとは思いません。父も使用人の方々も私を大切にしてくれていますし…でも、母と兄が生きていたら、どんな生活をしていたのかなあと、思うときがあります」
「ふーん…」
「でも、もし私の家が鬼に襲われていなかったら、藤の花の家紋を掲げることも、こうして伊之助様とお話することもなかったかもしれませんね」
なまえは困ったように笑っていた。
鬼がいない世界だったら、なまえには会えていなかったかもしれない。
そう思うと伊之助は不思議な感覚に陥った。
「見ろ、伝七郎!ひらがなとやらが書けるようになったぜ!」
伊之助は「はしびらいのすけ」と殴り書かれた紙を炭治郎に向かって広げた。見た目こそ綺麗ではないが、一つ一つの特徴を捉え、文字として成り立っている。
「いつの間に…!?伊之助、凄いじゃないか!自分で練習したのか?」
「なまえが教えてくれた」
「なまえ…?ああ、この前お世話になった藤の家紋の家の娘さんか!最近よく出かけているなあと思ってたけど、なまえさんの所に行ってたのか」
「ちっちゃくて弱っちそうなくせに色んなことを知ってやがる。そうだな、そろそろ俺様の子分にしてやってもいいかもな」
「そうか、よかったな!伊之助!」
「ああ゛!?なんだよ!ニヤニヤすんな!きもちわりぃな!!」
「ん~?別にニヤニヤなんかしてないぞ~?」
「だからその顔がニヤついてるって言ってんだよ!やめろ!!」
そう悪態をつきながらも、伊之助は紙に書かれた自分の名前を誇らしい気持ちで見つめていた。