ただのありふれた恋
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日付が変わる数刻前、なまえの家の門が乱暴に開かれた。なまえの父が門に駆け寄ると、そこにはなまえを抱きかかえた伊之助の姿があった。
夢を見た。
夢というよりは幼いころ頃の記憶なのだろうか。
「お母さまとお兄さまのぶんも、なまえがお父さまのことを幸せにします」
そう言ってなまえが無邪気に笑う。
なまえの父が静かに涙を流しながら答える。
「私はなまえの白無垢姿が見られれば、それでいい。それが一番の幸せだよ」
「シロムクってなんですか?」
「お嫁さんが着る服のことだよ」
「じゃあなまえはお嫁さんになります!だからそれまで泣かないで。泣いちゃだめですよ」
なまえはその小さな手をのばして、ぺたぺたと父の涙を拭った。
「もう泣かない。なまえがお嫁さんになる日まで泣かないよ」
「約束ですよ!」
なまえが目を覚ますと素顔の伊之助が今にも泣き出しそうに八の字に眉を下げ、なまえの顔を覗き込んでいた。
「なまえ!?起きたのか!?」
「あ……ど、して……私…」
「どこも痛くねえか!?腕は!?」
「え…?」
「血出てただろ!?」
「血…?ここは…」
「お前ん家だ!」
思えば見慣れた天井だ。
伊之助に言われ、自分の部屋で寝ているのだと気づく。
鬼から逃げていたところを伊之助に助けられたのだと、寝覚めのぼんやりとした頭で思い出す。
部屋の外はまだ薄暗かった。
「ここに来る途中で、なまえ、気失って…起きねえから、だから、守れなかったって…」
伊之助がぼろぼろと泣き出した。
「伊之助様…」
「だいたい、なんであんなとこ…1人で山になんか行ったんだよ!」
なまえの枕元が伊之助の涙で濡れる。
「どんぐり…」
「ハア!?」
「伊之助様がお好きだから…どんぐり…」
「なんで、そんな…一緒に行ってやるのに、1人で行くな!」
「ごめ…なさい…お礼を、お見舞いに来てくださったから…」
伊之助につられてなまえの目にも涙が浮かぶ。
「お、おい!泣くなよ!」
「だって…伊之助様が泣いてるから…」
涙を拭おうとのばしたなまえの手を、伊之助が握りしめる。
「泣いてねえ…もう泣いてねえから泣くな」
伊之助がなまえの手に擦り寄る。なまえの手が伊之助の涙で濡れていく。
「なまえが泣いてるの嫌なんだよ」
すびっと鼻水を啜りながら伊之助がなまえの手を力強く握り直した。
「わかりました。泣きません…泣きませんから、あの……伊之助様…て、手を……」
なまえが恥ずかしそうに握られている手に目をやる。
「手…?あ、悪ぃ…!」
伊之助が握りしめていた手をぱっと離した。
「そ、そういえば服…!」
なまえから大袈裟なほど目を逸らした伊之助が、思い出したように口を開いた。
「服?」
「破って悪かった…お前の父ちゃんにも謝ったし、新しいの買ってくれってお願いした」
「そんな、お気になさらないでください…替えならありますので…そうだ、お父様は?心配していたでしょう?きっと、あとでたくさん怒られてしまうわ…」
「怒るかわかんねえけど、父ちゃんさ…お前を連れて帰ってきたとき、泣いてたぞ」
「そうですか…」
なまえは目を覚ます前に見た夢を思い出した。
「幼いころに、お父様と約束したのです」
「約束?」
「白無垢姿を見るまで泣かないとお父様は言いましたのに…私のせいで、約束を破ることになってしまいました」
「シロムク…?なんだそれ」
「祝言をあげるときに女性が着るものですよ」
「シュウゲンをあげるとどうなるんだ?」
聞き慣れない言葉が飛び交っているせいか、伊之助の頭上に疑問符が浮ぶ。
「どうって、夫婦になるのです」
「メオト…番になるってことか?なまえは嫁にいくのか?」
「えっと…そうですね…番になるとも言えますし、お嫁にいくことになります」
番。
動物と共に育った、伊之助らしい表現の仕方だとなまえは思った。
「だったらなまえ、シュウゲンってのをあげて俺の嫁になれ」
「え…?」
「そしたら、お前の父ちゃんもいつでも泣けるようになるだろ」
「伊之助様…?夫婦になるのですよ?…あの、意味をちゃんとわかっておられますか?」
なまえが強い口調で伊之助に訊ねる。
自分の想いを知りもしないで、何故嫁になれなど、そんな大切なことを軽々しく言えるのか。夫婦になるということを何か勘違いしているのではないか。
なまえの眉間に思わず皺が寄る。
「わかってる」
「わかってないです。おわかりになっていたらそんな簡単に」
「わかってる…!ちゃんと、どういう意味か、紋一郎に聞いたから!」
「炭治郎様に?何をお聞きになったのですか?」
「好きってこと、お慕い申し上げておりますって言ってくれたの、どういう意味かわかったから」
「それは…」
伊之助の言葉になまえは目を見開いた。自分の言ったことを、伊之助が覚えていてくれていたのだと思うと嬉しかった。
しかし、なまえにとってはそれはあまりにも突然のことで、伊之助が何を言っているのか理解が追いつかなかった。
「同じ気持ちだって言ってんだよ!お前と同じ気持ちなんだ!」
叫ぶようにそう言った伊之助がなまえに覆いかぶさった。
「あっ……い、伊之助様…」
「好きだ…!好きだから、なまえのこと…だから、俺と番になれ!…好きなんだよ」
なまえに好きと言えば言うほど、伊之助は胸が締めつけられて、苦しくなるように感じた。おさまったはずの涙もまた溢れてくる。
「紋一郎が言ったこと、全部俺に当てはまるから、これは好きって気持ちなんだ」
ぼたぼたとこぼれ落ちた伊之助の涙が、なまえの頬を伝う。
「本当ですか?」
「こんなことで、嘘つく理由がどこにあんだよ」
「本当に、このなまえのことを…?」
「だから、そうだって何回も言ってんだろ」
胸がぎゅうっと苦しくなったり、じんわりとあたたかくなったり、ほわほわしたり。
自分のこの気持ちは一体なんなのか。炭治郎に教えてもらって自覚した。
なまえのことが「好き」なのだと。
「もっと一緒にいたいとか会いてえって思うんだ。いろんなこと話したり、一緒になにか食ったりすんのすげえ楽しいし…そのときにお前が笑ってんの見ると、ずっと笑っててほしいって、何したらなまえは笑ってくれるのかって考えちまう」
「好きだ、好きなんだよ」と掠れた声で伊之助が繰り返す。なまえの視界も涙で滲んでいく。
「そんなふうに思って下さっていたなんて…私も、伊之助様が会いに来てくださることがどれだけ嬉しいか……」
好きな人が自分を好きだと言ってくれている。なまえは嬉しくて、次々と溢れる涙をとめられなかった。
ずっと自分だけが「好き」という気持ちを抱えているのだと思っていた。
伊之助の態度や言葉に胸をときめかせるたび、彼にとってはそれは深い意味などないのだとそう言い聞かせてきた。
2ヶ月以上も会えない日が続いた。必ず約束を守ってくれると信じて待ち続けた。でも、もしかしたら、もう自分のことなんて忘れてるのかもしれない。なんてことも考えた。
だけど今、目の前で泣きながら自分のことを「好きだ」と言ってくれている。
「伊之助様がお帰りになられてしまうと寂しくて、会いたくて、どうしようもありません……ずっとずっと会いたかった。明日は?明後日は?と、伊之助様のことをお待ちしてました。私も伊之助様のことが好き、好きなのです」
「2ヶ月もなまえに会わなかったんだもんな……悪ぃ、鬼を倒したはいいけど、そのとき身体に毒がまわっちまって…2ヶ月くらいずっと寝てたらしい。だから会いに来れなかった」
「そうだったのですね…もう来てくださらないかと思ってしまいました」
「そんなわけあるかよ…好きって、本当だ。本当の気持ちだ。だからなまえ、俺と番になれ。俺の嫁になれ」
「このなまえを、伊之助様のお嫁さんにしてくださるのですか?」
「そうだ。子分じゃなくて、なまえは俺様の嫁になるんだ」
「山の王の嫁だぞ」と涙で赤くなった瞳で伊之助がなまえ見つめる。
「伊之助様がそう仰るのなら、なまえは伊之助様のお嫁さんになります」
そう言ってなまえが微笑むと、伊之助が力を失ったかのようになまえの胸元にどさりと倒れ込んだ。
どうやら、伊之助の緊張の糸が途切れてしまったようだ。
急にのしかかってきた重みになまえが小さく呻いた。
「ぅ……伊之助様…?」
「なんか…なまえが起きて…好きって……ほっとしたら…眠くなってきた…」
「もしかして寝ておられないのですか…?」
「寝てねえ…なまえが目ェ覚ますの、ずっと待ってたからな」
「娘のことは私が見ているので」となまえの父は伊之助に休むよう言ったが、伊之助は聞かなかった。なまえの父が疲れた顔をしていたからだ。
伊之助がなまえを探しに行っている間もずっと心配していたはずだ。
自分は鍛えてるから少しくらい寝なくても平気だ。なまえのことは任せろと、伊之助が彼女の父に言ったのだった。
「そうだったのですね…それなのに私、何も知らずに眠っていて…申し訳ありません…」
「気にすんなよ…こんくらい、なんともねえ」
伊之助が眠そうな声で呟く。
「起こしてさしあげますから、お休みになってください」
「なまえといるのに寝るのもったいねえ…」
ぐずる子供のように伊之助が「うー…」と声を発しながら、なまえの胸元にぐりぐりと額を押しつける。
「伊之助様がお休みになられている間も、なまえはここにおりますから」
伊之助の髪を撫でながらなまえが宥めるように言った。
「…ちゃんと、起こせよ」
「かしこまりました」
なまえの言葉に安心したのか、伊之助が静かに目を閉じた。
「伊之助様、助けてくださって、本当にありがとうございました」
意識が薄れゆく中、「おやすみなさい」と言うなまえの優しい声が伊之助の耳に届いた。
寝息を立てる伊之助をしばらく撫でていたなまえも、いつの間にか眠ってしまっていた。
伊之助もなまえも、不思議な夢を見た。
黒板が置いてある部屋。
どこかの学校の教室のようだ。しかし、自分たちが生きる大正の世ではない。見たこともないものがたくさんある。
そこに伊之助となまえが机と椅子を並べて座っている。その部屋には他にも同じような歳頃の少年少女たちがいた。
黒板の前には、先生だろうか。伊之助たちに向かって何かを話している大人がいる。
机の上に本を立て、まわりの目から隠れるように弁当を頬張りはじめた伊之助を、なまえが困った顔で見つめていた。
その視線に気づいた伊之助に、なまえは声を発することなく口だけ動かして何かを言う。すると伊之助は、物足りなさそうな顔で弁当の蓋を閉め、カバンにしまった。
そんな伊之助になまえが優しく微笑みかけると、伊之助もニカッと歯を見せて笑い返した。
時は大正時代。
人知れず鬼と戦う者たちがいた。
彼らを「鬼狩り様」と呼び、無償で支援する者の家には、藤の花の家紋が掲げられていた。
そして、ここはとある藤の花の家紋の家。
この大きな屋敷には、鬼に妻と息子を奪われた男が住んでいる。男には、妻の忘れ形見とも言える大切なひとり娘がいた。
娘が言葉を覚え拙く喋り始めたころ、この姿を妻にも見せたかったと男は思わず涙を零した。そしていつか、この子が嫁に行くその日まで、決して泣かないと男は心に決めた。男は娘の幸せだけを願った。
太陽が顔を出しはじめた頃、屋敷のひと部屋には、寄り添って眠るひとりの鬼狩りとその娘がいた。
夢を見た。
夢というよりは幼いころ頃の記憶なのだろうか。
「お母さまとお兄さまのぶんも、なまえがお父さまのことを幸せにします」
そう言ってなまえが無邪気に笑う。
なまえの父が静かに涙を流しながら答える。
「私はなまえの白無垢姿が見られれば、それでいい。それが一番の幸せだよ」
「シロムクってなんですか?」
「お嫁さんが着る服のことだよ」
「じゃあなまえはお嫁さんになります!だからそれまで泣かないで。泣いちゃだめですよ」
なまえはその小さな手をのばして、ぺたぺたと父の涙を拭った。
「もう泣かない。なまえがお嫁さんになる日まで泣かないよ」
「約束ですよ!」
なまえが目を覚ますと素顔の伊之助が今にも泣き出しそうに八の字に眉を下げ、なまえの顔を覗き込んでいた。
「なまえ!?起きたのか!?」
「あ……ど、して……私…」
「どこも痛くねえか!?腕は!?」
「え…?」
「血出てただろ!?」
「血…?ここは…」
「お前ん家だ!」
思えば見慣れた天井だ。
伊之助に言われ、自分の部屋で寝ているのだと気づく。
鬼から逃げていたところを伊之助に助けられたのだと、寝覚めのぼんやりとした頭で思い出す。
部屋の外はまだ薄暗かった。
「ここに来る途中で、なまえ、気失って…起きねえから、だから、守れなかったって…」
伊之助がぼろぼろと泣き出した。
「伊之助様…」
「だいたい、なんであんなとこ…1人で山になんか行ったんだよ!」
なまえの枕元が伊之助の涙で濡れる。
「どんぐり…」
「ハア!?」
「伊之助様がお好きだから…どんぐり…」
「なんで、そんな…一緒に行ってやるのに、1人で行くな!」
「ごめ…なさい…お礼を、お見舞いに来てくださったから…」
伊之助につられてなまえの目にも涙が浮かぶ。
「お、おい!泣くなよ!」
「だって…伊之助様が泣いてるから…」
涙を拭おうとのばしたなまえの手を、伊之助が握りしめる。
「泣いてねえ…もう泣いてねえから泣くな」
伊之助がなまえの手に擦り寄る。なまえの手が伊之助の涙で濡れていく。
「なまえが泣いてるの嫌なんだよ」
すびっと鼻水を啜りながら伊之助がなまえの手を力強く握り直した。
「わかりました。泣きません…泣きませんから、あの……伊之助様…て、手を……」
なまえが恥ずかしそうに握られている手に目をやる。
「手…?あ、悪ぃ…!」
伊之助が握りしめていた手をぱっと離した。
「そ、そういえば服…!」
なまえから大袈裟なほど目を逸らした伊之助が、思い出したように口を開いた。
「服?」
「破って悪かった…お前の父ちゃんにも謝ったし、新しいの買ってくれってお願いした」
「そんな、お気になさらないでください…替えならありますので…そうだ、お父様は?心配していたでしょう?きっと、あとでたくさん怒られてしまうわ…」
「怒るかわかんねえけど、父ちゃんさ…お前を連れて帰ってきたとき、泣いてたぞ」
「そうですか…」
なまえは目を覚ます前に見た夢を思い出した。
「幼いころに、お父様と約束したのです」
「約束?」
「白無垢姿を見るまで泣かないとお父様は言いましたのに…私のせいで、約束を破ることになってしまいました」
「シロムク…?なんだそれ」
「祝言をあげるときに女性が着るものですよ」
「シュウゲンをあげるとどうなるんだ?」
聞き慣れない言葉が飛び交っているせいか、伊之助の頭上に疑問符が浮ぶ。
「どうって、夫婦になるのです」
「メオト…番になるってことか?なまえは嫁にいくのか?」
「えっと…そうですね…番になるとも言えますし、お嫁にいくことになります」
番。
動物と共に育った、伊之助らしい表現の仕方だとなまえは思った。
「だったらなまえ、シュウゲンってのをあげて俺の嫁になれ」
「え…?」
「そしたら、お前の父ちゃんもいつでも泣けるようになるだろ」
「伊之助様…?夫婦になるのですよ?…あの、意味をちゃんとわかっておられますか?」
なまえが強い口調で伊之助に訊ねる。
自分の想いを知りもしないで、何故嫁になれなど、そんな大切なことを軽々しく言えるのか。夫婦になるということを何か勘違いしているのではないか。
なまえの眉間に思わず皺が寄る。
「わかってる」
「わかってないです。おわかりになっていたらそんな簡単に」
「わかってる…!ちゃんと、どういう意味か、紋一郎に聞いたから!」
「炭治郎様に?何をお聞きになったのですか?」
「好きってこと、お慕い申し上げておりますって言ってくれたの、どういう意味かわかったから」
「それは…」
伊之助の言葉になまえは目を見開いた。自分の言ったことを、伊之助が覚えていてくれていたのだと思うと嬉しかった。
しかし、なまえにとってはそれはあまりにも突然のことで、伊之助が何を言っているのか理解が追いつかなかった。
「同じ気持ちだって言ってんだよ!お前と同じ気持ちなんだ!」
叫ぶようにそう言った伊之助がなまえに覆いかぶさった。
「あっ……い、伊之助様…」
「好きだ…!好きだから、なまえのこと…だから、俺と番になれ!…好きなんだよ」
なまえに好きと言えば言うほど、伊之助は胸が締めつけられて、苦しくなるように感じた。おさまったはずの涙もまた溢れてくる。
「紋一郎が言ったこと、全部俺に当てはまるから、これは好きって気持ちなんだ」
ぼたぼたとこぼれ落ちた伊之助の涙が、なまえの頬を伝う。
「本当ですか?」
「こんなことで、嘘つく理由がどこにあんだよ」
「本当に、このなまえのことを…?」
「だから、そうだって何回も言ってんだろ」
胸がぎゅうっと苦しくなったり、じんわりとあたたかくなったり、ほわほわしたり。
自分のこの気持ちは一体なんなのか。炭治郎に教えてもらって自覚した。
なまえのことが「好き」なのだと。
「もっと一緒にいたいとか会いてえって思うんだ。いろんなこと話したり、一緒になにか食ったりすんのすげえ楽しいし…そのときにお前が笑ってんの見ると、ずっと笑っててほしいって、何したらなまえは笑ってくれるのかって考えちまう」
「好きだ、好きなんだよ」と掠れた声で伊之助が繰り返す。なまえの視界も涙で滲んでいく。
「そんなふうに思って下さっていたなんて…私も、伊之助様が会いに来てくださることがどれだけ嬉しいか……」
好きな人が自分を好きだと言ってくれている。なまえは嬉しくて、次々と溢れる涙をとめられなかった。
ずっと自分だけが「好き」という気持ちを抱えているのだと思っていた。
伊之助の態度や言葉に胸をときめかせるたび、彼にとってはそれは深い意味などないのだとそう言い聞かせてきた。
2ヶ月以上も会えない日が続いた。必ず約束を守ってくれると信じて待ち続けた。でも、もしかしたら、もう自分のことなんて忘れてるのかもしれない。なんてことも考えた。
だけど今、目の前で泣きながら自分のことを「好きだ」と言ってくれている。
「伊之助様がお帰りになられてしまうと寂しくて、会いたくて、どうしようもありません……ずっとずっと会いたかった。明日は?明後日は?と、伊之助様のことをお待ちしてました。私も伊之助様のことが好き、好きなのです」
「2ヶ月もなまえに会わなかったんだもんな……悪ぃ、鬼を倒したはいいけど、そのとき身体に毒がまわっちまって…2ヶ月くらいずっと寝てたらしい。だから会いに来れなかった」
「そうだったのですね…もう来てくださらないかと思ってしまいました」
「そんなわけあるかよ…好きって、本当だ。本当の気持ちだ。だからなまえ、俺と番になれ。俺の嫁になれ」
「このなまえを、伊之助様のお嫁さんにしてくださるのですか?」
「そうだ。子分じゃなくて、なまえは俺様の嫁になるんだ」
「山の王の嫁だぞ」と涙で赤くなった瞳で伊之助がなまえ見つめる。
「伊之助様がそう仰るのなら、なまえは伊之助様のお嫁さんになります」
そう言ってなまえが微笑むと、伊之助が力を失ったかのようになまえの胸元にどさりと倒れ込んだ。
どうやら、伊之助の緊張の糸が途切れてしまったようだ。
急にのしかかってきた重みになまえが小さく呻いた。
「ぅ……伊之助様…?」
「なんか…なまえが起きて…好きって……ほっとしたら…眠くなってきた…」
「もしかして寝ておられないのですか…?」
「寝てねえ…なまえが目ェ覚ますの、ずっと待ってたからな」
「娘のことは私が見ているので」となまえの父は伊之助に休むよう言ったが、伊之助は聞かなかった。なまえの父が疲れた顔をしていたからだ。
伊之助がなまえを探しに行っている間もずっと心配していたはずだ。
自分は鍛えてるから少しくらい寝なくても平気だ。なまえのことは任せろと、伊之助が彼女の父に言ったのだった。
「そうだったのですね…それなのに私、何も知らずに眠っていて…申し訳ありません…」
「気にすんなよ…こんくらい、なんともねえ」
伊之助が眠そうな声で呟く。
「起こしてさしあげますから、お休みになってください」
「なまえといるのに寝るのもったいねえ…」
ぐずる子供のように伊之助が「うー…」と声を発しながら、なまえの胸元にぐりぐりと額を押しつける。
「伊之助様がお休みになられている間も、なまえはここにおりますから」
伊之助の髪を撫でながらなまえが宥めるように言った。
「…ちゃんと、起こせよ」
「かしこまりました」
なまえの言葉に安心したのか、伊之助が静かに目を閉じた。
「伊之助様、助けてくださって、本当にありがとうございました」
意識が薄れゆく中、「おやすみなさい」と言うなまえの優しい声が伊之助の耳に届いた。
寝息を立てる伊之助をしばらく撫でていたなまえも、いつの間にか眠ってしまっていた。
伊之助もなまえも、不思議な夢を見た。
黒板が置いてある部屋。
どこかの学校の教室のようだ。しかし、自分たちが生きる大正の世ではない。見たこともないものがたくさんある。
そこに伊之助となまえが机と椅子を並べて座っている。その部屋には他にも同じような歳頃の少年少女たちがいた。
黒板の前には、先生だろうか。伊之助たちに向かって何かを話している大人がいる。
机の上に本を立て、まわりの目から隠れるように弁当を頬張りはじめた伊之助を、なまえが困った顔で見つめていた。
その視線に気づいた伊之助に、なまえは声を発することなく口だけ動かして何かを言う。すると伊之助は、物足りなさそうな顔で弁当の蓋を閉め、カバンにしまった。
そんな伊之助になまえが優しく微笑みかけると、伊之助もニカッと歯を見せて笑い返した。
時は大正時代。
人知れず鬼と戦う者たちがいた。
彼らを「鬼狩り様」と呼び、無償で支援する者の家には、藤の花の家紋が掲げられていた。
そして、ここはとある藤の花の家紋の家。
この大きな屋敷には、鬼に妻と息子を奪われた男が住んでいる。男には、妻の忘れ形見とも言える大切なひとり娘がいた。
娘が言葉を覚え拙く喋り始めたころ、この姿を妻にも見せたかったと男は思わず涙を零した。そしていつか、この子が嫁に行くその日まで、決して泣かないと男は心に決めた。男は娘の幸せだけを願った。
太陽が顔を出しはじめた頃、屋敷のひと部屋には、寄り添って眠るひとりの鬼狩りとその娘がいた。
【完】